4.皮革産業を中心とした部落産業とともに
明治維新後、最後の弾左衛門(13代集保、明治維新後に弾直樹と改名)は、浅草の自分の屋敷の近くに靴を作る工場を作りました。皮革や履き物の仕事が中世以来被差別部落の伝統的な仕事の一つとしてあり、靴の材料となる皮を集めるルートや基礎的な加工技術がすでにあったからです。
真の解放令ではなかった太政官布告
明治維新後、いわゆる「解放令」が太政官布告という形で出ます。しかし、この命令はただ単に「穢多・非人という賤称を廃止する」という内容のものにすぎず、弾左衛門ら被差別者たちが求めていた真の解放策ではありませんでした。
太政官布告が出されるのと前後して、それまで弾左衛門とその配下の被差別民衆が持っていた各種の専売権が取り上げられました。この結果、被差別民衆たちは生活の基盤を一挙に突き崩され、貧困にあえぐことになります。同じ頃、武士たちがその身分と特権を否定されましたが、彼らには多額の補償金が与えられました。明らかな差別待遇でした。
被差別部落=貧困という図式的な理解が、かなり長い間日本の歴史認識では常識とされてきました。しかし最近の研究では、この図式ができあがったのはむしろ近代になってからであること、具体的には、明治維新後何の保障もなく専売権を取り上げられた結果であることが分かってきました。
近代日本皮革産業の創設者・弾直樹
最後の弾左衛門・弾直樹は、中世以来自分たちの生業であった皮革産業を、近代工業として育てあげ、いろんな専売権を取り上げられた後の部落民の生活保障の手段としたいと考えていました。そのために彼は、個人で外国人技師を招聘し、皮革技術の伝習所を作り、またこの靴工場を設立しのです。こうしたことのために彼は膨大な私財を投資しました。江戸時代、三井と並ぶ江戸第一の大富豪と言われた弾左衛門家の財産も、この投資のためにほとんど使い果たされてしまうほどでした。
しかし、皮を集約できるという権限を奪われたことが結局決めてとなって、最後の弾左衛門の靴工場は経営的に破綻してしまいます。
弾直樹の夢は実現しませんでした。しかし彼こそ近代日本皮革産業の創設者であったことは間違いのない事実です。そして、彼ら先人たちの下で培われた技術が、その後も東京の被差別部落を中心に引き継がれ、日本の近代産業として靴や鞄の産業、皮革産業が発展していきます。
部落産業と共に歩んできた東京の部落
戦前・戦後を通じて、東京の被差別部落は皮革関係の仕事、食肉関係の仕事など伝統的な部落の仕事(これを私たちは部落産業と呼んでいます)とともに歩んできました。例えば、国内で生産される衣料用などの豚皮皮革は、現在でも東京の被差別部落でほぼ100%生産されていますし、下町を中心とする靴・鞄などの皮革アパレル産業もそのルーツは弾左衛門の靴工場にたどりつく伝統的な部落産業です。
東京の部落産業は、東京で生まれ育った部落民だけではなく、関東を中心に全国から部落民が集まってきてこれを支えました。また、様々な理由で東京にやってきた部落産業以外の仕事に就いている部落民も、親戚や同じ部落の知り合いを頼って、都内の被差別部落とその周辺に集住しました。