部落解放同盟東京都連合会

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狭山事件特別抗告申立書補充書 16

          

第15 本件自白調書(強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄事件と恐喝未遂事件を含む自白調書。以下単に本件自白ともいう)に信用性の存在しないことについて

《第16―目次》

1 はじめに

2 狭山事件における自白の取り扱い方について

3 原1審弁護人らの最終弁論までの基本的態度について

4 同弁護人らの「心配」が杞憂ではなかったことについて

5 別件捜査における自白調書要約

6 別件自白調書総括

7「注意則」による本件自白の信用性の検討

8 木綿細引紐と荒縄について

9 脅迫状作成に関する自供が架空であることについて

10 いわゆる「秘密の暴露」が否定されることについて

1 はじめに

 死刑再審事件をふくむ再審無罪判決となった各事件のいずれをみても、新証拠をきっかけにして(免田事件の再審無罪判決においては新証拠の影は薄く、確定審までに提出のアリバイによる無罪となっている。)、落着きどころは結局のところ、請求人の自白の信用性に強い疑いの目が注がれ、一見、詳細で、かつ体験告白がつづられているとされた自白が、抽象的なもので捜査官の誘導ないしは請求人の迎合的虚偽自白ではないかとの疑いが払拭できないとされ無罪判決となっている。こういう経緯をたどった原因は、やはり請求人の自白について、何十人、いやそれを超える多くの裁判官が、自白についての判断を誤ったということにならざるをえないのではなかろうか。自白はやはり証拠の王というべきであった。狭山確定判決もまた「証拠の従僕」こそ裁判官のあり様と自称しつつ、彼が「従僕」として仕えたのは「王」たる自白に対してだけであった。
 裁判官にとって自白とは、魅いられた魔物でもあるのか。次の判例の経緯は市民の良識からは、とうてい諒解不能というほかはないのである。
 名張毒ぶどう酒事件の第1審は、自白の信用性を否定し、─つまり有罪証拠の鑑定書などの情況証拠に力はない場合であって─ 無罪判決とした。確定審である控訴審判決は手の平を返して、「自白調書をまつまでもなく、情況証拠により被告人の犯行であると断定するになんらの支障はない」として死刑判決を下した。ところが再審棄却決定は、「請求人の自白調書を除外した爾余の証拠だけで請求人が犯人と断定できるとした確定判決には賛成できない」旨、そして「確定判決は自白をも有罪認定の有力な証拠としている」と判示したのである。はたして「自白」とは、かくも変幻自在なもの、打ち出の小槌なのであろうか。それだけでなく個々の裁判官にとっての証明規準(『合理的疑いを越えた証明』『疑わしきは被告人の利益に』)を狂わせたのも、また自白であるというべきなのであろうか。

2 本件狭山事件についての自白の取り扱い方はどういうものであるのか。

 本件確定判決の中で自白は、かつて例をみない不当な取り扱いをうけた。
 弁護人らが再三、再四(読まされる裁判官の方々には耳に胼胝ができるほどであって遠慮したいのであるが)主張しているところであるがどうしても触れさせていただきたいのが次の1点である。
 それは判決の冒頭にかかげられた特異な「自白論」である。
 もとよりこの「自白論」は後思案(1つのタクティーク)にしかすぎないものではある。要するに、自白の成立過程とか、変遷・動揺、動機や自白内容の合理性、体験供述か否か、自白と客観的事実との符合性の問題、さらには真犯人なら当然に触れるべき事項につき自供がみあたらないことへの疑いなどを、一把ひとからげに葬り去るために案じられたものであった。
 逆説的には、それほどに本件自白には根深い疑いがまとわりついているといえるのである。
 暴論とさえいえるこの自白論は、おそらく、「公判自白」をそっと控えにおく、満を持したものであったにちがいない。「人権擁護のための活発な弁護活動(保釈請求、勾留取消請求、勾留理由開示の請求、接見禁止処分に対する準抗告の申立、勾留中の被告人とのしばしばの接見交通)」なる稱揚を持ち出して、かえって「公判自白」を浮彫りにしようとする。
 実は、誰でも稱揚を惜しまないこの弁護活動こそが、『弁護人不信』から虚偽自白へとつながっていくという被疑者心理の「弁証法的発展」を確定審裁判官は故意にか不注意によってかはともかく、無視した。そうなった理由の1つは、密室内での捜査官と被疑者との人間的あり様をそっくりネグレクトしたからではなかろうか。
 確定判決のいう「人間性同一論」はたしかに一面の真理であると弁護人も諒解する。
 しかしこの「真理」をもってしても、具体的な個々の人間のあり様のすべてを正確に把握できるわけのものでもなく、それは一般論としては妥当するものであるということを忘れてはならない。あるいはまた『真犯人でないものが、死刑判決と分っていて自白することがあろうか。やはり彼は真犯人にまちがいないのだ』と。死刑再審事件における裁判官の犯した過ちであったし、本件の原第1審判決もそういいきっている。
 この推論も一般論としてはそれなりの説得性をもつ。しかし刑事裁判にあっては一般論で具体的な状況を押し切ることほど危険なことはないと思うのである。
 刑事裁判──誤判の歴史──にあっては、「人間性同一論」によりながらも、なお「被告人」をひとまとめにして決めつけることの危険を教えている。これも実務の経験である。
 同様の例として「弁護人らは自白といえば一切を告白するものであるとの前提を立てているがこれは実務や人情を理解しない誤りから来ている」と確定判決は述べている。たしかに「自白といえばすべてを告白するという考えはまちがっている」というのは一般論としてはいい得ることであろう。問われるべきはその具体的な現われ方はどうであるのか、それが犯行の構成部分のどこに生じているのか、ということである。
 「公判自白」ということについても、捜査官の圧力から解放され、そばには弁護人もいるのであり、自白調書の真実性に信頼がおける場合であるという立場も、ひっきょうするに一般論にしかすぎない。いうまでもなく自白調書に信用性が乏しければ、その公判自白にことさらの意義を認めることのできないのは理の当然である。常にこのことを念頭におくことは、本件狭山事件の解明にとってはきわめて重要である。
 以下においては、狭山事件の捜査過程における「自白」の現われ方の諸相を引き出すことによって、その信用性の存否の判定に、いくばくかの資料を提供しようとするものである。

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3 原1審弁護人らの最終弁論までの基本的態度について

 請求人は確定前の第1審(以下単に原1審という)第1回公判期日(昭和38年9月4日)において、「事実はいずれもそのとおり間違いありません」と述べ、その後は死刑判決をうけるまで自白を維持したところ、確定審である東京高等裁判所の第1回公判期日(昭和39年9月10日)に至って、「お手数をかけて申し訳ないが、私はYさんを殺してはいない。このことは弁護士にも話していない。」旨発言し、それまでの自白を撤回した。
 同公判において、主任弁護人中田直人は、「被告人の上記供述は全く新しいものであるので、被告人と十分相談して改めて意見を述べたい。」と発言している。
 請求人の自白撤回の上記発言が公判調書上明らかになったのは、3年後の、昭和43年9月24日付の弁護人中田直人他2名からなされた東京高等裁判所第4刑事部あて、「公判調書の記載の正確性についての異議の申立書」ならびに同日付の「異議申立調書」によってである。

(1)原1審第1回公判における意見陳述の内容

 請求人の公訴事実を認める旨の上記発言につづく弁護人らの意見は要旨次のようなものであった。
 @被告人は5月23日早朝、暴行、窃盗、恐喝未遂の疑いでものものしく逮捕された。実質はいわゆるYさん殺しの嫌疑であった。
 A翌24日埼玉県警本部中刑事部長は石川のYさん事件の容疑については確信をもって追及すると新聞記者会見で発表した。中刑事部長は被告人は被害者のN家は知らないと言っているが、知らない筈はないと報道関係者に語った。
 B勾留満期に至っても、中刑事部長が確信をもっていたというYさん事件に関して、検察官は恐喝未遂を起訴することができなかった。6月13日起訴分について、6月17日、浦和地方裁判所川越支部は当然のことながら保釈を認めた。しかし捜査当局は引き続き再逮捕して、それまでの代用監獄である狭山署の留置場からジープで別の川越署分室という代用監獄に被告人を移したのである。この再逮捕によって、被告人が無知であるが故に次のような危険な考えを持つのではないかということを弁護人らは心配した。
 C被告人は考えたのではないか。
 「警察官や検察官はおれをどうにでもすることができるんだ。おれは今までYちゃん事件には関係がないとずっと警察で言ってきた。検事さんにも言ってきた。警察や検事さんの前では思っているとおりのことを言っても全く信用されない。おれは一体どうしたらいいのだろう。弁護士は保釈になれば出られるというふうにおれに言ったけれども、保釈になっても、もとのもくあみじゃないか。警察や検察官はおれを一生豚箱に入れておくことができる。裁判官だって同じだ。現に再逮捕の令状だって裁判官が出しているというではないか。ほんとうにどうすればいいんだ。警察や検事さんはえらい、おれをどうにでもすることができるんだ。」と。
 こういう考えを被告人がはたして持たなかったか、そういう点について私どもは心配したのである。
  Dそれで私どもは被告人とすぐ会うために川越署分室に行った。通用門には真新しく柵が設けられ、署の内外には大勢の警察官が取り巻いており、取り次いでもくれず、責任者の名前さえ明らかにせず、その日は被告人と接見できなかった。再逮捕の翌日、裁判官の令状によって簡単に接見した時、被告人は非常にぐったりしていた。それから7月9日起訴に至るまでどんどん捜査は進められているが、不法・不当な捜査といわざるをえないのである。このような捜査から誤判が生じていることは判例にも明らかである。
 違法不当な捜査はそれ自体が被疑者のその時々の状態における人権を侵害するにとどまらず、誤った裁判にも導く可能性が強いのである。あたかも被告人が真犯人であるというように報道されている。本件の審理は十分捜査の違法に司法的監視のスポットを当てられて慎重公正に審判していただきたい。

(2)最終弁論について

 同弁護人らは、請求人の「事実はそのとおり間違いありません」という態度にもかかわらず、「被告人は本件の真犯人ではない」旨の姿勢を打ち出している。
 しかしなんといおうとも、請求人の上記第1回公判における態度と、弁護人らの上記意見の間には、重大なる隔たりのあることは認めねばなるまい。なぜそうなったのであるのか。誰しもの疑問は次のようなものであろうか。つまり、弁護人らの「真犯人ではない」という心証のもとで、第1回公判期日に備えての弁護人と請求人との打ち合わせはどのようなものであったのか。いや、「打ち合わせ」はいわゆる信頼関係のもとでは既になされてはいなかったのではないか、埋めがたい溝はどうして生まれたのか、等々。さらには最終弁論を打ち出す際の被告人との打ち合わせはどのようなものであったのか。
 ちなみに同弁護人らは請求人の自白維持にもかかわらず、原1審最終弁論において、捜査の不当・違法性についてはもとより、「客観的証拠」や「物証」の疑わしさについて、さらにはいわゆる秘密の暴露とされる「3つの物証」(鞄、万年筆、腕時計)の発見経過につき詳細なる弁論を展開し、それがきわめて疑わしいものである旨論証し、とくに「自白」について、「検察官が主張する公訴事実を直接的に証明するものとして、あるいは証明するに足るものとして、本法廷に提出された証拠は、自白がすべてである」ところ、「被告人の自白にはあまりにも疑問が多過ぎるのであります。そしてそれは公訴事実の証明にとってほとんど致命的と思われるほど重要ないくつかの疑問を含んでいる」ことを指摘している。万一を考慮して、量刑不当の主張も含まれていたとはいえ、その主張の核心は真摯なる無罪弁論であった。たしかに原1審を通じて「公判自白」を維持する請求人の態度を見続けてきた人達は、それ故にこそ検察官提出の「有罪証拠」に存する合理的疑いを具体的証拠に基づいて指摘したのである。
 ひるがえって思えば、公判自白があったとはいえ、1審弁護人らがそこまでの心証をいだいていて、なぜ情況証拠(捜査側の筆跡、足跡、死体の各鑑定書など)につき反証活動をなさなかったのか、なぜ同公判において自らの疑問を事実を事実として請求人に問い糺すことができなかったのか、まことに悔やまれるところではある。もっとも原1審裁判長が弁護人請求の証拠調べ請求につき、重要な争点に関する証人訊問請求をすべて却下し、あるいは捜査官に対する反対尋問を不当にも制限している態度をみるとき一概には論じがたいといわざをえないのである。

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4 同弁護人らの「心配」が杞憂ではなかったことについて

 再逮捕後、請求人の心を占めた不安と恐怖は、「弁護士よりいや裁判官よりも力のあるのは、捜査官だ。弁護人らは嘘をいっている。弁護士という人たちのいうことを聞いていたらおれは一生豚箱から出れない。長谷部さんや捜査官らのいうとおりにしよう。」というものであった。同弁護人らの「心配」は的中していた。
 上記心情は遂には弁護人への不信ということになるが、この不信が確定審第1回公判期日までも維持されていたであろうことは、請求人の、「このことは弁護士にも相談していない」という発言からも推認できる(なお記録によれば当時の弁護人はいったん解任されている。)。真犯人であるか、無実の人であるかは今おくとして、通常、頼るべきは自分の弁護人であるということぐらいは、一般市民の共有した常識ではあるまいか。ところがそうならなかった。本件にみられるこの特異な経緯はどこから生じたものであろうか。請求人の弁護人らに対する心情、すなわち弁護士とはなにをする人であるのか、自分を助けてくれる人たちであるのかどうか、という不安、すなわち弁護人らに対する不信は訴訟手続に関する無知もあり、再逮捕によって──加えて捜査官のあおりもあって──決定的に醸成されていった。当時、弁護人らも接見を通じて既にこれを実感していたと推認される。
 この問題をまず指摘しておきたい。本稿のテーマである「自白調書の信用性不存在」の主張・立証における出発点となると考えるからである。
 ついで自白調書の信用性を検討するにあたってはなお、次のことが留意されねばならない。つまり別件自白調書のように(本件自白調書についても)、仮に「任意」の自供とされる場合にあっても自供の文言そのままが記録されているものではないということである。原供述が正確に記載されているかどうか、供述人の心理が素直に表現されているかどうか、捜査官の取捨選択、捜査官の誘導尋問による不正確な答弁、捜査官の罠、これらによる歪曲がないかどうかを計算に入れて、真実性を吟味しなければならない。とくに本狭山事件の捜査にみられるように、別件逮捕され、上記逮捕、勾留期間中に本件被疑事件についての違法・不当な強制、追及的取調べがなされている(仮に別件逮捕勾留中に捜査が本件に及ぶこと自体は違法でないとしても、現実には、本件についての不任意の「自供」が強制されている。)場合にはこの点がとくに強調されるべきである。
 以下において捜査の当初から素直に事実を認めているところの別件捜査の各調書(恐喝未遂は否認)において請求人が語るところを辿ってみたい。

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5 別件捜査(恐喝未遂を含む)における自白調書を本稿の目的に沿って要約して引用するが、昭和38年6月18日付のものまでとする。つまみぐいを避けたため長文となっているが、目を通していただきたい。

(1)昭和38年5月23日付員面調書山下了一(以下年を示さない)

 学校は入間川小学校を5年しか行っていない。市会議員のMの世話で入間川中学校を2年修業したことにしてもらった。
 仕事の方は、入間川小学校5年を修業してから百姓家で子守奉公をやり、約半年後、国分寺のI方で靴屋の見習をやり、半年後に家に帰ってきた。それからは百姓の手伝いを方々でやり、18才の時に保谷町にあるTo製菓の工員として約3年8月ほど働き、その間野球選手をした。その工場を辞めてから豊岡町のNk鳶職で約半年働いて、23才(昭和37年)の十月末頃堀兼のId・Kさんという豚をたくさん飼っている家に雇われ豚の世話をやり、本年2月28日頃にここを辞めて、自分の家で兄ちゃんと鳶の仕事をして現在に至っている。
私の収入は兄ちゃん(六造)の手伝いをして毎月約3万5千円をもらっているが、入間川のオリオンパチンコ屋や、所澤の東博パチンコ屋に行き使ったり、西武園と立川競輪に行って半分くらい使っている。

(2)5月24日付員面調書山下了一

 2月29日頃の夕方、20才位の男を拳骨で2つ位殴った。当時Id・Kのところで働いていた。その日に自分はId・Kさんの弟のId・Y運転の小型四輪車の助手席にのってジョンソン基地に豚にくれる残飯をとりに出かけたのだが、バイクにのった20才位の男がId・Yの小型四輪車の右後部のところに突き当たって横倒れになった。
 自分は、「どこを向いて走っているのだ、この馬鹿野郎」といって拳骨で力一杯2つ位殴った。
 次は3月7日、Th・R(23才位)の家の前に停まっていたトラックの中の作業衣1着を盗みました。本年2月28日頃にId・Kさんのところをやめて家に帰らず自動車の中や友達の家を泊まり歩いていた。これはId・Kさんのところをやめて親父に怒られるからです。Thのトラックの中でその夜は寝て、Thが起きないうちに起きて、作業衣を盗んで着てしまった。この日は1万8千円もっていたのでこれで買食をした。それから2、3日して親父に謝って家に帰った。盗んだ作業衣はタンスの中に洗って蔵っているので、Thに返して下さい。また家に寝泊りするようになってから家の裏通りでThと出会ったので作業衣を借りていると断っている。Thは私の友達です。
 次は本年5月1日にN・Eさんという家(※被害者宅)に金20万円持ってこいという脅迫状を持っていったのではないかと言うことですが私はそんなことは知りません。
 その次は5月1日は兄ちゃんの六造を2人で午前8時頃M・Siさんの家に仕事に行って午後4時に仕事も終って、兄ちゃんは入曽の歯医者に行ったのです。
 このM・Siさんの家には4月29日に仕事に行き、5月3日までやりました。
 私が4月末から5月初頃までの仕事は4月28日にはM・Syちゃん(25才)、Hg・A(22才)、Km・M(16、7才)、弟の清(17才)と小学校に野球をやりに行き、29日と30日はM・Siさん宅に仕事に行き、5月1日は先程申し上げた通りで、5月2日はお天気で、自分の家の犬小屋造りをやりました。

(3)5月24日付員面調書清水利一

 5月1日の行動を正直に話します。この事について昨日から何回も聞かれましたが近所のM・Siさんの家へ兄の六造と行ったと言っておりましたがそれは皆うそです。私が何故その様なうそを申し上げたかと言いますと、父親がNさんの事件を知って「お前疑われては大変だから近所のM・Siさんの家へ兄の六造と鳶仕事に行っていたとアリバイを作っておけ」と言われたのでその様にお話しておりました。この事は私が直接Siさんに頼みは致しませんが親父がM・Siさんの処へ行ってうまくアリバイを作っておいてくれたかも知れません。
 次に5月2日の事も正直に言います。その日午前7時半頃起きて朝飯を食べて昼頃までかかって犬小屋を作り、昼を食べてからKm・Yさん24才と入間川へ映画を見に行き「こまどり姉妹の未練心」を見て涙を流しました。

(4)5月25日付員面調書清水利一

 昨日も聞かれましたNさんの家へ手紙を書いて持っていったのは私ではありません。私は字をよく書けないし読めませんからそんな事はできません。

(5)5月26日付員面調書清水利一

 私はN・Yさんの死体発見の日、M・Syさんと魚釣をしたあと、Hgさんのお母さんが死体が見付かったという話をしたのでM・Syさんらと死体を見に行きましたが、巡査や消防団や野次馬が一ぱいでした。死体は担架に乗せてどこかへ持って行って仕舞いましたので顔形等は見えませんでした。
 私はその時報道陣の人から写真を取られました。
 5月5日は姉の一枝が3日からずっと泊っており、夫のThとしおさんと話しあっていました。キャッチボールをやったと思うが市外には出てません。
 5月6日からずっとM・Knさんのコンクリート仕事や家の建前で5月22日までかかったと思う。その間、13日、14日はKk・Yさんの鳶仕事をやりました。
 そのほか20日頃2日間、Tuさんという家の風呂場造りに行きました。申し落としましたが雨の降った日は休んだし、5月19日の日曜日は半日で仕事を仕舞い、M・Syさんと狭山湖の野球場へ野球見物に行った。
 次にアリバイは、兄の六造から5月1日の日はM・Siさんのところへ鳶仕事へ行った事にしておこうと話されたことを正直に申します。それは5月3日か4日の頃の夜、始め父ちゃんが堀兼の女学生殺しの事で世間がうるさいから警察が聞きに来たら兄ちゃんと一緒にM・Siさんのところへ仕事に行ったことにしておけと言われ、私もその日仕事をしていないのでついその気になりそう言おうと思いました。
 それから2、3日過ぎた5月6、7日頃家の中で、「おい一夫5月1日はお前は俺と一しょに近所のM・Siさんの処で働いた事にしておくからな」と申しますので、私はその時「あんちゃんそれではそう言っておいてくれ」とお願いしたのです。そんな訳で父ちゃんと兄ちゃんが何時何処でその話をしたかは私にはわかりませんが2人が話し合ってくれた事は間違い無いと思います。

