弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代13代続いた全関東の被差別民衆の支配者です。幕府側の正式呼称は「穢多頭弾左衛門」、自らは「長吏(頭)弾左衛門」と称しました。世襲制で身分は長吏(穢多身分)に属し、江戸町奉行の支配をうけていました。
弾左衛門の支配下にあった被差別民は、長吏(ちょうり)、非人(ひにん)、猿飼(さるかい)、乞胸(ごうむね)などです。また歌舞伎を江戸中期まで興行面で支配しました。皮革・灯心・筬(おさ)等各種の専売権や全関東の被差別民衆への支配権を背景に、歴代弾左衛門は、旗本なみの屋敷に住み、上級旗本の格式で生活し、その財力は大名をしのいだと言われています。
弾左衛門とその配下にある長吏たちは、江戸市中の警備・警察、刑場と刑の執行管理をつとめていました。こうした役は中世以来長吏たちの仕事だったのです。また弾左衛門は、巨大な財力を背景に金融業を営み、市中に手広く貸し付けていました。町民たちはこの金を「穢多金」などど呼んで蔑視していましたが、しかし借りに来る町民は後を絶ちませんでした。
巨大な権力と財力にもかかわらず、弾左衛門の身分は賤民であり、武士はもちろん江戸の町人からも差別される対象でした。歌舞伎や古典落語、あるいは各種の記録には弾左衛門とその配下に対する江戸庶民の強い差別感情が記されています。一方、歴代の弾左衛門は、被差別民の専制的支配者であると同時に代表者としても行動しています。被差別民の利益確保のために幕府に対して様々な訴えをおこないました。特に最後の弾左衛門となった13代集保(ちかやす?)は、幕末・明治維新の動乱期に、自分と配下の被差別民の身分引き上げをもとめて強力な活動を展開しています。
弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。
― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、鎌倉以来の家の由緒を述べた。そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。実はこのとき、後北条氏のもとでそれまで関東の被差別民の筆頭の地位にあった小田原の太郎左衛門が「後北条氏発行の証文」を差し出して支配権の正当性を訴えたが、徳川氏はこれを許さなかった。そして太郎左衛門の「証文」を取り上げて弾左衛門に与えてしまった ―
この家伝のうち、徳川家康の江戸入府以降の話は事実、それ以前の話は、弾左衛門の被差別民支配権を正当化するための作為と考えられています。おそらくこうした作為は幕府にとっても都合がよかったので、積極的に「許容」されたということでしょう。
徳川氏の江戸入府以前の弾左衛門の地位ですが、江戸近辺に定住する中世以来の地域の被差別民の頭、後の長吏小頭(ちょうりこがしら)的存在であったと考えられます。また、まだその頃には「弾左衛門」と名乗っていなかった可能性も強いと言われています。
いずれにせよ弾左衛門の支配体制は、あるとき突然確立したものではりません。それは江戸幕府と強く結びつくことによって、近世中期(享保期)になってようやく確立したものでした。(詳しくはコラムを参照してください)