弾左衛門由緒書
弾左衛門に関する基礎的史料である『弾左衛門由緒書』(享保10年分)とその付属文書である『頼朝公証文写』の原文および現代語訳です。この文書に関する解説は、一番下にあります。
【目次】
1.『弾左衛門由緒書』(享保10年〈1725年〉)
2.『頼朝公御証文写』―原文
3.《現代語訳》『弾左衛門由緒書』(享保10年〈1725年〉)
4.《解説》『弾左衛門由緒書』『頼朝公御証文写』
『弾左衛門由緒書』(享保10年〈1725年〉)
一、私元祖、摂津国より相州鎌倉江罷下り相勤候処、長吏以下の者依為強勢私先祖に支配被為仰付、頼朝公御証文鎌倉八幡に奉納候、此書物の儀に付別当の書付等も御座候、依之伺先例、於今に鎌倉八幡宮御祭礼御神楽先立の供奉長吏烏帽子素袍並麻上下着し相勤申候
一、寅御入国の御時、先祖武蔵国府中より罷出て、鎌倉より段々相勤候由緒申上候得共、御役等長吏以下支配被為仰付候、其節小田原長吏太郎左衛門小田原氏等の御証文を以長吏以下支配の儀奉願候得共、無御取上、其御証文被召上、私先祖へ被下置、其後元禄五年申年上州下仁田村馬左衛門長吏の論に付、甲斐の信玄公御証文を以論仕候故、其証文御評定所にて被召上私に被下候事
一、寅御入国の御時、御馬足痛踏摺皮被仰付、御馬の御祈祷猿引御尋の上、私先祖支配の猿引召連罷出候得は、病馬快気仕候、依之為御褒美鳥目頂戴仕候、為其引例毎年正月十一日御城御台所にて鳥目頂戴仕候、中古より西丸下従御厩御判頂戴仕候、御納戸方より鳥目頂戴仕候、中古より西之御丸下僕御厩御判頂戴仕、御納戸方より御鳥目頂戴仕候
一、御入国の御時格式にて只今迄、年始の御礼元日御老中様江罷出、夫より段々御役所様江相勤申侯
一、従先前手下の女御関所通り候節、一は私一判にて御留守居様江申上御判頂戴仕通申侯て罷通り申候事、私所持仕候印判は、濃州青野原御合戦の御時私元祖江首御預の節、集方と申文字印判為割封被下候、此印判只今に用申侯
一、九十年程以前、灯心挽候者御城江上燈心細工仕、御扶持方頂戴仕候
一、燈心商の儀、御仕置者御役仕候由緒にて、瀬戸物町小田原町両辻にて、役々の者六十五人の内、毎日罷出、無地代にて商仕来候、浅草観音市場商仕候、却て灯心細工并商の儀、従古来私一名の家業にて御座候事
一、御役目相勤候儀、御配江御用次第御絆綱差上申候、其外御陣太鼓并時々御太鼓御陣御用の皮類、御用次第差上申候事
一、御仕置物、御島者、晒もの、磔、火罪、獄門、鋸挽、文字雕、耳鼻剃、切支丹、鍋銅等御座候、六十五年の前石谷将監様神尾備前守様御奉行の時、武州鴻巣村磔三人被遣候に付、御評定にて被仰付、御奉行の下置検使共私先祖被為仰付候に付、御伝馬申請、長道具為持相勤申候、此外在々支配の内、一代壱度も相廻り改候節も長道具為持申候事
一、堀式部少輔様町奉行の節、私先祖内記と申名被下、只今内証名に用申候事
一、午未飢饉の節、岩附町の御欠所雑物被下置、火事の節御金御米頂戴仕候、丸橋忠弥品川にて磔に被行候場所場所にて石谷将監様より金子頂戴仕候、甲斐庄飛騨守様より溜順礼雑物頂戴仕候、盗賊御改赤井五郎作様より銀子頂戴仕候、丹羽遠江守様より御尋もの被為仰付候間、召捕差上候得は為御褒美金子五両被下候事
一、当五月中、大納言様御仕官為御祝儀御米五百俵浅草御蔵前にて被下置、則手下共江割渡し配分仕候事
一、御入国の御時、島田儀助江御鑓壱本御預け被遊候、一本にては手支申候間、神尾備前守様御奉行の節御願申上候得は、御番所朱鑓の内壱本被下候事
一、私支配在々長吏、無年貢の田地或は居屋敷計無年貢にて、田地御年貢差上候者数多御座候、御水帖直に頂戴仕、其村の長吏御年貢収納仕候者も御座候
享保十年巳九月
浅草 弾左衛門
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『頼朝公御証文写』
鎌倉藤沢長吏弾左衛門頼兼写シ
一、長吏 座頭 舞々 猿楽 陰陽師 壁塗 土鍋師 鋳物師 辻目暗 非人 猿曳 弦差 石切 土器師 放下師 笠縫 渡守 山守 青屋 坪立 筆結 墨師 関守 獅子舞 蓑作り 傀儡師 傾城屋 鉢叩 鐘打
