部落解放同盟東京都連合会

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狭山事件特別抗告申立書補充書 17

          

第16 自白が請求人の無実を明らかにしている

1 はじめに

 本件は第1審において、請求人は自白を維持したまま推移し、控訴審に至って犯行を全面的に否認し、無実を主張し、以後多くの論点をめぐって論争がなされてきたことは、周知のとおりである。
 今この第1審における審理過程をみるとき、弁護人らは、請求人の自白にもかかわらず無罪を主張し、弁護活動を行ってきたのであるが、その内容は率直に言って自白にひきずられて全く充分なものとは言えず、個々の物証の収集過程の不自然さや鑑定書等の証明力の疑問に迫らず、とくに請求人の自白の不自然さや虚偽性について、被告人尋問の機会に厳密な検討を加えることをしないままで終わった。
 裁判所もまた、自白事件であることに拠りかかり、死刑という極刑を言い渡した事件であったにもかかわらず、自白内容自体の不自然さや補強証拠とされた物証や鑑定書、供述調書などの証拠価値の判断を正確にせず、結局自白中心の誤った有罪判決を下したものである。
 控訴審においても、弁護人らは数多くの新証拠を提出し、さらに精密な論議を展開したが、それにもかかわらず裁判所は、基本的には第1審判決を踏襲して控訴棄却の判決をした。
 以下、この控訴審判決(確定判決)の誤りや第1次・第2次再審棄却決定等の誤りを、その後弁護人らが提出した新証拠を中心にして具体的に明らかにするために論述する。

2 公判廷の自白

 先に述べたように本件は公判廷における自白事件として出発した。しかし本件は、「公判廷での自白」に重きを置いて審理されるべき事案ではない。請求人は保釈されず、物理的にも拘置所に勾留中であり、また心理的にも捜査官の拘束から逃れて自由を得た立場ではなかった。そしてこの問題とは別に、その自白の内容を少し検討してみるだけで、とうてい普通の社会人の常識を以ては理解しがたいストーリーの自白であり、自白自体が請求人の無実を明らかに示していると言えるものである。従って、自白は一般の自白と別異に扱われる価値はないもので、無実の請求人の自白であるから、確たる補強証拠も存在しないし、また、自白内容とそれぞれの現場の具体的状況がことごとく食い違っており、この面からも自白の虚偽架空性が証明されている。 

3 動機の非現実性について

 言うまでもなく、「動機」は犯意形成の源泉であり、また犯罪遂行の原動力・推進力である。従って本件における身代金要求のための誘拐という重大犯罪の動機は、それなりに充分世人を納得させるものでなければならない。
 この犯行の動機については、第1審判決では、罪となるべき事実の前に、
 「…埼玉県入間郡武蔵町高倉の、土建業Nk・MことTe・N方の土工をしていた当時の昭和37年4月頃から同年6月頃までの間に、軽自動車二輪2台を代金合計18万5千円で、月賦で買入れ、その修理費、ガソリン代の支払いを滞らせたり、月賦金を完済しない中に右軽自動車二輪車を売却または入質したことによる後始末のための負債がかさんだため、Nk方の土工をやめた後の同年9月頃、父富蔵から約13万円を出して貰ってその内金の支払いをした。そのようなことから被告人は家に居づらくなり、翌10月末頃から狭山市大字堀兼○○○番地の○養豚業Id・K方に住み込みで雇われ働いたが、長続きせずに約4ヶ月でやめ、昭和38年3月初頃自宅に戻ったのであるが、前記の如く父に迷惑をかけたことや、被告人の生活態度などが原因で、兄六造との間がうまく行かず、同人から家を出て行けと言われ、父富蔵も同人をかばって六造と仲たがいするなどとかく家庭内に風波を生ずるに至ったので、被告人は、いっそのこと東京へ出て働こうと思い立った。しかしそれについては、父に迷惑をかけた前記13万円を返さなければならないと思っていたところ、その頃たまたま同都内で起ったいわゆる吉展ちゃん事件の誘拐犯人が身代金50万円を奪って逃げ失せたことをテレビ放送等を見て知るに及び、自分も同様の手段で他家の幼児を誘拐し、身の代金として現金20万円を喝取したうえ、内13万円を父富蔵に渡し、残りの金を持って東京へ逃げようと考えるに至り…」
 と認定し、確定判決もこれに従っている。
 裁判所のこの動機に関する認定は、請求人の自白に基づくものであるが、第一に請求人が、果たして発覚・逮捕されれば重罪を課せられる危険を冒してまでこのような犯罪を実行せねばならないような切迫した金銭的窮地に追い込まれていたかどうかが、まず検討されなければならない。
 請求人の身代金要求についての自白は、三人共犯による犯行自白においての、被害者を仲間が殺害したあと、
 「これはしょうがねいから逃げべいや」
 ということになり、その逃亡資金としての金員の必要となったことが出発点である。脅迫状も、請求人は現場で字を教えられながら書いたことになっている。
 だが肝心の、何故そのような金が必要だったかについての自白は、変転を繰り返す。「競輪に使う金」のためなどと言っていたのが結局は、
 「オートバイの事でおとっつあんに7万円位出してもらい、その後オートバイの修理代や、ガソリン代も入れると全部で13万円位はおとっつあんに迷惑をかけていると思います。私が脅かしの手紙を書いて取ろうと考えたのもおとっつあんに迷惑をかけたその金を払ってやりたいと思ったからでした」
 という話に落ち着いた。
 判決の動機についての認定も、基本的にはこの供述に基づいてなされたものである。このようなことが誘拐・身代金要求の動機であるとすればその説明は余りにも理由薄弱であり、他の誘拐事件と比較するまでもなく、それだけで自白が非現実的なものであることを示すことは明らかであると言わなければならない。父親との金銭問題はどこにでもある、ありふれた家庭内の問題である。
 請求人に対し、父親からの返金の催促がやかましかったというようなことは何一つ証拠にない。本件のような犯罪を犯してまで、請求人に金の必要な切迫した理由など何もない。
 犯行の動機は、家に居づらくなり、「おとっつあんに迷惑をかけている」ことの解消のためというのである。しかし発覚逮捕されれば、自分自身が処刑されてしまうという親不孝はさておいても、家族ぐるみ世間の厳しい非難を浴び、現に居住する農村的な地域社会で生活を続けていくこともできなくなり、家族全員を不幸のどん底に突き落としてしまうことになる。若干の金銭を父親に立て替えてもらっている「迷惑」と較べものにならない破局をもたらす。
 このような成り行きは、請求人にも当然理解できることは明らかであるだけに、自白のような動機で、一か八かの本件のような犯行を犯すようなことは、世の常識から考えても到底あり得ないことである。
 また「東京への家出」についても、何処へ誰を頼って、どのような仕事につこうとしているのか、その当てはあるのか、についてなどは一切触れられていない。このような点をみるだけでも、「家出」を目的とする動機が、実体のない架空の物語であることは誰にもわかる筈なのである。動機がこのように変転することも問題であり、判決が認定する動機は到底受け容れることはできない。

