浅草非人頭車千代松由緒書
江戸最大の勢力を持った非人頭であった浅草非人頭車善七に関する基礎的史料である「浅草非人頭車千代松由緒書」(天保10年提出)の原文、およびその現代語訳です。この文書に関する解説は、一番下にあります。
【目次】
1.『浅草非人頭車千代松由緒書』(天保10年〈1837年〉)
2.《現代語訳・注釈》『浅草非人頭車千代松由緒書』(天保10年〈1837年〉)
3.《解説》『浅草非人頭車千代松由緒書』
『浅草非人頭車千代松由緒書』
先祖善七儀は、三州あつみ村出生ニて、乍恐御入国之砌、浅草大川端辺に、小屋補理相煩罷在候処、慶長十三申年中、町奉行米津官兵衛様、土屋権右衛門様、御勤役之節、非人頭被仰付、浅草元鳥越ニて五百坪之居地被下置候処、其後御用地に被召上、寛文六未年十一月十八日、渡辺大隅守様、村越長門守様御内寄合江被召出、当時之地所九百坪為替地被下置候旨被仰渡、町年寄樽屋藤左衛門様ニて、引料金三十五両頂戴仕、其以来只今以永続仕候儀に御座候、右就御尋往古之書物取調候処、先年焼失仕候間、乍恐申伝奏書上候 以上
天保十亥年九月十七日
車千代松
(このページのtopに戻る)
《現代語訳と注釈》
『浅草非人頭車千代松由緒書』(※1)
先祖の善七は、三河国渥美村の出生(※2)で、恐れながら(徳川家康の)御入国の際(※3)、浅草大川端(※4)のあたりで、小屋を直しながら苦労して住んでおりましたところ、慶長十三年(1608年)、町奉行の米津勘兵衛様と土屋権右衛門様(※5)が御役の際、(両名から)非人頭に任命され、浅草元鳥越に五百坪の居地をくだされました。その後この土地が御用地として召し上げられましたので、寛文六未年(1666年)(※6)十一月十八日、渡辺大隅守様と村越長門守様に内寄合の場に呼び出され、当時の地所で九百坪を替地として下され置く旨申し渡されました。町年寄の樽屋藤左衛門様から、引料として金三十五両を頂戴し、それ以来、只今までずっと現在地に住んで勤めております、右の次第についてお尋がありましたので家の古文書などを取り調べましたが、先年火事で焼失してしまいましたので、恐れながら言い伝えておるところを書き上げます。 以上
天保十亥年(1837年)九月十七日
車千代松(※1)
〈注釈〉
※1 千代松は車善七の幼名。この文書を提出した時の浅草非人頭は、成人に達していなかったか、他の何らかの理由があって、まだ善七を名乗っていなかった
※2 初代車善七の出身地には他の伝承もある(解説参照)。また、品川非人頭松右衛門もその元祖は三河出身の浪人だったという家伝を伝えている
※3 1590年(天正18年)
※4 隅田川の吾妻橋(浅草)より下流西岸を指す
※5 土屋権左衛門の誤り
※6 1666年(寛文6年)は午年
(このページのtopに戻る)
《解説》
この文書は、1837年(天保10年)に時の浅草非人頭であった車千代松が、浅草非人頭車善七家の由緒を町奉行の求めに応じて書き上げたものです。ここでは『浅草非人頭車千代松由緒書』という名前を付けて呼んでいますが、これはあくまで『弾左衛門由緒書』に対する便宜的な意味からで、『弾左衛門由緒書』のように正式な文書名として歴史的にこの名前が使われてきたわけではありません。
この文書には、居住地の移転経過について大きな問題があります。記述によれば、鳥越の旧居住地から直接1837年(天保10年)時点の現居住地に移転しているように書かれています。しかし、弾左衛門とその配下の長吏・猿飼たちは、既に1645年(正保2年)に鳥越から移転していたのです。しかもこの時、非人たちにも重要な関わりがあった刑場が、弾左衛門とともに移転しています。車善七ら非人たちだけが鳥越に残ったというのは考えにくいことです。また、鳥越近辺の土地が御用地となったのも、1666年(寛文6年)ではなく1645年(正保2年)です〈『町方書上』『御府内備考』『武江年表』等の記述による〉。このため現在では、車善七ら非人たちも1645年(正保2年)には鳥越から移転しており、1666年(寛文6年)の移転は再移転だったと推測されています。
さてでは、なぜこのような文書が作成されたのでしょう。『弾左衛門由緒書』の1715年(正徳5年)に比べて1837年(天保10年)と、作成年代が100年以上も遅かったためこの間の記録が欠落したのか(文書の最後に記録焼失の事実がわざわざ記述されており、その可能性は大きい)、それとももっと別の何らかの理由があったのか、残念ながら現時点では不明です。
また、これは問題点とは言えませんが、初代車善七の出身地には他の伝承もあります。極めて信憑性の薄い話ですが、有名な話なので以下に紹介します。
車善七の元祖は常陸国の旧領主佐竹家の家老車丹波守義照の子車善七郎である。善七郎の父丹波守は、関ヶ原合戦の時主君に西軍につくよう勧めた。しかし結果は敗戦。佐竹家はなんとか生き残ったものの、先祖伝来の常陸50万石から、遠く出羽秋田20万石に減封転封されてしまった。車丹波守は、合戦後この責によって磔となり、子の善七郎も浪人となってしまう。善七郎は父の敵を討とうと庭作りになって江戸城に忍び込み、徳川家康の暗殺を二度にわたって試みるがいずれも失敗する。家康の温情によって命を助けられた善七郎は、以降名を善七と改めて「乞食」の頭となり、これが代々続いて浅草非人頭車善七となった。
(『地方凡例録』下巻所在「非人頭車善七由緒之事」記述より)
なお、非人頭として車善七につぐ勢力を持っていた品川非人頭松右衛門も、その元祖は三河出身の浪人三河長九郎であるという家伝を伝えています。
《現代語訳・注釈》および《解説》は浦本誉至史
(このページのtopに戻る)
《お願い》
ここでご紹介している文書は近世文書です。史料紹介という性格上、文書の中に使用される言葉は原則としてそのまま用いています。したがって差別的な意味を持ちながら、そのまま使用されている部分もあります。例えば「非人」「乞食」等がこれにあたります。これらの言葉は、その歴史性や文脈を無視して無批判に用いれば、そのまま人を傷つける差別の言葉になります。差別は決して過去のものではなく今現在の問題だからです。あるがままの歴史を皆さんと共に学ぶために、あえてここでは古文書の中の言葉をそのままにしてあります。この史料等に接するところから、差別の不当性、偏見やタブーを廃して被差別民衆の真実の姿を知ることのすばらしさを感じていただければ幸いです。歴史を「過去の過ぎ去った一瞬」としてではなく、現在に連なるものとして考えることの意味について、ぜひご理解下さい。これは当Site管理者だけではなく、全ての被差別者の共通の願いです。
(このページのtopに戻る)
|