部落解放同盟東京都連合会

狭山事件特別抗告申立書―補充書-INDEXに戻る 

狭山事件特別抗告申立書補充書 14

          

第13 万年筆について

1 本件万年筆は、被害者が所持していたものではなく、別物(偽造証拠・虚偽証拠)の疑いが強い。

(1)本件万年筆と被害者が所持していた万年筆との不一致

 本件万年筆は、被害者が所持していた万年筆ではなく、何者かが請求人自宅のお勝手出入り口鴨居上に請求人が逮捕された後(第2回目の請求人宅家宅捜索と第3回目の家宅捜索の直前までの間)に置かれた別物の疑いが強い。
 本件万年筆は、被害者のものではあり得ない。
 被害者は、前日までの日記(事件の当日朝登校前の日記も含む)をライトブルーインク在中の万年筆で記載し、事件当日(昭和38年5月1日)の午前中、高校でペン習字の清書(ライトブルーのインク)をし、その後、何も万年筆を使用しないまま、何者かにより殺害された。
 しかし、被害者が当日所持していた万年筆であるとして発見された(昭和38年6月26日)本件万年筆の在中インクはブルーブラックであった。
 本来これだけでも、まず、被害者の所持していた万年筆と発見された本件万年筆の同一性が疑われて当然である。
 まして、被害者の所持していた万年筆であるとして、発見された場所である請求人宅「お勝手出入口鴨居上」は、捜査に習熟している捜査官にとっては、通常の家宅捜索において当然発見されてしかるべきところなのに、2度にわたる家宅捜索でもついに発見されなかった。
 にもかかわらず、確定判決、原々決定、原決定は、単にその種類の型をあらわしているに過ぎない万年筆の保証書や書き具合が似ているとか、色や型が似ているなどを内容とするに過ぎない被害者家族の供述や学友の供述などを援用して、同一性を認めた。
 明らかに、誤りである。

(2)万年筆問題の重要性

 本件万年筆が、真に被害者のものであって、請求人の自白に基づき、請求人宅で発見されたのであれば、それは、請求人の有罪を支える決定的証拠の一つである。何故なら、請求人と被害者とは一面識もなく被害者が事件発生当時に所持していた万年筆が請求人宅から発見されるべき理由は他に全く考えられないからである。
 しかし、この万年筆が被害者の万年筆ではないとすると、一体どうなるか。誰かが「被害者の万年筆」であるとして請求人宅に意図的に置いたこと以外に考えられないこととなる。第1回家宅捜索と同時に請求人は逮捕され、第2回、第3回の家宅捜索時には身柄は拘束されたままで、自宅にはいなかったのであるから、請求人が逮捕後その万年筆を発見された場所に置くこともできない。請求人の家族がだれも使いもしない本件のようなピンク色の女物の万年筆を、本件鴨居に置くことなど全くあり得ないからである。結局は本件万年筆が被害者の万年筆ではないことが明らかにされるならば、誰かが請求人の「有罪を支える証拠(決定的証拠)」として、被害者の万年筆とは別物をことさら本件鴨居に置いて、偽造証拠・虚偽証拠を作出したことでしかなく、かえって、それは、請求人の「無罪を明らかにする決定的証拠」に転化する。
 弁護側は一貫して、本件万年筆は、被害者が所持していた万年筆とは別物の疑いがあると主張・立証してきた。さして広くない石川宅の家宅捜索を2回にわたって行いながらも発見されず、3回目の家宅捜索において「自白に基づき発見されたとされた万年筆」の在中インクは、被害者が事件当日使用していたライトブルーではなく、ブルーブラックであったからである。

このページのtopへ戻る

2 本件万年筆の客観的な観点からの不自然性

(1)確定判決の本件万年筆にかかる同一性認定の誤り

 @確定判決は保証書の存在を万年筆の同一性認定の一つの根拠としている。
 しかし、本件保証書は被害者が所持していたのと同じ種類の万年筆かどうかを明示するにとどまり、そのものを特定できる個別番号のようなものまでの記載はなかった。
 要するに、せいぜいが、請求人宅から発見されたとされる本件万年筆が保証書に記載された万年筆と同種のものである可能性が強いというにすぎず、それ以上に被害者が所持していた万年筆であることを具体的に特定したものでは全くない。