(6)5月27日付員面調書清水利一

 1つ話していないことがあるので話します。私は物が欲しくなって知り合いのMd・Kちゃん、所沢市のTs・Sbさん、Ykさんと相談して入間川の県立の学校へ泥棒に行き、私は下駄1足、Kdらは皆靴1足ずつ盗みそれを履いているうち警察に分かり、全部捕まってしまいました。14才の昭和29年から30年の頃のことで、学校での泥棒のことを話せよと言われたが夜学校の泥棒のことを言われなかったので今まで話しませんでした。
 私は昨日To製菓その他勤務先や出先では紙1枚書いたことはないと言ったが訂正して下さい。只今警察から私が昭和33年から同36年まで勤めていたTo製菓への早退届5枚を見せてみらったが、私が会社へ書いて出したものです。私が会社へ1枚もそんなものは書かないなど偽りを言ったのは別に理由はありませんが、有るものも無いという性分ですから言ったまでです。私の性分は有る事でも一旦無いと言えば何処までも無いという性分です。従って私は白いものでも黒いと一旦言えば絶対黒と言い通してしまいます。
 5月1日の晩N・Eさんへのおどかしの手紙書いた覚えはありません。私は書かないものは何処迄いっても書かないと言うだけです。
 鳶仕事の時の履物はなにかというおたずねですが私は昭和36年9月から昨年の夏頃までNk組のNkさん宅で働いた時、鳶職の地下足袋を500円位で買って履いておりました。その足袋は昨年10月頃からId豚屋で住み込みで働くようになってからは履かず、Idさん方へ置きっ放しにしていると思います。そのような訳で兄六造と働くようになってからはその足袋がなく、何時もゴム長靴を履いておりました。私の足は10文半、兄六造は9文7分位で時偶、兄ちゃんの足袋を履くと両方の親指が丸くなってとても痛くて長い時間は履いておれません。

(7)5月28日付員面調書清水利一

 Is米屋の手拭のことについて話します。
 私は5月3日、前回聞かれた時はお昼から兄ちゃんやSbさん、父とM・Knさんの所に仕事に行ったと申しましたがその通りで、午前中はM・Syちゃんらと入間川小学校へ野球の練習をしに行ったのです。

(8)5月31日付員面調書諏訪部正司

 私はId・Kさんで働いていた昭和37年11月か12月の夜10時頃、工事場の材木を3人で普通貨物自動車(トヨエース)を使い盗んでいるがこのことについて話します。当時私はTj・Aと2人で雇われていたが、12月始めの寒い晩Id・KさんがId・YとTj・Aと私の3人に向かって「お前らは毎日配達に行って判らなかったか」というので、3人は口をそろえて「何が」というと、「工場建設現場に材木が置いてある、夜なら大丈夫だ」といわれ、3人で、「行ってくるか」と言うと、Id・Kさんは「判らないように行ってこい」と言いました。午後9時30分頃Id・Kの普通貨物自動車をId・Yが運転して出かけ、3回位往来して計18本から20本位の角材を盗んだ。Id・Kさんから「これは少ないけどタバコ銭にしろ」と言われ、むき出しの千円札を1枚渡された。盗んだ角材は1本3千円位で6万円の価格になる訳です。

(9)5月31日付員面調書諏訪部正司

 茅束150束位を盗んだことを申上げます。それは昭和38年1月15日の夜9時半から11時半頃までのことです。この時はId・KさんとId・Yと私の3人で普通貨物自動車トヨエースをId・Kが運転して、山に入り、雑木林内を探しながら茅を集めて自動車に積んで盗みました。盗んでいる最中に私が「こっちにもあるよ」と声を出したところId・Kに「やばいから声を出すな」と言われたことをよくおぼえている。茅束は全部で150束位で3人平均して50束位を盗んだ。大分時間がかかりました。

(10)6月1日付員面調書諏訪部正司

 今日はTj・A21才と雌鶏を窃取したことを申し上げます。
 今年の2月28日Id豚屋を退職、主人に分らないように番小屋に3晩泊
 まり、それからTjの家へ3晩位泊まり、その後Tjの友達の家へ1晩泊まった日の夜のことで、3月7、8日と思います。
 Tjが友達の家へ泊まりに行こうと言って、午後10時頃その人の家へ行ったが、Tjだったかが「腹が空いたなあー」といって鶏を盗みに行くことになった。Tjが案内役となり、農家の鶏小屋に入り1羽づつ計2羽盗んで友達の家へ帰り、その晩Tjが料理して3人で食べてしまった。親鶏の関係で肉が沢山あったので足だけ食べただけで相当肉が残った。

(11)6月1日付員面調書諏訪部正司

 Id豚屋に勤めている時同僚のTj・AとId・Yの2人が入曽の関口とかいう17、8才位の男に怪我をさせたり、時計をTjが取った様な事件がありましたので申上げます。
 昨年の11月末頃、Tjが靴を取り替えに行くから所沢に行かないかといわれ、電車で行って帰ってきた。
 Tjは小学校の校庭で殴ったり蹴ったりしていた。
 Id・Yもその場所に行くと両手を使って殴っていたので、俺は余りかわいそうであったので仲裁に入った。

(12)6月1日付検面調書原正

 本当の事を言うと、5月1日は7時10分か30分発の電車で入間川から西武園に行き、付近の山で時間を潰しました。履いていた長靴の底の新聞紙をとりかえて両方の長靴の底にしきました。山の中で2時間ほど時間を潰して、電車で所沢まで行き東莫というパチンコ屋でパチンコをやり、12番の機械で夕方5時頃までやった。それから午後6時41分が7時11分頃の電車で入間川に帰り7時半頃家に帰った。その晩10時頃兄ちゃんが、皮ジャンパーをびしょ濡れにして帰ってきました。
 5月2日は午前中犬小屋を作り、午後はKm・Yと入間川の映画館に行き午後6時頃家に帰って外出せずに寝ました。
 5月3日は午前中近所の友達と入間川小学校で野球をして遊び、午後は兄ちゃんと一緒に近所のM・Knちゃん方の新築現場の土台のコンクリート打ちをやりました。2日の晩は兄ちゃんが10時頃帰ってきたように思います。

(13)6月2日付員面調書清水利一

 前の調べのとき兄六造の足袋を5月6日から22日頃まで近所のId・Kjさんの家の鳶仕事をたのまれて、時たま借りて履いた(といったが)が、兄さんの足袋は9文7分で親指が痛くて指を丸めて履いたがそれでも親指は痛かったのです。
 私が六造の足袋を履いたのは、5月7日か、8日頃Knさんのところから家へ帰って家のコンクリート打とをした時と、5月16日の建前の日です。
 次に5月1日殺された堀兼のN・Yさんやそのお父さんを知っているかとのお尋ねですが、近所に半年近く住んでいたがYさんという娘もお父さんも1回も会った事はありません。事件があってからテレビで見て始めて知ったような次第です。
 私がId豚屋に居た頃の正月15日Id・Kの空気銃を借りて猟に出てその近所を廻りました。Nさんの家だけは知っています。又昨年の11月、M織物工場の若衆と一しょに火の番で堀兼部落を2回程廻りましたからあの辺はよく知っています。
 私は幾度聞かれてもNさんの家へ脅し手紙等を書いた覚えもないしそれを持っていったことも有りません。

(14)6月2日付員面調書清水利一

 私の友人のTj・AがTh・Rさんから借りたオートバイを破損してM・Syさんの処で修理するよう仲に入って話をしてやったことで、私の処へ請求されたことを申し上げます。本年4月27日か28日又は30日の午前中、私が家にいた時に3丁目の自動車修理業M・Syさんの奥さんが私の家へ来て貴君が仲に入ってTjさんがThさんから借りて乗ったオートバイ修理代3万2千800円とかを(を払わせることになっているかと)払わないのでなんとかしてほしいと申しましたが、私はその奥さんに、それでは警察へ行って話してやると言いましたが、それは、その事で3月頃狭山警察へ来て話をしてあるからです。
 M・Syさんから請求された金は私が保証人になった訳でなし、払う必要もないので私に全然関係ない事ではありませんが、修理代を払う責任はTj・Aにあるということになります。

(15)6月2日付検面調書原正

 豚屋のId・Kさん方には昨年の9月か10月末から2月の末まで住込みで働き、給料は1万8000円をもらっていた。そこに勤めている間で休んだのは4日しかありません。
 3月になってから家の者にId方を辞めたとも言えないので昼間は遊びに行き、夜はId方の豚の見張小屋に泊まっていた。それが3月1日、2日、3日の3回ありました。

(16)6月3日付員面調書山下了一

 私はヤマハオートバイを金が支払いきれないうちにこれを売ってしまったことがあるのでそのことを申し上げます。
 月賦で買ったものは金の支払いが終わらないうちは自分のものにならないということは分かるが、これを売ってしまったのです。それは昨年の4月初頃の昼間でOnさんという自動車のセールスをやっている人の所に行って、古いオートバで安いのはないかというと中古を見せてくれ、6万5千円位でどうだろうかと言うので私も気にいったので買うといい、店の人がきれいに修理をしておくというのでその日は帰り、幾日か経ってOnさん方でこのオートバイを月賦で買う契約をして、頭金として現金3万円を支払うこと毎月1万円を3ケ月入れて最後の月が1万5千円を支払うことにしました。
 この時現金3万円を支払い書類に印を押したのです。
 月賦で買ったものを全部支払いきれないうちに売ってしまったりすることは悪いことだということは知っています。
 昨年6月30日頃Onさんが月賦の金を取りに来たので私の家で1万円支払い、残りの支払金が2万5千円あるわけです。
 私は昨年6月中旬頃近所のI・Tr(24才位)の家に行って、Onさんから6万5千円で買ったオートバイを2万5千円でどうだろうというとTrさんは2万5千円で買うというので、翌日頃Trさんの家にオートバイを持って行ってTrさんから1万5千円をもらってこのオートバイを売り、残りの1万円は2、3日してTrさんからもらった。Trさんにオートバイを売って4、5日経った頃Trさんが私の家に来て、このオートバイ調子が悪いからもっとまけろよと言うのでまけられないと断ると、Trさんはそれじゃ俺はいらないから金を返してくれというので、売ったオートバイを引きとって乗って歩いていたが約1ヵ月経って私が働いていたNk土建屋の親爺さんに2万3千円で売ったが、この金を最初に売ったTrさんの方に入れましたが大野さんの方にはまだ払っていません。
 私は大野さんから月賦で買ったオートバイを幾らも乗らないうちにTrさんに売り、またそれをNkさんに売ってしまったが、この頃には金に困ったり、車にあきてしまったから売ってしまい、月賦の金がまだ払いきれないうちに外に売ってしまって悪いことをしたと思っています。

(17)6月3日付員面調書山下了一

 私がOnさんからオートバイを月賦で6万5千円で買った時、Onさんから説明はなかったが、金を支払いきれないうちは勝手に売ると横領ということになり悪いことは判ります。

(18)6月7日付員面調書清水利一

 私は37年11月末にId豚屋にいた頃、Tj・Aと入曽の学校で20才位の男を殴ったことがあります。Tjが靴を取り換えにいくのに一さん一しょに行かないかと誘われて所沢へ行きました。小学校で私は殴っていません。
 私はTjにもうよいだろう勘弁してやれといったふうに覚えています。
 それから10日位してId豚屋へその時殴られた野郎が4、5人若い男をつれてきて、私やId・Yに対し腕時計を取ったろう返してくれというので私は頭に来てしまい、取りもしないものを取ったといわれ頭にきてしまい此の野郎と言い様げん骨で5、6回殴りつけてやりました。時計は私より背の低い男に取られたというので後でみつけてやるということで、私が殴った男は私に対し時計のことをうたがって悪かったといって謝ったのです。対手を殴った事は悪いと思いますから勘弁して下さい。

(19)6月7日付員面調書清水利一、遠藤三

 本年1月中旬頃、Id豚屋にいる頃の寒い晩にOg・Kさんと堀兼の百姓屋の鶏小屋から白色の鶏3羽を盗んで焼いて喰ってしまったことを正直に話します。

(20)6月7日付員面調書清水利一、遠藤三

 私方で毎日読んでいる新聞紙の事についてお尋ねですから申上げます。
 私方ではずっと以前から毎日新聞を取って居りました。本年4月からは報知新聞が入ったようです。したがって毎日と報知の両方が入っているのです。ところが皆が余り読まないというので、父ちゃんが止めてしまえと言い、4月いっぱいで2つとも止めてしまいました。
 5月に入ってからは欲しければ各自が好きな新聞を買って来て読んでおりました。私も報知新聞を買った事もあるし、朝日新聞を買ってきたこともあります。
 朝日新聞を買ったのは5月の初め頃で入間川の朝日新聞の販売店で夕刊を5円で買った事があります。
 私が仕事で六造兄さんの地下足袋を借りて履く時は、自分の好きなものを履くわけにはいかず、兄さんがこれを履いていけというのを借りるのです。私が借りて履いたのはいつも同じでした。

(21)6月8日付検面調書原正

 Id・Kさん方で働いた昨年11月頃、Id・Kは私やTj・A、Id・Yに、お前等は毎日通っていて判らないのかというとので、私達が何がと聞き返すとお前達が通っている所の建築現場に材木がある、夜行けば大丈夫だと、夜行って盗んで来たらどうかといっていると思いました。Id・Kさんはその材木で車庫を作るんだといっていました。
 2、3日たってId・YがId・Kさんのトヨエースに私、Tj、Id・Y3人が乗り、東亜何とかいう工場の建築現場で材木を盗んで寝泊りしていた豚小屋に運びました。その翌日Id・Kさんから煙草銭だといって千円札1枚もらいました。分け前か礼金だと思った。
 本年1月頃Id・Kさんが薬研坂の附近でカヤの束を盗みに行くというので、私とId・KさんId・Yの3人でId・Kさんが運転して、150把位盗んでトヨエースに積み持ち帰りました。
 やはり昨年11月頃と思いますが、私とId・Kさんと2人で畑の白菜を盗みに行きました。鎌で切って80ケ位盗みトヨエースに積んで持ち帰りました。畑の所有者は誰か分かりません。もちろんId・Kさんの所有ではありません。

(22)6月8日付検面調書原正

 To製菓にいる頃、Eb・Kという同じ会社で働いていた恋人がいましたが、その女とは手を握ったこともなく肉体関係したことは勿論ありません。Tj・AやId・YにEb・KとTo製菓の倉庫で肉体関係をしたとふざけて言ったことは2、3回あります。なお私は女と肉体関係をしたことは今迄一度もありません。Eb・Kに手紙を十回位出したが、自分で書いたのではなく姉の婿のI・Sさんに買いてもらって出した。私は手紙は書けないし読めないので、きく江さんからの手紙を読んでもらったり返事を書いて貰ったりしたわけです。
 To製菓を辞めたのは競輪するのに友達が私に金を預けて車券を買ってくれと頼まれ、Sa・Aから1500円、Wa・Tから500円預かりましたが車券を買わずに西武園の競輪には行きましたが自分のための車券に使いました。
 その事から会社に行きづらくなってTo製菓をやめてしまいました。Saさんは500円預けたといっていますが、私は1500円預かった様な気がします。

(23)6月9日付員面調書清水利一、遠藤三

 只今私に対し本年5月1日夜堀兼のN・Eさん方(被害者宅)へ私が脅迫状を持って行きその翌晩さのやの店の前へ子供の命がほしかったら金20万円を夜の12時迄に持って来いと言ってその金を取りそこねた事についておたずねですが、幾度も申し上げた通り自分で手紙を書いたこともないしそのその手紙を持って行ったこともないし、5月2日の晩さの屋の前迄現金を受け取りに行ったことはありません。幾度聞かされてもやらない事はやらないというより外致し方有りません。
 犯人が持って行った手紙の字と私が今迄書いた字がよく似ていてそっくりだと字の先生が言っているという話を聞きましたが、私も先生の言っていることは信用致します。然しその手紙を自分で書いた覚えはありません。
 次に女関係ですが、To製菓で働いていた頃Eb・Kという女と倉庫番をした時関係してしまったと話しましたが、誰でもスケが居る、そのスケとは関係して仕舞ったと話しますでしょう。実際は2年もつき合いましたが一度も手をにぎったこともなければ関係した事は一度もありません。
 Ebは本年1月死んだという話を聞きましたが、私はその頃他にスケ(彼女)が居たから別に悲しみもしません。そのスケ(彼女)の事は言う必要がないから話しません。
 次に5月1日の手紙の事について又お尋ねですが、手紙を書いたり持って行ったりしたこともなく5月2日の晩、さのやの前へ金を受け取りには行きません。

(24)6月9日付員面調書清水利一

 彼女関係について前にもお話したように、スケ(彼女)とは絶対関係した事はありません。

(25)6月9日付検面調書原正

 Id・Kさんを辞める本件2月頃、Id・Yがトヨエースを運転し私が助手席に乗って入間川駅前を左に折れて少し行った附近で、前から来た原動機付自転車の運転手が下を向いてすれちがった時、私の方の自動車の後部と接触し、自動車にきずがつき塗料を塗る2000円の損害を受けたので、私は相手の男に文句をいって2回相手の顔を殴った。
 Id・Kさんを辞めたあと私は泊まる所がなくて困っていましたが、Th・Rが家は困るが家の前に停車させているトラックの中なら何時でも泊まってよいというので、本件3月7日頃の晩運転台で寝ました。寒かったので上下続きの作業衣を無断で着て寝ました。作業衣は無断で持出しそのまま着て遊びに行きました。友人のThから借りるという気持ちでした。3、4日して作業衣借りているよと言うとThはいいよ洗濯しておけと言っておりました。
 本年3月中旬頃私とTj・Aの2人で農家に行き鶏1羽ずつ2羽を盗み焼鳥にして食べてしまいました。

(26)6月9日付検面調書原正

 本年5月1日は、思い出しましたが、家を出る時働きに行くと言って弁当を持って出た記憶があります。弁当は西武園に行って食べました。
 私は報知新聞を見た事はありますが競輪の欄だけしか見ません。それも前日の配当を見るだけで選手の名前などは読めませんし、見ようとも思いません。前日の競輪で配当の多かった番号の組み合わせが例えば5―6だったとすればその日競輪で選手のことなどかまわずに5―6の組み合わせの車券を買っていました。
 私はその外に新聞を何回か買ってみた事がありますが記事を読む事はなくテレビの番組を見る為に買っていました。
 本年5月10日頃にも新聞を買って番組を見た事があります。
 その外にIdさん方に居る時平凡という雑誌を買ったことがあるが、読む心算ではなく、女の写真等を見る心算でした。Id・Yから自動車免許を取る為の本を一冊借りた事があります。その時Id・Yがこれ読んで試験の時は○・×をつければいいから読んでみろと貸してくれくれたが、私は本は読めないのでそのまま持っていたが、どうなったか判りません。
 問 君は子供、命、東、西武園、池、刑事、知る、友の漢字を書けるのか。
 答 私はそんな漢字は書けません。然し誰かが書いて見せてくれれば真似て書く事位出来るかも知れません。
 問 住所・氏名は漢字で書けるのか。
 答 それは書けます。
 N・Yさん方は同人が殺された後テレビを見ていたところ家の前に花輪が並べてある場面が写りました。そのテレビを見て、私はあの附近を何回か通っているので、ああ、あの家かと判りました。それでその前からN・Yさんやその家を知っていたのではありません。
 N・Yさん殺しの事件があった後でId・Kさんが入間川4丁目に来て私がキャッチボールをしていた時、私にお前がやったのではないかと言うので、私は俺ではないと言うと、血液型は何型と聞くのでA型と答えました。私は去年の12月頃日暮里で血を4回位売ったことがあり、1回目と2回目はB型と言われ、3回目はA型、4回目に行った時は又B型と言われました。A型と言われたこともあったのでA型と言ったわけです。
 問 A型とも言われ、また3回はB型と言われているわけで、B型でもあると何故答えなかったのか。
 答 A型といわれたことがあるからA型といっただけで理由はない。
 問 君がTo製菓で野球した時に貰ったタオルにTk食品工業株式会社と書いた物があったか。
 答 字が読めないからそういうのがあったかわからない。
 私は本年5月1日の午后7時過ぎ頃堀兼の方に行った事はありません。
 私を見たという人があったとしてもそのようなことがある筈もなく、その人が嘘を言っていると思います。
 私はN・Yさん方に投げ込まれたという脅迫状の写真にしたものを警察の人が見せてくれましたが、私の字に似ているなと思う字もありました。いくら似ていても私が書いたものではありません。
 私方には貰った手拭やタオルの新品の物を沢山納ってあります。私が仕事に行く時等、手拭を使う時は、家の者がとってよこします。私が勝手に新品を持ち出すと兄ちゃんから叱られた。Is米屋から貰ったものも納ってあったように思います。私がTo製菓から貰ったタオルも納ってありました。働きに行く時はタオルを持って行く事もあり手拭を持って行った事もあり、母ちゃんがよこしたものを持って行っておりました。タオルと手拭と2本も持って出た事はありません。
 問 君はボールペンを持っていた事があるのか。
 答 ボールペンを自分の物として持っていた事もなく、持ち歩いた事もありませんし然し私の家にはボールペンがありました。多分兄ちゃんの物と思いますが色は普通の青い色でした。