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4 確定判決の認定した事実の不自然さをみるだけで請求人の無実は明らかである

 「犯行動機」が以上のように、極めて不自然・薄弱なものとなっているので、それを出発点とする事実認定も極めて奇妙かつ不自然なものとなっている。

(1)認定された事実

 認定された「罪となるべき事実」を要約すると、
 「5月1日午後四時頃の被害者との出会いから始まって、四本杉への同行。強姦と殺害。芋穴近くへの死体の運搬。穴への逆さ吊りのための荒縄等の用具の物色と調達。逆さ吊りのための作業。被害者の自転車に乗って脅迫状を届けるための出発。その途中での鞄・教科書・荷台のゴム紐・牛乳ビン等の投棄。自転車を納屋に置いた後の脅迫状の戸口への差し入れ。死体埋没用のスコップを窃取するためのId養豚場への立ち寄り。芋穴からの死体の引き上げ。穴への死体の投げ入れと埋没のための穴の埋め戻し。自宅へ帰る途中でのスコップの麦畑への投げ捨て。これらの作業を終え、請求人が自宅へ帰ったのは9時過ぎであったとされている。さらに請求人は、次の夜の零時10分頃佐野屋付近に行って、要求した身代金を受け取ろうとしたが、張り込みの捜査官の気配を察し、何も取らずそのまま逃走して家に帰った。」
 というのである。
 しかし、その認定はその内容を自白や証拠に照らして具体的に検討すれば、到底実際にあり得ない架空のお伽噺であることが誰の目にも明らかになるにもかかわらず、判決は認定を誤ったのである。

(2)あり得ない雑木林への被害者の同行

 確定判決は、請求人と被害者は午後3時50分頃、加佐志街道のX型十字路(出会地点)で出会い、
 「とっさに同女を山中に連れ込み人質にして、家人から身の代金名義のもとに金員を喝取しようと決意し、同女の乗っていた自転車の荷台を押さえて下車させたうえ、原判示の経緯(弁護人注・『ちょっと来い、用があるんだ』と申し向け)で雑木林に連行した。」(丸括弧内は弁護人)
 と認定している。
 出会地点から四本杉までは、約600メ−トルも距離がある。午後4時項はまだ日没まで3時間もある。加佐志街道や四本杉までの道路には通行人もあり、付近の農地では農作業も盛んに行われている時間帯である。
 このような場所・時間にたまたま出会った高校生を脅して抵抗を抑圧して誘拐するなど、犯人にとって危険極まりなく、また至難のわざであり、到底有り得ない話である。ピストルや刃物を突きつけて脅せばまだしも、脅しのため、多少の暴力を振るったとしても、抵抗されたり、辺りの人に大声で訴えたり、逃げられたりされることは必定である。このような自白は少し考えるだけで、その架空性は明白である。
 ましてや、被害者は「気の強い性格」で、体格もよく、ソフトボールの選手までしている人物である。
 請求人が連れて行く先には林があり、人通りは淋しくなる。被害者もこの辺の地理はよく知っている筈であり、性的な乱暴は容易に察知できる。一般に警戒心の強い女性が見知らぬ人に声をかけられ、600メ−トルの道のりをのこのこついて行くなどあり得ない。ましてや被害者は、そのような危険に敏感な年頃である。いずれの点をとってみても、被害者が要求に応じて素直について行くなど、到底あり得ない。
 しかも、請求人と被害者は見ず知らずの関係である。請求人の自白内容はそれ自体、架空のものであることは明白であると言わなければならない。
 請求人が被害者に向けた言葉は、「用があるからこっちへ来い」、「いいからこっちへ来い」などである。別に大きな声を出したり、恐ろしい顔さえしていない。山(雑木林)の入り口の手前で、「自転車を俺が持つよ」と言って自転車を請求人が持ったが、これは自転車を押さえておいて被害者に逃げられないために持ったのだそうである。また被害者に家や父親の名前を尋ねたところ、これに素直に答えたとも供述している。いささかも被害者を畏怖させるような言動ではなく、これでは全く合意による「道行き」であったとしか言いようがない。しかもこの出会いにも「道行き」にも一人の目撃者もいない。自転車をたとえ押さえたとしても、身の危険が予測できる被害者にとっては、何でもない。自転車など気に掛けず逃げてしまえばよいことである。本件を実行していない請求人による自白は、四本杉への被害者の連行についても、誰にも直ぐ見破れる現実性のないものであることは明白なのである。