  A確定判決は、兄Kの供述をも有力証拠の一つとする。
 しかし、被害者の兄Kの公判供述(第1審第7回)は、

(問)なんか特徴はありませんですか、たとえばきずがあるとか、あるいは名前、しるしをしてあるとかそういうものはないんですか。
(答)ええ別に…名前を彫ってはいなかったし、特徴っていうものは別に記憶ございませんがただ書いていってみれば私ペン先の大体手かげんとかそういったことわかります。
(問)この万年筆を発見後警察あるいは検事から見せられたことがありますね。
(答)はい、ありました。
(問)その時字を書いてみましたですか。
(答)はい、書いて見ました。
(問)その字を書いた時の書きぐあいはどうだったんですか。
(答)ペン先のかたさですね、そういったもの間違いなくYのものです。そのように記憶残っております。

 と供述しているだけである
 しかし、仮にこれが事実だとしてもこれは、外観、インク充填の様式、ペン先のかたさが、似ているというにとどまり、固有の特定性を根拠づけるものではない。

  Bそして、確定判決は、姉Tの公判供述(第1審第7回)をも援用する。
 しかし、被害者の姉N・Tは公判供述でも、次のようにしか述べていない。

 (昭和38年押第115号符号42の万年筆を示す。)
  この万年筆を見て下さい。…中出して見て下さい。…色とか、かっこうとかはどうですか。
 はい、Yのに間違いないと思います。
 (第1審第7回)

 と供述しているにとどまり、色とか、かっこうからして、同じようだと述べているに過ぎない。

 C更に、確定判決は、証人Ys・Tの供述をも同一性認定の根拠とする。しかし、Ys・Tの公判供述(第1審第6回)は、検察官の質問に答えて、

  …あなたはYさんが学校で使っていた万年筆を覚えていますか。
 はい。
 どんな色のものでしたか。
 桃色。
  キャップは何色でしたか。
 金色です。
 どこの製品だったか覚えていますか。
 さあ、そこまではわかりません。
 新しいものでしたか古いものでしたか。
 新しいものだと思います。
 (昭和38年押第115号符号42の万年筆を示す。)
 その万年筆に見覚えがありますか。
 はい、あります。
 どういう覚えですか。
  あのよくあたしとNさんとは、あの席は近くじゃなかったんですけど、手帳なんかに書く時いっしょに書いたこともありますので覚えております。
 Yさんの使っていた万年筆だと思いますか。
 はい。

 と答えている。しかし、更に、弁護人の質問に答えて

 …万年筆というのはあれですね。その、あるパイロットとかセーラーという会社の万年筆はみんな同じように見えますね。
 (うなづく)
 で、Yさんの使っていた万年筆だと、いま見せてもらった万年筆について、そういいましたけどもね、
 はい、
 そういえたのはなんか特徴があるんですか。Yさんの万年筆は同じ会社のものを何本も見せられてもね、これですとすぐ言えるほどなんか特徴があったんですか。
 (頭を前方へ傾ける)
 そういうふうには覚えていませんか。
 (うなづく)
 そうすると、似ているということですね。
 はいそうです。

 という供述にとどまる。それ以上に固有の特定性の根拠となるものではない。

 D以上のとおりであり、本件保証書は、被害者が所持していた万年筆の製作会社名、型、種類等を明らかにするだけであるし、又、兄Kや姉T及び証人Ysの供述もペンの書き具合、色、型から似ているというにすぎず、もともと同種、同型であれば使いごごちは、ほぼ似ているであろうし、それが直ちに同一性を裏づけるとは到底いえない。

(2)上記のような単に「似ている」との不安定な供述と異なり、客観的な事実である在中インクの不一致は、本件万年筆が被害者が所持していた万年筆とは別物であることを裏付ける。

 @発見された万年筆の在中インクの異質性

 T まず、客観的な事実関係及び確定判決が認めた事実を確認する。

 イ 昭和38年5月1日以前の被害者の日記(本件事件当日登校前の日記も含む)はライトブルーのインクで書かれていること、昭和38年5月1日午前中、被害者はペン習字の清書に、被害者の万年筆を使用し、この在中インクの色はライトブルーであったこと、発見された万年筆の在中インクの色は、ブルーブラックであったこと、被害者宅には、ライトブルーのインクビンがあったこと、請求人宅からはブルーブラックのインクビンはおろかライトブルーも含めてインクビンそのものが発見されたことはなかったこと、その他、請求人宅からは万年筆・付けペンなどインクを使用する筆記用具そのものが一切発見されていないこと、請求人家族の供述によっても、請求人自宅には、インクビンそのものが存していた事実は認められないこと、等は証拠上明らかである。