(27)6月10日付員面調書清水利一、遠藤三

 私が2月28日限りで止めて仕舞ってから自分の生家へ帰るまでの事についてお話し致します。
 豚屋の仕事は朝早くから夜遅くまで生き物の世話で重労働であるにもかかわらず給料は1万8千円で休みは月1回しかありません。それに3度の食事も茶碗に2杯しかなく、時によると忙しくて昼食を食べない事もあり、腹が空いて致し方ないのでパンを買って食べたり、飯屋へ飯食いに行ったりして1ケ月に相当の出費があり、月給を貰っても殆んど預金できず、生家の父ちゃんにも毎月5千円ずつやって居ましたから私の小遣銭は幾等もなく好きな競輪にも行けず金も張り込めなかったのです。私はIdさんと喧嘩したこともなく仕事もよくやって来たのですが、只今申し上げた様な状況で自分からやめてしまったのです。
 3月1日から3日までパチンコ屋や映画で遊んだりして、夜はId豚屋で泊まった。
 3月4日も同じように昼は遊び、夜何処へも行くあてがなく堀兼の佐野屋の処から沢の方へ抜ける山道でたき火をして夜を明かしたこともあった。その時北入曽の豚屋のOgさんと会ったので、先月一杯でId豚屋を止め夕べは行く処もなく此処に寝たのですと話した。
 それからは昼間は仕事がなく、パチンコ屋へ行ったり飯を喰ったりして遊び夜はTh・Rに断ってダンプカーに乗って夜を明かしました。
 車の中で夜を明かしたのは3月5日、6日の2晩だった。
 9日の晩はTjの友達のところへ行き、近くの百姓家から鶏2羽を盗んで来て3人で食べて、友達のところに泊まりました。
 3月10日の朝Tjと2人で北田おさむさんの家へ仕事でもあるかと思って行ったところ、植木職の人がお前ら2人共遊んでいて仕方がないから俺が北田さんに分からぬように百姓屋へ世話してやろう、連れて行ってやると言うので待っていたところ午後7時頃連れて行ってやると言って大きな百姓家へ連れて行かれました。家へ行く途中世話をする人が、2人は豊岡の百姓家に2人共3年以上奉公して百姓の仕事は何でも出来る、と言うのでお前ら調子を合わせろというていた。
 そのうちにおばさんは皆さんは豊岡の何処に奉公していたかと聞くので、2人は面喰っていると世話人が豊岡の何処どこだといいかげんな話をして調子を合わせてくれたのです。
 その時娘さんが私は豊岡も入間川もよく知っているという話をしたので私もTjもこれはうそがばれてしまうと思い嫌になってしまいました。私とTjはうそがばれたらまずいので行くのを止めました。
 私はその翌日(11日)自分の家に帰って親達に謝り六造兄ちゃんの仕事を手伝うという事にして家の人達に勘弁して貰い警察へ来るまで働いておりました。

(28)6月10日付検面調書瀧澤直人

 私は、去年の4月頃と6月頃の2回入間川のOnさんという自動車屋から月賦でオートバイを1台ずつ2台渡してもらい月賦金の支払いが終わらないうちにOnさんにだまって勝手に売ったり質に入れたりしました。契約書に判は押したが内容は読んでおりませんが、月賦の支払いが終わらないうちに勝手に質に入れたり、売ったりすることは悪いことだと思っていました。
 最初の1台は6万5千で買い、頭金3万わたして毎月1万ずつ払う約束で、1ヵ月乗ったあとI・Trに2万5千円で売り、オートバイを渡したが、5日位してTrが「痛んだから負けろ」と言ってきたので、「負けられない」と言うと車は返すので金を返してくれというので、金は一寸待ってくれとたのみ、車はNkさんに2万3千円で売りました。
 Onさんにはこの車を引き取って1月後に1万円払ったので、頭金と合わせて4万円入れたことになり、2万5千円まだ残っている。この車はNkが乗っていると思う。
 今話したヤマハの250をOnさんから月賦で買うことにして受けとってから5日か10日位してからまたOnさんからホンダのCB「250CC1台を12万円位で買うことにして頭金1万円払い、残金は1万円ずつの月賦で買うことにして品物は受け取って来て15日位乗って、あきたので質屋に1万5千円で入れ、この金はTらと競輪で使っていまい、15日位してI・Trから2万円借りて質屋から出してI・Trに売ろうとしたらOnさんが持って帰りました。この時Onさんが1万1千円よこせというので兄の六造がOnさんに支払いました。

(29)6月11日付検面調書河本仁之(請求人が署名・押印を拒否した調書)

 Yさんを殺したり、死体を埋めたり、脅迫状を書いたり、20万円取りに行ったりした事は3人でやった事です。
 問 3人というのは誰か。
 答 1人は私なのだがあと2人は言うつもりはありません。
 問 そういう事をやった場所は何処か。
 答 私の家の近くでない事だけは言えるが、その他のことは言いたくありません。
 問 死体を埋めた場所まで運んだのはどうやって運んだのか。
 答 自動車でなければ運べないでしょう。
   また私に言えることは死体が縛られていた筈はないということです。
 問 一緒にやった2人の名は何故言えないのか。
 答 私は義理人情を重んじる方で、もし事件の内容を詳しく言うとその相棒の名前も自然に判ってしまうのでこれ以上のことは言いたくありません。
 なお私は女との肉体関係は今迄やった事がありません。関係したいという気があまり起きないのです。だからYと関係したのは私ではありません。
 なお私は裁判になったらこの事件のありのままをすべて裁判所に申し上げるつもりで、その時にはこの事件で私がどういう事をやったか、又相棒達がどういう役目をしたかすべて申し上げます。5月1日のことは全部申し上げます。

(30)6月12日付員面調書清水利一、遠藤三(請求人が署名・押印を拒否した 調書)

 今迄何回も聞かれていますが、5月1日のN・Eさんの家へ届けられた手紙の字と私がTo製菓で書いたもの又警察で書いたもの、警察へ出した私の書いたもの等が同じだと字の先生が言っているそうですが、私も字の先生の言うことは信用します。私は裁判所へ行って全部言います。警察に居るうちはどうしても言えません。悪い事は隠し通せるわけでは有りませんから弁護士さん立会いで決りをつけます。人数が増えて警察では又大変でしょう。これ以上何を聞かれても言いたくありません。

(31)6月18日付員面調書山下了一、遠藤三

 Id・Kさんの所の豚の世話を半年位やり、本年2月28日にIdさん方をやめてから兄の鳶職を手伝ったり私の家の近くのKk・Yさんという土建屋さんの仕事をして現在に至っています。資産は私名義のものはなくお父っさんのものが宅地と瓦葺平家建居宅1棟、畑が2反位があり外のことは判りません。
 私の収入は兄ちゃんのところとKk・Yさんの家の仕事で月に2万5、6千円位になりますが、このうち1万円位を家の方に出して、残りはパチンコと競輪に使ってしまいます。
 私の好きなものは競輪とパチンコ、その他に野球と魚釣くらいなものです。
 本年5月1日の午後4時頃に上赤坂のN・Yさんを殺し腕時計や鞄、現金などをとったり強姦などをしたことがあるかということですが、その様なことはやったことはありません。

(32)6月18日付員面調書青木一夫、遠藤三

 私は去年の10月1日から今年の2月28日過まで堀兼のId豚屋に勤めました。私がいた頃には豚が150頭いて、何時もスコップが2挺位置いてありました。このスコップは私がいた頃は家の中のドラム缶の中に置いたり家の中へ立てかけて置いたこともあり、川のへりの道端にもドラム缶があってそこへ置いたこともありました。夜もそこへ置きっ放しにしたこともありました。豚小舎の入口には黒い犬が何時もつながれていました。
 この犬はよくほえ、よく喰うので「ガズ」とか「バカ」と呼んでいたが、私によくなついていました。ですから夜でも平気で入れます。
 私は御調べの事件は私と入間川の男と堀兼の男と3人でやったが相手の名前は言えません。それを言えばその人達が捕まるからです。このことは弁護士さんにも話しています。詳しいことは裁判所で話します。
 Yさんの家へ届けた手紙のことは裁判所へ行って話します。
 それから右足の親指のつけ根の下側に大きな「よのめ」ができているので靴や足袋をはいているときでも石などがあたると痛いのでなるべくそこを地につけないように歩くことがあります。

(33)6月18日付員面調書青木一夫、遠藤三

 私の知っているSyという家のことについて話します。
 私が知っているSyという人は私が小学校に行っている頃お茶摘に行ったHa・Yの家にFuさんという今35、6になる娘がありますがこの娘のむこがSyという人であります。私はそのお茶摘みの時Fuさんの家でお茶をごちそうになりそれがHa・Yの娘の家であることが分かりました。その家にはFuさんとSyさんとYmちゃんという28、9才になる男の子がいます。その他の家族は知りません。その他に小さい子がいるとすれば貰った子だと思います。というのはFuさんは私がお茶摘みにいった頃は結婚して2−3年経つのに子供ができないと言っていたからです。

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6 別件自白調書の総括

(1)請求人の家族関係

  本件当時の同居の家族は、                     
  父 富蔵(明治31年6月10日生。65才)
  母 リイ(明治34年2月22日生。62才)
  兄 六造(昭和11年2月3日生。27才)
  本人一雄(昭和14年1月14日生。24才)
  妹 雪江(昭和16年10月18日生。23才)
  弟  清(昭和20年3月25日生。18才)
  妹 美智子(昭和24年4月27日生。14才)
 ら7名であった。父富蔵は借地の畑作業をしたり、時に六造の鳶を手伝っていた。雪江は入間川のMk織物工業に、清は東京のLガムにそれぞれ勤め、美智子は狭山市立東中学校2年生であった。

(2)請求人の経歴(主として就労関係)と別件逮捕(昭和38年5月23日までの動行

 @ 請求人は出生地の入間川小学校5年生当時(10才)から所沢の百姓家に子守奉公に出されている。半年後には靴屋の見習いに行き、半年位して退職、父富蔵の農業の手伝いをするかたわら農家の手伝いをやり、18才頃、To製菓の工員として約3年8ケ月働いた。
 請求人がId・K経営のId養豚場で働いた期間は、昭和37年の9月末頃から昭和38年2月28日の間であった。
 請求人はId養豚場を退職した理由を、豚屋の仕事は朝早くから夜おそく生き物の世話で重労働であるのに給料は1万8千円で休みは月1回であった。3度の食事も毎朝お茶わんに3杯しかなく、時には忙しく昼食を食べない事もあり腹が空いて仕方ないのでパンを買って食べたり、飯屋に食いにいったりして相当の出費が重なる、預金も出来ず、父ちゃんに毎月5千円ずつやっていた(月1万という供述もある。)から私の小遣銭は幾らもなく好きな競輪にも行けなかった。しかし自分はIdさんと喧嘩したこともなくよく働き、Id豚屋にいる間を通じて4日しか休んでいないと供述している。
 上記Id養豚場で働く直前の昭和36年秋から翌37年6月までは、Nk組で土木作業員として働いている。
 A Id養豚場を退職後は、Id・Yの承諾を得て、同番小屋で、3月1日、2日、3日と3晩ほど寝泊りし昼間は遊んでいた。Id方を辞めたといえば父富蔵に叱られるからであったという。
 B 3月4日はたき火をして夜を明かした。
 C 3月5日、6日は友人であるTh・Rのダンプカーの運転台で夜を明かした。
 D 3月7日、8日は、友人でId豚屋で一緒に働いたTj・Aの家で泊まった。
 E 3月10日には、世話人を頼って農家で働くつてを求めて働くことになったが、世話人が、「2人は百姓家に3年いてなんでもできる」などといいかげんな話をしているのを聞いていて、うそがばれてはと思い嫌になり働きに行くのをやめ、その晩もTjの家に泊まった。
 F 3月11日には自分の家に帰って、父親に謝った。その後は六造兄ちゃんの仕事をやり、今度警察につかまるまで手伝っている。
 G 4月から5月は、私の収入は兄ちゃんのところとKk・Yさんの家の仕事で月3万5千円になっていた(昭和38年5月23日付員面調書山下了一。同年6月18日付員面調書山下了一では、2万5千円)。
 H 4月末から5月逮捕までの間の就労関係は、4月29日と30日には近所のM・Siさんの家に屋根の張り替えに行った。
 I 5月1日には「兄ちゃんの六造と午前8時頃に近所の菅原4丁目のM・Siさんという40過ぎの家に働きにいき午后4時頃に仕事が終わった」(5月24日付員面調書山下了一)。
 J  「それは嘘でした。ほんとうは金を持っていたのでつい仕事をするのが嫌になりパチンコでも仕様と思い朝飯を食べて家を出て午前7時10分頃入間川駅から西武園駅で下車、2時間位いて所沢へ出て東莫という大きなパチンコ屋で遊んだあと入間川に戻り、午後7時半頃帰宅したのです。その日はゴム長靴を履いていた」(5月24日付員面調書清水利一)。
 K  5月2日は午前7時半頃起きて朝飯を食べ昼頃までかかって玄関前の犬小屋を作り、昼食後にKm・Yさん24才と入間川の映画館へ行き「こまどり姉妹の未練心」を見たが私は涙を流した。
 L 5月3日午前中はMのSyちゃんらと入間川小学校へ野球の練習に行き、お昼からは兄ちゃんらとM・Knさんの家へ仕事にいった。
 M 5月4日は家から東方約3百米の畑の中でN・Yさんの死体が発見された日であるが、M・Syさんと魚釣りに行きそのあとHg・Aさんのお母さんから死体が見つかったということを聞き、M・SyさんやI・Taさんらと東里の死体の埋めてある場所へ見に行き、死体を掘り出すのを見たが、死体は担架に乗せられて何処かへ運ばれていったので顔形は見ていない。私はその時報道陣から写真をとられたが、あとで近所の人から私がテレビに写っていたと聞いた。
 N 5月5日は、キャッチボールをした位で入間川の市外には行っていないと思う。
 O 5月6日からはずっと、近所のM・Knさんのコンクリート仕事や家の建前(むねあげ)に行き、5月22日までかかっていた。
 P その間13日、14日、15日の3日間はKk・Yさんの鳶仕事をやっ た。
 Q そのほか20日頃の2日間はTuさんの家の風呂場造りをやった。申し落としたが雨の日は休んだし、5月19日の日曜日は半日で仕事を仕舞いM・Syさんと狭山湖の野球場へ見物に行った。
 以上は別件逮捕までの請求人の就労関係ならびに日常生活についての本人自らの素描である。他の証拠に照らしてほぼ正確なものと判断される。末尾添付の「昭和38年2月28日から同年5月22日までの請求人の生活状況一覧表」を参照されたい。

(3)別件事犯の特徴について

 別件起訴された事犯のうち、昭和37年4月にTz小型自動車販売有限会社狭山営業所から軽自動車(オートバイ)1台を代金6万5千円で月賦購入したのち、同年6月中旬I・Trに売却したという「横領」など(昭和38年6月13日付起訴状第9、第3、第4)を除いて、他の事犯はすべてId・K経営の養豚場に勤務していた際のもので、うち6件は共謀事犯である。それらのほとんどは養豚場オーナーId・Kの差配のものといえる。
 また別件各事犯にはおよそ計画性がみられない。「横領」にしても、同一型車を乗りまわすことにあきたからであったというのが主たる理由である。
 請求人はId養豚場を退職した理由を、待遇が悪かったからと説明しているが(昭和38年6月10日付員面調書清水利一)、たしかにそれもあったであろうが、加えて兄の六造がいうように(原2審第16回公判六造証言)「Idのところの若い者がね、人を脅迫したり結局は暴力をふるったりすると聞いたのでIdのところをやめるように言ったことがある。」ことも理由の一つであったと推測される。六造の弟への思いやりをみることができるものであるところ、請求人がこれを契機に、父富蔵に謝って家に戻るという一件落着は、石川富蔵一家のしきたりや暮らし方を偲ばせる。

(4)請求人の月収について

 昭和38年5月当時、「3万5千円」(昭和38年5月23日付員面調書山下。同6月18日付員面調書山下では2万5、6千円。)を得ている。
 ちなみに『値段史年表』(週間朝日編)によると昭和38年当時の小学校教員の初任給が1万4千3百円、巡査の初任給が1万6千円、パチンコの貸玉料は50個2円であるから、パチンコ、競輪を少しだけひかえれば、預金も可能であったろうし、オートバイ1台の月賦支払いも決して無理ではなかった。父には月々5千円から1万円をわたしている。

(5)オートバイ1台の「横領」について

 請求人にしてみれば、いよいよとなれば支払えるとの判断もあってのことである。このことで狭山に住めなくなると恐れている気配はなく、ましてや売り逃げして狭山から飛び出ようなどとは全く考えていなかった。その証拠に「横領」前後の生活態度(Id養豚場の仕事に従事していた)にはなんらの変異もみられない。前記したようにId養豚場では、仕事を休んだのは「4日」だけであった。
 請求人のId養豚場退職後の生活状況には、前記一覧表から窺う限りにおいては、若気の脱線もあるが、通常の勤労生活に戻っていたと評価できる。
 たしかに請求人の物心ついてからの就労関係をみるに、ひとところに長続きせず、転々としているようにみえるが、「競輪・パチンコに凝り身を持ち崩している」(6月16日付逮捕状請求書添付別紙)ような生活状況は発見されえない。狭山を離れることもなく、とにかく働いている。『俺はもうダメだ。借金・遊興費のため食い詰めた。ここには住めない』などという逼迫した状況はみあたらない。

