5.強制移転と、今日の東京の被差別部落
このように東京では、連綿として被差別部落の生活と歴史が続いてきました。しかしそれにも関わらず、今日多くの人が「東京には被差別部落はない」と誤って認識しています。このような誤った認識が生じた原因はいくつかあります。まず一般的には、都心部が関東大震災や戦災で焼け野原になってしまったこと、高度経済成長などで急速な都市化が進み旧来の街の姿が大きく変わってしまったことがあります。しかし、それだけが原因かというとそうではないのです。東京の被差別部落には固有の問題として、「強制移転」をさせられてきたという歴史があります。
東京の被差別部落は強制移転の結果一定程度分散し、さらに関東大震災・戦災の被害を受け、戦後の急激な都市化の波にも洗われました。こうした結果東京の被差別部落が「見えにくく」なったことは事実です。しかし、もとからあった部落がそれでなくなってしまったわけではありません。あたりまえのことですが、どんな権力者でも鉢植えの植木のように人々を自由に移転させるなどということはできませんし、東京の部落民も、こうした理不尽な移転要求にさまざまな形で抵抗し、自分たちの生活と産業を守ってきたからです。それに三多摩地区などでは、江戸時代に狩り場や山林の管理などを生業としてきた少数点在の被差別部落が、昔のままの形で残ってきました。
こうして今日の東京の被差別部落の原型が作り出されました。
強制移転の実相
江戸の町は明治維新後東京と名前も変わり、新政府によって「帝都」として急速な整備がおこなわれることになりました。
そんな中で1873年(明治6年)、東京府は「市街地で皮なめしをしている業者は、悪臭もひどいし市民の健康にも害をあたえるから朱引線の外へ移転せよ」と命令を出します。最初の移転命令です。「健康にも害をあたえるから」というのは甚だしい偏見で(健康に害を与えるなら、皮革製品など誰も身につけられない)、言いがかりに近かいものでした。当然皮革業者たちは反発し抵抗します。しかし政府・東京府などによる皮革業者への圧迫はつづき、1892年(明治25年)、今度は警視庁が「今後東京市内での魚獣化製場の新設は認めない、1901年(明治34年)12月31日までに全ての工場は市外に移転せよ」という取締規則を布告しました。
圧迫や統制は「皮なめし」業者に対してだけではありませんでした。1887年(明治20年)には「屠獣場取締規則」が発布され、と場が警視庁管理のもとにおかれ、市内外4カ所に限定されました。また江戸以来非人たちの重要な生業の一つであった「紙くず拾い」についても、1903年(明治36年)にやはり警視庁から発布された「屑物取扱場取締規則」によって規制が加えられ、業者たちは従来の居住地から郊外への移転を強いられました。
東京の部落の皮革製造業者は、こうした理不尽な強制移転命令には極力抵抗しました。ただ、操業拡大のためにより広い土地が必要だったことなどから、最終的には移転先を自ら見つけて郊外(現在の下町周辺区)へと移転していきます。
移転後の地域は湿地帯でした。そのため部落の皮革製造業者たちは、まず土盛りをして自分たちで大地を作るところからはじめなければなりませんでした。非常な苦心をしながら新しい町作りをはじめたのですが、しかしそれでも部落の皮革業者や労働者たちにとって、そこは今度こそ安心して働き生活できる「自分たちの町」でした。
部落の皮革製造業者に対する圧迫はこれで終わったわけではありません。1931年(昭和6年)、ふただび政府から強制移転命令が出されます。東京市内の業者たちに、今度は東京湾岸の埋め立て地に1940年までに移転せよというものでした。都内の部落の皮革製造業者たちは今度は徹底的に抵抗します。「今自分たちが住んでいる土地は、文字通り何もない湿地から苦労を重ねて作り出した自分たちの町だ。それを一片の通達で取り上げられるいわれはどこにもない」。彼らは、内務省や警視庁、そして当時最大の皮革需要先であった陸軍省などに執拗に「陳情」を繰り返し、ついには命令の撤回を勝ち取るのです。
ちなみに、皮革製造業者以外の皮革加工・販売業者については引き続き江戸時代以来の生活圏に残り、やがて浅草近辺に大きく広がっていくことになります。こうして今日に続く下町を中心とする東京の被差別部落が誕生しました。