【コラム】
徳川氏の入国以前の関東には、弾左衛門のように単独で専制的に被差別民衆を支配する存在はまだありませんでした。その代わり各地に有力な長吏の頭たちがいて、それぞれ広域の支配権を持って被差別民衆を支配していました。
中でも有力な頭だったのが、小田原の長吏頭・太郎左衛門でした。太郎左衛門は後北条氏本宗家と密接に結びついていました。「武器製造に必要な革を納めるために、広域にわたる被差別民衆支配を認める」という内容の、後北条氏本宗家発行の文書(「弾左衛門由緒書」と違って正真正銘の戦国文書です)も獲得しています。
後北条氏は、各地の有力な支城に一門を配し、小田原の本宗家がこれを束ねる形で広大な領国を支配するという、いわば「同族連合政権」でした。その点で、徳川氏のような集権的な支配体制ではありませんでした。この支配体制の違いが、被差別民衆に対する支配の体系にも影響を与えていたようです。
各地の有力な長吏の頭たちは、それぞれの地域を治める北条氏一門と結びついていました。太郎左衛門も、小田原地域の有力な頭として、この地を治める北条氏本宗家と結びついたのです。そして太郎左衛門は、北条氏本宗家の権力をバックに、丁度「同輩中の首席」のような立場で、各地の多くの有力な頭に強い影響力を行使しました。★弾左衛門支配に抵抗した太郎左衛門 江戸時代になって、次第に弾左衛門支配体制が作られてくると、旧来の支配層であった太郎左衛門たちの立場は微妙なものになっていきます。幕府と弾左衛門からすれば、既に彼らは長吏小頭という弾左衛門の下にある立場になっていました。有力な頭たちの中では、北関東の複数の頭たちが弾左衛門と結び、弾左衛門支配に積極的に協力することを選びます。彼らは弾左衛門の下で特に格式の高い有力小頭として遇されます。
しかし、かつて関東一の威勢を誇った小田原太郎左衛門は、新興の弾左衛門の下風に立つことに我慢できませんでした。太郎左衛門は、幕府に対して「自分こそ全関東の被差別民衆支配者として由緒正しい存在である」と、前述の後北条氏本宗家発行の文書を提出して訴えます。
しかし、幕府はこの訴えを却下します。しかも、正真正銘の「戦国文書」である太郎左衛門の証拠書類を取り上げ、弾左衛門に与えてしまうのです。幕府の立場からすれば、後北条氏と密接につながってきた小田原太郎左衛門らは、ぜひとも排除しなければならない存在だったのでしょう。
しかし、それでも太郎左衛門らは抵抗を続けました。太郎左衛門の影響力の強い相模の国西部に対しては、江戸時代中期になるまで弾左衛門の支配は貫徹しませんでした。
【このコラムの参考文献】
「東京の被差別部落の歴史 その一」 浦本誉至史 すいへい東京17号
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