(6)別件自白調書に出ている「嘘」の供述の意味について

 @ アリバイについて
 T 5月24日付員面調書山下了一(1回調書)
 請求人は、恐喝未遂事件に関与していない理由を「その訳は……5月1日は兄ちゃんの六造と2人で午前8時頃に菅原4丁目のM・Siさんのところに行って午後4時頃まで仕事をしたからです。」と述べたというのである。
 U 5月24日付員面調書清水利一
 請求人は「5月1日の行動について昨日から何回も聞かれていますがM・Siさんの家へ兄六造と仕事に行ったというのは皆うそです。」とアリバイ主張を即日撤回している。上記経緯から推認するのに、確定判決のいう「アリバイ工作」も、真犯人が罪をのがれんがためのものではなく、当面する捜査の煩わしさをかわすという軽いものであった。このことは「真犯人」としての請求人がいい出したアリバイ工作でもないし、関連の第三者を巻き込んでいないことからも明らかである。
 請求人は嘘のアリバイを申し立てた理由としては、前記のとおり供述し、しかもその内容は一貫している。ところで同日の帰宅時間を午後7時半頃または午後7時頃であった旨、また終日ゴム長靴をはいていたと供述している点は留意されるべきポイントである。
 なお請求人は父親からアリバイの話があった日を、「5月3日か4日の夜のこと」(5月26日付員面調書清水利一)と供述し(6月1日付検面調書原正では7日か8日頃という)、六造からのいいつけは「5月6日か7日夜」(5月28日付員面調書清水利一)のことであったと供述している。
 ところで「嘘」のアリバイ供述では、帰宅時間を「午後4時頃」と供述していたところ、嘘を撤回して素直に事実を述べた供述では、一貫して、「午后7時頃」または「午后7時半頃」に帰宅したと供述している(5月24日付員面調書清水2回、6月1日付検面調書原および6月18日付員面調書山下、遠藤)。検察官は冒頭陳述書において5月1日、「午後9時30分頃自宅へ帰った」と主張している。
 請求人の家族の供述をみるに妹雪江の昭和38年5月24日付員面調書梅澤茂(末尾添付)では、「5月1日…午後7時頃一夫兄さんが(家に帰って)来たので、一夫兄さんはどこかに行って来たのだと思う」旨、また同人の6月9日付検面調書小川陽一(末尾添付)においても、「5月1日一夫兄さんは、午後6時頃夕食の時にはいなかったが、午后7時頃六造兄さんが家を出て行ったがこの時は一夫兄さんは家にいたように思う。六造兄さんが家を出るのと入れ違い位に帰ってきたのではないかと思う。」と供述している。
 弟石川清は、「午后7時頃に一夫兄さんは帰ってきた様に記憶している」旨(なお午前中の請求人の動静については明らかに思いちがいがあるようである。)、「また一夫兄さんが1日の午後どこでなにをしていたかアリバイがないので心配をしている」旨、同人の6月9日付検面調書小川調書では「兄一雄は午後7時ちかくに帰ってきたように思います。」、また同人は6月15日付検面調書小川(末尾添付)において「前回申した様にこの日兄一雄は午后7時近くに帰ってきたように思う」旨。妹美智子の6月28日付検面調書小川陽一(末尾添付)では「5月1日の夜一雄さんやその他の家の人が何時頃帰って来たかと言われても現在は全然記憶がない。」旨各供述している。
 5月1日夕方頃の請求人の帰宅時間を家族の供述をもとに確定することはできないから、請求人が嘘のアリバイ供述撤回後に供述しているところの「午後7時頃」または「同7時半頃」に帰宅したという事実は、雪江らの供述に照らして一概に信用できないと判断するわけにはいかない。もとより雪江らが5月1日の請求人の帰宅時間について口裏をあわせたものでないことは以上引用の各供述内容からも明らかである。また請求人の「午后7時頃」帰宅したという上記供述を頭から嘘と決めつけられない関連事情として、嘘のアリバイを供述した同日付調書の中の「5月2日には自宅で犬小屋作りをやった」(5月24日付員面調書山下)という事実については、友人Km・Y(原2審第15回証言)によって裏付けられているということである。
 このようにして別件自白調書に述べられている各日にちに何があったのかについての請求人の記憶は、嘘のアリバイを除けば、出鱈目とか嘘ではないかと疑う節はみあたらず、むしろ事実であったと判断され、この文脈において請求人の5月1日の帰宅時間は午後7時頃であったと認定して差しつかえないこととなる。
 かくては5月2日の夜の請求人の行動についてもその説明を虚構ときめつけることはできないこととなる(「一覧表」参照)。すなわち5月1日、2日の在宅時間の関連において、本件犯行と請求人との結びつきに疑いが生じてこざるをえない。
 A 別件自白調書における他の「嘘」について
 別件自白調書の中の他の「嘘」(6月9日付員面調書清水利一)は女性との肉体関係についてである。確定判決は本件犯行を隠すための嘘と邪推するようであるが、自白撤回後に、『不利な』情況事実が本音として明らかにされた場合であって上記邪推はあたらない。
 「嘘」の部類に属する他の事項として別件自白調書の5月27日付員面調書清水利一において、「私は昨日To製菓その他勤務先や出先では絶対書いた紙1枚もないと申しましたがそれもうそですから訂正して下さい。」、「私は会社へ等1枚もそんなものは書かない等と偽りを言ったのは別に理由は有りませんが、有るものも無いという性分で…私の性分は…白いものでも黒いと一旦言えば絶対黒と言い通して仕舞います。」と言ったとされている。
 さらに嘘に属するものとして、同清水調書において「この前の調べの際に学校泥棒のことをはなせといわれましたが話せなかったが夜学校で下駄1足を盗んでいる。」との挿話がはめこまれる。
 上記それぞれの「嘘」は、いずれもいま問われている犯罪とは全く無関係のことである。「紙」についてはなんのことか理解できないまま「思い出せない」と答えたかもしれないし、また隠すことが犯罪になるわけでもないのである。女性関係を隠すことは、その女性のためにも、また男として気恥ずかしさもあって伏せたということもあったであろう。「下駄1足」の盗みも10年も前の14才の頃のことで、泥棒とは考えなかったことでもあろうし、あるいは「下駄1足」を恥じて伏せたということもあったのではなかろうか。
 上記主張は請求人をかばうための弁護人の独断ということではない。司法研修所発行の「事実認定教材シリーズ第1号」の「供述心理」(183頁以下)はゼーリッヒの所説を引用している。
 「然し、被疑者の虚言的供述は、否認と自白の領域外においても、即ち重要性のない付属事情や前歴においても発生する。これらの虚言は、それが虚言であると証明されると、即座に、一般的不可信憑の微候として評価され易いのであるから、無実者と雖も種々の理由からかかる虚言を使用するということを知っていることが重要である。」というている。ゼーリッヒは例として、「自己の些細な弱点、特定人との性的関係を曝露しないため、又は真実の回答が訴訟手続上何か不利益に評価されはしまいかとの恐れのため」などをあげている。つまり無実者であっても虚言のありうることを指摘している。マックス・ヒルシュベルクもその『誤判』(68頁から69頁)において、多くの裁判官が本能的に、「嘘」を「有罪証拠」として取り扱い誤判を生じさせている実例をあげている。
 別件自白調書から上記にいう各「嘘」を除外すれば、──人間の記憶であるから誤りもあろうが、(事実として野球をした日にちなどについて友人の記憶との間に食い違いが生じている。)──請求人の同供述には、意識的な嘘は皆無といえる。
 これを総括して、請求人は昭和38年2月28日にId養豚場を退職したのちは、父に叱られることをおそれてId豚屋の番小屋や、あるいは友人宅を転々とし、時には鶏を盗んだり、友人の作業衣を盗んだり(実質は無断拝借)しているが、結局は六造の口添えのもと、父富蔵に謝りをいれて、3月11日に自宅に戻り、それ以後は、別件逮捕された5月23日の前日の5月22日まで主として兄六造と鳶の仕事に従事し、その月も、前記のように、金2万数千円から3万円分働いている。現実に金員を手に入れてはいないと読み取れる供述もあるが、それは警察の誘導であって、約束だけの空手形では請求人は働かないであろう。これにつき反対証拠は存在していない。
 別件自白調書中には、3月12日頃から4月中の(29日を除く)労働関係の具体的供述が抜けてはいるが、父に謝りをいれ、六造の手配によって働くことのできるようになった請求人が、この間、遊びほうけたとは考えられない。Id・K(2審第15回公判証言)やNk証言(1審第6回公判証言)によっても、請求人が労働を嫌悪したというていない。仕事は積極的にやり、労を惜しむことはなかった旨各証言している。この期間の供述が欠落しているのは捜査官が訊問しなかったか、訊問しても調書として残さなかったかのいずれかであって、仕事は続けていたと推認されとくに反証は存在しない。

(7)埋められない溝(疑い)について

 われわれは率直にいうて、請求人を本件自白にかかる犯人とは措定できぬ一つの越えられぬ溝につきあたる。すなわち、別件調書における自供(別件第1乃至第9の事実ならびに恐喝未遂についての否認)の各内容と本件自白の間には埋められない溝が横たわっているということなのである。
 良識ある人ならすぐに気付くことがある。それは犯行の「動機」に関する供述が嘘ではないかということなのである。本件犯行への動機としての、「金20万円の中から父に借金を返し、残りを持って東京へ逃げて行く」という、そこへ請求人を追い込んだ逼迫の事情を、別件の各自供調書からは遂に見出すことができないということなのである。もとより一概にこの「動機」を荒唐無稽ということはできず、抽象的にはあり得ない「動機」ではないが、この動機を生じさせる客観的、具体的な生活状況を、請求人が述べる別件調書の供述記載からは、もとより第三者の供述・証言からも発見することができないということである。

(8)この点を証拠によって考えてみたい。

 原1審判決は本件犯行に至る動機として
 「前記の如く父に迷惑をかけたことや、被告人の生活態度などが原因で、兄六造との間がうまく行かず、同人から家を出て行けといわれ、父富蔵も被告人をかばって六造と仲たがいするなどとかく家庭内に風波を生ずるに至ったので、被告人は、いっそのこと東京へ出て働こうと思い立」ち、「20万円を喝取したうえ、内13万円を父富蔵に渡し、残金を持って東京に逃げようと考えるに至った」(傍点は弁護人。なお上記認定部分が7月6日付青木一夫・長谷部梅吉調書のまる写しであることは驚くべきことである。)旨、確定判決も、上記要点は認容し、ただ、
 「『それについては父に迷惑をかけた13万円を返さなければならないと思っていた』からその資金調達のため、本件犯行を思い立ったという原判決の認定は強きにすぎる」(「強きにすぎる」とは、主たる動機ではないが、心のどこかにはその思いもあったのであり事実誤認ではないという趣旨であろうか。同裁判官の神通力はたいしたものである。弁護人)
 と認定している。
 いずれにせよ、確定判決(同判決は原1審判決を修正するが、かえって動機がなんであるかをわかりにくくしている。そのいうところは要するに、「兄六造と仲たがいしているところへ吉展ちゃん事件を知り、ここに誘拐を思いたった」と述べるのみであって、あたかも「動機」は「吉展ちゃん誘拐事件」にあり、「金に困った」とか「金が欲しくて」という動機はみあたらないというている。これでは「動機」の説明になっていない。手段と動機と取り違えている。誘拐は手段であって『欲望』ではない。原1審の作文の方がそれなりに理解しやすいのではなかろうか。)も原1審判決も「家庭内に風波が」たえず、「六造と仲たがいとなり、出ていけといわれた」ため、居たたまれずに「逃げよう」(傍点は弁護人)と思いたったという点は動かないということになっている。
 しかしながら先に引用の各別件調書のどこにも、そういう陰悪な事情が家庭内にあったことを窺わせる事実は出ていない。同調書を読むかぎり、きちんと仕事につくことができ、合間をみて犬小屋を作り、野球見物をやり、魚釣りに行き、映画を鑑賞し、時には友人とキャッチボールをやり、時には、父や兄に嘘をついて仕事をさぼってパチンコ、競輪に行くという、もとよりお小遣いもそれなりに自由にできたのであって、長閑な、屈託がない(『優雅』といえば「強きにすぎる」ことになる。)、毎日であったのである。「逃げよう」などとは、三文的作文としかいいようがない。動機がつかめないための裁判官の焦り、勇み足というべきではなかろうか。
 父のもとへ帰ったのちの請求人の心情を忖度するに、豚屋を退職したあとの約10日間の、山の中で火をたいて一夜をあかしたこともあったという生活から、六造の口添えもあって、頑固・正直一点張りの父の許しを得てのちは、なつかしい畳の間で、家族にかこまれ、布団にくるまって楽しい夢をみる日々であったといえよう。この実感が請求人の心身を落ちつかせたにちがいない。友人だちとも、いわば「垣根ごしに声をかけあう」生活を取り戻したわけである。
 他方、取調べの実情だが、別件逮捕された5月23日から6月18日までにかぎっても、この27日間(員・検面調書をふくめ計33通)の、本件自白を求めての捜査官の追及は秋霜烈日ではいいつくせぬ厳しいものであったと推認される。
 5月23日と5月29日にはポリグラフ検査にかけられているところ、捜査当局は別件逮捕に名をかりてYさん殺しの自供を狙っていた。〔註・捜査官がポリグラフ検査の実施を伏せようとしていることは、中勲(本部長)の「記憶がない」(原2審第39回公判)とか、清水利一の「1回は使った」(同第44回公判)とか、遠藤三にいたっては、「ポリグラフ検査をしたことは知らない」(同第56回公判)などという各証言に照らして明らかである。5月23日の逮捕の即日、ポリグラフ検査を実施したということは、県警本部がYちゃん殺しについて万全の準備のもと自白を得ようと構えていたことを示すものである。〕
 加えて、別件9件は、それぞれに裏付け証拠が整えられており、また請求人としてはやったことはやったこととして、別件を隠すつもりは毛頭なかった。記憶どおり、よどみなく認めた〔註・末尾に添付の請求人の写真は、昭和38年5月23日早朝逮捕された際のものであるが、このキョトンとした顔つきは、やんちゃもんの面影もあるが人殺し、強姦、死体遺棄をやった人間の顔ではない。よくある上衣で顔を隠したいという雰囲気は全くない。とくに本人自身も犯人として疑われ、報道のものから写真を撮られたことを嫌なことだと感じていたとすれば、一層この印象は当たっているのではないだろうか。松川事件において「犯人の目ではない」という作家の心証が問題とされたが人間の六感は以外と当たるものである。〕。
 請求人は働いた日にちや作業内容、友人との出合いもしっかりと思い出し、正直に供述した。警部(主任捜査官)清水利一によって、請求人としては、自分では「嘘」をついたわけではないのに「嘘」をついたことにさせられ、(アリバイ供述を別として)それだけに請求人は、ほぞをきめて本当のことを「正直にお話しする」気になっていたのである。

(9)別件調書中に恐喝未遂関連の供述記載は以下に示すとおりであるが、これから推して、捜査官からどれほど多くの昼夜を分かたぬ追及が請求人の上にやってきたことか推測がつくというものである。供述記載は氷山の一角にすぎない。請求人はのちにふれるように、調書の署名押印の拒否でもって抗議している。

 5月24日付員面調書山下了一、5月1日のアリバイ、嘘の供述
  同日付清水利一のアリバイ撤回供述
 5月25日付員面調書清水利一
  「手紙を書いて持っていったのは私ではない」
 5月27日付員面調書清水利一
  「おどかしの手紙書いた覚えはない。私は書かないものは何処迄行っても書かないという丈です。」
 6月2日付員面調書清水利一
  「N・Yさんもそのお父さんも知らない。Nさんの家だけは知っています。あの辺はよく知っています。」(註・6月9日付検面調書原では「N・Yさんやその家を知っていたのではありません。」とある。)、「私は幾度聞かれてもNさんの家へ脅しの手紙を書いた覚えもないし持って行ったこともありません。」)
 6月9日付員面調書清水利一、遠藤三(1回)
  「幾度も申し上げた通り手紙書いたこともないし、現金を受け取りに行ったこともない、幾度聞かれてもやらない事はやらないと言うより外致し方ありません」、「手紙の字を私が今迄書いた字がよく似ていてそっくりだと字の先生が言っているという話を聞きましたが、私も先生の言っていることは信用いたします。然し私はその手紙を自分で書いた覚えは有りません」、「5月1日の手紙を書いたり持って行ったことはありません。5月2日の晩、さのやの前へ金を受取りには行きません。」
 6月9日付検面調書原正
  「問 君はA型とも言われ又3回ともB型と言われているわけだからB型とでもあると何故言えなかったのか。答 A型と言われたことがあるからA型と言っただけで理由はない。」、「N・Yさんの家に投げ込まれた脅迫状の写真を警察の人が見せてくれたが、私の字に似ている字があるが、いくら似ていても私が書いたものではありません。」
 6月11日付検面調書河本仁之(署名押印拒否)
  「脅迫状を書いたり、20万円取りに行ったりしたことは3人でやったことだ。死体は自動車でないと運べないでしょう。私が言えることは死体が縛られていた筈はないということです。」
 6月12日付員面調書清水利一、遠藤三(署名押印拒否)
  「N・Eさんに届けられた手紙の字と私がTo製菓で書いたもの、又警察で書いたもの等が同じだと字の先生が言っているそうですが、私も字の先生の言う事は信用します。私は裁判所で全部言います。悪い事は隠しとおせるわけでは有りませんから弁護士立会で決まりをつけます。」
 6月18日員面調書山下了一、遠藤三
  「5月1日にN・Yさんを殺したり、腕時計や鞄、現金などをとったり強姦などをしたことはありません。そのやらないというわけは5月1日はゴム長ばきの格好をして…東莫というパチンコ屋で遊び午後7時に家に帰りました。」
 6月18日付員面調書青木一夫、遠藤三(1回)
  「お調べの件は私と入間川の男と堀兼の者と3人でやったのです。このことは弁護士さんにも話しています。詳しいことは裁判所で話します。Yさんの家へ届けた手紙のことは裁判所に行って話します。」
 6月18日付員面調書青木一夫、遠藤三(2回)
  「私の知っているSyという家のことについて話します。その家にはFuさんとSyさんとYmちゃんという28、9才になる男の子がいます。その他の家族は知りません。その他に小さい子がいるとすれば貰った子だと思います。Fuさんは結婚して2、3年経つのに子供ができないといっていたからです。門に標札があったかどうかわかりません。家の地図を書いて出します。」
 恐喝未遂に関連しては以上11通の存在が認められるが、捜査官としては、「幾度も申し上げた通り」とあるように、請求人の筆跡と脅迫状の関連については筆跡鑑定書(昭和38年6月1日付、同6月10日付)を入手していたこともあり、動かぬ証拠がここにあるとつきつけ、自供を求めたことは当然の成りゆきであったにちがいない。しかし請求人は、身に覚えのない犯行についてはきっぱりと否認をつづけた。ついには、署名押印を拒否して身の潔白を主張している。ところで上記11通をかかげた理由は、恐喝未遂と平行してYさん殺し(本件犯行)の「動機」について追及がどのようになされたかを前者との対比において明らかにしたいと考えたからである。ことばを変えていえば本件犯行への「動機」を生じさせるに足る生活実情がどのように説明(「自供」)されているかという問題である。予期に反して、本件犯行に走るらざるをえなかったことを窺わせる生活状況や、借金返済のための工面、困惑、焦り、苦痛は別件調書には一切出ていない。