(3)雑木林は犯行現場ではない。

 雑木林での犯行についての請求人の自白は、前記(2)の連行以上に複雑であるのでその架空性がますます露呈される。
 請求人の自白では、被害者を雑木林に連れ込んだのち、
 「身代金要求のため被害者の家へ脅迫状を届けにいくことをまず考え、被害者に目隠しをして松の木に縛ったが、急に姦淫することに気が変わって、目隠しはそのままにして、松の木から離して両手を後手にしばった。」
 旨供述している。
 松の木に被害者を目隠しをしてくくり付け、家に脅迫状を届けに行くというのも奇妙である。請求人が立ち去ったことを気配で感じた被害者が大声で泣き叫び助けを求めることは必至であるからである。雑木林に戻ってきた請求人が捕えられる危険は、誰もが予測する筈である。
 もっとも前記のような自白も、最初からのものではなく、多くの変遷を重ねている。
 当初の自白では、請求人が姦淫を迫ったがこれを拒否されたので、手拭いかタオルで被害者を後手に縛ったことになっている。しかし最終自白では、
 「縛るまえから、縛っておいて金目のものを取ろうという気持ちがあったと思います。」
 と当初からの金品奪取の目的が強調されている。このような変遷の過程を辿っていくと、犯人でない請求人が自白内容の不自然さを、取調官らによって次々と修正させられていく様子がよくわかる。しかし、どこまでいっても矛盾や不自然さを、解消させることはできないのである。
 雑木林の中の強姦・殺害の場所や方法についても、自白はつぎつぎと変わっている。
 最初の自白は、二人が雑木林に入ってすぐ請求人が被害者を押し倒し、強姦・殺害したことになっている。しかしすぐに変更され、松の木にくくり付けた被害者を松の木から解き放ったのち、後手に縛って強姦・殺害したとなる。その場所は、当然松の木のすぐ近くと考えられる。そして結局は、その場所が雑木林の一番北の杉の根元付近と変更される。
 場所移動の理由は、
 「松の木のところでは、その辺りに小さいカタ木がたくさんはえていたので、おまんこやるのに痛そうだと思ったので杉の方へ移ったのです」
 と検事調書で述べている。松の木の近くの地表がいかにも姦淫の場所として不適当であるので、請求人の供述が修正させられたのである。しかしこの杉の木は、被害者が声を立てれば、通行人にすぐに聞かれてしまう山道に近い場所にあり、この場所もまた姦淫にはそれ以上に不適当である。
 殺害についても、請求人の自白は変転している。請求人は自己の経験を語ることができないので、取調官の言うがままになっている姿がここでも浮き彫りになっている。
 殺害の方法についても、請求人の自白は、
 「被害者を自分の右手で首の上から押さえつけ締めながら姦淫し、気がついてみれば被害者が動かなくなり死んでいた。」
 と述べている。
 第1審判決は、自白の「扼殺説」をとっている。これに対し確定判決は、死因が扼殺による窒息であることは疑いないとしながらも、請求人は、
 「被害者の死を確実ならしめようとして、細引紐で絞頸したものと判断せざるを得ない。」
 とし、請求人は、
 「細引紐の出所はもとより、被害者の頸部に細引紐を巻きつけたことを、情状面において自己に不利益であると考えて否認しているものと認めざるを得ない。」
 とまで、何らの証拠に基づかずに認定しているのである。独断と偏見もきわまれりと言うほかない。
 しかし、そもそもこの細引紐は自白では、雑木林での犯行段階では請求人はまだ入手していない物なのである。死体を芋穴近くへ運んだ後、近所を物色し、荒縄と共に入手したことになっている。「被害者の死を確実ならしめるため」に使用したというのであれば、請求人がそれを何処で入手し、どこで使用したのかを、証拠に基づき明確に認定しなければならないことは言うまでもない。これに一言も触れない確定判決の認定のお粗末さには、呆れて言うべき言葉もない。
 また、もし強姦・殺害の現場が雑木林内であれば、その犯行の痕跡、犯人の遺留品等の証拠がここから発見されない筈はない。
 死体を解剖した五十嵐医師の鑑定書の添付写真には、被害者の後頭部には頭皮損傷があり、「皮膚創口は柳葉状にタ開(※タは漢字「口」偏に「多」、「口多」)しその大きさは約1.3糎長、約0.4糎巾、創洞の深さは帽状腱膜に達し」と同医師が記載している。また、「創底並びに創壁には凝血を存す」との記載によっても明らかなように、この傷から出血があったことは明白である。しかし、写真で見るかぎり、傷の部位は後頭部の出っ張りよりも上の頂上部付近にあり、被害者を地面に押し倒したとの自白のとおりの原因で生じたと考えられる場所とは違う。
 前記の写真の傷痕からは凝血以外の血痕を観察することはできないが、これは傷を確認し、その大きさを測定するに先立って泥にまみれた頭髪を剃るために頭部を水洗いしたためと考えられる。
 一般に頭部外傷は、他の部位のそれと較べて出血が多いとされていて、生活人の常識でもある。法医学書をみても「頭皮には血管が多いため、開放性損傷においては出血量が多い(金芳堂刊、若杉長英著法医学第4版34頁「鈍器による頭部損傷2頭部外傷の特徴と法医学的重要性」)とされ、これ以外の法医学書にも同様の記載がされている。
 出血が多い原因は、「頭皮の血管は皮下結合組織の中を走り、外頸動脈の分枝として浅側頸動脈、後耳介動脈及び後頭動脈などが頭部を包むように分布している(金原出版社刊、4第1部編「現代の法医学」71頁注)ためであり、「頭皮は他の部分の皮膚と比べて血管に富んでいる。そのため出血量が多く短時間で多量の出血を起こす。」と同書にも記載されている(同頁)。
 しかし、この雑木林からの被害者の血液痕についての報告書は、これまで一切開示されていない。もしここが犯行現場であれば、捜査の常道からみて、捜査官たちは雑木林の全体についても、綿密にルミノール反応検査などを行ったことは間違いない筈である。
 そこで弁護人らは、第2次再審の審理中に担当の会田正和検事や、埼玉県警鑑識課検査技師松田勝等に面談し、雑木林の中で検査を実施したか否か、したとすればその検査報告書は存在しているかについて、直接の回答を求めた。その結果両氏の回答によれば、「ルミノール反応試験は、自供によって被害者を後手に手拭いで縛ったと思われる松の木の幹において実施したが、何の反応も得られなかったので報告書を作成しなかった。又自供による強姦場所と思われる個所についてはルミノール反応を実施せず、従って報告書の作成もなかった」とのことであった。しかしながら、このような両名の回答は、それ自体奇異なものである。
 すでに死体が掘り出され、手拭いで後手に縛った被害者の両手首の手拭いは解かれているのであるから、これを一見すれば、何ら手首付近に外傷はなく、出血もなかったことは捜査官にとってはすでに明白なことであった。従って手首付近からの出血の有無を松の幹に求めても、本来血液痕を検出できる筈はなく、検査自体がそもそも無用の試みであった。そしてしかしまた、検査が真実なされたとすれば、血液痕が出なかったとしても、報告書においてその旨を記載しておくのが捜査の通常の手法であり、記録も残さないというのは、あり得ないことと言わなければならない。
 さらに奇怪なのは、殺害現場とされた場所付近でも、ルミノール反応の有無についての試験は一切せず、従ってこれについて報告書は存在しないという回答である。強姦場所で、被害者の頭部からの出血が疑われる場所で、検査も実施しないという捜査があろう筈がない。検査官らはこのように答えることによって、報告書の存在の有無を弁護人らに秘匿しているものと考えざるを得ない。
 さらに言えば、後に述べる現実にはあり得ない請求人と被害者との道行きの奇妙さや、雑木林から両者の遺留品とみられる証拠物が何一つ発見されなかったことなどからみて、捜査官たちも雑木林を犯行現場とは心底から考えておらず、その結果、先に述べたような、およそ考えられない粗雑な捜査や検査となったと考える方が納得的である。
 さらに本件捜査の奇妙さについて言えば、本件捜査においては、自白内容に即して現場で被疑者に具体的に犯行態様を説明させておいて、これを録取する、いわゆる「引き当り」が一切なされなかったことも、極めて異例である。
 この点について捜査官は、「引き当り」を実施すれば、多数の報道関係者が集まって混乱を招くことを、しなかった理由にあげている。しかし、本件のような重大な犯罪事件の場合において、引き当りをするのが通常である。
 自白どおりの犯行が、被疑者によって現場で再現できるかどうかを捜査官が確かめて、被疑者の自白の信憑性を検証し、これを証拠として裁判所に提出するのが常道であって、このような言い逃れは何ら理由がない。真実は、捜査官らは取調べの過程から請求人が真犯人ではないという疑いを強く持っており、報道関係者の見守る中で「引き当り」を行えば、請求人は説明に困り犯行の再現をさせることが不可能になり、それを報道関係者に見られてしまうことに強い危惧を抱いたため、これを行わなかったものと考えるほかない。雑木林での犯行は、そもそも架空だったことを捜査官たらは知っていたと考えざるを得ない。
 なおまた、自白による雑木林での犯行当時、犯行場所から約20メ−トルしか離れていない下の畑の中で、地元の農夫O・Tが作物の除草剤撒布作業に従事中であった。犯行現場からもO・Tの作業場所からも、確たる遮蔽物もなく、また被疑者が声を発すればO・Tがすぐに気がつく位置関係にあった。このような場所で強姦の犯行を企てることを誰が考えることができるであろうか。このことも、請求人の自白が架空であることを示す重要な事実と言わなければならない。

