東京の被差別部落

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3.動物と人間の共同作業―猿廻し

        

 江戸時代中期以降、江戸の街角でよく見かけられた芸能の一つに、「猿廻し」があります。これは弾左衛門配下の被差別民である猿飼たちが担った芸能でした。
 『守貞漫稿』(もりさだまんこう)の記述を見てみましょう。
 「猿曳(猿引)、あるいは猿廻とも言う。江戸では弾左衛門の部下である。(中略)江戸は猿曳がはなはだ多く毎日十数人来ては(芸をして)銭をこう。京阪では、はなはだまれである」
 また、『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)にはこんな記述があります。
 「江戸の猿飼たちは正月・五月・九月に江戸城の厩に祈祷に行き、そのほかの諸大名の厩にも行く。(中略)近国の猿飼たちが江戸にやってきたときは、江戸の猿飼の家に泊まり江戸中を曳き歩く」
 江戸の猿飼は長吏頭弾左衛門の支配を受け、長吏たちと一緒に弾左衛門屋敷の近くに住んでいました。弾左衛門の由緒を記した文書である『弾左衛門由緒書』に、猿飼と弾左衛門の関係について、おもしろい由緒が記されています。
 「(徳川氏の関東)ご入国の時(1590〈天正18〉年)、(家康公の)お馬の足が痛んでいました。『祈祷のため猿引を』とお尋があったので、私の先祖が支配下の猿引を連れてまいりましたところ、馬の病気が治りました。それでご褒美のお金を頂戴しましたが、これを先例として毎年正月十一日に江戸城の御台所にてお金を頂戴しています。西丸下の御厩でも御判ものを頂戴しています。また御納戸方からもお金を頂戴しています」
 この記述が事実を記したものかどうかは分かりません。しかし、『嬉遊笑覧』が記している正月などに江戸城厩に行って祈祷をすることの「いわれ」がより詳しく紹介されています。またこの記述から、少なくとも戦国時代の末期から江戸の猿飼と長吏が深い関係にあったことが分かります。
 『弾左衛門由緒書』の記述でも分かるとおり、猿飼の芸は、もともとは馬の健康と、馬の飼い主である武士の武運長久を祈る祈祷でした。馬と猿との関係は日本だけではなく、古来中国を中心に東アジア全域で見られるものです。それが江戸時代中期以降は町人たちの楽しみの一つ、「芸能」ともなったわけです(決して祈祷としての意味を失ったわけではありません)。まさに動物と人間の共同作業による芸能といってよいでしょう。
 江戸の猿飼たちの芸は、歌舞伎にも取り入れられました。

(文責:浦本誉至史)

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