東京の被差別部落


             

【コラム】

弾左衛門は江戸時代13代つづいた?

       

 実は現在では、系譜上初代弾左衛門とされる集房(「シュウボウ」。「ちかふさ」と読んだと推測されます)が後から創作された架空の存在であることが分かっています。

なぜ架空の初代弾左衛門が創作されたのか?

 弾左衛門研究者である松岡満雄(まつおかまんゆう)さんの研究によればつぎのような理由が考えられます。5代目の集久(「シュウキュウ」「ちかひさ」?)と6代目の集村(「シュウソン」「ちかむら」?)との間に、吉次郎(きちじろう)という人物がいた。集久の子で集村の父だが、彼が町奉行に「お目見え」する前に亡くなってしまった。歴代弾左衛門は相続にあたって、町奉行所におもむきそこで幕府から承認されて長吏頭となる儀式、「お目見え」を必ずおこなっていたのである。吉次郎はそれをする前になくなってしまった。したがって幕府からは正式な弾左衛門とは認められない。しかし、弾左衛門家やその支配下の長吏たちの間では、彼は既に「御頭」と認識されていた。こうして、吉次郎を歴代に数えるかどうかで幕府側と長吏側とで差が生じた。弾左衛門の代数が、幕府側の認識の方が長吏側の認識より一つ少なくなってしまうのである。この齟齬を調整するため、実際の初代弾左衛門である集開(「シュウカイ」法名、実名は集房「シュウボウ」「ちかふさ?」)の人格を二つにわけ、生没年不詳の初代集房を創作してわざわざ代数あわせをした。現に、長吏側の記録では初代は集開と記録されている。(参考文献―松岡満雄「浅草弾左衛門の系譜」『解放研究』10号所収)
 さて、ということになると正確には12代、あるいは若くして亡くなった吉次郎を代数に数え、初代を集開(集房)としたうえで、13代とするのが正確ということになるかもしれません。

優秀な若者を養子にし、弾左衛門をつがせた

 それから、13代とは言うものの、実際に血縁の上で集開(集房)とつながりがあるのは10代集和(「シュウワ」「ちかまさ」?)までです。彼の代で元々の弾左衛門家の「血脈」は絶えます。しかし、幕府にとっても東日本の長吏たちにとっても、弾左衛門は欠くことのできない存在でした。
 そこで弾左衛門家の手代(家老です)や有力な長吏小頭たちは、全国各地から弾左衛門家と関係のある若者を捜し出し、先代の養子として跡を継がせていったのです。こうして選ばれた若者たちは、必ずしも弾左衛門支配地域の出身ではありませんでした。また、弾左衛門家と遠縁の関係にあたる者がほとんどですが、それでも選定にあたって必ず「個人として優れた人物」という条件がつけられました。
 弾左衛門は、東日本全域の被差別民衆の専制的支配者であるとともに、時には自分たちの利害を代表して幕府と駆け引きをする必要もあった被差別民衆の代表者でした。優れた政治力を発揮できる人物でなくては、とても務まりませんでした。

           

長吏頭浅草弾左衛門・歴代表

         

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