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原決定の誤り
原決定は,概要,以下のとおり述べている。
1 第3回の捜索は,万年筆の隠匿場所について請求人の自供を得た捜査官が,その自供に基づいて隠匿場所を捜索したものである点で,捜査官に何らの予備知識のなかった第1回,第2回の捜索の場合とは,捜索の事情や条件を異にするのであって,このような前提の違いを抜きにして,鴨居の上に本件万年筆があったのなら,第1回ないし第2回の捜索時に発見できなかったはずはなく,見つからなかったのは,当時,請求人宅に本件万年筆が存在しなかったからであると結論するのは,当を得ない。
2 中山武敏作成の調査報告書他における,請求人宅の捜索や状況について,請求人の母リイ,石川六造,T・Y,I・K,I・M,A・Hら家族の供述内容について,兄六造の供述に対する評価は,確定判決が同証言について判示したところをでるものではないとし,また,請求人の母,姉妹,弟の述べるところも,請求人宅の捜索が行われてから20年余りも後になされた肉親の供述であって,そのような供述が確かなものといえるか,にわかに首肯しがたい。
3 細川律夫他作成の調査報告書は,請求人宅の捜索状況につき,昭和61年10月から11月当時,請求人宅の捜索に従事した元警察官等から事情を聴取した結果をまとめたものであるが,「各捜索当時の具体的な状況についてよく覚えていないが,不十分な捜索であった」などとするもので,総じて,各人の記憶が相当あいまいで,いずれも所論を裏付ける証拠としての内容に乏しい。
4 E・Jの各弁面調書について,E供述は,捜索から約28年も経って行われたものであるばかりでなく,前記細川ほか報告書によればEは,同弁面調書が録取された4年余り前の昭和61年10月には,弁護人から請求人宅の捜索の模様を問われても「昭和54年に退職して間もなく脳血栓を患って以来,長患いしており,昭和38年5月の請求人宅捜索の模様については古いことで忘れてしまった。」などと述べ,具体的な捜索の状況を供述しなかったというのであるから,E弁面調書が確かな記憶に基づくものか疑問があると言わざるを得ない。
しかしながら,原決定は以下の理由で,判断を誤っている。1 内田雄造作成の鑑定書・報告書について
原決定は,「第3回の捜索は,万年筆の隠匿場所について請求人の自供を得た捜査官が,その自供に基づいて隠匿場所を捜索したものである点で,捜査官に何ら予備知識のなかった第1回,第2回の捜索時の場合とは,捜索の事情や条件を異にするのであって,このような前提の違いを抜きにして,鴨居の上に本件万年筆があったのなら,第1回ないし第2回の捜索時に発見できなかったはずはなく,見つからなかったのは,当時,請求人宅に本件万年筆が存在しなかったからであると結論するのは,当を得ない」と判示している。
しかしながら,東洋大学助教授内田雄造作成の昭和54年5月10日付鴨居の計測報告書は,人が立った状態で鴨居前よりどれだけ離れた位置で鴨以上の万年筆上端を視野に入れることができるか,という視点の位置の範囲を鴨居の計測と計算において明らかにしたものであり,同人作成の昭和58年6月4日付鑑定書は,新たに@鴨居上の万年筆を認知することができる視点の位置A請求人方捜索時の明るさ(天空光,人工照明光)のもとで鴨居上を注視した場合の認知の状態B勝手場を捜索するのに要する時間と認知の状態を明らかにしたものである。上記鑑定書記載の捜索実験の際における捜索実験者の身体および視線の動きは,鴨居上の万年筆が視界に絶対に入らないように動くことは,たとえこれを望んだとしても目を閉じない限り到底不可能であることを,余すところなく実証している。原決定の述べる「捜索の事情や条件」がいかにあろうと,本件万年筆が第1回ないし第2回家宅捜索時に本件鴨居上に存在していれば,捜査官の視界に入らないことは,目を閉じない限りありえないのである。2 中山武敏作成の調査報告書他について
家宅捜索時に,捜査官以外に現場にいるのは請求人の肉親だけであって,肉親が真実を述べることがないとするのは,予断的憶測以外の何ものでもない。本件においては,多数の肉親の供述があり,いずれも,記憶に残っていることを率直に述べている。その中で,一致しているのが,さほど広くない請求人宅を10人以上もの捜査官が2時間以上にわたって徹底して捜索を行った事実である。請求人の姉A・Hは,捜索していたE・Jが,Hを「犯人の家族」という露骨な眼差しで見ていたことを強烈な印象をもって記憶にとどめている。
3 細川律夫他作成の調査報告書他について
本調査報告書は,請求人方における本件万年筆を含む証拠品の捜索に従事した捜査官から直接弁護人らが事情聴取したもののうち,いずれも,本件万年筆が発見された請求人方お勝手の捜索に関わったと思われる捜査官にかかわるものを反訳添付したものである。
同調査報告書における被調査者のうち,第1回目の捜索(5月23日)に関わった捜査官はE・J,F・E,T・T,小島朝政であり,第2回目の捜索(6月18日)にかかわった捜査官はH・K,U・S,Y・M,H・E,T・T,小島朝政である。
とりわけ同調査報告書において,第1回目の捜索についてはE,T,Fの各供述により,本件万年筆が発見された問題の鴨居を含むお勝手を,いずれも同人らが各捜索している状況が証明されている。
そして,小島において「ふし穴」にボロなどがつまっていて,そこを第2回目の捜索の時に捜索した状況を供述している。特に同「ふし穴」は,小島において,同人の原第2審における公判廷供述でも「ふし穴」という表現をしており,その公判廷供述における「ふし穴」は,本件万年筆が発見されたのと同じ鴨居にあり,そこからわずか約15センチメートル位しか離れていない「ねずみ穴」と呼んでいる箇所であることを,同人がはっきりと指摘している。
