寛政度文政度御尋乞胸身分書
江戸の町で大道芸をおこなった近世的な「被差別民」乞胸(ごうむね)に関する基礎的史料、『寛政度文政度御尋乞胸身分書』の原文、およびその現代語訳です。原文は東京都刊行『重宝録』第一に所在しています。この文書に関する解説は、一番下にあります。
【目次】
1.『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』(寛政11〈1799〉年)
2.『文政四年下谷山崎町名主書上』(文政4〈1821〉年)
3.《現代語訳・注釈》『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』
4.《現代語訳・注釈》『文政四年下谷山崎町名主書上』
5.《解説》『寛政度文政度御尋乞胸身分書』
『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』
一、乞胸自法并私共身分之儀、委細書上候様被仰付、乍恐左ニ奉書上候、乞胸元祖者長崎(嶋)磯右衛門予申浪人、宮辺又四郎殿支配薬師堂前ニ町宅致罷在、所々寺社境内并明地等ニ而、草芝居其外朱種々見世もの等仕渡世送候処、段々同様之もの差加大勢ニ相成、磯右衛門義右之世話仕罷在候、然処右躰家業者非人頭車善七手下之者共之渡世ニ障迷惑仕候間、以来非人同様之家業致間鋪旨申之差留候間、磯右衛門義も仕来候家業相止候而者難義ニ存、右家業致候内者自今家業計善七支配請可申旨申之、双方相談得心之上、慶安年中其段中ノ御番所石谷将監様御勤役之節、磯右衛門善七同道ニ而御願申上、右家業仕候内者家業計善七支配請、則磯右衛門義乞胸頭ニ相定、町人ニ而右躰家業致候もの者是又家業計磯右衛門支配仕、其節より(※「より」は略字)鑑札相渡、壱人前拾八文ツゝ毎月請取、浅草溜近辺出火之節者、囚人為警固人数廿人程ツゝ召連詰来候、尤寺社境内其外明地所々辻々江罷出家業仕候もの者何国より(※「より」は略字)参候哉、身上聢与相知不申ものも有之候間、右為取締家業筋乞胸支配被仰付義ニ御座候間、往古より(※「より」は略字)所々家業場所相廻諸事心付来、私迄十一代相続仕候、尤往古之書留諸帳面等有之候処、度々類焼之節焼失仕候故、委細義者相知不申候得共、往古より(※「より」は略字)町宅仕家業計善七支配請、右躰仕来候義ニ御座候、
一往古 仕来候家業左之通、
一、綾取
一、猿若
一、江戸万歳
(辻放下欠カ)
一、操
一、浄瑠璃
一、説教
一、物真似
一、仕立(方)能
一、物読
一、講釈
一、辻勧進
右之外ニも所々寺社境内并明地葭簀張水茶屋之内ニ而見セもの仕木戸銭申請、或者芸等仕惣而見物人より銭を申請候もの、往古より(※「より」は略字)私支配ニ御座候、勿論寺社境内ニ而草芝居仕候義者、正徳四年寺社御奉行森川出羽守様御勤役之節御停止被仰付候ニ付、夫より(※「より」は略字)配下之者編笠を冠、謡浄瑠璃三味線を弾、其外種々芸等仕、町家門々江立銭を申請家業仕来候、
一、所々寺社境内「并町々江」(類集撰要により補う)私手代共日々相廻、乞胸同様之家業致候もの見当候ハゝ鑑札之有無相尋、鑑札無之家業筋乞胸支配之旨不弁ものハ、右家業者乞胸支配之旨与申聞、慥成者請人ニ取、御法度之義者不及申仲間作法可為相守旨一札を取、支配ニ仕来候、尤乞胸支配筋之義者得与乍存私共家業忍仕、鑑札無之もの者其家業道具取置、私共家業忍仕候段不調法之旨相詫候上ニ而右道具返遣、家業仕候ハゝ則鑑札相渡、是又支配ニ仕候、右者仲間定法ニ御座候、尤仲間入御座候度々、善七方江相届候、右乞胸之者共勝手ニ付家業相止候節ハ、是又相届鑑札取戻、勝手次第仲間退為致申候、此義ハ、家業計之支配ニ御座候得者、右家業相止候上ハ聊懸り合無御座候、私共迚も乞胸家業相止候得者善七方ニ懸合毛頭無御座候、畢竟家業仕候内家業計支配請候義ニ御座候、然ハ右家業ニ付候事ニ而私共御召之節者善七同道ニ而罷出、身分候之儀ニ付御用有之節者町役人計差添罷出候義ニ御座候、