(4)どこの誰とも決めずに実行された誘拐事件の不思議

 請求人の身代金要求についての供述は、「三人共犯」による犯行自白において、被疑者を請求人以外の共犯が殺害したあと、「これではしょうがねいから逃げべいや」ということになり、逃亡資金が必要となったことが出発点である。脅迫状も現場で字を教えられながら請求人が書いたことになっている。
 しかし、これでは請求人の自白によると、脅迫状の宛名が「少時様」が「N江さく」に、本文の一部が「前の門」を「さのや」に変更されていることなどの説明がつかない。そこで自白は、5月1日以前から身代金を奪う計画が請求人にあり、脅迫状も事前に準備されていたことに変更される。請求人の自白によれば、脅迫状の封筒の宛名を、「少時様」を「N江さく」に訂正している。
 請求人の自白では、「少時様」をとくに誰を誘拐の対象とも決めずに書いたが、被害者を姦淫・殺害したのち、その家族から身代金目的で金をとるために訂正したというのである。
 しかし、誘拐して身代金を奪うという犯罪は、事前に多くの点についての具体的手順の決定や、そのための準備が必要なものであることは言うまでもないであろう。例えば、
 @ 対象となる人物を、どのようなことを重点に選定するのか。
 A 対象となる人物の日常行動の把握。
 B どのような機会に、どのような方法で危険なく誘拐することが可能かの検討。
 C 誘拐した人物を身代金をとるまでどのように扱うか。
 D 殺害をしておいて、生きたまま身柄を確保しているように装って金を要求するのか。
 E その際の死体の処理の方法。
 F 生かしておく場合も、他人に気付かれることのない監禁場所をどこに選定するのか。
 G 誘拐した者の逃亡防止策をどのように講ずるのか。
 H 家族等への金の要求の方法をどのようにするのか。
 I 身代金を安全に受け取る具体的方法。
 等々が事前に決められていない犯行などあり得ない。
 この点からだけでも請求人の自供の架空性、というより荒唐さは明らかであろう。請求人は犯人ではないから、誘拐計画に必要な具体的な点については、脅迫状を書いたという点を除いては、一片の説明もできないのである。また誘拐対象を定めておらずに、何故「少時様」と書いたのであろうか。当然宛名は空白にしておく筈である。とくに「少時」という姓が(仮にそれが姓であったとしても)ありふれたものではなく、稀少なものにもかかわらず、請求人はこの点についても何の説明もできない。
 「少時」だけでなく、金を持ってこさせる日時・場所までも特定してあるので、脅迫状を書いた犯人は、実在の特定人物を対象として、具体的な犯行計画の一環として、これを書いたと理解するほかない。捜査官たちもそのような見解のもとに請求人に供述を迫ったと考えられる。
 たまたま請求人の知人のKkという家の近くに、Et・S司という人が実在し、その子(幼稚園児)を請求人が誘拐の対象としたのではないかとの捜査官の追求に対しては、請求人は一貫して「関係がない」と否認しており、それが「S司様」の子供であったとの証拠はまったくない。
 身代金奪取の日が、4月29日(脅迫状の記載は29日であるが、捜査官らはこれを28日と誤って読み、28日と誘導して請求人に供述させた)となっていたのであれば、誘拐実行の日であるとみられるその前日頃にはその準備のために、請求人は何らかの準備の行動に出た筈であることが容易に想像できるのであるから、捜査官らはその点を当然追求すべきであるが、記録上はその形跡が一切ない。
 捜査官らも脅迫の対象となった具体的個人の特定についての供述を請求人に求めても無理だと判断して、現実にはあり得ない「誰とも決めないで」脅迫状を書いたが、これをたまたま出会って殺害に及んだ被害者の父親に振り替えたことにして自供させたのである。
 しかし、誘拐の対象を誰とも決めないでということと、脅迫状を事前に作成し名前を書くことは、誰がみても両立しない矛盾した事実である。
 脅迫状や封筒の宛名は、はじめは「少時様」と書かれ、のちに「N江さく」に訂正されていることは、自白上の事実であるが、何故このような記載がなされたのかは請求人でない真犯人のみが説明できる事実である。
 しかし確定判決はこれらの事情を無視して、請求人はその真実を知っていたが、「とぼけている」として請求人が犯人だとする認定をしたのである。しかも齋藤鑑定によって、実際は「N江さく」が先に書かれていたことが明らかになってしまったので、自白のストーリーの架空性は決定的に明らかとなっているのである。
 この確定判決の請求人が「とぼけている」との判断は、何らの証拠によらない判断であり、典型的な予断と偏見に基づいたものと言わなければならない。およそこのような認定は、「事実の認定は証拠による(刑訴317条)」という刑事裁判の基本原則を踏みにじるものであることは明らかである。
 確定判決はどうしてこのような矛盾ばかりの現実にあり得ない供述しかできない請求人に対し、素直にそれが犯人ではないから合理的な説明ができなかった、請求人は無実であると判断しなかったのか、予断丸出しの驚くべきことと言わなければならない。