以上のように,同調査報告書は,万年筆が発見された第3回目の捜索(6月26日)に先立つ2回の請求人方捜索において,きわめて徹底した捜索がなされたこと,本件万年筆が発見された場所は間違いなく捜索されたことを明らかにしており,そもそも第1回目,第2回目の捜索時に,本件万年筆は,請求人方には存しなかったことが証明されている。
その後,第3回目に,すでに捜索済みの箇所から本件万年筆が発見されたことは,本件万年筆が,何者かによって同所に置かれたことを明らかにしている。4 E・Jの各弁面調書について
E弁面調書は3通にわたるものである。平成3年7月13日付弁面において,Eは「当日は,朝早く警察の本部に集まり,上司からその場で順次番号をふって捜索場所を割り当てられ(た)」「割り当てられた捜索の場所は,いわゆるお勝手といわれるところで,あとでそのお勝手口の上の鴨居の所から万年筆が発見されて,大騒ぎになった場所である」「お勝手入口の上の鴨居の所にボロがつめてあったのを覚えている」「その場所を捜すのに踏み台のようなものを置いてその上に登り捜索しました」「ボロを取って中も捜しました」「穴の中には何もなく何も発見できませんでした」「そして,そのボロがあった鴨居のところにも手を入れたり見たりして,ていねいに捜しましたが何もありませんでした」「踏み台のようなようなものに乗って捜したので鴨居の中の奥の方まで見えますが,そのとき中を見ても何もありませんでしたし,手袋をした手でも,鴨居の部分をよく捜しましたが,何もありませんでした」「私達が捜したずっと後になって,私が今日お話ししたお勝手出入口上の鴨居のところから万年筆が発見されたと言われ,全くびっくりしました。発見されたところは私が間違いなく捜して,何もなかったところなのに本当に不思議に思いました」旨,供述している。平成3年12月7日付弁面でも同様の供述をするとともに,弁護人らの面前で,捜索状況を実際に再現しながら説明した。そして,平成4年5月6日付弁面では,「裁判所がきていただければ,いつでもお話しする」と言明している。
Eの供述が,確かな記憶に基づくものか疑問があるというのであれば,直接証人調べをすればよいのである。弁護人が再三,証人調べを要求したにもかかわらず,裁判所は頑なに拒否し続けた。現在,すでにEは死亡しているのであり,真実究明の努力を放棄した裁判所の姿勢は非難されるべきものである。
Eは一生を警察官として過ごしたのであり,元々訴追側の立場にあるEの供述が本件捜索から約28年を経過して行われたとしても,いささかもその信用性に影響を与えない。第1回の家宅捜索で自分が捜索した際に何も発見しなかったところから後に万年筆が発見されたのであり,本件が大きな事件であったこともあって,Eの脳裏に強く記憶が残っていたのは当然である。Eは,「捜索した時,私は頼まれごとではないので人より遅れをとらないよう一生懸命やったつもりです。これは大きな事件ですので,責任と自覚を持って間違いなくやりました」(平成3年12月7日付)として,刑事としてのプライドをもって,真剣に捜索したことを述べている。
確かにEは,弁面調書が録取された4年余り前の昭和61年10月には,脳血栓を患ったものの入院するほどではなかったことを弁解している。しかしながら,「古いことで忘れてしまった」ということばは,弁護人が突然事情聴取に訪れたことにたいする驚きと,なるべくなら話したくないということから発せられた逃げ口上に過ぎない。原決定がこれをことさら,記憶の不確かさに結びつけようとするのは,意図的な悪意としかいいようがない。5 本件万年筆と被害者万年筆との同一性について
原決定は,本件万年筆が被害者が携帯していた万年筆であるとする根拠につき,「被害者の兄N・K,姉N・T,学友Y・Tの第1審における各証言,被害者宅N方に保管されていた万年筆の保証書により,本件万年筆は,被害者の持ち物で,当時被害者が携帯して使用していた万年筆であると認められる」とし,「特に,兄N・Kの右証言によれば,本件万年筆は,昭和37年2月に,同人が,西武デパートで買って被害者に与えたパイロット製の金色のキャップ,ピンク系の色物のペン軸,金ペンの万年筆で,その後も,自宅で書きもの仕事をするとき,被害者から借りて使っていたことがあり,外観,インク充填の様式,捜査官から被害者の持ち物か確認を求められて試用した際のペン先の硬さ具合などから,被害者の万年筆に間違いないという」と判示している。しかしながら,試用した際の「ペン先の硬さ具合」等は,そもそも同一性を担保する根拠にはなりえない。同種の万年筆であれば,類似の「ペン先の硬さ具合」のものはいくらでも存在するのである。
被害者は,事件当日午前中のペン習字の授業時にライトブルーインクを使用していた。そして,ライトブルーこそ,被害者が通常使用していたインクであることは,級友の証言からも明らかである。しかしながら,発見時,本件万年筆にはブルーブラックのインクが在中していた。その不自然さこそきわめて重要である。従来の各決定が述べるように,被害者がペン習字の授業後にブルーブラックインクを入れたというのであれば,万年筆のスポイトの金属製様部分に被害者の指紋が付着し検出されるのが極自然である。しかしながら,本件万年筆から被害者の指紋は全く検出されていない。
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