一乞胸家業仕候者相渡候鑑札之義者、壱人壱枚ツゝ相渡来候、幼年之者親共ニ付添家業出候者ニ者親共ニ付添家業出候者ニ者其親ニ計相渡、子供ニ者相渡不申候、尤幼年ニ而も親病気等にて不罷出、幼年之者壱人立家業ニ出候者江ハ鑑札渡置、「尤稀成義ニ御座候、右之通銘々鑑札渡置、」(類集撰要により補う)家業ニ出候節者急度持参可仕旨堅申付候、
一鑑札之義、家内不残乞胸家業ニ出候得者不残鑑札相渡、亭主計出候得者亭主計相渡、家内江ハ相渡不申候、尤家内江鑑札相渡候而も、亭主一人より(※「より」は略字)四拾八文ツヽ請取来候、
一男女ニ不限何拾歳以上与定候義も無之候得共、乞胸仲間ニ年久鋪罷在、老衰致身躰不相叶候者ハ鑑札料者請取不申候、尤右躰之者ニ而も辻勧進家業ハ相成候段、鑑札者相渡遣候義ニ御座候、老人にても達者ニ候へ者、定之通四拾八文請取申候、年若ニ而も手足不自由之者ハ、鑑札料差出候義ニ相成候得者可納旨申渡、心次第ニ為仕、押而鑑札料請取不申候、
一乞胸之義、家業者善七支配請候得共、私共中間之もの共元来町人ニ紛無御座候間、町法町並ニ相勤来候義ニ御座候、
一浪人者等古主江帰参相願候内渡世無之、乞胸ニ相成候もの者脇差等帯家業ニ罷出候処、安永二年巳三月町御奉行牧野大隅守様御勤役之節、乞胸之者共当時帯刀者不及申、脇差躰之者家業先江一切無用可仕旨被仰付候、其節より(※「より」は略字)支配一同申付脇差躰之もの堅差留来候、
一乞胸之内仲間作法相背候もの、又者難見届もの者鑑札取上、乞胸家業差留申侯、右之外厳鋪咎与申義者無御座候、
右就御尋乍恐奉書上候、以上、
寛政十一未年二月
下谷山崎町壱町目徳兵衛店
乞胸頭 仁太夫
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『文政四年下谷山崎町名主書上』
右者寛政十一未年中、根岸肥前守様御番所ニ而御尋有之節之写書ニ御座候、尤当時山崎町ニ罷在候乞胸共、凡五拾人余も御座候、前書芸之仕形承、左ニ申上候、
覚
一 綾取与ハ 竹ニ房をつけ是をなけ曲取候事
一 猿若与ハ 顔を染芝居いたし候事
一 江戸万歳与ハ 三河万歳之真似仕候事、
一 辻放下与者 玉かくし或者手玉ニ取候事
一 操与者 箱目鏡を付中にてあやつり候事、又者人形をつかい候事
一 浄溜璃与者 義太夫ふし豊後ふしをつけ語候事
一 説教与者 むかし物かたりに節をつけ語候事
一 物真似与者 堺丁芝居役者之口上真似或者鳥獣之鳴声をまね候事
一 仕形能与者 能之真似を仕候事、当時者相やすミ罷在候へとも折々仕候事
一 物読与者 古戦物語之本等よみ候事
一 講釈与者 太平記或者古戦物かたりかう釈仕候事、
一 辻勧進与ハ 往来ニ罷在無芸成もの并女子共銭を乞候もの之事
右諸芸之儀者、寺院境内并繁昌之往来広小路等にて致候義ニ有之、人家之門江立候義者非人ニ限、乞胸之方ニ而不仕候義ニ有之、女太夫者非人ニ限申候、乞胸起立之義者久鋪義にて相分不申候、以上、
文政四巳年八月
下谷山崎町名主 藤七
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《現代語訳と注釈》
『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』
一 乞胸の自法ならびに私どもの身分について、詳細を書き上げるように仰せつけられましたので、恐れながら書き上げます。乞胸の元祖は長崎(嶋)磯右衛門(※1)と言う浪人で、宮辺又四郎殿支配の薬師堂前に町宅し、所々の寺社境内や空き地などで草芝居そのほか様々な見せものなどをして生活しておりました。そうしたところ、だんだん同様の者が増え大勢になりましたので、磯右衛門がこうした者たちの世話をしました。ところが右の乞胸の稼業が非人頭車善七の手下の者たちの稼業にさしさわり迷惑となり(※2)、(善七側から)非人同様の稼業をしないよう訴えられました。