(10)別件調書における「家庭の中の風波」と「借金」に関する自供について

 @ 6月3日付員面調書山下了一
 T 昭和37年4月初め頃Onさんからヤマハオートバイ1台を月賦で買った。頭金として3万円支払い、その後は3カ月間毎月1万円支払い、最終回分として1万5千円を支払う約束であった。月賦で買ったものを支払いの途中で売ることは悪いことだとは知っていた。その日現金で3万円を支払い家には乗って帰った。
 U その年の6月30日頃Onさんが金を受け取りにきたので私の家で1万円支払い、残金は2万5千円となった。
 V そのオートバイはその年の6月中旬頃にI・Trに2万5千円で売り、1万5千円もらっている。
 W その4、5日後にI・Trから調子が悪いからまけろといわれ、私が断ると、I・Trはオートバイを返すので金を返してくれというて置いていった。
 Y その約1カ月後Nkさんにこのオートバイを2万3千円で売った。この金をTrさんに入れたがこの時点でもOnさんに支払いが残っていた。
 Z 転々と売ったが、金に困ったことや、車にあきてしまったので売ったのです。
 A 6月10日付検面調書滝澤直人
 T 昭和37年の4月と6月頃に自動車セールスのOnさんからオートバイを計2台月賦で買った。
 U 最初は4月か5月頃で6万5千円で、頭金3万円を支払い、1万円ずつ払う約束だった。1カ月乗ってI・Trに2万5千円で売り、車をわたした。5日位してTrは「痛んだ。負けろ」というので、車は引き取って、金は待ってもらい、このオートバイをNkさんに2万3千円で売った。この車のOnさんに支払う残金は2万5千円で、車は今Nkさんが乗っている。
 V 今話したヤマハ1台をOnさんから月賦で買って5日か10日後にまたOnさんから今度はホンダのオートバイ1台を12万円位で買い、頭金として1万円払って、残りは月1万ずつを月賦で支払うという約束で車は受け取り、15日位乗ったがあきてきたので、質屋に1万5千円で入れ、この金は競輪で使った。その15日後でI・Trから2万借りて質屋から出し、I・Trに売ろうとしたところOnさんが車を持って帰った。この時Onさんに兄の六造が1万1千円支払っている。
 以上の各供述から明らかなように、請求人が他人様に借金の形で迷惑をかけたのはオートバイに関してだけであったということである。
 上記オートバイ2台に関しての請求人の自供に関連する証拠としては、
 @ 昭和38年5月13日付On・Mの員面調書があるが、その供述内容をみるに、Onが2台目のホンダ1台を引きあげ、代物弁済をうけた事実や、その際六造から最初のヤマハ1台の残金の支払いを受けた事実につき供述していない。供述したが、捜査官が記載しなかったのかもしれない。
 A 同日付齋藤貞功の員面調書にも上記事実関係が欠落している。
 B 昭和38年6月1日付I・Trの員面調書
  (要旨・5万円はI・Sから返してもらい全部済んでいる旨。)
 C 原2審第16回公判石川富蔵証言
 要点として、I・Sを立ててI・Trに5万円返した。5万円のことで石川一雄を怒ったことはない。5万円返したのが去年かどうか覚えていない。金13万円を石川一雄のために立替えて支払ったことはないなど証言している。
 D 原2審第16回公判石川六造証言
 「I・Trに5万円支払い、Onさんは車1台を引きあげ、その時、請求の金1万円幾らを支払い車2台の関係はそれで解決済である。」旨。
 オートバイ2台をめぐっての請求人の「借金」が結局のところどうなったのかは、以上の各証拠を総合して明らかなように、昭和37年中に上記「借金」は全部解決ずみであること、加えて石川富蔵が請求人のために、金13万円を立替え払いしたなどという事実は存在せず、また「5万円」を立替え払いしたことで、父富蔵が請求人を叱りつけたり、返済を求めた事実はなかった等々である。富蔵はこの点について「去年かどうかもおぼえていない」と証言する。その程度の些事にしかすぎなかった。もとより反証は存在していない。
 六造証言からも窺われるように、請求人の「借金」なるものはただオートバイについてのものだけであり、たしかにそのことで父親に叱られ家を飛び出てId養豚場で働くことになったのであるが、同豚屋をやめて父富蔵のもとに戻ってからの請求人の生活は前述したように、それなりに落ちついたものであった。「借金」全部について前の年にけりがついていたからである。
 ところが、別件調書には影も形もみえなかった事実が、本件自白後に、突然変異としかいいようのないふうに出ている。7月6日付青木一夫、長谷部梅吉に対する自供調書がそれである。
 「3月10日頃持っていた金も使ってしまってどうにもしようがなくなってしまったので、家へ謝って入れて貰いました。おとっつあんは『よく帰って来た』と言ってくれたが兄ちゃんとはこの頃からうまくいかなくなってしまいました。それから私は兄ちゃんとけんかをするようになってしまったのです。そして兄ちゃんは私に家を出て行けと言ふようになりました。そして聞いたところによると、姉が嫁に入っているI・Sさんのところへ『どうしたら私を家から追い出せるか』と相談に行ったということです。その事がわかったのでお父っあんは『一雄を出すんなら六造も出て行け』と怒りました。4月の20日頃そんなことで家の中がごたごたしました。私はその時自分が家を出るから6月迄家へ置いといてくれと話しました。私はその時板橋の姉さんのところへでも行って働こうと思っていました。けれども家を出るにはいくらかでも金が欲しいと思ったので子供をつかまえて親から金を取ろうと考えたのが始まりで今度のようなことになってしまったのです。私は今計算してみるとおとっつあんに払って貰ってある金が大体で13万円位あると思います。その金は車代7万円位、修理代4万円位、その他2万円位であります。私は家を出るについてはこんなにお父っあんに出して貰った金も返し、その他に自分で5万円位持って行けばよいと思ったので20万円ということを手紙に書いたのです。」。
 前の年にけりがついた借金がまたぞろ亡霊のように出現して請求人を苦しめることになったというわけである。奇妙な話ではないか。
 これが作文であることは判然としている。六造がいつ、どのようなことから「出て行け」と請求人に言い出したのか具体性がないし、裏付け証拠も存在していない。請求人自身も同調書の別のところで、「借り貸しのしまつがついたのが去年の9月」というている(同調書5項)のである。
 翌年3月11日には六造の口添えで、家に戻ったという事実関係のもとで、よくせきの事態発生でもないかぎり、六造が「出て行け」と怒り、ましてや「追い出す方法を親せきに相談した」などということはおよそありそうにもないことなのである。
 六造は2審第16回公判で「弟がどこにいるのかさがしていた、」とし、弟の居場所がわかったあとは「同級生のId・K方に、ものをもってあいさつにいった」旨、また「悪い評判を聞いたので、たまたま出会った弟にそこをやめたら」と忠告もした(いずれも弁護人が要約した。)と証言している。
 再三指摘しているように、請求人は父富蔵のもとへ帰ってのちは、「品行方正」とはいえないにしても、新たに借金をする羽目になったとか、まわりから愛想をつかされ口を聞いてもらえない鼻摘み者というわけではなく、むしろ「映画にいこう」、「魚釣りにいこう」と誘ってくれる仲間を得ている。一体どこを押せば、家から「逃げ出そう」などと思いたつ、差し迫った事態が出てくるのか。
 原1審や確定判決は、それぞれに、前記7月6日付員面調書(請求人の迎合的虚構の自供で捜査官との合作と認められる。)の作文に依存しながらも、「動機がちょっとわからないが、まあ…」と自分をもだましつつ押し切ったのではなかろうか。
 ところで以上の問題から当然に派生する問題として、動機の内容が定まるところなく変遷するということである。つくられた動機をそこにみることができる。これを要するに「動機」が非体験の虚構であったればこそ、供述の都度、その時の気分やちょっとした誘導によって動機の内容が変遷することにならざるをえない。

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7「注意則」による本件自白の信用性の検討

 「注意則」は最高裁判例(鹿児島夫婦殺人事件、大森勧銀事件など)の中に判示として具体化されており、また裁判官に対する実務の参考書として(たとえば司法研修所編「自白の信用性」)、さらには学者、研究者の著述(「無罪の発見」渡部保夫教授など)としてほぼ定式化されている。まず動機から考察する。

(1)本件自白の動機が虚偽架空のものであることについて

 既に検討したところから合理的に結論されるように、請求人には本件犯行に至る動機が存在しない。
 父富蔵からの金13万円の借金なるものは存在しない。作り事である。また請求人が昭和38年4月ごろに、「兄六造から出ていけといわれた」とか、六造が「請求人を家から追い出す方法をI・Sに相談した」などという事実は、虚偽架空の事実であり、これらを裏付ける証拠はひとつとして存在していない。家出の原因を家庭内のごたごたや風波がたえなかったことに帰する各判決の認定はいずれも作文である。とくに再三いうように家から「逃げよう」などと思いたつに至る状況は、請求人の身辺には存在していない。
 請求人は3月11日に父富蔵のもとに戻ってからは非行をやっていない。このことは別件9つの犯行年月日に照らしてもいえる。父富蔵のもとに戻ってのち別件逮捕の5月23日までの間に、たとえば請求人をいじめたり、追いつめている人物はどこにも発見され得ない。六造もそういうことはやっていない。あらたに借金した事実もない。父富蔵から立替金の返済を請求された事実もない。
 せっかく戻った家から「逃げ」出さねばならない理由はどこにもみあたらない。請求人を誘拐犯人に仕立てあげねばならぬ捜査官としても、そして有罪認定へと押し切ろうとする原1、2審の裁判官にとっても、「逃げ」出そうとするところまで辿りつかなければ事件が始まらない、あるいは判決の起承転結がしっくりとしなかったにちがいない。ありもしない「動機」を作文する。これは恐ろしいことである。もっとも1、2審の裁判官のハートは「公判自白」によってどっかり占領されていたにちがいない。この心証から各証拠をながめれば、すこしぐらいの「勇み足」も許されるということになる。「『合理的疑い』などあるものか、押し切ってしまえ」と。弁護人らも、そこらあたりの心情は理解できないわけではないが、もとより歯どめがある。「合理的疑いをこえた証明」とか、「疑わしきは被告人の利益に」という原理・鉄則である。狭山事件については、自白をふくめ有罪証拠に存する疑いのすべてが、「疑わしきは被告人の不利益に」ということになっている。本補充書全体が明らかにすべきことも、この一点に尽きるというて過言ではない。
 以下において「動機」内容の変遷をピックアップしてみる。

 @ 6月23日付員面調書青木一夫・遠藤三
 「私がこの時自転車をとめたのは急に若い女が来たのでむうっとなってつれて行ったのです。むうっとしてというのは、おまんこをしたくなってという意味です。」
 「私がこの娘を山の中へ連れて行こうとしたわけはおまんこをしようと思ったので若し言うことをきかなければ腕づくで無理にでもやってしまおうと考えて(中略)『やらせろ』といいました。すると『嫌だ』と言って逃げようとしたので手拭かタオルで娘の手を後手にしばりました。この時その娘は大して騒ぎもしないで嫌だ嫌だと言っただけでした。」
 「それから私はその娘を仰向けに倒しました。その時その娘、Yちゃんは『キャー』と大きな声を出しました。」
 A 6月24日付員面調書青木一夫・遠藤三(2回)
 「私が今度Yちゃんを殺すようなことになったのも吉のぶちゃん事件のように巧く子供を誘拐して競輪に使う金を取ってやろうと考えたことからであります。」
 B 6月29日付員面調書青木一夫・遠藤三
 「この前は若い女をみてむうっとなってつれて行ったと言いましたが、それもありましたが、私はこの女を捕まえておいて金を取ってやろうという考えで捕まえたのです。」
 C 7月1日付検面調書原正
 「突嗟にこの女学生を山の中に連れ込んで木に縛りつけておき、吉展ちゃん事件の様に脅かしの手紙を女学生の家に届けて金を取ろうと思って、女学生を呼びとめたわけです。勿論殺すとかおまんこをする心算もありませんでした。」
 D 7月2日付検面調書原正(1回)
 「私は子供を連れ去って脅かし、20万円取る事を考えましたが、20万円取ったら、7万円はおとっつあんに支払い、Onさんに修理代金2万5000円を支払って残り10万円位を持って東京に逃げる心算でした。」
 E 7月6日付員面調書青木一夫・長谷部梅吉
 「私はこの前話しをした時は競輪がやりたくて金が欲しかったからだと言いましたが、それは嘘で家の中のぼろを言いたくなかったからそう言ったのです。(中略)私は今度計算してみるとおとっつあんに払って貰ってある金が大体で13万位(中略)、出して貰った金も返し、その他に自分で5万円位持って行けばよいと思い…」
 F 7月3日付検面調書原正
 「問 君は子供を連れ去って金を取る事は何時やる計画だったのか。
  答 何時やるという計画はありませんでした。」
 G 7月7日付検面調書原正
 「然し、パチンコや競輪ではそれ程金を使ったわけではなく、勿論パチンコや競輪で家の者に迷惑をかけた事はありません。オートバイの事で父に7万円位金を出してもらい、…ガソリン代も入れると全部で13万円位は出してもらったので…おとっつあんに迷惑をかけたその金を払ってやりたいと思った…」(註・7月6日付員面調書青木一夫・長谷部梅吉では、「ガソリン代」は出ていない。)
 H 7月8日付検面調書河本仁之
 「20万取ろうという気持ちと同時にYちゃんの持っている金目の物も取ってしまおうという気もありました。縛ってから取る気になったと話した事もあるが、良く考えてみると縛る前から、縛っておいて金目の物を取ろうという気持ちもあった…。それはその頃私が大変金が欲しかったからその場で…金目の物をとろうという気があったからなのです。」
 I 7月1日付検面調書原正(2回)
 「問 女学生に顔をみられておれば脅かしの手紙で家の人から金を取っても直ぐ発見されるのではないか。
  答 私は、木に縛っておき、直ぐに脅しの手紙を女学生の家に届けてその晩(5月1日の夜12時)金を持ってくる様命じて金を取ったら女学生をはなして直ぐに東京へ逃げる心算でした。」
 以上は捜査段階における動機内容の変遷を明らかにしたものである。「父に迷惑をかけていた13万円…」という動機は、時間の経過につれて最終的に本当らしくまとめられたものであることがよくわかる。当初は性的動機一点張りとなっている。別件自白調書の分析から明らかであるように、「父への返済…」などという気持ちは請求人としては全く頭になかった。そもそも「借金」をどうするかなど毛頭気にかけていなかった。6月23日付員面調書青木・遠藤(2回)においては請求人は、詫び文言までも書いたと自供し、反省・悔悟のうえの真相告白という形をとっている。その際の、誘拐の動機は、「おまんこ」をやりたいの一点に徹している。

(2)動機の変遷が本件自白の非体験性をきわめて分かりやすく裏付けていることについて

 @ ところで、犯行の「動機」というものは、犯行態様などとは異なって証拠が収集されるにつれ、徐々に明らかになっていくといった性質のものではない。したがって、動機に著しい変遷がある場合は、直ちに、非体験性への疑惑につながっていかざるをえないのである。本件は咄嗟の激高による殺人とか、いわゆる強姦事件ではない。まぎれもない身代金請求の誘拐事件である。真犯人の供述であるかぎり、そして請求人が犯人であれば、危険を犯しても、金を手にして「高飛びせねばならぬ」などののっぴきならぬ事情が、本人の供述から、あるいは本人から出なくとも周囲の人間の口から自然とそれらしい口吻があらわれ出るものであろう。
 本件にあっては、再三再四指摘してきているように、このような生活実情はどこにも出てこない。もとより誘拐事件に固有の周到なる計画や下検分などを窺わせる動静は何ひとつとして証拠上発見されえない。「当てもない」、気軽なヒッチハイクの途上から生じた、現実にはありそうにもない誘拐事件であった。バイロンにして、事実は小説より怪奇なりではすみそうにもないのである。6月23日付青木・遠藤調書(2回)が、「反省と悔悟」のもとでのそして詫び文言まで残したという自供調書となっているその中での、本件犯行の「動機」が「おまんこ」の一点張りとなっていることを、どのように解すべきであろうか。
 率直にいって似非犯人としての供述者は、本件犯行の動機としては若者にありがちの「セックス」以外には、思いつくことができなかったのであった。このことは「身代金を求めて子供を誘拐せざるをえない」ための、どうにもならない金銭欲、つまり大変な危険を犯してまでも身代金を要求せねばという逼迫性が、彼の身のまわりには、当時、存在しなかったということを示している。これはどうにもしようのない彼の生活の実存であった。
 著名な誤判研究者が、「まともな自白は燕の飛ぶように一直線にすっと」、「虚構の自白は蝙蝠が飛ぶようにあっちこっちと定めがたい」旨比喩されている。はたと膝を打つ思いである。
 本件自白の動機は既に強姦・殺人を自白した犯人のそれとしては、上記ピックアップ部分を読むだけで、これが「反省と悔悟」のうえでの真相告白か
 と疑わしくなるというのが、──というよりこれは嘘だ──と感じとるのが
 通常人の生活感覚というものではなかろうか。「おまんこ」から始まって、「競輪の金欲しさ」となり、しかし、この自供も、「実は競輪で金に困っていたわけではない。」と変更され、あるいは「身代金のことで頭が一杯で殺すとかセックスとかは頭になかった。」(7月1日付検面調書原正。要旨)とか、「むうっとなった(セックスへの衝動)ことにあったが、実は父の借金13万円のうち7万円を返し、5万円(他の自供では10万円ともいうている)を持って東京へ逃げようと思い立ち」というふうに、動機内容が変容していく。その変容は、これが果たして同一人の供述かと思わせるほどに不安定なものである。率直に申し上げて、裁判官として、このような場合、どの内容がありそうであるのか、判断がつかないのではないか。まじめに考えれば考えるほど、この自供は本当の犯人の告白なのであろうかと強い疑いをいだかれるのではなかろうか。
 本件が金銭目当ての誘拐事件であるとすれば(当時の地元の報道によればそれは偽装であって、身内もからむ戦慄の事件と見る向きもあるが。)、6月23日付告白において、詳細なる告白はともかく、まっ先に、「金が欲しくてやりました。」というこの「真相」が、あたかも燕の飛翔のごとく捜査官の胸に飛び込んでくるというものであろう。とくに自供によると、吉展ちゃん事件にヒントを得たとさえいうのであって、最初の「動機」が「おまんこ」とはいかにも不自然・不可解ではないか。
 本件における動機告白の変遷を辿る人は、「納得いかない」との実感を、百人が百人いだくこと必定である。
 なお、動機告白についての興味ある供述部分をあらためて、重複して引用する(7月1日付検面調書原2回)
 問 女学生に顔をみられておれば脅かしの手紙で家の人から金を取っても直ぐ発見されるのではないか。
 答 私は、木に縛っておき、直ぐに脅しの手紙を女学生の家に届けてその晩(5月1日の夜12時)金を持ってくる様命じて金を取ったら女学生をはなして直ぐに東京へ逃げる心算でした、と。
 動機の核心は、「父への借金を返すことにあった」というのであるが、ほんとうはその気は毛頭もなく、上記の検面調書では、うまくいけば、その足で「20万まるまる持って逃げていく計画であった」というているのである。むしろこの供述の方が誘拐犯としては、いかにもありそうな自白と判断される。請求人としては、突然に「まっとうな」質問をうけ、これまでの動機供述を失念し、「そうだ、顔を見られたのであるから、金をとったら一目散に東京へ飛んで逃げる計画だったといわねばおかしいことになる」と気付いたものか。いずれにせよ、非体験供述であることがはっきりとしてくるのである。別の面からいえば、嘘を押し通すには並はずれた記憶力と気力がいる。最前の嘘はどうだったのか? と。請求人の自供は、見事に馬脚をあらわしている。「父への借金を返して」は真っ赤な嘘である。請求人は捜査官の入れ知恵から「小説」を書いたが筋を忘れたということであろう。さらにひとつ。検察官の「いつやる計画であったか」という問に、「何時やるという計画はなかった」と答えている。では「4月29日」と書いた本当の意味は? 真犯人なら打てばひびく答えを出せるのではなかろうか。しかも毎日脅迫状を持ち歩いていたということはどうなるのか。「毎日、今日はやるぞという計画でした」とでも答えるべきか。いずれにせよ、ありそうにもないことである。
 弁護人らは動機の虚構性の一点において、請求人は無実であるというつもりはない。ただ、「動機」について真犯人のそれとしては拭いがたい疑いが残ると主張しておく次第である。はたして「告白」の冒頭に生じたこの疑いは、他の自供によって解消されていくのであろうか。
 A 上記の動機に関する疑いは、犯行の態様に関する自供によって解消されるどころか一層深刻に深まっていくのである。
 「反省と悔悟」のもとで明らかにされた殺害方法は、「タオルによる絞頸」であった。
 6月23日付員面青木・遠藤調書(2回)において次の供述記載がある。
  犯人 「やらせろ」
  被害者 「嫌だ」
 というて被害者が逃げようとしたので手拭かタオルで娘の手を後手にしばりましたが、まだ嫌だ嫌だというのでその娘を仰向けに倒し(中略)、自分の首に巻いていたタオルで夢中でYちゃんの首をしめてしまいました。騒がれたので私は夢中で首をしめたのですが、初めは両手でしめその端を自分の右手で押さえ私の左手でYちゃんのズロースを膝の辺りまでおろし(中略)、私は右手でずっとタオルの両端を持って首をしめていました。私がよくなって、やり終わってから気がついたらYちゃんは死んでいました。」と供述される。上記タオルによる絞頸の方法は、どのように維持され具体化されていくのか(以下の引用は要旨、要約にとどめる。)。
 ところがである。2日後の6月25日員面調書においては、強姦・殺害の前に「タオルでYちゃんの目かくしをしました」ということになる。6月23日付員面調書(2回)では、「首をしめた凶器はタオルであって、このタオルによる絞頸のため被害者は遂に死に果てた」と自供している。ところが先に引用の6月25日付員面調書では、「実は被害者の生前彼女の目隠しをするためタオルを使用した」というわけである。自供の重大なる変更である。はたして辻褄は合うのか。つまり6月23日付の自供のように、タオルによる絞殺を維持するためには『うっかりしていました。実は生前、目隠しにこのタオルを使用したことをお話ししていませんでした。目隠しのあと外して、このタオルで首をしめて殺しました』ということになれば一応の辻褄は合う。しかしこの文脈でいけば、目隠しから外したタオルでしめ殺して、さらに、死体にタオルで目隠しをして埋めたというところまで説明しなければ、死体発掘時の状況と一致しない。ここに大いなる混迷が発生してくる。自白はこのなりゆきを、手際よく説明しているのだろうか。ところが「外して、しめ殺し、しめ殺したあと、また目隠しをして埋めた」という説明は一切ない。
 この混迷を解決する方法は、「タオルによる絞頸」を永遠に葬り去ること以外にはない。そうでもしなければ、説明がつかなくなる。
 6月25日付員面調書の殺害方法は、「その時ずっと右手で(6月23日では「右手」はタオルの両端をもって首をしめつける役割を担っている。)Yちゃんの首を上から押さえつけていました。そして私が押さえつけていた右手を外したのは私がおまんこをやっていい気持ちになる前でした。そしてやり終わってみたら、…もう死んでいました。」、「もしかして生きていやしないかともう一度見にいったが、Yさんは目かくしのままでいました」
 6月25日付検面調書原2回では
 「私は声を出さないように右手の親指と外の4本の指を両方に広げて女学生の首に手の平が当たる様にし、上から押さえ…、気分がよくなりおまんこをやめて気がついてみるとぐったり動かず女学生は死んでしまったと思った」
 旨、以後は右手による扼殺に固定され、「タオルによる絞頸」という殺害方法は消されてしまう。
 上記の経緯のもとで裁判官各位におかれて、自供された殺害方法がタオルによる絞頸か、右手による扼殺かについて、確信的な心証を形成することが可能であるのかどうかとお伺いしたいのである。というのは、「絞頸」から「扼殺」への変更におけるその変更の理由が一切説明されていない時にどちらが真相であるのか、心証のとりようもないのではないかと案じられるからである。
 「請求人よ。君のいうタオルによる絞頸死と右手で首を押さえての扼頸死とは、どちらが本当のことですか。」ということが解決しないかぎり裁判官の認定もぐらつかざるをえない。
 各決定の動揺は以下のとおりである(各決定の事実誤認と新証拠の明白性は別に正確に論証されている。)。