右の外は数多付有之、是皆長吏は其上たるへし、此内盗賊の輩は長吏として可行之、湯屋風呂屋るい、傾城屋の下たるべし、人形舞は廿八番の外たるべし
治承四年庚子九月
頼朝御判
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《現代語訳》
『弾左衛門由緒書』(享保10年〈1725年〉)
一、私の元祖が摂津から鎌倉へ来て勤ていたところ、長吏以下の者が強勢となってきたので私の先祖にその支配を命ぜられました。その時頼朝公からいただいた御証文は鶴ヶ岡八幡宮に奉納しましたが、このことについての八幡宮別当の書付もあります。このときの先例によって、今も鶴ヶ岡八幡宮祭礼で、神楽の先立を(配下の)長吏が烏帽子に素袍か麻上下を着て勤めています。
一、(徳川家康の関東)ご入国の時(1590年〈天正18年〉)、先祖が武蔵国府中でまかり出て、鎌倉以来の由緒を申し上げたところ、長吏以下の支配を(徳川氏から)命ぜられました。そのとき小田原の長吏太郎左衛門が、後北条氏からもらった証文を差し出して長吏以下の支配を願いましたがお取り上げなく、その証文は召し上げられて私の先祖へ下されました。その後元禄5年(1692年)に上野国下仁田村の長吏馬左衛門が「長吏の論」を起こした際(※弾左衛門支配に対して異を唱えたことをさす)、(馬左衛門が)武田信玄公の証文をもって「論」を行いましたので、その証文も評定所にて召し上げられ、私に下されました。
一、ご入国の時、(家康の)お馬の足が痛んでいました。「祈祷のため猿引を」とお尋があったので、私の先祖が支配下の猿引を連れてまいりましたところ、馬の病気が治りました。それでご褒美のお金を頂戴しましたが、これを先例として毎年正月十一日に江戸城の御台所にてお金を頂戴しています。西丸下の御厩でも御判ものを頂戴しています。また御納戸方からもお金を頂戴しています。
一、ご入国の時の格式で、元日に御老中のところに年始にまいります。またその後それぞれの御役所様にあいさつに回ります。
一、手下の女が関所を通るときは、私の判を押した関所手形で通ります。そのことを御留守居に申し上げ(御留守居)の判も頂戴しています。私の所持する印判は、関ヶ原合戦の時私の元祖へ首をお預になったとき下されたもので、「集方」(※「集房」とする書もあり)という文字が印されています。この印判を今でも用いています。
一、90年程前(1635年〈寛永12年〉)から、灯心を江戸城へ差し上げ、灯心細工を勤めてまいりました。そのために御扶持も頂戴しています。
一、灯心商いのことについては、お仕置き役を勤めていることがその由緒となっています(※「お仕置き役」を務めている代償として灯心専売を認められているという理解を示したもの)。瀬戸物町と小田原町の辻で、私の配下の役付きの者65人の内から、毎日行って商っています。その際地代は払わないでよいことになっています。また浅草観音の境内市でも商いをしています。灯心細工と灯心売りの商いは、古来私一人の家業であり他の者は行えないことになっています。(※弾左衛門の灯心専売に関する記述)
一、お役目として、命令を受け次第、絆綱、陣太鼓、時の太鼓、陣用の皮類を差し上げます。
一、お仕置きの役として、遠島、さらし、磔、火罪、獄門、鋸引き、文字彫り、耳鼻削ぎ、切支丹改め、鍋銅などを勤めます。65年前(1660年〈万治3年〉)石谷将監様と神尾備前守様が町奉行の時、武蔵国鴻巣村で三人の磔がおこなわれました、その際評定所の評議の結果、奉行の下で私の先祖が検使を勤めることになり、伝馬を許されました。この時、槍や長刀を仕立て(た行列を作っ)て検使役を務めました。(歴代の弾左衛門が)一代に一度、支配下の在方長吏を回る際にも、槍や長刀を仕立て(た行列を作っ)て回ります。(※弾左衛門の支配下巡検と格式に関する記述)