磯右衛門たちもこれまでの稼業を禁止されると難儀であるとして、乞胸稼業をしている間は、今後稼業ばかり善七の支配を受けると申し出、双方相談し納得した上、慶安年中、中町奉行石谷将監様が御勤役の際、磯右衛門と善七が奉行所に同道して御願申し上げました。それ以降、乞胸稼業をしている間は稼業ばかり善七の支配を受けることになりました。このとき磯右衛門を乞胸頭に定め、町人で乞胸稼業をしている者について、また稼業ばかり磯右衛門が支配することになりました。(乞胸頭は)それから(乞胸稼業をする者に)「鑑札」をわたし、一人につき18文づつ毎月受け取り、浅草溜(※3)近辺で火事があったときは、囚人の警固のため人数20人程をめしつれて詰めるようになりました。さて寺社境内そのほかの空き地や辻々で稼業している者は何れの国から来た者か、身のうえなどよく知らない者も多いことでご座います、ですのでこれらの者の取締は、稼業についてのみ乞胸頭の支配下と定められました。(乞胸頭は)古くから所々稼業をおこなう場所を回っては支配下の者たちの世話や取り締まりに心を砕いてきました。(乞胸頭は)私まで十一代相続してきました。古くからの書留諸帳面などあったのですが、火事の度に度々焼失し、詳細については分かりませんが、古くから町屋に住んでおり稼業ばかりが善七の支配を受け、右のような稼業をしてきておる次第でご座います。
一 古くからの乞胸稼業は左の通りです
一 綾取(あやとり)
一 猿若(さるわか)
一 江戸万歳(えどまんざい)
(辻放下(つじほうか)欠カ)
一 操(あやつり)
一 浄瑠璃(じょうるり)
一 説教(せっきょう)
一 物真似(ものまね)
一 仕立(方)能(しかたのう)
一 物読(ものよみ)
一 講釈(こうしゃく)
一 辻勧進(つじかんじん)
右のほかにも所々の寺社境内や空き地、また葦簀張りの水茶屋で見せ物をして木戸銭を受け取る者、あるいは何らかの芸をして見物人から銭を受け取る者は古くから私の支配するところです。寺社境内で草芝居をしていた者は、正徳四(1714)年に寺社奉行森川出羽守様がお勤のときこれを停止されましたので、それから(乞胸頭の)配下の者は編笠をかぶり、謡や浄瑠璃三味線をひき、そのほか種々の芸なんどをし、町家の門々へ立ち銭を受け取り稼業をしてきました。
一 所々の寺社境内や町々へ私の手代どもが日々回って、乞胸同様の稼業をしている者を見つけたらその都度鑑札の有無を尋ねます。鑑札を持っておらず、また(乞胸頭の)支配権を知らない者には、乞胸支配について教え聞かせ、確かな者を請人にして、ご法度のことはもちろん、乞胸仲間の作法を守る旨を一札(証文)を取り、支配してまいりました。乞胸支配のことを知りながら隠れて稼業をしている者、あるいは鑑札のない者はその稼業道具を取りあげ、不届きを詫びた後で右の道具を返します。これからも稼業をしたいと言えば鑑札を渡し支配します。これは仲間の定法でございます。新たな者が仲間に入る度に、善七方へ届けます。ただ乞胸稼業をやめるのは自由です。やはり(善七方に)届け、鑑札を取り戻しますが、稼業ばかりの支配でございますので、乞胸稼業をやめますればいささかの関わり合いもございません。私どもも乞胸稼業をやめれば善七方には関わり合いはございません。つまり稼業をしているときだけ稼業ばかり支配を受けておるわけでございます。したがいまして乞胸稼業に関して私どもに何らかのお召しがあったときは善七と一緒にまいりますし、身分に関する御用があったときは町役人と一緒にまいります。
一 乞胸稼業をしている者に渡しております鑑札は、一人に一枚づつ渡してきております。幼年の者で親たちに付き添って稼業に出ている者には、親にだけ渡して、子供には渡しません。ただし幼年でも親が病気などで稼業に出られず、幼年の者が独り立ちして稼業に出ている者には鑑札を渡します。これは極めてまれなことですが、めいめいに鑑札を渡して稼業に出るときは必ず持っていくように強く申しつけます。