(3)殺害方法における自白の変遷の意義について

<第1次再審の特別抗告棄却決定>(引用は本論点から必要なものだけにかぎられる)
 「申立人の自白を検討すると、殺害方法について6月23日付員面調書では『自分の首に巻いていたタオルで夢中でYちゃんの首をしめてしまいました。』と供述し、6月25日付検面調書では『右手の親指と外の4本指を両方に広げ女学生の首に手の平が当たるようにし、押さえた』と供述している。元来、犯人の供述は任意・真実のものであっても、犯行が長時間に及んだり、行為態様が種々に変化している場合、激情を伴っている場合など、犯行の一部が欠落し、混乱することが少なくない。そのような見地から絞扼併用の可能性もあるのであるが、自白は必ずしも各鑑定に反するものとはいえず、記憶の混乱や一部欠落によって、その絞頸、扼頸の一部を断片的に供述したといい得る。絞頸の可能性を全面的に否定することについては問題があるとしても絞扼併用の可能性を認める鑑定の所見と自白との間に重大な齟齬はない。」旨。

<第2次再審の請求棄却決定>
 @ 殺害方法に関する請求人の自白内容を見ると、…当初には、タオルで絞頸したと述べ、その後は一貫して、手掌で扼頸した旨述べ、第1審公判廷においては、単に、捜査官に述べたとおりである旨を答えるにとどまった…。自白内容の変化がどのような事情から生じたのかについて、捜査当時あるいは第1審段階において、請求人に対して質された形跡はなく、その点について請求人自身の説明も記録上残されていない。しかしながら、劣情に駆られて被害者を押し倒し、その抵抗を排除して姦淫するとともに、頸部を圧迫し、窒息させて殺害したという本件犯行の態様に照らし、犯行当時かなり興奮し、動揺していたであろうことは察するに難くないのであり、捜査官の取調べに対して姦淫と殺害の犯行の一部始終をありのまま供述したとは考え難く、供述時に、多少とも記憶が混乱し、あるいは一部亡失し、またあるいは意識的に供述を端折るなど、供述内容に不正確な部分が生じているであろうことは、むしろ当然のことと考えられるのであって、自白が実際の犯行の模様そのままをすべて物語っているとはいえない。
 A 仮に、所論指摘の上山第1、第2鑑定書などの判断のとおり、前頸部の褪色帯が軟性索条物による圧迫痕であり、軟性の索条で絞頸が行われたと認めるべきものとしても、これは、所携のタオルで絞頸した旨述べた当初の自白内容とは符節が合うのであり、また、絞頸の後で、更に、手掌などで頸部を扼したと推認することも、死体の状況から無理なく可能であると認められ、自白も存在するのであるから、請求人の自白内容が、死体の状況から推認される殺害方法ないしその態様と懸隔が甚だしく、あるいは矛盾を来たし、この点に関する自白が虚構であって信用できないということには、当然にはならないというべき。
 たとえば、被害者を押し倒して姦淫しようとしたところ騒がれそうになったので、夢中で自分のタオルを被害者の頸部に巻き付け、両端を左右の手で持って絞め、声をたてるのを防ぎ、その途中でタオルから片手を離して下半身の着衣をゆるめるなどして姦淫行為を容易にし、残る片手でタオルの上から被害者の頸部を扼しているうちに窒息死させたという事態も、本件において十分想定され得ると考えられる。
 軟性索条物による絞頸が行われた事実があったと仮定してみても、このことから直ちに、請求人が、殺害の方法ないし態様について自分の経験していない虚構の事実を自白したとはいえない(弁護人・ちなみに本決定は石山鑑定を直接的には引用しない。)。

<第2次再審の異議申立棄却決定>
 本決定は原決定を引用し、新味といえば石山イク夫(イクは漢字)作成の平成元年2月23日付鑑定書を最高裁判所判例を根拠に正面から引用し、次の認定を展開した。

 @ 石山鑑定書を引用して次のように判示した。
 「被害者の死体の着衣状態で扼頸作用が加わったとした場合に最も考えられるのは、ブレザーとブラウスの襟を一緒に掴んで頸部を強く圧迫するとか、ブレザーの襟を掴んで圧迫した際にその下のブラウスの襟部分を巻き込んでしまうことであるが、それによって、主としてブラウスの襟の一部が後頸部と上背面の部分を水平に圧迫することになり、しかも外頸静脈が前頸部において圧迫されるので、後頸部における著明なチアノーゼの発生を無理なく説明できるとともに、C1の発生機序についても、C1の位置が胸骨の上方約9センチメートルのところにあることから見て、ブレザーの襟を掴んで扼頸作用を加えたりすれば丁度この部位に襟の縁が位置することとなり、被害者が頸部を左右に振ることによって、この部分に擦過性の表皮剥脱が発生することとなるから、C1は扼圧性のものである。
 頸部に存する着衣を介して外力作用が加えられたのであれば、軟らかい布状物が作用したのと同じような痕跡しか残らないわけで、扼痕や爪痕がなくとも不自然ではない、と説明している。結局、石山鑑定書は、頸部扼圧を死因とした場合に剖検所見と矛盾する点がないことを確認し、死因は頸部扼圧及び着衣の一部の頸部絞圧作用とみることができる旨鑑定している。」
 A 原決定が殺害方法に関する請求人の自白内容を検討した上、仮に、所論援用の鑑定書、意見書の指摘するように、軟性索条物による絞頸が行われた事実があったと仮定したとしても、これは被害者の頸部に加えられた暴行が絞扼の併用である可能性もあるというものであって、このことから直ちに、請求人が、殺害の方法ないし態様について自分の経験していない虚構の事実を自白したとはいえないと判示しているのは、関係証拠に照らし是認できる。と。

(4)以上の認定をふまえ考えてみたい。

 確定判決に対する上告棄却決定においては、「タオルによる絞頸」という自白を引用してはいるが、殺害方法としては黙殺する。第1次再審請求棄却決定ならびに同異議申立棄却決定も、上記上告棄却決定に帰順し、「タオルによる絞頸」という自供そのものを黙殺する。
 そこで第1次再審の特別抗告棄却決定においてはどうなっているのかが問題となる。同決定は上田第2鑑定の明白性を認めながらも、結論として原決定を正当のものとした。その判示はすでに述べたとおりであるところ、その論旨は、あやふやであり、精密なものではなくかつ、その論旨は透徹していない。判示部分を要約して掲げる。
 すなわち、自供された殺害方法としては、「自分の首に巻いていたタオルで夢中でYちゃんの首をしめてしまいました。」(6月23日付員面調書)というものと、「右手の親指と外の4本の指を両方に広げ女学生の首に手の平が当たるようにし、声が出ないように上から押さえました。」(6月25日付検面調書)という自供がある旨、そして最後2つの殺害方法の間には差異のあることを前提として、要約するに、これは絞扼併用として処理すればよいことで、いずれかが「身に覚えのないことを自供したことにはならない。」と結論づけた。この「身に覚え…ならない。」というところが、同決定の言いたい本音であろう。
 そして「身に覚えのないこと」を自供したことにならない理由として次のように判示したわけである。これを再掲するに、
 「いわんや、申立人が全く身に覚えのないことを誘導又は強制によって供述させられたものとは到底認められない。以上検討の結果によれば、絞頸の可能性を全面的に否定することについては問題があるとしても、殺害の方法について絞扼頸併用の可能性を認める鑑定の所見と申立人の自白との間に重大な齟齬があるとはいえず、したがって、右各新証拠は、申立人が犯人であることに合理的疑いを生じさせるべき明らかな証拠とはいえない」と。
 種々理屈をならべるが、要するに上記判示部分は一般論でもって具体的状況を無視し、有罪へ押し切ったものであって、自白の変転の状況を具体的客観的に分析し、各供述証拠との整合正(目隠し→外して殺害→さらに死体に目隠しして埋めたことになるという犯行手順の一貫性)を検討したあとは全くみられない。
 このことは次の点を指摘するだけで充分である。
 仮りに「タオルによる絞頸」という自白、殺害方法を採用するとして、次のような不合理が生ずる。
 まず、確定した自白の大筋のみを述べると、「被害者にその生前タオルで目隠しをして、足払いをかけてころがし、そこへ上から乗りかかって、首を右手でずっと押さえつけて強姦をやり、気持ちよくなった時には死んでいた。そのあとタオルで目隠ししたままの死体を農道に埋めた」という次第であるところ、上記決定のいうように、「タオルによる絞頸」をつまみぐいすれば、「首を絞めたというタオルは最初の目隠ししたそのタオルなのか、タオルは別にもう1本あって計2本あったということになるのか、あるいはタオルが犯行当時1本しかないとすれば、最初に実施したという目隠しのタオルを外して、これで首を絞めて殺し、絞め殺したあとそのタオルで、再び、死体を目隠しをして埋めた」ということにならざるをえない。
 同決定は、このもつれを誤魔化すために「元来、犯人の供述は、…」という一般論を持ち出たとしかいいようがないのである。
 次の、松川事件における判示は上記論点の整理に有意義なものである(第1次上告審判決。判例時報194号14頁2段以降)。
 「もちろん、人には記憶違いや錯覚ということがあり得うる(中略)。しかしそれには理由がなければならないし、ましてや前記のような、重要にして、事いやしくも自己の行動に関する事項について記憶違いをしたり、錯覚を起こしたりするというが如きは甚だ稀な事象であると考えざるをえない(中略)。上記のような供述の変更や虚偽は取り調べ官から尋ねられた際、ただひたすら迎合的な気持ちから、その都度、取調官の意に沿うような供述をしたことによるのではないかとの疑いさえあって」というのがそれである(ただし多数意見)。
 本件についても、「タオルによる絞頸」が取調官への迎合による(傍点は弁護人)非体験の自供の可能性は多いにありうることであるし、また「右手で首を強く押さえつけて殺した」という自供が、取調べ官において既に入手し検討ずみの、昭和63年5月16日付五十嵐死体鑑定書による扼頸をもとにした、しかもそこでは具体的特定の方法を示しえないものであるだけに、捜査官の想定のもとでの誘導の公算きわめて大なることを否定しきれない(なお、「元来、…」の中で、「誘導又は強制」は例示するが『迎合的な気持ち』を外しているのは芸がこまかいというべきか。)。
 見逃しえないことは、自供(6月23日付タオルによる絞頸)は、「タオルによる絞頸により死んでしまっていた」とし、他の自供の6月25日付員・検面調書の場合も、「右手で首を強く押さえつけていたら死んでいた」という供述であって、「あれとこれとを『併用』して死に至った」ということではない。別個独立の方法で「殺した」、いわば2度殺したという場合なのである。つまり前後において同一場所での、同一時点での、同一の自供とは到底考えられないところの、殺害方法における重大なる変更があったこと確実な場合なのである。
 「併用説」は、上山・上田鑑定などの明白性を隠蔽せんがための誤魔化しであって、確定判決が鼻にもひっかけなかった「タオル」を時の氏神とばかりに引っ張り出したものであるが、見え透いたことをするものである。それにしても「タオルで絞頸した」という自供から「扼頸」したという変更を「殺害方法についての自供の変更」とは評価しない。いかなる理由によるものか。これが「隠すより現われる」ということであろう。
 確定判決の自白論からすれば、「タオルによる絞頸」こそ「嘘つき」の最たるものであると吹聴すべきとろ、一切触れずじまいである。確定判決はいうている。「ところが被告人は捜査段階において、被害者を強姦しながら右手の親指と他の4本指とを広げて頸部を強圧したというのであるが(中略)、死体の状況と上記被告人の自白との間には重要な齟齬があるとは認められない」と。
 これは反面、「『タオルによる絞頸』という殺害方法に立つかぎり自白と死体の状況との間に重要な齟齬が生ずる。したがってこの自供は採用しない。」ことを認めたものであった。「タオルによる絞頸」という殺害方法は、確定判決において「邪魔」な自供として切り捨てられているのである。
 ところが第2次再審請求棄却決定は確定判決が見限った「タオルによる絞頸」をいままた持ち出してきている。
 新証拠の証明力を前にして、右往左往のていたらくである。
 原決定はどうなっているのか。そこでは「タオル」の「タ」も出ていない。ただしふんぎりは悪い。いかにも思い切れないふうにみえる。「絞扼の併用」なる語を用いて前述の特別抗告審決定への帰順をみせ、他方で原決定をかばう。しかし同決定は、その内実において「タオル」を捨てている。すなわち石山鑑定に頼りながら、一見「絞頸」の痕跡のように見えるのも、「ブレザーの襟をつかんで頸部を圧迫」したことにより生じたもので、この場合、「軟らかい布状物が作用したのと同じ痕跡が残る」として、各新証拠の明白性を、ここでもまた否定しようと躍起である。
 以上の検討を通じて小括すれば、別件自白調書によって動機の虚構性が裏付けられる関係から出発して、万年筆奪取の虚構性へ、さらには殺害方法への虚構性へと進み、ここに至っては本件自白調書の信用性がきわめて乏しいものであることをそれ自体の分析によっても立証しえたといえるわけである。先に各論的ごとに別に論証されている、いわゆる「自白を離れて存在する客観的証拠」における証明力の否定・減殺を併せ評価するとき被告人の無実性はまことに明瞭となる。補強証拠の検討から自白へ、自白からさらに補強証拠の再検討という綿密なる作業を通じて、確定判決における合理的疑いの発生はいまや否定できないというべきである。

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8 木綿細引紐と荒縄について

(1)木綿細引紐及び荒縄に関する自供が捜査官の誘導であることについて

 昭和38年5月4日付大野喜平作成の実況見分調書には「頸部は木綿の細引紐がひこつくし様に後で締められていた(同添付写真22、23、24号)とし、また「死体の上にあった、太い4本合せの荒縄」と記載されている(荒縄の長さの計測値について、Nk方及びSn方にあった原物と押収物との間に差があり、その同一性にも疑いを指摘しうるがここではとりあげない。)。
 上記木綿細引物と荒縄が本件犯行に供されたことは確実であって、請求人が犯人であるかぎりその出所、使途が一義的に明らかにされてしかるべきところ、関連する自供と客観的事実との間に、大きな食い違いが生じている。
 まず出所について検討する。
 以下は自供の要約である。
 @ 「私はそこから縄を探しに行ったが、Yさんを縄でしばって穴の中へ下げておくため、人の住んでいる家の方がよいと思って家のある方へ行った」(6月25日付員面調書青木・遠藤)
 A 「それからそこから50米位はなれた北側の新築中の家のまわりに張ってあった縄と梯子のそばに置いてあった麻縄のような縄を取ってきた」(6月29日付員面調書青木・遠藤)
 B 麻縄も一緒に盗みましたが、その麻縄は倒してある梯子の附近にありました」(6月27日付検面調書原)
 これらを要約するに、「本件犯行に使用の縄と麻縄(木綿細引紐)は民家から同時にとってきたもの」と一貫して自供したとされている。
 いまそこで女学生を強姦・殺害した犯人がその直後に、警戒心もなく「人のいる家の方へ行った」という事態が、そもそも経験則上理解しにくい。真相を述べたものであろうか。たしかに、「人のいる家の方へいった」旨の自供は捜査官による誘導の産物であった。
 つまり、捜査官としては請求人逮捕以前に、死体発掘時に荒縄が死体に巻きつけられた状況を確知しており、当然にも、捜査官は付近の民家から「荒縄」がなくなったにちがいないとの想定でしらみつぶしに付近の民家をあたったとみられるところ、確定審14回公判におけるNk・E、Yg・Mさらには同50回公判における将田政二の各証言によって、捜査官がNk方現場付近から荒縄が紛失したのを知り得たのはおそくとも5月10日までと判断される。
 Nk・Eは、
 「新聞をみた5月4日か5日頃、縄が5月2日頃失くなったことを聞き込みの刑事に話した。警察は何度も来て…」、「1日に何回も聞きにきた」、旨、
 証人Yg・Mも
 「死体発見の日〔「人が殺されたとかいうことで人が走って行った状況を見たその日くらいの日(註・5月4日)」〕からすぐに縄のことを刑事にきかれて(なくなっていることを)はじめて気がついた。」旨、また同証人は細引紐を示され、「何回も聞かれているが、その紐は5月1日当時現場にはなかった」旨はっきりと証言している。
 ところが証人長谷部梅吉(当時刑事調査官)は、原2審9回公判において弁護人の、
 「証人自身が、被告人を取調べるようになる前までの間に、警察としては、その縄がどこからでできたかわかっていたか」という問に、
 「わかっていなかったのではないかと思います。」
 「捜査員が聞込みに行かなかったのではないかと思います。」と証言する。
 つまり長谷部は、「捜査官は荒縄の出所について誘導できる筈もない」と否定しているわけであるが、Nkらの証言によって、上記長谷部証言の嘘であること、そうでなくとも事実の誤認であることが証明されている。なお将田政二も、「捜査の当初に盗まれたらしいという報告があった」としぶしぶ認めながら「まあ被疑者の自白によって特定できたわけです。」(50回公判)旨偽証している。
 再度強調するが自供調書では
 「麻縄(木綿細引紐を指していることは確定判決判示からも明らかである)は荒縄と一緒に盗んだが、それは倒してある梯子の附近にあった」(6月25日付員面調書青木・遠藤)
 「縄を探しに行った時、同じ建築現場の梯子のあった所に麻紐があったのでとってきた」〔6月25日付検面調書原(2回)〕旨
 自供している。
 請求人の木綿細引紐などについての自供が捜査官の誘導によるものであることはNk・Ygらの供述によって断定でき、その真実性に強い疑いの発生していることは事実認定のABCであろう。
 すなわち「同一の場所から同時に盗ってきた」という2つの物について一方の「荒縄」については、誘導の産物というほかはなく、もうひとつの方の木綿細引紐については、盗ってきたという場所にはそもそも存在していなかったというのであり、常識からすれば、これら自供が非体験の架空の供述であることは直ちに気付くことができるのである。そうなると本件犯行の死体処理に使用されたことの確実な荒縄と木綿細引紐と被告人とは結びつくことはできず、ひいては請求人と本件犯行の核心である殺害行為との結びつきに強い合理的疑いを生ぜしめることになる。
 そこで確定判決は、「本件の木綿細引紐で被害者の首を絞めて死を確実にしたことが露見するのを情状面からおそれて出所を秘している。子供の誘拐を狙っていたという筋からして、犯行前から木綿細引紐を持ち歩いていた。」(要約)にちがいないと認定した。しかし自供はそうなっていない。
 自供では、死を確認してのちに死体処理のための用具を探しに民家の方へ行って麻縄を盗ってきたというのであるから、殺害犯行時に木綿細引紐はいまだ手にしていないことになっている。いかにも乱暴な認定というほかはないのである。本件の確定判決には、「鑑定結果」にあわせて自供を有罪方向へつくりかえるという、恐怖の悪癖がある。その一つが「木綿細引紐を持ち歩いていた」ということ、その二つ目が、秋谷鑑定結果と万年筆の奪取時期などに関して決行された自白の捏造である。
 批判にかえて、肯綮に中る最高裁判所の判決例をかかげる。
 「思うに、本件事案の核心である実行行為そのものに関する自白に、裁判所としては、想像をまじえる以外では解決しようのない矛盾点があってもなお、捜査中の自白を信用しなければならないものだろうか。それは全く、被告人らが真犯人であると先ず決めてかからねばできないことであって自白の真実性を慎重に吟味する合理的な態度ではない。」(松川事件第2次上告審判決齋藤朔郎裁判官の補充意見。判例時報346号19頁3段目)
 本件の確定判決は想像をまじえ、あえて自白をつくりかえるところまでつきすすむのである。
 請求人が本件犯行の犯人でないことは、請求人と木綿細引紐及び荒縄との結びつきが完全に否定されていることからも明白である。