(5)死体の運搬について、

 自白の架空性を物語る事実はまだまだある。
 請求人の自白によると、被害者を杉の木のところで強姦・殺害したのちそこから約20メ−トルも離れた檜の木の下で、被害者の家ヘ脅迫状を届けて身代金を取ることや、一旦穴ぐらに死体を隠しておき、最終的には土中に埋没してしまうことなどを考えたとのことである。
 しかし、山道に近い杉の木のところに死体を転がしたままにしておき、すぐそばの山道には、女性用の自転車が置かれたままの状況は、通行人があれば何事かの異常があることにすぐに気付かれる可能性が大きく、請求人にとって危険である。死体をそのままにして30分間も放置しておくことは無警戒すぎると言わねばならない。
 芋穴に死体を隠す行動に移ろうとしたのは、
 「あたりが薄暗くなった頃ですから、大体午後6時頃と思います。」
 と供述している。人の気配が次第に少なくなり、暗闇が迫ってくるこの時間に、わざわざ200メ−トルも離れた芋穴付近に死体を運び、死体を芋穴に吊るして隠す必要があるのだろうか。時間の経過とともに、死体を隠さずとも、人に発見される可能性は少なくなってくるのである。
 「死んだYさんを頭を私の右側にして、仰向けのまま私の両腕の上へのせ前へささげるようにして、そこから40米から50米位はなれた畑の中の穴ぐらのそばまで運びました。」
 という死体運搬は、犯人にとってはもしその途中で人に見られるようなことがあれば、そこで万事休すの危険な作業である。午後6時頃といえば、5月1日では降雨の状況にあったといえ、まだ辺りが充分に見渡せる時間帯であり、人に発見される危険性は大きい。
 犯人の立場にたって考えると、運搬作業に入る前にはどうしても一度あたりの情況を確認するため、芋穴付近まで事前に偵察するという行動が不可欠であることが、誰にも容易に理解できるであろう。しかし、請求人の自白にはこのような点が一切述べられていない。犯人の心理を考えるとあり得ない話である。
 請求人の自白内容で、芋穴までの距離を実測では200メ−トルもあるのに、40〜50メ−トルと述べている点も重要である。自白のような方法で、体重54キログラムもある被害者を運ぶ困難姓を考えると、この距離の点についても、実際とはかけ離れた供述しかできないことも、請求人が本件の犯人でないことの具体的な証拠になるのである。
 また請求人の死体運搬についての供述は、前述のような内容で何の困難もなく行われたことになっているが、実際は当再審において提出した再現実験報告書でも明らかなように、何度も途中で休まなければ不可能なのである。この点も再現実験の結果を待たずとも、およそ普通の社会生活をしている者には自明なことであり、自白内容それだけでその架空性は明らかであったのである。
 総じて、強姦・殺害や死体運搬を含めて請求人の自白には、犯人としての現場状況に応じた警戒心を少しも感じることができない。このことも自白の架空性、請求人が犯人ではあり得ないことを示す重要な証拠である。

(6)玉石と荒縄、死体の埋没状況と自白の決定的な不一致

 請求人の自白は、死体埋没のための穴をスコップで掘ったあと、
 「穴の中へYちゃんを落としました。…それからYさんを吊るしておいた縄はその侭くっつけたままで埋めました。」
 と述べている。
 しかし、荒縄の状況を「実況見分調書」の現場写真8号などで見ると、上記の状況とは全く違っていることがよくわかる。実際は「実況見分調書」を作成した大野喜平が、
 「被害者着用のスカートの一部および死体に巻きつけられていた荒縄の一部が出た状況」
 と説明しているとおりである。
 荒縄は「死体にそのままくっつけ」てあったのではなく、「巻き付けられ」てあり、請求人の自白内容はここでも事実と大きく食い違い、その虚偽架空性をはっきり示している。
 「巻き付けられていた」という大野喜平の表現が必ずしも正確でないにしても、死体発掘時の荒縄の状態がもっとよく観察できる。現場写真10号でよく観察してみると、その複雑なからみ具合や、とくに頭の外周りをよく取り巻くようにかかっている状態からみても、絶対に「そのままくっつけて埋めた」ものではないことがよくわかる。上記写真10号で見るかぎり、縄は横たえられた被害者の上に頭から足にかけてできるだけ万遍なく表面を覆うように置かれており、また現場写真11号では、穴底の被害者の顔が地面に直接触れるのを避けるように、ビニ−ル片が敷かれてあったことが写されている。埋没に際して、被害者の顔に土が直接接触することを極力避けようとしていることが見られ、犯人が死体に対する特別の配慮を払っていることが示されている。行きずりの犯行ではなくて、犯人と被害者の何らかの人間関係の存在を窺わせるもう一つの事実である。荒縄の写真は自白のように、「そのままくっつけたまま埋めた」というようなものでは絶対にないことを示しているのである。
 確定判決やその後の再審棄却決定は、この点についても弁護人の主張を無視したままである。事実を無視すれば、恣意的にどのような判決も書けるが、それがおよそ判決の名に値しないことは多言するまでもないであろう。
 なお、玉石については別の個所で、さらに詳しく述べておいたのでそれも参照されたい。

(7)脅迫状のN家への差し入れについて

 請求人は自供によれば、最初は被害者を松の木に縛りつけ、目隠しをしたまま脅迫状を被害者の家に届けようと考えていた。しかし、このような自白内容の不自然さについては、すでに指摘したとおりである。
 被害者殺害後は、一旦芋穴に死体を隠した後、死体を最終的に埋没するまでの間に脅迫状を被害者宅に届けることに変更し、実際にそれを行ったとされている。
 しかし、犯行の継続中に、また脅迫状を届けたN家の比較的近くの場所で、芋穴から死体を引き上げたり、農道に埋没したりする行動を残している最中に、姦淫・殺害をした当の本人が脅迫状をわざわざ自身が届けたり埋没用のスコップを取りに行ったりすることは、極めて危険なことである。
 家人による脅迫状の発見によって、直ちに警察に通報され、大規模な捜査網が張られ、不審な行動をとる犯人が捕まる危険は大きい。誘拐犯は自らの身を安全な場所においてから、身代金要求の通知をするのが通例であり、本件のような場合は極めて異例であり得ない行動である。
 ましてや、犯人自ら本件のような、男性が普通には乗らない被害者の女性用自転車に乗って、近所に被害者の家を尋ねながら、脅迫状を届けるということはあり得ない。家人が、もし家から出てくることがあれば直ちに怪しまれ、その場で捕らえられてしまう。また、後をつけられてしまう危険性も明らかである。見馴れぬ人物が被害者の自転車に乗って家の近くに来るだけで、近所の人にも不審に思われる。被害者の家はとりわけ堀兼の集落の中なのであるから、危険はなおさらである。請求人のこの点に関する自白も、有り得ない虚偽架空のものと考えるのが健全な判断である。

