東京の被差別部落


         

【コラム】

弾左衛門は自らを「長吏弾左衛門」と称した

         

★「穢多」は明らかな蔑称・賤称だった

 弾左衛門は、幕府からは「穢多頭・弾左衛門」と呼ばれていましたが、自分からは決してこの呼称を用いませんでした。江戸時代においても「穢多(えた)」という名称は、差別する側から一方的に押しつけられた蔑称・賤称だったからです。ですから歴代弾左衛門は自分のことを、「長吏・弾左衛門」あるいは「長吏頭・弾左衛門」と自称しました。
 これは弾左衛門配下の被差別民たちにとっても同じ事でした。幕府や一般社会からは「穢多」と呼ばれた被差別民たちは、東日本では「長吏(ちょうり)」、西日本では「かわた」という中世以来の呼び方で自称していました。そして長吏・かわた身分の人たちは、この呼び名に対して誇りを持っていました。

★「長吏」「かわた」は中世以来の職分にかかわる呼称

 「長吏」というのは元来漢語であって、「官吏の長」と言う意味です。古代末期から中世初期の日本では寺院や神社などで、寺務・社務の役職名として使われていました。長吏身分の人たちは、中世以来「清め」という役目を担っていて、これは当時の一般の信仰と深くかかわっていました。このあたりで寺院や神社で役職名として使われていたこの漢語と接点があったのかも知れません。いずれにせよ、近世の長吏たちは「自分たちは社会にとって必要な、そして大切な『役』を担う者として、『長吏』と呼ばれているのだ」と認識していました。「長吏」の呼称は誇り高いものだったのです。
 西日本などで使われた「かわた」という呼び名は、中世の「かわた百姓」に源を有する言葉です。かわたたちが代々皮革の仕事に携わってきたことがこの呼び名につながったと考えられます。したがって東日本も西日本も、担っている「役」・職分にかかわって元来の呼称があったわけです。

★「穢多」と呼ばれることには何度も抗議した

 ところが、中世末期から近世初期にかけて、一般社会の側は長吏・かわたを指して「穢多」と呼ぶようになります。そしてこれが徐々に浸透していき、江戸幕府も正式な身分呼称として「穢多」を用いるようになるのです。
 長吏・かわた身分の人たちは、このような呼び名には納得できませんでした。ですから彼らは、自分たちを「穢多」と呼んで差別することに対して何度も抗議しています。東日本全域の被差別民の頭である弾左衛門も、長吏身分に属する身でした。だから歴代弾左衛門は、幕府に対しても誰に対しても、自らのことを誇りを持って「長吏・弾左衛門」あるいは「長吏頭・弾左衛門」と自称し続けたのです。

           

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