一 鑑札についてですが、家内中残らず乞胸稼業に出ている家は全員に渡し、亭主だけが出ている所では亭主だけに渡します。家内の他の者には渡しません。ただし家内の者に鑑札を渡している家からでも、亭主から48文(の鑑札料を)受け取るだけになっております。
一 男女とも何十歳以上(は乞胸稼業はしてはならない)という定めはありません。長らく乞胸仲間であって、老衰して身が動かなくなった者からは鑑札料は受け取りません。ただ年老いて体が動かなくなっても辻勧進(※4)稼業はできますので、鑑札は渡しております。老人であっても達者である者からは、定の通り48文受け取ります。年が若くても手足不自由の者からは、鑑札料を出すように言った上で、あとは本人の心のままとしております。どうしても鑑札料を出せとは申しません。
一 乞胸は、稼業は善七支配は受けておりますが、元来町人に紛れございません。町方の法にしたがって生活し、町方なみに諸役を勤めてきました。
一 浪人者など、古主に帰参の願をしている間生活の方法がないので乞胸となった者があり、こうした者は脇差などを差して稼業に出ておりましたが、安永二(1773)年三月に牧野大隅守様が町奉行をお勤のとき、乞胸が帯刀しているのは不届きであるとして、稼業先へは脇差を差して出ないよう仰せつけられました。それ以来支配下の者たち一同に(乞胸頭からも)申しつけ、脇差を差して稼業に出ないようにしてまいりました。
一 乞胸のうちで仲間の作法に背いた者や、不届き者の鑑札は取りあげ、乞胸稼業を禁止します。右のほかに厳しい咎めなどはありません。
右のことについてお尋がありましたので、恐れながら書き上げたます。以上。
寛政十一(1799)未年二月
下谷山崎町壱町目徳兵衛店
乞胸頭 仁太夫
〈注釈〉
※1)この文書では「長崎」となっていますが、他の書類(類集撰要所在記録等)から「長嶋」が正しいと推測されます。
※2)中世以来、非人たちは清めや祝いの意味を持つ門付芸(鳥追・大黒舞など)を担ってきました。また近世においては、これから派生して、もっと一般的な街角や往来の芸(「道の芸」)も行うようになっており、これが乞胸の稼業と重なっていたのです。この場合、非人たちの方が「先行して行っていた芸であり」、しかも「非人が行うことに意味や謂われがあった」ことがポイントです。
※3)浅草溜は、浅草非人頭車善七が管理していた「医療刑務所」的施設です。
※4)辻勧進は、(後の文書で分かりますが)芸のできない乞胸が街角で「物もらい」をすることでした。「辻乞胸」と書いている書物もあります。
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『文政四年下谷山崎町名主書上』(※1)
右は寛政11(1799)年中に、根岸肥前守様が町奉行をお勤めのとき、お尋ねがありました際(書き上げた書類)の写し書きでございます。当時山崎町に在住する乞胸どもは、およそ50人ばかりでございました。前書のうち芸の仕方について書きました部分を、左に申し上げます。
覚
一 綾取(あやとり)とは 竹に房をつけ、これを投げ曲げ取る芸のことです。
一 猿若(さるわか)とは 顔を染めて芝居する芸のことです。
一 江戸万歳(えどまんざい)とは 三河万歳の真似をする芸のことです。
一 辻放下(つじほうか)とは 玉かくし、あるいは手玉を使う芸のことです。
一 操(あやつり)とは 箱に目鏡をつけ中であやつりをする芸、または人形をつかう芸のことです。
一 浄溜璃(じょうるり)とは 義太夫節や豊後節の節をつけて語る芸のことです。
一 説教(せっきょう)とは 昔物語に節をつけて語る芸のことです。
一 物真似(ものまね)とは 堺町の芝居役者(歌舞伎)の口上を真似、あるいは鳥獣の鳴声をまねる芸のことです。