(8)ビニ−ル風呂敷と木綿細引紐

 請求人の自白の架空性は、以上述べたことのほかにも、芋穴から発見されたビニ−ル風呂敷、死体の首と足首にくくられた木綿細引紐についての供述にもっとも集約的にあらわれている。

 @ ビニ−ル風呂敷

 請求人の自白は、被害者の死体を芋穴近くに運んだ後の行動についてまず、
 「Yちゃんの両足を開かないように、ビニ−ルの風呂敷でしばったように思います」という。それから、脅迫状の封筒の宛名を「N江さく」と、また内容を「門の前」とあったのを「佐野屋」に訂正したとされている。その後請求人は、薄暗くなるまで待ったのち、「50米位はなれた北側の新築中の家の周りにはってあった縄と梯子のそばに置いてあった麻縄のような縄を取ってきた」
 と供述している。「麻縄のような縄」が本件で「木綿細引紐」と呼んでいるものとされている。
 なお、死体を吊り下げたという芋穴には、被害者のものとされているビニ−ル風呂敷と得体の知れぬ棍棒が発見されただけで、当然存在しなければならない被害者の血痕や、穴の壁面や底に作業に伴う擦れ跡など全く残っていない。また、復元力のない死体の足首のところに、吊り下げ吊り上げによって必然的に残らなければならない傷痕もない。芋穴への逆さ吊りも、また架空と断言できる。
 棍棒については、請求人が何のために使ったのか、どのような機会にそれが芋穴の底に落ちたのか、またビニ−ル風呂敷も、請求人の自白の虚偽架空性を明らかに示す重要姓がある。
 ビニ−ル風呂敷はさきに述べたように、被害者の死体を芋穴の近くに運んだのち、両足が開かないようにこれを縛る目的で使用されたという。しかしそのまま放置しておいても、死後時間を経た死体がひとりで動き両足を開く筈はない。請求人の自白によると、次に予定していたのは、縄などをとってきてからの芋穴への逆さ吊りであるから、ビニ−ル風呂敷で両足をくくる必要があったとは到底考えられず、両足を縛るという自白の意味を理解することは不可能である。
 ビニ−ル風呂敷は、一旦ほどかれたのち、死体の逆さ吊りに際して、
 「Yちゃんの足をしばる時に足してつないで使いましたが、切れてしまったので私がポケットに入れておきました。」
 と使用の目的が説明されている。
 しかし、ビニ−ル風呂敷の二つの端は切れており、切れ端は足を縛った細引紐の結び目に通されたまま発見されている。そして請求人はこの点について、
 「ビニ−ル風呂敷を使おうと思って縄につなぎ、Yちゃんの足に巻いて強くひっぱったら切れてしまったのです。」
 と供述している。
 弁護団の実験によると、このような状況で、ビニ−ル風呂敷が切れるには、平均53キログラムの荷重が必要であることが明らかになっている。単純に強く引っ張った程度で切れるようなしろものではないのである。
 ビニ−ル風呂敷を強く引っ張って切れた場合は、必ず塑性歪が永久に引っ張った方向に残ることになる。しかしビニ−ル風呂敷にも、切れ端の方にも、このような歪みは少しも見られない。このような切れ方は、刃物で切断されたものであることを強く物語っている。自白の虚偽架空性がここにも示されている。なお「実況見分調書」にも、ビニ−ル風呂敷の対角がそれぞれ「不整形に切られている」と記載され、写真にもそのように写っている。
 ビニ−ル風呂敷は、被害者を殺害した場所のすぐ近くの山道に置いたままにしていた被害者の自転車の前輪のところの荷台かごにあったことになっている。しかしこのビニ−ル風呂敷をいつ、何の目的でとって、芋穴近くまで持ってきたのかについても、請求人の供述は曖昧のままである。結局は、
 「何のためにこのビニ−ルの風呂敷を取って来たのか思い出せません。」
 で終わっている。
 しかし、取るに足りないビニ−ル風呂敷を殺害の後、わざわざ荷台かごから取り出し、芋穴の近くまで持ってくるには、予めそれなりの目的がなければならないことは明白である。
 そしてビニ−ル風呂敷の切れ端の二片は現実には、足のところの木綿細引紐の結び目に通されている。
 しかし、死体を逆さ吊りに使うために持ってきたとすれば、これまた説明ができない。請求人は雑木林の中にいて、逆さ吊りの荒縄も木綿細引紐も見つけ出し手にいれていない段階で、ビニ−ル風呂敷を被害者の足首に直接結び付け、これを細引紐に結び付けようなどと発想し得る筈はないからである。
 また荒縄や細引紐を手に入れた後であれば、細引紐の丈夫さはビニ−ル風呂敷以上であることは常識であるので、わざわざ足首と細引紐を繋ぐため、ビニ−ル風呂敷を自転車置き場に取りにいくなど、なおさらあり得ないのである。ビニ−ル風呂敷は、請求人が使ったという自白の目的以外に使われたことは間違いなく、本件犯行が請求人の自白する雑木林以外で行われたことを窺わせるものなのである。その真相は犯人でなければ説明できないが、いずれにしても、請求人の犯行に関する自白の虚偽架空性を示しているのである。おそらく捜査官も複雑な現場の死体状況からは、犯行の経緯を整然と解明することができず、請求人に合理的な自白のガイドラインを示すことができなかったため、混乱をきわめた自白調書しか得られなかったというのが当たっているであろう。ビニ−ル風呂敷の使用について、何ら具体的に請求人が供述できないことも請求人が犯人でないことを物語る重要な事実なのである。

