東京の被差別部落


             

【被差別民衆のになった江戸の芸能―注】

             

『守貞漫稿』(もりさだまんこう)
 天保年間(1830〜1843年)に喜田川守貞(きたがわもりさだ)という絵師が記した「挿し絵付き風俗事典」というべきもので、当時の江戸・京都・大坂の風俗を、絵つきで比較検討したとても便利な本です(守貞は大坂と江戸の両方に住んだことのある人物)。岩波文庫から『近世風俗志』(全5巻)という名前で刊行されています。

『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)
 文政年間(1817〜1830年)に喜多村信節(きたむらのぶよ)という人が記した「風俗事典」です。やはり江戸や京阪の風俗について記した物ですが、和漢の古典をひもときながら事物の由緒を詳しく考察していることが特徴です。『守貞漫稿』と違って挿し絵はついていませんが、近世後期の風俗について貴重な資料を提供してくれます。岩波文庫から『近世風俗志』全5巻につづいて刊行されていますが、2002年末現在まだ完結していません。

「半田稲荷勧進」(はんだいなりかんじん)
 『守貞漫稿』には「半田行人」として、次のように紹介されています。「天保年間になって初めて行われるようになったが、今は行われていない(1842〈天保13〉年に水野忠邦が願人の「住吉踊り」「半田稲荷勧進」を禁止したことを指していると思われる)。(中略)本来の半田行人は、服は必ず紅綿を用い、左手に『半田稲荷大明神』と書いた紅綿の幟を持つ。右手には鈴を持って、それを振りながら『疱瘡麻疹』が軽くなるよう祈る。ところが最近は偽ってただただ『諧謔踊耀』するものとなっている」と。この文章から、もともと「疱瘡麻疹」避けに「半田稲荷大明神」のお札を売りながらお祓いをする「民間信仰芸能」としてスタートしたものが、次第に「熱情的」踊り芸に発展した経過が窺われます。成立の起源とその後の経過が、平安期京都で起こった「御霊会」(ごりょうえ)に似ていて、興味深いものがあります。


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