一、堀式部少輔様が町奉行のとき、私の先祖に「内記」という名前を下されました。この名は今も「内証名」として用いることになっています。
一、午未の飢饉の際、岩槻町の欠所の雑物をいただきました。火事の際にお金とお米をいただきました。丸橋忠弥が(由井正雪事件で)品川で磔になったとき(町奉行の)石谷将監様から褒美の金子をいただきました。(町奉行の)甲斐庄飛騨守様から溜の順礼の雑物をいただきました。盗賊御改の赤井五郎作様から褒美の銀子をいただきました。(町奉行の)丹羽遠江守様からお尋ものの探索捕縛を命じられ、召し取った褒美として金子五両をいただきました。
一、今年五月、大納言様御仕官に際して(※将軍吉宗の長男〈後の9代将軍〉家重が権大納言に任官したこと)お祝として米五百俵を浅草の幕府米蔵前でいただきました。これを手下どもに分割して渡し、それぞれ配分させました。
一、ご入国の時、島田儀助(※島田儀助は不明)に槍1本くだされましたが、「1本では」と、神尾備前守様が町奉行の際お願したところ、お番所の朱槍のうち1本を(追加で)下さいました。(※弾左衛門の格式が、槍2本に馬上の士に等しいという格式に関する記述か)
一、私が支配する村々の長吏は「無年貢」だということは事実ではありません。住んでいる屋敷だけが無年貢なので、田地については年貢を収めている者が数多おります。また検地帳をじかにいただき、(村役人を通さず)その村の長吏たちの分の年貢をまとめて収めている者(※小頭か)もおります。
享保十年巳九月(1725年9月)
浅草 弾左衛門
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《解説》
この『弾左衛門由緒書』『頼朝公御証文写』は、1725年(享保10年)9月に、時の弾左衛門6代集村が、江戸町奉行大岡越前守忠相らの求めに応じて提出したものです(以下『享保10年由緒書』と言う)。
『弾左衛門由緒書』と呼ばれるものは、1715年(正徳5年)にはじめて町奉行に提出されて以来、江戸時代を通じていくつか確認されています。いずれも時の弾左衛門が自分の家と被差別民支配の由来・由緒を町奉行に対して書き上げたものでした。
それらの中でこの『享保10年由緒書』が内容的にも、形式的にも最も整ったものです。1725年以降の『由緒書』はいずれも『享保10年由緒書』の内容形式を踏襲しています。『享保10年由緒書』で特に重要なのは、『由緒書』の内容を証明するものとして『頼朝公御証文写』等の証拠書類が付随していることでした。これ以前の『由緒書』(正徳5年と享保4年のもの)には、この古文書はまだ付随していませんでした。
《参考》『弾左衛門由緒書』『頼朝公御証文写』に関するコラム
《現代語訳》および《解説》は浦本誉至史
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《お願い》
ここでご紹介している文書は近世文書です。史料紹介という性格上、文書の中に使用される言葉は原則としてそのまま用いています。したがって中には差別的な意味を持ちながら、そのまま使用されている部分があります。例えば「非人」「目暗」等がこれにあたります。これらの言葉は、その歴史性や文脈を無視して無批判に用いれば、そのまま人を傷つける差別の言葉になります。差別は決して過去のものではなく今現在の問題だからです。あるがままの歴史を皆さんと共に学ぶために、あえてここでは古文書の中の言葉をそのままにしてあります。この史料等に接するところから、差別の不当性、偏見やタブーを廃して被差別民衆の真実の姿を知ることのすばらしさを感じていただければ幸いです。歴史を「過去の過ぎ去った一瞬」としてではなく、現在に連なるものとして考えることの意味について、ぜひご理解下さい。これは当Site管理者だけではなく、全ての被差別者の共通の願いです。
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