  A 木綿細引紐

 木綿細引紐についての請求人の自白についても同様である。
 請求人は、死体逆さ吊りのために、縄を近所から取ってきたが、荒縄は、
 「長さは長いもので5米位、短かいもので3米位ものをむすんでつないでありました。」
 「そのそばの梯子のそばに麻縄のような縄が落ちていたからそれも取りました。その長さは大体3米位でした。」
 と供述している。請求人は一貫して麻縄と表現しているが、これは木綿細引紐を指すと考えるほかない。しかし、現実には麻縄と木綿の紐では手触りも扱いも大いに異なり、請求人の生活状況からみて両方が混同されることは絶対ない。この点からも、請求人が犯罪実行者ではないことがわかる。
 木綿細引紐の使用方法についても、請求人は、
 「ビニ−ル風呂敷が切れてしまったので、私は拾って来た2本の内1本へ麻縄の端をしばりつけ、麻縄のもう一方の端をもう一本の縄へしばりつけました。そうすると結びめが二つ出来ますがその結びめを二つ一ケ所に揃えると麻縄は二重になってその先が半分の輪ようになります。……半分の輪のようになった麻縄の間へ揃えた二本の縄を通すと出来るからその中へ善枝ちゃんの両足を揃えて入れて輪を小さくするとしっかり緊がります。」
 と供述させられている。
 この供述でみるかぎり、細引紐を近所の家から請求人が取ってきたのは、約3メ−トルの長さのもの1本である。
 しかし死体発掘現場における死体の状況を記載した「実況見分調書」によれば、木綿細引紐は同じ太さの首に絞めてあった1.45メ−トルのものと両足を縛った2.6メ−トルのものの2本が死体に付着していることが報告されており、請求人の先の供述とは長さが異なっている。
 特に、首に巻かれた細引紐については、請求人はこれに触れた供述など何もしてないのである。請求人の供述によれば、もともと1本であったものが何故2本もあるのか、2本に切り分けたのなら(請求人によれば、取った紐の長さは約3メ−トル、死体の紐は2本合わせると4メ−トルと食い違う)それはいつ如何なる必要のために、又どのような方法で(刃物による以外にない)1本を2本に切り分けたのか、などを確定することは、本件犯行の実態解明に極めて重要なことである。
 しかし請求人は、この点についても何ら供述していない。請求人が刃物を所持していた、という証拠はどこにもない。請求人の自白の架空性は、従って請求人が真犯人でないことは、この重要な事実に何一つその自供内容が触れることができないことだけで明らかなのである。
 ちなみに言えば、確定判決は、五十嵐鑑定のみならず弁護団の提出した上田鑑定をも、その一部を恣意的に援用して、
 「被告人は被害者の死を確実ならしめようとして、細引紐で絞頸したものと判断せざるを得ないのであって、被告人がこの点について否認するからといって被告人が犯人ではないとはいえないのである」
 と判断している。
 しかし、請求人の自白に従って本件の犯行の経過をみると、雑木林の中で被害者を扼殺してから芋穴へ死体を運んで来るまで、すでに数十分の時間が経過している。その間の死体の状況は、請求人がつぶさに観察しているところである。芋穴近くで「死を確実ならしめる」必要を感じたり、決意することなど、まったくあり得ない状況であることは明白である。そのための用具をわざわざ探しに行くなど、まったくあり得ない。確定判決のお粗末さは、この点だけからも誠に呆れ果てたことと断定できる。
 被害者の首に巻き付けられた木綿細引紐の出所や、その具体的使用方法・使用場所は、真犯人のみが知るが事実であり、素直に考えれば、この細引紐は本件犯行が雑木林ではなく他の場所で、全く請求人の自供するのとは別の態様で実行されたことを物語る、明らかな物的証拠なのである。