一 仕形能(しかたのう)とは 能の真似をする芸です、当時はあまりやっておりませんでしたが、時々行われておりました。
一 物読(ものよみ)とは 古戦物語の本などを読む芸です。
一 講釈(こうしゃく)とは 太平記、あるいは古物語を語り講釈する芸です。
一 辻勧進(つじかんじん)とは 往来出て芸のない者や女や子どもたちが銭をこうことです。
右の諸芸はいずれも、寺院境内ならびに繁昌の往来や広小路等でおこないます。人家の門へ立っておこなう門付は非人だけがおこなえます。乞胸の方ではやりません。女太夫は非人だけです。乞胸がいつ頃どのようないわれで生じたかは、ずいぶん昔のことでよく分かりません。以上。
文政四(1821)巳年八月
下谷山崎町名主 藤七
〈注釈〉
※1)この文書は、寛政11(1799)年に『寛政十一年乞胸頭仁太夫書上』が提出されたとき、乞胸頭仁太夫が居住していた下谷山崎町の町名主藤七が同時に提出した書類の写しを、改めて文政4(1821)年に『町方書上』付属書類として提出したものです。
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《解説》
この文書は、寛政11(1799)年に時の乞胸頭であった11代仁太夫が、乞胸の身分と由緒を町奉行の求めに応じて書き上げたものです。同時に乞胸頭が居住していた山崎町の町名主が書き上げた書面を付属書類として一緒に紹介しています(ただしここで紹介しているのは文政4〈1821〉年に提出された写し)。二つの文書をあわせて『寛政度文政度御尋乞胸身分書』という名前を付けて呼んでいますが、これは両文書原文が掲載されている東京都刊行『重宝録』第一の名称にしたがったものです。
乞胸は長吏・猿飼・非人などと違い、明らかに近世的な存在でした。このための身分については、「不確定的」な要素があったようで、乞胸頭および町名主側の主張と、幕府側の理解に「ずれ」がありました。この文書の提出を町奉行が求めたことの理由も、どうやらこの「ずれ」をどう解釈するかという問題にあったようです。文書を読んでいただければ分かるとおり、乞胸頭や町名主側は、「乞胸の身分は町人であり、あくまでも稼業だけが非人頭の支配を受けている」と主張していました。しかし幕府側は、最終的には「非人と同じようなことをしているのだから町方に置いてはおけない」(天保期の南町奉行鳥居忠耀〈耀蔵〉の老中水野忠邦への上申)と差別的に考えて、下谷山崎町など従来の居住地から浅草西部の別の場所への移転・集住を命じました。(このあたりのことは当サイトの中の東京の部落史と現状の中の乞胸に関する記述を参照してください)。
《現代語訳・注釈》および《解説》は浦本誉至史
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《お願い》
ここでご紹介している文書は近世文書です。史料紹介という性格上、文書の中に使用される言葉は原則としてそのまま用いています。したがって差別的な意味を持ちながら、そのまま使用されている部分もあります。これらの言葉は、その歴史性や文脈を無視して無批判に用いれば、そのまま人を傷つける差別の言葉になります。差別は決して過去のものではなく今現在の問題だからです。あるがままの歴史を皆さんと共に学ぶために、あえてここでは古文書の中の言葉をそのままにしてあります。この史料等に接するところから、差別の不当性、偏見やタブーを廃して被差別民衆の真実の姿を知ることのすばらしさを感じていただければ幸いです。歴史を「過去の過ぎ去った一瞬」としてではなく、現在に連なるものとして考えることの意味について、ぜひご理解下さい。これは当Site管理者だけではなく、全ての被差別者の共通の願いです。
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