5.宗教的ルーツ持つ大道芸―願人の「住吉踊り」
江戸時代には、宗教的なものから出発した街角の芸もたくさんありました。その代表例が、願人(がんにん)たちの芸能でした。右の図を見てください。これは江戸後期の願人芸を代表する「住吉踊り」です。
『守貞漫稿』(もりさだまんこう)によれば、「住吉踊り」は、「一人が長い柄の派手な傘を持って歌いながら踊り、それに合せて数人の踊り手が団扇を持って周りを輪になって踊る」芸でした。また『守貞漫稿』は、これは俗に言う「かっぽれ」であると紹介しています。
宗教的なものから世俗的なものへ
このように江戸後期には世俗的な大道芸をおこなうものとなっていた願人ですが、もともとは京都鞍馬寺の配下にある「下層の僧侶」でした(詳しくは「願人」を参照)。
江戸中期後半にあたる1802(享和2)年の記録に、大きな鉄の鉢を叩いて「お釈迦、わい!」と大声で呼ばわり往来する願人の存在が記されています。その頃の願人とその芸能は、まだ宗教的な色彩が濃いものでした。
しかし『守貞漫稿』が書かれた江戸後期頃ともなると、願人は完全に「大道芸人」として描かれるようになります。特に「住吉踊り」は、仏教性の薄い芸能と考えられていました。少なくとも幕府は、住吉踊りに願人本来の宗教性を認めませんでした。後に老中首座(筆頭老中)となり、ペリー来航時の政権を担うことになる寺社奉行・阿部正弘は、1842(天保13)年11月25日、時の老中首座・水野忠邦に対して、「願人取り締まり」について上申します。この上申の中で阿部は、「願人は最近、半田稲荷勧進や住吉踊りなど僧侶にあるまじき所業によって銭を貰い受けている。頭の者に命じて規制を強化すれば数も減るだろう」と述べています。この上申を受けて水野は、以降住吉踊りを禁止するよう命じました。
しかし、この禁令は順守されたとは言い難かったようです。失脚した水野に変わって、既に阿部が政権の座に就いていた1847(弘化4)年7月、禁止されていた住吉踊りを踊った嫌疑で、4組15人の乞胸(ごうむね)が取り調べを受けます。この事件に関する幕府の判決は、「乞胸ごとき軽い者の行ったことだから、強く咎めなくてもよいであろう」ということでした。「以後気を付けるように」と、乞胸頭仁太夫(「乞胸」を参照)に「注意」がなされただけだけでした。確かに侮蔑のこもった判決ではありますが、実質的に処罰がなされなかったこともまた事実です。実は、この時取り調べを受けた乞胸の中には、5人の元願人が含まれていたのですが、幕府はそのことを知りながら、深く追及しませんでした。
「住吉踊り」(=「かっぽれ」)をはじめ、願人たちの芸能も、今日の大道芸や大衆芸能に受け継がれていくものでした。非人・猿飼・乞胸・願人といった「被差別」者たちの芸能は、江戸の町衆にとって最も身近な娯楽でした。そして同時にそれらは、明治以降の近代大衆芸能に、大きな影響を与えていったのです。
(文責:浦本誉至史)
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