東京の被差別部落


             

【コラム】

弾左衛門家の家伝「弾左衛門由緒書」

         

 弾左衛門を知る上で最も重要な文書とされるのが、弾左衛門家の正式の家伝である「弾左衛門由緒書」です。歴代弾左衛門にとっては、東日本の全被差別民衆を支配する権利を証明する証拠書類であり、極めて重要な文書でした。
 この家伝が最初に歴史上に姿を現すのは、1715年(正徳5年)に江戸町奉行に提出されたときです。以降江戸時代を通じて弾左衛門は数度にわたって幕府にこの名前の文書を提出し、「弾左衛門が全ての被差別民衆を支配するのは、頼朝公以来清和源氏の家法である」と主張したのです。

伝家の宝刀「弾左衛門由緒書」は歴史的偽文書

 「弾左衛門由緒書」には、「弾左衛門家の先祖はもともと鎌倉にあって鎌倉幕府成立時から被差別民衆の支配を任された存在だった。鎌倉に住む前は、摂津国池田(大阪府池田市ではなく、現在の兵庫県川西市の近辺。清和源氏の発祥地とされる『多田の荘』のあたり)に居住していた。弾左衛門が被差別民支配を担うようになったのは、鎌倉幕府を起こした源頼朝によってその支配権を公認されたからだ。徳川氏が関東に入国したときも、先祖が『鎌倉以来の由緒』を述べ、家康からその支配権を承認された」と書かれており、その証拠として1725年(享保10年)には「頼朝公証文」も提出されました。
 徳川氏が、「鎌倉以来の由緒」を認めて弾左衛門に東日本の被差別民衆支配権を与えたのは事実ですから、この文書は歴代弾左衛門にとってまさに「伝家の宝刀」でした。
 しかし、重要な証拠書類である「頼朝公証文」は明らかな「歴史的偽文書」です。書式などから江戸中期以降に作られた全くの偽物であることがはっきりしています。きっとそんなことは享保期の幕府官僚たちにも分かっていたはずです。しかし、それを承知しながら幕府は弾左衛門の主張を根拠あるものとして認め、その支配権を公認し続けたのです。
 このあたりの事情からも、幕府と弾左衛門との間に、相互利用の関係があったことが窺われます。

弾左衛門以前の関東では、複数の有力の頭が支配

 なお、弾左衛門の東日本全域の被差別民衆支配は、実際には江戸中期(享保)になってようやく完成したことが東日本部落解放研究所等の最近の研究で明らかになっています。徳川氏の江戸入府以前の弾左衛門(当時はまだ弾左衛門とは名乗っていなかったと推定される)の地位は、当時の江戸周辺の被差別民衆を支配するにすぎない微弱なものでした。
 戦国時代以前の関東には、近世における弾左衛門のような絶対的かつ集権的な支配体制はまだありませんでした。100年にわたって関東の中心地域を支配した後北条氏のもとでは、数人の有力な長吏の頭がいて、それぞれ自分の支配領域を持って被差別民衆を支配していました。中でも後北条氏の本拠地小田原の長吏頭であった太郎左衛門は有力な存在で、実質的に後北条氏領国内の被差別民衆の筆頭の地位にあり、「同輩中の首席」のような立場で、その他の有力な頭たちを影響下においていました。
 弾左衛門家は、後北条氏に代わった徳川氏と協力して、この小田原太郎左衛門ら旧来の有力な頭たちの支配を覆し、近世の弾左衛門支配体制を確立していったのです。

               

【このコラムの参考文献】

「弾左衛門の謎―歌舞伎・吉原・囲内」 塩見鮮一郎著 三一書房
「部落の歴史像―東日本から起源と社会的性格を探る」 藤沢靖介著 解放出版社
「東京の被差別部落の歴史 その一」 浦本誉至史 すいへい東京17号

       

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