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5 予断と独断の確定判決

 以上述べたとおり、請求人の自白が虚偽架空であること、自白と現場状況が一致しないこと、犯行の核心部分に証拠が存在しないこと等が明白であるにもかかわらず、確定判決はこれらの点を無視して、有罪判決を下した。
 判決を通してみられるのは、裁判所の予断と独断である。しかも判決はそのことを正当化しようとして、次のとおりの意見を開陳しているのである。
 判決は「第3事実誤認の主張について」の「事実誤認の主張1について」のところで、弁護人らの、
 「被告人の捜査段階における自白には、その間に数多くの食い違いがあること、もし犯人であるとすれば当然触れなければならないはずの事柄について知らないと述べ、供述に多くの欠落があること─その最たるものは、被害者の首に巻かれていた木綿細引紐について何ら触れられていないことである─及びこれらの供述と客観的証拠(証拠物・鑑定結果その他信用するに足りる第三者の証言等)とが食い違っている。これは、捜査段階において、被告人が体験しない事柄について、捜査官の方で他の証拠等から組み立てた被告人とは無関係な事件に合わせて被告人の供述を誘導したからにほかならない。」
 という主張に対して、
 「被疑者や被告人が捜査官や裁判官に対して述べるのは、神仏や牧師の前で懺悔するようなものではない。否、懺悔にすら潤色がつきまとうものであって、これこそ人間の自衛本能であろう。大罪を犯した犯人が反省悔悟しひたすら被害者の冥福を祈る心境にある場合にすら、他面において死刑だけは免れたい一心から自分に不利益と思われる部分は伏せ、不都合な点は潤色して供述することも人情の自然であり、ある程度やむを得ないところである。しかるに、所論は自白とさえいえば、被疑者や被告人は事実のすべてを捜査官や裁判官に告白するものだ、これが先験的な必然であるというかのような独断をまず設定したうえで、そこから出発して被告人の供述の微細な食い違いや欠落部分を誇張し、それゆえ被告人は無実であると終始主張している。これは全く短絡的な思考であって誤りであるといわざるを得ない」
 と述べ、裁判所は、「事実誤認」の存否を判断するための基本的態度として、裁判所は「憲法に適合した法令の従僕であるとともに証拠の従僕でもなければならない」としながらも、
 「実務の経験が教えるところによると、捜査の段階にせよ、公判の段階にせよ、被疑者若しくは被告人は常に必ずしも完全な自白をするとは限らないということで、このことはむしろ永遠の真理といっても過言ではない。殊に現行の刑事手続においては、被疑者ないし被告人にはあらかじめ黙秘権・供述拒否権が告知されるのであり、質問の全部または一部について答えないことができ、答えないからといってそのことから不利益な心証をもってはならないという趣旨であって、もとより虚偽を述べる権利が与えられるわけではない。また、実務の経験は、被疑者または被告人に事実のすべてにわたって真実を語らせることがいかに困難な業であり、人は真実を語るがごとくみえる場合にも、意識的にせよ無意識的にせよ、自分に有利に事実を潤色したり、意識的に虚偽を混ぜ合わせたり、自分に不都合なことは知らないといって供述を回避したりして、まあまあの供述(自白)をするものであることを、常に念頭において供述を評価しなければならないことを教えている」
 と述べている。
 もちろん、弁護人らも被疑者や被告人が常に真実のみを物語るものであるとは考えていない。しかし重要なことは、裁判所が「実務の経験」が教えるところとして述べている、被疑者や被告人が嘘をつくのをたまたま経験したことが仮にあったとしても、それを絶対化してはならないということである。裁判は個々別々のものであって、裁判所は予断に陥ることなく虚心に被告人の述べることを聴く態度を最も心掛けるべきであることは、言うまでもないであろう。裁判所はどうして一貫性や脈絡のない、また重要な点で欠落の多い供述をみて、被告人は本当は犯人ではないのではないか、と考えないのであろうか。
 さらに裁判所は、
 「そもそも、刑事裁判において認識の対象としているものは、いうまでもなく人間の行動である。人間の行動は、その感覚や思考や意欲から発生するものであり、その発現の態様は我々自身が日常自らの活動において体験するところと同様である。この一般的な経験則を根底に持っている人間性は同一であるという思考が、過去の事実の正しい認識を可能にする原理であって、人が人を裁くことに根拠を与えている刑事裁判の基礎をなすところのものなのである。過去の人間行動(事実)はただ1回演じられてしまって観察者の知覚から消え去った後は、記憶の影像としてのみ残るに過ぎない。しかも、その観察者の知覚・表像・判断・推論を条件付ける精神過程は極めて区々であるうえに、さきにも触れたように、人間は意識的・無意識的に自己の行動を潤色し正当化しようとするものであることをも考え合わせると、このような不確実と思われる資料(証人や被告人の供述など)を基礎として、確実な認識を獲得することはなかなか困難な作業ではあるけれども、しかし、それらの互に矛盾する資料であっても、その差異を計算に入れて適切な批判や吟味(この思考過程は直線的でなく円環的であり、弁証法的なものである。分析的であるとともに、総合的なものである。)を加えるならば、かえってそれ相当の価値ある観察が可能なのであり、このことが刑事裁判における事実認定の基礎であるとともに、控訴審である当裁判所が事後審として原判決の事実認定の当否を判断することを可能にする根拠でもある。そして、この心的過程は、窮極的には、裁判官の全人格的能力による合理的洞察の作用にほかならないのである」
 とも述べている。しかし端的に言って、ここで何を言おうとしているのか全く不明確で、甚だしく理解に苦しむ。「円環的」とか「弁証法的」とか言う言葉は些かならず衒学的で、自己陶酔的な筆の走りとみられる。
 そして、結局前記のような実体のないおおげさな表現は、つぎに述べる証拠を無視した事実認定を正当化しようとするためのものであることがすぐに判明する。
 このことがもっと端的にあらわれているのが、木綿細引紐についての認定である。判決は、請求人が木綿細引紐について具体的に何一つ述べていないにもかかわらず、
 「ところで、被告人は取調べに当たった検察官に対して死体の頸部に巻き付けられていた細引紐については記憶がないといって否認の態度をとり、原審公判廷においてもこの点について何も供述していない。しかし、先に触れたように、被告人は捜査段階において真相を語らず、又は積極的に虚偽の事実を述べていることを考え合わせると、被告人は細引紐の出所はもとより、被害者の頸部に細引紐を巻きつけたことを、情状面において自己に不利益であると考えて否認しているものと認めざるを得ない。そうだとすれば、両鑑定の推認しているように、被告人は被害者の死を確実ならしめようとして、細引紐で絞頸したものと判断せざるを得ないのであって、被告人がこの点について否認するからといって被告人が犯人ではないと言えないのである。」
 と認定している。
 しかし、請求人は細引紐については一貫して具体的な供述をせず(なし得ず)に終始しているにもかかわらず、これを逆に「捜査段階で真相を語らず」とか、「積極的に虚偽の事実を述べている」「とぼけている」と一方的に決めつけ、これを根拠にして「細引紐の出所や、頸部に巻き付けたことは情状面に不利益であると考えて否認している」と認定するのは、余りにも無茶苦茶である。
 裁判所の請求人が犯人であるとの予断なしには、このような認定はあり得ない。
 「請求人が真相を語らず」ということが重要な有罪事実の認定の根拠になるのであれば、裁判所は被告人の権利である供述拒否権をどのように考えているのか。また先に述べた、
 「被疑者ないし被告人には、あらかじめ黙秘権・供述拒否権が告知されるのであり、質問の全部または一部について答えないことができ、答えないからといってそのことから不利益な心証を持ってはならない。」
 という言葉とどのような関係に立つのかを知りたい。
 裁判所が請求人の供述不在にもかかわらず、これを死体や犯行現場の状況に即して使用したことを認定するためには、供述とは別の客観的証拠に基づいて事実を認定しなければならないことは、事実認定の余りにも基本的な原則である。供述がないことを理由に、虚偽を述べていると勝手に決めつけ、請求人に不利な事実を認定してよいというのであれば、どのような恣意的裁判も、裁判所は証拠なしに自在にできることになる。多くの裁判で裁判所の自白偏重が論じられるが、客観的証拠や自白すらないところでのこのような判断は、裁判ではなく、裁判所が自由自在に事実をねじ曲げた飴細工にすぎない。裁判所の請求人嘘つき論は、畢竟・冤罪事件製造の打ち出し小槌にほかならない。
 確定判決は、細引紐の出所を「確たる証拠はないと言わざるを得ない。」と証拠の不存在を自認しながらも、
 「思うに、脅迫状にみられるように、幼児誘拐の機会を窺っている犯人としてみれば、幼児を適当な場所に縛り付けておき、その間にかねて用意した脅迫状を届けようと考えて、あらかじめ木綿細引紐を持ち歩いていたことも考えられないわけではない。殊に、脅迫状、足跡その他これまで述べてきた信憑性に富む客観的証拠によって、被告人と『本件』との結び付きが極めて濃厚となり、被告人が『本件』の犯行を自供するに至った後においても、木綿細引紐をあらかじめ持ち歩いていたというようなことは、そのこと自体明らかに被告人に不利益な情状であり、ひいてそれが死を確実にするためこの木綿細引紐で首を絞めた紛れもない事実にも結び付かざるを得ない以上、被告人としてその出所を明らかにしないのはそれなりの理由があるのである」
 と述べている。
 脅迫状や足跡の問題等が裁判所の言う信憑性のないことは、すでに弁護人らによって明らかにされている。
 「あらかじめ木綿細引紐を持ち歩いていたことも考えられないわけではない。」などという判示は、余りにも露骨な証拠によらない「請求人が犯人である」という予断にもとづく推測であり、「事実認定は証拠による(刑訴317条)」という裁判の基本原則の否定である。
 裁判所は、請求人は「情状面で不利益であるので」細引紐について明確に自供しなかった、などとこれまた請求人を犯人と決めつけたことを前提として判示しているが、請求人は、前記のようなことが判決の情状面に影響するなどと言うことまで考えが及ぶような人物ではないことも明らかであり、裁判所の予断も極まれりと言わなければならない。

 以上述べたとおり、請求人の自白は、常識ではあり得ない事実の連続を内容とし、従って自白とそれぞれの現場の状況は大きく食い違い、また自白の真実性を担保する補強証拠は存在しない。証拠に基づかない独断偏見に基づく、確定判決の採証法則の違反の違法は明らかであり、取り消しは免れないものと言わなければならない。

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