弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆
2-5 乞胸(ごうむね)
浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました(参考『寛政度文政度御尋乞胸身分書』)。
乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が非人頭車善七の支配を受けるとされたことでした。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。
一応「身分は町人」とされていた乞胸でしたが、しかし前近代にあっては職業と社会的身分および居住は分離できないと考えられていました。したがって乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されました。
乞胸は江戸中期までは乞胸頭仁太夫の家の周辺等江戸の街の数カ所に住んでいました。しかし1843年(天保14年)天保の改革の時、幕府によって集住を命じられます。その理由は「身分は町民だなどと言っているが、非人と同じような業をしているのだから市中に置くのはよろしくない」(町奉行・鳥居忠耀〈耀蔵〉の老中・水野忠邦への上申)という差別的なものでした。
1870年(明治3年)、「平民も苗字を名乗ってよい」という布告が出されましたが、このとき乞胸は布告から除外されました。つまり近代になって、はっきりと行政的に被差別民の規定を受けたわけです。