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9 脅迫状作成に関する自供が架空であることについて

 脅迫状の筆跡と請求人の筆跡に同一性のないことはこれまでにも、種々の観点から論証され尽くしている。ここでは、自白調書の検討を通じて「作成」という行為そのものがきわめて疑わしいものであることを考えてみる。

(1) 請求人の自白調書によると脅迫状を作成したという日は、当初の5月1日(6月23日付青木員面調書)から「4月28日」へと変更される。変更の理由についての説明は一切なされていない。
 「4月28日」に作成した旨の自供の根拠は、関根・吉田筆跡鑑定書において、訂正前の日付を「4月28日」と誤読したことに起因する、捜査官らによる自白の誘導以外には考えられない。前記のとおりである。
 別件自白調書において、「4月28日」に何をしていたかについて、請求人は「午前中友人と野球をした」旨、友人らは、「野球は30日であった」旨供述し、必ずしも一致しないのであるが、それにしても、当時の4月末に、魚釣り、友人らと野球をして遊ぶという長閑な、屈託ない生活実情にあったことは否定できず、「4月28日」に脅迫状を作成したあと、この脅迫状をズボンのポケットに入れて出歩き友人らとキャッチボールをして遊んでいたという情景は、ありそうにもないことであって、本当だろうかと疑わざるをえないのである。

(2)「吉展ちゃん事件のように金をとろうと思って」脅迫状を作成したというのであるが、漢字については一丁字も目にないほどの請求人が、吉展ちゃん事件とは全く異なる方法である、電話ではない脅迫状を作成し、これを用いて身代金を奪ってやろうと発想したなどということは、いかにも現実的ではない。後知恵であろう。
 『りぼん』を用いたという動機も、固有の筆跡をくらますために用いたというのではなく、漢字を書けないので手本にしたというのであり、考え出された自供で体験を述べたとはいえない疑いが残る。
 この点を考えてみる。請求人は本件誘拐について、吉展ちゃん事件から思いついたというものであるところ、同事件の経過を当時の新聞記事に辿ってみる。以下は公知の事実である。
 3月31日 吉展ちゃん(当時4才)誘拐される。
 4月2日 午後8時犯人は1回目の電話で50万円を要求。父親が指定の場所に行ったが犯人は現われない。
 4月5日 4回目の電話において、「地下鉄入谷駅の千住入口に金をおけ」と指示。
 以後7日までの間に計9回すべて電話で場所を指定して、そこへ「金をおけ」というものであった。
 4月25日付各新聞記事によれば、「犯人の声きょう放送」、「聞きおぼえありませんか」と訴えかけていて、ラジオ、テレビ(NHK第1、TBS、文化放送、ニッポン、フジ、NET、ラジオ関東など)は放送時間とともに電話の「肉声を」報道している。請求人も当然に、これらの放送(「犯人の声」)を耳にしているようであるが、吉展ちゃん事件では犯人から被害者への伝達はすべて電話、つまり恐喝の手段は電話であって脅迫状ではない。
 犯行をまねるのであれば「電話」を思いつくのが当然であろう。当時狭山市内に有線の他に電話の利便がなければ、代わる手段としてどうするかという問題が当然起こってくる。請求人の場合漢字を書けず、手紙も書いたこともないというのに、なぜよりによって不得手の作文までして、「手紙」を選んだのか、真犯人であれば脅迫状に思い至る心象風景が自然と自供調書に出てしかるべきところ、全く出てこない。たとえれば、飛行機を利用したことの一度もない人間がはじめてそれを利用する時には、それなりの思い入れがあると同様に。
 自供では、「吉展ちゃんという男の子が誘拐され、金を取られてしまいながら犯人が捕まらないことをテレビで知り、私が今度Yちゃんを殺すようになったのも吉展ちゃん事件のように巧く子供を誘拐して競輪に使う金を取ってやろうと考えた」(6月24日付員面調書青木・遠藤)旨、また「吉展ちゃん事件をテレビを見て、あの様な方法で子供を隠しておいて金を取ろうと思って脅迫状を書いたものです。」(6月25日検面調書原)と供述するのみである。
 吉展ちゃん事件とはちがって「電話」の利便もないのであるから捜査官としても、脅迫状を書くことを思いついたのはなぜか、など質問している筈と推測されるが、自供では「あのような方法で」というのみである。
 書字能力の低い請求人の場合、いよいよ作成しようと決意する段になって、当然に浮かんでくる躊躇、不安、困難さへの予感は大変なストレスとなる筈である。真実の体験であるかぎり、その不安などが臨場感をもって自然と流れ出るべきところ、自供調書には全く出ていない。そこでは与えられた筋書きの説明で精一杯という感じである。捜査官もこれを知っているから、掘り下げては訊問しないのである。脅迫状と請求人との結びつきは以上の点からも疑わしい。

(3)裁判所各位におかれて『りぼん』という雑誌を、現実に手にしてご推察いただきたいのである。
 果たして、漢字を書けないのはもとより、かつて手紙を一度も書いたことがないという者が、必要に応じて他人に書いてもらっていたという人物が、自供にいう次のような方法で、本件脅迫状を作成することが果たして可能なものであろうかということである。
 「手紙の中の漢字は最初りぼんちゃんという漫画の雑誌を見て、かながふってあるので、手紙に使いそうな色んな漢字を最初紙に書き出しておきました。それから、手紙を書く時に適当に書き出して漢字を見てそれを使ったわけです。それで、漫画の雑誌から書き出した漢字は20か30字書き出し、手紙に使わなかった漢字も相当ありました。」
 こころみに、自死を前にしたものという条件設定のもとで、「悠々」、「小躯」、「万有」、「唯一言」「悉」という漢字を用いて文章を作成せよといわれても、文章家とされる人においてさえ果たして成文化できるのであろうか。かの有名な「巌頭の感」であると明示してもおぼつかないと考えられるのである。とくに請求人の場合のように漢字を知らない場合には、まず原文を思い出して構成し(あるいは作文して)、これに漢字を当てはめていく方法以外には文章を作れる筈はないのである。請求人の程度の読み書き能力のもとでは、自供の方法ではまず無理である。請求人の場合においてもまず下書きとして、たとえば、「こどものいのちがほしかたら4月28日のよる12じにきん(かね)にじゅうまんえんおんなの人がもツてさのやのもん(かど)のところにいろ。」という文章を書き出し、これに260頁に達する『りぼん』の中からふり仮名を頼りに漢字を当てはめる以外には作成のしようがないのである。
 「自供では、その手順を省略したのではないか」という反論があるかもしれないが、「最初に漢字を書き出した」というが、この方法では絶対に脅迫状を作成することはできない。まず構文がなければ漢字の拾い出しようがない。構文もなく、どうして漢字を拾い出すことができようか。この自供が非体験の、与えられた筋を単に述べたにすぎないものであることは、我々の経験則上、容易に感得できるのである。この事情もまた、本件自白調書における合理的疑いの1つである。

(4)『りぼん』という手本の漢字にふっている仮名を頼りに漢字をはめ込んでいったというのであるから、この『りぼん』の中にも、脅迫状に出てくるような万葉仮名的用法が存在していなくてはならない。しかし、全く見当たらない。
 「て」、「で」、「し」という具合に仮名で書きうるものが、なぜ、これに「出」、「知」を当てるのか。これも請求人と脅迫状との結びつきにおける合理的疑いの1つである。

(5)このように検討を重ねてみるとき、本件脅迫状に作為性があるのかどうかが大きな問題として浮上してこざるをえない。
 3鑑定から関連事項を引用してみる。
 「各対応する資料両者に誤字がある。かような誤字は、誤字を書きながら正しい文字と思い、これに気づかないのである。これを習癖的に無意識のうちに書くのであって、顕著な共通特癖として指摘される。」(関根・吉田鑑定)
 「次に脅迫状の文字の中には『時』『え』『つ』『で』『来』『近』『警察』『ほしかった』『話』字等の数多くの文字に『時』『江』『ツ』『出』『気』『気』『刑札』『ほ知かった』『は名知』状の誤字が書かれているが、(中略)大体において習慣的、無意識の中に書かれたものと見るのが妥当のように考えられる。」(長野鑑定)
 (註) 上記2つの鑑定意見はいずれも「『りぼん』をみて書いた」という自供(鑑定条件)を無視した鑑定(自供以前の鑑定)である。果たして「『りぼん』をみて書いた」という自供を条件として、つまり脅迫状と『りぼん』との対比を経て鑑定した場合において、「気」、「名」という万葉仮名的用法(彼らのいう誤字)を「習癖的」に「無意識」の中に書いたものという鑑定意見にはならなかったのではなかろうか。むしろ「作為」が窺われるということになった公算きわめて大といえる(神戸第2鑑定を参照されたい。)。
 そこで高村鑑定であるが、明らかに脅迫状の漢字用法に作為のあることを認めている。
 「第187号証の1(脅迫状)…の文中において漢字が用いられているのは筆者自身が正しい文字を知らざるためとのみ考えることはできない。欺罔の手段として筆者が書くことを不得手とする文字を故意に当て字で書く場合も考慮に入れなければならない。(中略)従って「警察」を「刑札」と書いているが、果たして筆者がその文字を知らなかったか否かは疑問である。」と述べている。
 同鑑定の作成日時が昭和41年8月19日付であることから推して、同鑑定が作為説をとったということは、自供調書や『りぼん』を参考にした結果である可能性がある。これが関根・吉田鑑定らとこの点について意見が異ってきた理由であろうか。
 〔註・請求人は6月24日付員面調書青木・遠藤(2回)において、「私は『りぼんちゃん』という漫画の本をみて字を習いました。(中略)私は刑事さんという様な字から刑という字を書き、お札という様な字が出ればこの刑と札を組み合わせて刑札という様に書いたのです。」と供述したというのであるが、『りぼん』に「刑」の文字が存在しないことが客観的事実として判明している。〕
 高村鑑定は、「刑」、「札」において作為ありと認めているところ、この点の上記自供との食い違いは重要な意味をもつであろう。自供は明らかに二重の意味において(@『りぼん』にこの字は見あたらないこと。A作為を隠していること。)、真実を語らず、架空を物語っている。その理由は捜査官の誘導以外には見あたらない。
 新証拠である宇野鑑定は
 「また漢字の誤用についても、使用の文字の傾向から考えて、その漢字の意味を(用法を含め)知らないことによる誤用というよりも、むしろ意図的に当て字を使用していると考えられる。このことは、ひらがな表記とわかっている文字に、漢字を当てていることからも考えられる。」
 日比野鑑定書も
 「当然平仮名で書くべきものを、その音によって無理にあてている漢字が死―し(死出死まう)、知―し(ほ知かたら)、出―で(車出いく)、名―な(は名知たら)、江―え(ぶじにか江て)、気―き(か江て気名かッたら)の6種類ある。このような不自然な用法は、きわめて作為的であり、故意的であるといわざるを得ない。当然漢字で書くべきものを仮名書きにすることはあっても、その逆は普通にありえないのであって、筆者が特殊の目的をもってこの脅迫状にのみ使用したものと認められる。もし筆者が日常このような漢字を仮名のあて字として使っていたとすれば、全文を通じて徹底していなければならないはずである。ところが、『し』には『死』と『知』との2通りの用法があり、(中略)これは筆者が日常このような場合に漢字を使わなかった証拠の1つと考えられる。」旨。
 原決定も、脅迫状全体に作為性があるとしたものではないが、筆順について作為が認められると判示している。
 「『※』は、運筆の筆順の誤りが作為的に書かれて生じたものとは考えられるが、」と判示しているのがこれに相当する。このことは6字ある「供」字についての次の拡大写真からはっきりと読みとれる。(※は、供に似た誤字)
(以下に脅迫状中の文字6例を示す)
 『りぼん』には6個目のような字はみあたらない。原決定のいう脅迫状の作為性が、「筆順」にあるとは不分明な判示であるが、結局脅迫状になんらかの作為性のあることは、高村鑑定、原決定をふくめこれを4つの意見として集約できる。脅迫状に作為性のあることを認める鑑定が2鑑定を凌駕していること明白である。ちなみに、「出」などの万葉仮名的用法がすべて本文にのみ見られるが、欄外の「ツツんでこい」「もし」「ころしてやる」「かえてきて」など罫線外や最下段強意の大文字にはこの用法はない。これらは犯人が別の機会に記入したのではなかろうか。
 ところが自供調書には、脅迫状の作成に際して漢字の用法について作為をうかがわせる節は全くみあたらない。これまた脅迫状と請求人との結びつきにおける合理的疑いとなる。なお7月2日付の請求人が検察官の前で自筆したという脅迫状文写しには「子ども」と平仮名で表記されている。
 結局、原決定も原々決定も確定判決と同様に、「被告人の当時の表記能力、文章構成能力をもってしても、『りぼん』その他の補助手段を借りれば、本件の脅迫文自体、ごくありふれた構文のものであるだけに作成が困難であるとは認められない」と認定しているところ、これまでの検討を通じただけでも、「りぼんを手本にした」という自供の真実性には強い合理的疑いを入れる余地のあることが立証されている。確定判決などにおけるこの誤りの認定が、判決に影響を及ぼすべき重大なる事実誤認であって、これを破棄しなければ著しく正義に反することになることは明白である。このことは以下の事実からも明らかである。
 確定判決は、「刑」と「札」という字をテレビで見て覚えたと認定した。その理由・根拠はなにか。同75回公判の井口裁判官と請求人との問答を次に引用する。
 問 「どういう番組を見てたんですか」
 答 「ちゃんばらですね、ほとんどが」
 問 「何かおぼえている? 当時の番組で」
 答 「特におぼえているのは、ライフルマン、それからアンタッチャブル、ハイウエイパトロール、ララミー牧場、そういうのがあった」(要約)
 問 「それで先ほど『長島』という字なんかを覚えちゃったということですか」(要約)
 答 「画面に出るからですね、だからわかったです。」
 問 「長島の文字は覚えた」
 答 「覚えましたね」
 問 「王なんていうのはわかるんですか」
 答 「書けないけれども見ればわかりますね。字を合わせればわかるからね。」
 当時公判に立会していた弁護人の中には、この問答の結果が、有罪認定として、「7人の刑事」を同チャンネルで見ているはずであり、よって「刑札」と書くことができたというところにつながるということを、率直にいって、予見したものは一人としていなかった。
 請求人は、「王」という字は読めるが書けないと供述している。つまりこのように簡単な字画のものも書けないというている。「長島」も「ナガシマ」と読める程度には「覚えた」(井口裁判官は「覚えた」を「書字できる」とあえて曲解したのである。請求人はテレビで見て「ナガシマ」と読めたというているのである。)のであるが、「王」と同様に書字はできないというているのである。それはそれとして、『7人の刑事は見ますか。どうですか。』とは聞いていない。『闇討ち』とはこのことであろう。卑劣なやり方ではないか。確定判決は別のところで、「被告人が無実を争うのでこの点について確認のしようもない」などというが、この井口裁判官の手口は明らかに、請求人を犯人に貶めるための落とし穴をもうけたのである。これはいうまでもなく、裁判官の想像によって有罪証拠をつくりあげたわけである。
 テレビを見ていれば書字能力が身につくという証拠はどこにあるのか。有罪方向への認定であり、証拠能力ある証拠認定を要するという観点からすれば、不当かつ違法なものといえ、また素朴に考えてもテレビを何回見れば書字できることになるというのかと考えると、いかにも恐ろしいことといわざるをえないのである。
 漢字をメールできるパソコンの使用により、字面として何十回打ち込んでも、実際に紙に手書きできないという国語書字能力の低下の問題が生じているのはいまや公知の事実である。反対に、たとえ1ヵ月の間でも真剣に書字練習に努力すれば、書字能力が飛躍的に上達することは、請求人の場合がその好例である。
 ところで井口裁判官の質問は、『りぼん』の中に「『刑』・『札』という字があった」という自供が架空のものであることを知ったうえでのことであるが、この架空の自供が、自供調書の信用性への疑いになぜ向かないのであろうか。すでに強姦、殺人、死体遺棄を自供した男が、いまさらこの点について嘘をつくなどということがありえようか。それが誘導の所産か、迎合の所産かはともかく、非体験の供述ということによってしか説明のしようがないのである。
 当審におかれては、なにとぞこれらの経過をふまえ公正なる事実認定により、本件誤判を是正していただきたい。

(6)脅迫状に記載の事実について、自供調書には、実のある話は全然出ない。

 捜査官も掘り下げた訊問はしない。
 たとえば、「女」について、「友人」や「車」について、「門」についてそうであるし、とくに関心のもたれる「少時」についても同様である。ところで確定判決は「少時」についてどういうわけか「その一、脅迫状及び封筒の筆跡について」の中ではふれず、「被告人が明らかに、かつ、意識的に虚偽の供述をしたと認められる部分」の中にこの問題を組み入れている。
 要するに「被告人が極力否定するにもかかわらず、近所の特定人(E・Sy宅の幼稚園児)を脳裏に描いて脅迫状を書いたとの推論が自然に成り立つ」というのがそれである。これはまた乱暴な認定ではないか。というのは、請求人の身辺動静には狙いを上記幼稚園児につけていたことを示す状況証拠はひとつとして存在していない。どうして「自然に成り立つ」といえるのか。現に犯行は大人とみまごう、N・Yを誘拐したことになっており、この事実こそ、犯人が「幼稚園児」を狙っていたことなどありそうにもないことを端的に裏付けているのである。
 請求人が「真相をうちあけない」として確定判決は躍起となり、面倒とばかりに「少時」の件を8つの嘘の中で処理したのであるが、「少時」が未解明であることは、まさに、請求人が脅迫状を作成した人間でないことを直截的に物語っている。とくに反省・悔悟して強姦、強盗殺人、死体遺棄を自供した人間がいまさら「少時」と書き入れた理由を隠す必要があろうか。この「少時」の問題こそ真犯人であれば直ちに説明できるし、真犯人でないからこそ文字どおり、ちんぷんかんぷんとならざるをえない、説明のしようもなかったというのが真相である。ある意味では「とぼけねばならなかった」のであろう。「嘘」であるとの確定判決のこの認定は、万年筆と同様の論証であり、「被告人が犯人だとすれば…」という前提で「E・Sy宅の幼稚園児を狙っていたのにとぼけて嘘をつく。よって犯人である。」というだけのことである。なんらかの証明や論証がなされたわけではないのである。このようにして、脅迫状に記載されている内容について真犯人であるのなら、その自供は直接に問題の要点に入り、内容も深まっていくはずだが本件自供はあっちこっちと定まらない。
 要するに、本件自供の実質は、捜査官があらかじめ知り得た事実をもとに想定可能の範囲では、それなりに説明できるが、捜査官にも想定できぬ、真犯人ならではの、それが情状に不利でない場合にも、そこでの真相は一切出てこない。
「松の木に後ろ手にしばった」とか、「外してころがした」などという犯行状況は、決して犯人しか語りえない状況ではない。発掘時の死体の状況や後頭部損傷から絵を描くことは、捜査官にとっては容易なことであろう。
このようにして本件自供は、捜査官による想定のもとでの荒筋の説明に追われ、したがって説得力のない、実のない話に終わっている。
自供調書の量の多いのは、自供がまっすぐに深まらないからである。本件自供調書には「思い違いでした」「記憶がない」「考えておきます」「気がする」「よくわかりません」「気付きません」「覚えていません」「かもしれません」など枚挙にいとまがない。とくに本件事案の性格から強い疑問がのこるのは脅迫状とは直接関連しないが、財布について、たとえば、「その財布に金が入っているかどうかは、後で家に帰ってからゆっくり調べ様と思ったので、見ませんでした。」〔7月1日付検面調書原(2回)〕、同旨〔7月8日付検面調書原(2回)〕というくだりである。「金庫」を強奪したというのなら分かるが、ちいさな財布の中をのぞくのに、「あとでゆっくり」とは理解できない。捜査官との合作ではなかろうか。またこの財布を途中でなくしたということも、いよいよ不可解である。これも後知恵であろう。
 昭和38年5月9日付N・Tの員面調書では、本件当日、被害者はすくなくとも、「六百円」(800円のうち200円を消費している)を確実に所持していたというのであるが、現在でも「五百円」はそんなに小さな金子ではない。道で拾えば大いに足しになる。当時、パチンコ貸玉料は100円あたり50個であった。財布は放っても金はちゃっかりポケットに入れるのが犯人の心理ではなかろうか。財布に関する自供も帰するところ、ちんぷんかんぷんであるが、要するに体験の供述でない疑いが強い。

