弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆
2-3 非人(ひにん)
非人は、関東では長吏頭・弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にありました(西日本では、必ずしも「かわた」の支配下ではありません)。
江戸の非人には、抱非人(かかえひにん)と野非人(のびにん)との別がありました。野非人は「無宿」(今日的に考えると路上生活者のような立場の人々。ただしあくまでも社会的な身分なので、イコールではない)で、飢饉などになると一挙にその数が増えました。一方抱非人は、非人小屋頭(ひにんこやがしら)と言われる親方に抱えられ、各地の非人小屋に定住していました。非人小屋は江戸の各地にありました。
非人小屋頭はそれぞれ有力な非人頭(ひにんがしら)の支配を受けており、江戸にはそれは4人(一時期5人になったこともある)いました。この4人の非人頭がそれぞれ弾左衛門の支配下にあったわけです。4人の非人頭の中でも特に有力なのが浅草非人頭・車善七(くるまぜんしち)でした。
非人の主な生業は「物乞い」でした。江戸時代、非人以外のものが勝手に「物乞い」をすることは許されていませんでした。また街角の清掃、「門付(かどづけ)」などの「清め」にかかわる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事しました。また江戸の非人たちは、街角の清掃に付随して紙くず拾いを始め、それ発展させて再生紙作りもおこないました。
江戸で最も有力な非人頭であった浅草非人頭・車善七(参考・車善七の家伝『浅草非人頭車千代松由緒書』)は、1719年(享保4年)以降、弾左衛門・長吏の支配から独立しようと幕府に訴えを繰り返しました。しかし歌舞伎などと違って、弾左衛門を超える経済力・政治力を持っているわけではなかった非人たちは、結局最後まで弾左衛門の支配下に置かれつづけました。