東京の被差別部落


   

【コラム】

歌舞伎と部落差別の関係

弾左衛門は歌舞伎を江戸中期まで支配

         

 江戸における歌舞伎の興業は、近世初期には長吏頭・弾左衛門の支配下にありました。
 近世芸能である歌舞伎が中世以来の存在である長吏(ちょうり)の支配下にあったのは、おそらく中世以来「清め」と「勧進(興行)」が一体と考えられてきたことによるものでしょう。「清め」は中世以来、長吏の本来的な「役」の一つでした。
 また、江戸の歌舞伎は、浄瑠璃の影響を受けて演劇性が強かった上方歌舞伎とは違って、「荒事」「にらみ」などに代表されるように、当初からかなり様式化・抽象化された舞台芸術でした。その成り立ちには、ある種の「清め」の役割、要素があったことが考えられます。その意味からも、弾左衛門の支配下にある被差別民という立場が当時の常識では「必然的」とされたのかも知れません。

★政治力をバックに弾左衛門支配から独立

 しかし江戸初期以降、歌舞伎は大衆芸能として大きな人気を誇り、大奥や大名にまでファン層を拡大します。歌舞伎関係者は、こうした自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざします。1708年(宝永5年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたすのです。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していました。またこの訴訟は、歌舞伎十八番の一つ『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』成立の契機となったという有力な説もあります。
 しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われました。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けています。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことでした。

      

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