(7)脅迫状については、他にもいくつかの疑いを指摘し得る。
 @ 脅迫状の用紙としては、「字を書く時は妹の美智子の帳面を四枚位破り、…四枚目位に書いたのがYちゃんの家へ届けた脅迫状です。」(6月25日付検面調書原)と自供されているところ、美智子の大学ノートはもとより請求人宅にあったどの大学ノートとも脅迫状用紙は異なるタイプのものであることが判明している。「大学ノートの綴目は十一ケ所に対し脅迫状は一三ケ所であるから、両者のノートは相違する。」(昭和38年6月21日付関根政一作成報告書)事実が判明している。
 A 脅迫状は兄のボールペンで書いたと自供されているが、脅迫状を書くに用いられたボールペンインキと同一、類似のインキのボールペンは請求人宅からは発見されていない。
 B 『りぼん』が本件当時請求人方に存在しなかった事実は、新証拠である石川美智子、M・C、Hg・Y、Ig・M、O・Kの各昭和38年11月1日付員面調書によって確認されていて、自供は明らかに客観的事実に相違している。もちろん家宅捜査時にも『りぼん』は請求人宅から発見されていないし、またのちに何人かが本件当時処分したことを示す証拠も見あたらない。
 C 谷鑑定によって脅迫状訂正筆記用具は「ペン又は万年筆である」ことが判明し、この点の自供が客観的事実と食い違っていることが証明されている。
 D 脅迫状を訂正したあと舐めて封をした旨自供しているが、三木鑑定の結果、唾液は検出されず、また同封筒固有のものとはいえない別の糊が検出されている。これまた自供と客観的事実との食い違いである。
 E 脅迫状、封筒からは、請求人の指紋が一つも発見されていない。犯行を通じて「手袋は使用していない」旨の自供があるところ、脅迫状、封筒からは請求人の指紋は一つとして発見されていない。この一点からも脅迫状作成という犯行と請求人との結びつきに、強い合理的疑いが生じている。

(8)上告棄却決定は「ツ」、「出」、「は」と「わ」の誤用、漢数字とアラビア数字の混用などをもち出し、単なる偶然とはいえず、あたかもそこに筆跡の稀少性があるというように判示している。
 片仮名「ツ」が上申書にも用いられている点については、指摘のとおりである。しかし字形や用法において異なっている。
 脅迫状においては「ツ」は計9字あり、うち2字は罫線外の「ツツ」であるが他は促音として使用され、しかも字の形態上は、促音の表記に従って小文字化されている。請求人が「ツ」を用いている「ツ」は上申書に、また5月24日付員面調書の中においてたしかに促音「ツ」がみられるが、小文字化していない。また各員・検面調書の中での「ツ」は、「五月ツ24日」とか「6月ツ22日」(なお「月ツ」は6月27日あたりから見られない)と使用されるが脅迫状には「月ツ」の用法はない。
 漢数字とアラビア数字の混用の用法は、脅迫状の中にみられ、また早退届1通(昭和33年5月1日付)と5月24日付員面調書にこの用法が一度出ている。しかし脅迫状の筆跡「五」の形態と似た字は請求人の書いた筆跡の中にはひとつとしてみられない。さらに、前述したように、脅迫状訂正筆跡用具における自白と客観的事実との相違からして、「五月2日」の記載を請求人の筆跡とすることに疑いがあるとき、この疑いを残したまま、類似性を云々し、「単なる偶然ではない」などということは正しい事実認定ということはできないし、全く無意味なことである。
 また「え」、「エ」、「ヤ」の使用方法についていえば脅迫状は「え」と表記すべきところに、「江」の当て字を(3箇所)を用い、他の2箇所では「え」と表記しているところ、請求人の逮捕当時の筆記用法はすべて「エ」と表記し(請求人も図面中に「え」をのちに用いる)、「ヤ」字については請求人は「や」を用いていて、「ヤ」字を用いることはなかった。
 「出」についても、脅迫状では「このかみにツツんでこい」の1箇所を除いて7箇所全部、「車出」などの当て字を用いる。他方本件当時、請求人が作成したことが明らかな文書の中に、「出」は1字も発見されえない。5月21日付上申書も「4時ごろまで」「しごとをしましたので」「どこエもエでません」、またN・Eあての手紙においても「せひよんで」「石川一夫です」「うらまないでくださいませ」「かんけいのないひとですから」と表記されている。
 たしかに昭和39年8月当時の関源三あての手紙の中で「出」を用いたことがあるとしても、その使用頻度、また「出」を用いた時期から推しても、逮捕当時の請求人の筆癖として「出」を固定化して、「単なる偶然ではない」などという思わせぶりの認定は、とうてい公正な認定ということはできない。「反証」が上記認定を凌駕してあまた存在する時に、書面審理だけで、有罪方向へ押し切ることは著しく正義に反する。
 このような相違を無視した上告棄却決定の認定は、結論(心証)にあわせて、都合のよい証拠のみを集めたとの批判を免れない。同決定ならびに各棄却決定をなした裁判官には次の各文字を対照比較されて、どのように判断されるのか、率直におうかがいしたい。
 「警察の目を意識した」とか「書いた際の環境」の「差異」ということでは良識ある一般市民としては納得できないのである。
 さらに各棄却決定は「変形す(第一筆と第二筆がつながった状態の「す」)」、「変形な(第一筆と第二筆、および第三筆と第四筆がつながった状態の「な」)」、字などの「右肩環状連筆」をあげ、脅迫状の字体と請求人自筆の手紙の中の字体と共通性があることをあげ、脅迫状の筆者として請求人を想定する。しかし、半沢鑑定書が指摘しているように、請求人は「す」字225文字の内220文字を「す」と書き、脅迫状は3文字すべて「変形す」状であり、「な」は154文字のうち145字を「な」と書き、脅迫状は5文字すべて「変形な」となっている。
 また、捜査段階における各調書添付の図面説明文中の「な」字は、ほとんど「な」と筆記されている。つまり請求人において「変形な」と書く書法は、勾留中の後半以降においてわずかに発見しうるにすぎず、これを遡上させ、犯行時の筆癖に擬するのは厳密なる事実認定ということはできない。請求人は自ら主張するようにたびたび脅迫状を示されては練習させられていること(このことについては確証はないが、決して突飛なありそうにもないことではない。「漢字を書けない」という自供が果たしてどの程度のものか判定のために実験させる必要のあることは神戸鑑定人が自らの実務の経験としても、やらねばならないことと指摘している。この時に誤字を正字として身につけたことも充分ありうることである。)、また浦和拘置所の看守であった証人森脇聡明(原2審14回公判)の「字を自分が教えてやったり、自分(証人)が書いた手紙を石川被告人が見て書いていた」と証言し、同所教育課長の安藤義祐証人も「その当時石川君は向学心が強く、本人が非常に字がしっかり書けるようになったことを楽しみにしたことがあります。」旨証言している。これらの事実を参考にする時、原決定、原々決定のいうように、「もともと脅迫文ぐらいは書く能力を持っていたはずだ」(要旨)などという認定が誤りであることはただちに判明する。 逮捕当時から1、2カ月後の書字と、調書添付図面の請求人の説明文とを対比すれば、その間に瞠目すべき成長のあったことを素直に理解しうるのである。

(9)狭山事件における筆跡鑑定問題は、他の同種事件とは異なる問題が伏流している。それは本件にあっては「漢字をほとんど書けない、きわめて書字能力の低級なものが手本をみて書いた場合の筆跡鑑定問題」としての特異な事情をかかえているということである。
 確定判決がかかげる、「いわゆる伝統的筆跡鑑定は、…その証明力には自ら限界があるとしても…」と判示した原案である、最高裁決定が示した事件(昭和41年2月21日付第2小法廷決定)においては、筆者(犯人)と目された人は「大学講師」であった。また清水局事件(中谷、遠藤、町田、高村の4鑑定書は、のちに真犯人が発見され全部誤鑑定であることが判明した。岩波新書『冤罪』後藤昌次郎著)や、いわゆる「野球賭博事件」(判例時報1256号138頁)、自民党本部放火事件(判例タイムス763号)、日石、土田邸事件(判例時報1098号)の場合が判例として目につくが、すべて犯人に擬せられ逮捕された人物は、「書字能力」になんらの問題のない場合で、むしろ相応の学歴を有する人達であった。
 このような事例に照らしてみて、狭山事件の筆跡鑑定問題が、特異な事例ということ、しかも有罪の3鑑定書はいずれも、手本にしたという『りぼん』という漫画雑誌の文字と脅迫状の文字との対比を実験していないという欠陥を内在させている。その意味では杜撰な鑑定である。つまり鑑定条件を満たしていない、証明力の乏しいものということができる。
 そのことは同時に、前記最高裁判例が予想もしなかったところの、つまり本件の3鑑定書については、「伝統的鑑定方法に立つもので証明力には限界がある」どころか、きわめて証明力の乏しい、あやうい、危険な鑑定といわざるをえないのであって、同判例は本件筆跡鑑定問題の検討にあたっては、先例としては不適切なものといえる。
 その証拠に、裁判官が身をのり出して鑑定内容を、いわば補充する。「成長するにつれて筆記能力はつくものでこのぐらい(脅迫状構文)の文書は書きえた」とか、新証拠は「警察の目を意識したことを見落している」とか、見てきたような嘘をつくのである。さらには「『な』という字をみよ」とか、「え・江・エ」についての、勝手気ままな判断(「たまたま請求人は『エ』を脅迫状に使用しなかっただけである!!」。)がまさしくそれにあたる。さらに前記したように、本件脅迫状に確実に浮かぶところの作為性についても再検討の必要が生じているのも3鑑定の上記の欠陥に起因するのである。
 請求人を本件脅迫状の作成者と断定するには強い合理的疑いがある。

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10 いわゆる「秘密の暴露」が否定されることについて

 以下万年筆について考察する。

(1)既に指摘したように秋谷鑑定結果により脅迫状訂正筆記用具に関する自白が虚偽架空のものであることが確証され、ひいては万年筆奪取時期についても自白の虚構性が一義的に明らかにされた。
 また、「万年筆を使ったことがないからインクが入っていたかどうかわかりません」との自供は、本件万年筆を用いて脅迫状を訂正したとの想定(客観的事実)と真向から衝突矛盾することになる次第であって、確定判決がその矛盾を糊塗(一時凌ぎのごまかしをいう)せんがため、「嘘いつわり」の自供という暴論を打ち出さざるをえなかった点は既に指摘した。すなわち確定判決における虚偽論証を明らかにしたところである。

(2)上記に加えて捜査当局から開示された昭和38年8月16日付荏原秀介作成の鑑定書、同年8月30日付同鑑定書によって押収万年筆在中インキとN・Y使用のインキびん在中のインキならびに同人の当用日記にみられるインキとは、異質と認定されていることが判明した。すなわち、押収万年筆の在中インキは、捜査当局の鑑定の結果、ブルーブラックであることが判明していたのであった。
 その後最高検察庁が弁護人らに開示したN・Yの当用日記と受験生合格手帳、ペン習字清書1枚、学級日誌などから、N・Yが本件当日の5月1日に使用したことの確実な所有万年筆在中インキがすべてライトブルーのインキによるものであることが確証された。
 ここに、押収万年筆が何者かによる偽造工作によってでっちあげられたのではないかとの疑いが発生するに至った。
 なお上記事実を傍証する間接事実として、同時に開示のOt・K(当時川越高校入間川分校の書道講師)の昭和38年10月3日付員面調書により、「5月1日1年生17名の授業において、ペン習字手本によって、各自持参の用紙に練習ののち、1枚清書させて提出させているが、N・Yからも1枚提出があった。上記清書の字はN・Y所有の万年筆で書いた字と思う」旨(要約)供述され、そこでの上記清書1枚の実物は実見によってライトブルーのインキであることが明らかとなっている。ちなみに、脅迫状訂正箇所のインキの色調はブルーブラックのインキであった。このことは請求人が脅迫状の訂正の行為には全く無関係であること、要するに犯人でないことを示している。
 また開示の学級日誌のうちN・Yが執筆の4月26日付記載文字もライトブルーインキによるものであることが判然としている。
 検察官はN・Yが4月24日にNn・Tからインキビンを借用してブルーブラックのインキを自己の万年筆に注入したとか、5月1日に狭山郵便局でブルーブラックインキを注入した可能性をいいだてているが、確証された事実ではなく憶測・妄想にしかすぎないものである(確定判決は学問的根拠のある大野筆跡鑑定書などについて単なる憶測にしかすぎないというが、上記の検察官の主張こそ、名実ともに、憶測にすぎないものであるところ、大野晋博士らの名誉のためにも、当審においては、しっかりと判断していただきたい)。

(3)本件押収万年筆の捜査経過について検討するに次の事実を認めうる。

 6月18日に実施の請求人方の家宅捜索について
 イ 第1回の捜索についての5月23日付小島朝政作成の捜索押収調書によると、同日午前4時45分から午前7時2分に至る2時間17分の間、計12名の捜査員によって実施され、当日は地下足袋5足、ノート6冊、封筒13枚、紙片3枚、メモ帳1冊、ボールペン2本であった。
 ロ 第2回目の捜索についての、6月18日付同人作成の捜索押収調書によると、午前5時55分から同8時3分までの2時間8分にわたり、計14名の捜査員によって実施され、当日の押収目的は、鞄、腕時計、万年筆、財布など本件の被害物件に関するものであったところ、記録をみると押収品は青色ボールペン、大学ノートなどにとどまっている。
 ハ 3回目の捜索についての6月26日付同人作成の捜索押収調書によって、万年筆1本が押収されたことになっている。
 ニ 上記3回目の捜索は、昭和38年6月24日付員面調書青木3回によれば「万年筆は今申しました風呂場の入口のかもいの上に今もかくしてありますから何うかYちゃんの家へ返してやって下さい。」と自供したとされ、さらに6月25日付検面調書原には、同万年筆を置いたとされる請求人が書いた図面を添付したとされ、これによって本件万年筆を押収したという経過である。

(4)ところで本件万年筆をめぐっては、前述の自白と客観的事実との食い違いを嚆矢として、果たして、請求人が万年筆を盗ったのか否かについては客観的証拠に基づく合理的疑いが発生していること、在中インキの相違に関する各鑑定結果とこれに関連の各証拠書類によって、押収万年筆が果たして被害者所有の物であるか否かについて、強い合理的疑いが生じていること(むしろ、同一性は確実に否定されたといえる場合である。)である。
 このような明白なる証拠物や鑑定結果によって被告人と犯行との結びつきに重大なる疑いが判然と出ている事情のもとでは、立証責任は検察官が負担すべきである。すなわち2回にわたる捜査官計26名、そして計4時間をこえる綿密なる大捜索(小住宅というよりは小屋というべきか)によってなぜ「鴨居」にあった万年筆が発見されなかったのかは、検察官がその立証責任を負担すべきものである。上記証明が尽されぬ時は、捜査官による偽装工作がなされたとの可能性を否定できぬことに帰し、直ちに「秘密の暴露」の存在は架空のものとなる。
 原第1審判決は「人目に触れるところであり、その長さ、上方の空間及び奥行いずれも僅かしかなく、もし手を伸ばして捜せば簡単に発見し得るところ」と判示し、確定判決は、全く逆に、「鴨居の高さは床から約175、9糎で、万年筆のあったのは鴨居の奥行約8、5糎の位置であるから、背の低い人には見えにくく、人目につき易いところであるとは認められない」と。
 捜査官は上記事情を勘案し、2回の捜索に参加した全捜査員の完全なるリストを作成し、各捜査員の捜索分担エリア、現に捜索した範囲と場所、各人の身長、視力を明確にした資料を直ちに提出する責任を負担すべきである。
 これを拒否する時は、裁判所は偽装工作の疑いありと認定すべきである。また、なぜ万年筆発見場所だけが捜査の盲点となったかを捜査官は明白に立証すべきである。これを明白にできないときも、偽装工作の可能性を認め、秘密の暴露は否定されることになる。この点につき原々決定、原決定においては弁護人らの再三にわたる主張を一顧だにせず、もとより検察官に対する釈明をつくしていない。原々決定、原決定における審理不尽の違法は明らかである。
 このことは検察官が負担する「合理的疑いをこえた証明」ならびに「疑わしきは被告人の利益に」の刑事裁判の鉄則からも当然の帰結であらねばならない。この弁護人らの主張の正当性は、万年筆発見経過における疑問が、狭山事件を識る幾十万人の100%の人々が寄せる疑問となっているところに物質的根拠(頭脳と行動)を得ているところに発している。
 確定判決の判示する証拠構造からして、万年筆についてだけでも捜査官の不正の工作の疑いが認められるかぎり、そこまでいかなくとも、押収万年筆とN・Y所有の万年筆との同一性に客観的証拠に基づく、理由ある合理的疑いが生じていることが明らかな場合であり、すなわち本件の有罪の証拠構造には、合理的疑いが生ずることとなり、これに白鳥決定にいう総合評価を加味するならば、再審開始に至るべきことはいよいよ明白となる。
 ちなみに、「秘密の暴露」が否定された判例として島田事件が参考となる。
 「しかし、本件においてその部分のみを切り離して別個に考察するわけにはいかない。自白の内容をなす個々の供述は、特段の事情のない限り、相互に有機的な関連を有するものとして統一的に把握すべきものである。」(島田事件再審請求棄却決定に対する即時抗告事件の東京高等裁判所昭和58年5月23日付決定。判例時報1079号26頁4段目)
 「さらに法医学上、本件石が被害者の左胸部の成傷用器として適合する可能性が考えられるものの、なお成傷用器として断定し得る疑問のあることは前述のとおりであり、これが凶器であるとの立証が尽くされていないから、被告人の自白に基づいて本件石が発見されたとしても、自白の信用性を高め得る『秘密の暴露』があるとはいえない。」(島田事件再審無罪判決。静岡地方裁判所平成元年1月31日付判決。判例時報1316号1枚目)と判示した。
 ちなみに島田再審開始決定(判例時報1193号62頁4段目)は、
 「本件石が請求人の自供以前に発見され、検証の際に捜査当局の作為が行われてこれが採取された、との疑いを生じさせるような証拠としての明白性は認められない」とも判示していたのであった。
 これを本件にあてはめるに、自白によって発見された物のようにみえても、その物と請求人の自白に示される犯行との結びつきに合理的疑いが生じているときは秘密の暴露にはあたらないことを明らかにしたもである。本件万年筆と請求人との結びつき(脅迫状の訂正と奪取時期についての矛盾)に合理的疑いが生じている時、かつ物としての同一性にも拭えない客観的疑いが生じている時、しかもこれらの点に検察官の立証がつくされていぬ以上、秘密の暴露があるとはいえないということになり、まことに当然の帰結である。この一点において確定判決に合理的疑いが生じることとなる。

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