東京の被差別部落

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弾左衛門支配外の江戸の被差別民衆

3 願人(がんにん)

     

 弾左衛門は、江戸と関東の被差別民の総支配者であり代表者でした。しかし、彼の支配下にない人は被差別民ではなかったのかといえば、決してそうではありません。江戸の町には、彼の直接・間接の支配を受けない被差別民がまだ住んでいました。例えば歌舞伎役者たちや「座頭」たちがそうであり、もう一つの代表がここで紹介する「願人」です。

願人は乞胸と同じ大道芸人たち

 願人は、大道芸を生業とする下層の被差別民です。乞胸(ごうむね)とほとんど同じ生業をしていますし、生活圏もほぼ重なっています。しかしその成り立ちは少し違っていました。記録によれば願人たちは、京都の鞍馬寺の僧侶のたく鉢での行いが始まりとされる大道芸を行う芸人でした。1802年(享和2年)には、大きな鉄の鉢をたたいて「お釈迦、わい!」と大声で叫びながら往来する願人の存在が記されています。この頃はまだ「僧侶」的なものを感じさせる存在だったわけです。
 しかし40年ほど時代が下った1842年(天保13年)になると、もっぱら踊りや謡などを街頭で見せて銭を稼ぐ存在として記録されるようになります。おりから天保の改革を行っていた幕府によって、厳しく取り締まられるようになっていました。願人には、鞍馬大蔵院末と鞍馬円光寺末の2系統があって寺社奉行の管轄とされていました。彼らへの取り締まりも寺社奉行が行いました。

明治維新後は都市貧民層を形成

 1871年(明治4年)8月28日、いわゆる「穢多・非人賤称廃止令」(太政官布告)が出た後、弾左衛門配下にあった長吏・非人・猿飼・乞胸の身分呼称は廃止されました。歌舞伎や座頭も身分呼称として同時に廃止されました。しかしどういうわけか「願人」だけはしばらくの間の残り、正式になくなったのは、1873年(明治6年)に東京府が特に「願人呼称廃止」を布告したときでした。
 「賤称廃止」が布告され身分が引き上げられたと言っても、何一つ生活保障などなされませんでした。それどころかそれまでの稼業(物貰い)が禁止されましたから、彼らの生活は江戸時代以上に困窮を深めるようになります。江戸時代以来、非人・乞胸・願人などは、いずれもその生活圏や生業が重なっていました。彼らは、明治維新後近代化が進む中で発生した新たな窮民と合流しながら、近代都市東京の貧民層を形成していくのです。 

          

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