 ロ 又、確定判決が認めた自白によっても、請求人自身がインクを補充したことはなかった。

 U 在中インクの補充の場所的可能性

 以上のTを前提に万年筆在中の「ライトブルー」のインクに、いつ、どこで「ブルーブラック」が補充されたのかである。
 原々決定は、いつ、どこでブルーブラックのインクが補充されたかについては、はっきり明示せず、原決定も同様である。
 そこでここで、物理的に可能な時間と場所を検討してみると、まず、事件当日午前中の授業でのペン習字の清書の前ではないことは明らかである。
 そして、ペン習字の清書の後に、学校内で、万年筆を使用する必要があった事実はない。
 結局は、物理的な可能性があるのは下校途中に立ち寄った郵便局しかない。原々決定は「請求人提出の横田報告書、Sd員面等の証拠資料を検討しても、右当日のペン習字の後に、本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がないわけではない」としており、この表現は、ことさら「横田報告書、Sd員面等の証拠」資料を援用していることからすると、郵便局でのインクの補充の可能性があり得ることと認定しているかのごとくである。しかし、誤りである。
 確定判決、原々決定、原決定は、いずれも認定方法の点でも大きな誤りをおかしている。
 本件万年筆と被害者が当日午前中のペン習字の清書に使用した万年筆の在中インクが明らかに異なっていたのであるから、事件当日被害者が所持していた万年筆と本件万年筆が別物であるとの合理的な疑いが既に生じている。
 この合理的な疑いを、訴追側が払拭し得るかどうかが、問われているはずであり、この合理的な疑いを払拭し得るほどの証拠は全く存していない。
 にもかかわらず、推測や憶測、推論でこの客観的証拠に基づく合理的疑いをうち消すことは、証拠による認定、適正な自由心証主義にも反するものである。

 V インク補充の必要性及び動機の不存在

 被害者には、ブルーブラックインクを補充する必要性も動機も存しなかった。

 イ.インク補充の必要性の不存在

 まず、ブルーブラックインク補充の必要性は全くなかった。
 第1に、被害者は、午後3時半頃に学校を出て帰路に就き、その途中で郵便局に立ち寄ったのはオリンピック記念切手の予約申込金の受領証を受け取るためだけであって、郵便局で万年筆を使用しなければならない必要はなかった。
 被害者は下校途中、郵便局に立ち寄って、記念切手の予約申込金領収書を受け取っただけである。更に、被害者に領収書を手渡した郵便局員のSd・Tは、被害者がすぐに立ち去ったことを当時の供述調書で述べている。
 更に、わざわざカウンターの端にあるインキ瓶からインキを補充するような不自然な行動を目撃してはいないし、また、弁護人に対しても、過去そのような例を見たことがないと述べている。
 昭和38年5月4日付大野喜平作成の実況見分調書(遺体発見状況等)によれば、被害者の遺体の、その「着衣は紺色サージの背広形ヘチマ襟の学生服の上着…右ポケット内に10円切手10枚領収書1枚」があり、その領収書は「川越高校入間川分校Ug・T納入の第4回オリンピック寄附金付き切手予約代金領収書で領収書額面は1140円と記載されていた」(同調書現場写真第55号)。昭和38年10月23日大野喜平第3回公判供述も同旨である。これは、被害者がSd郵便局員からこの領収書を受け取り、それをポケットに入れたままであったと考えられる。被害者は、受け取った受領書をそのまま学生服の上着右ポケットに入れて立ち去り、そのまま、何者かにより殺害された。被害者が郵便局で何か万年筆を使用する必要性もなかったし、なおさら、ブルーブラックのインクを補充する必要性もなかった。
 第2に、郵便局に寄ったときに在中のインクが少なくなっていたために、そこで補充するような必要性はない。事件当日午前中に、被害者の万年筆によって書かれた「ペン習字の清書」をいくら子細に検討しても、インクがかすれたような形跡は全くない。清書の末尾には「N・Y」と被害者の氏名が記載されているが、これとて、インクが少なくなってかすれているような状態では全くない。本件万年筆の構造上、インクの残量を確認するためには、外側から見ただけでは不可能で、万年筆の中のインク入れの中を開ける他はインクの使用状態からしてインクが少しかすれ気味になってきたかどうかによって判断するしかない。少なくとも、郵便局に被害者が立ち寄った時点で万年筆在中インクの残量が残り少ないかどうかがすでに判明している状態でなければ、そこでことさらインクが少なくなったとして補充する必要性は全くない。
 第3に、被害者には、学校からの帰路、万年筆のインクを補充する必要性が起こるような予定は全くなかった。
 昭和38年5月1日は、被害者の16才の誕生日だった。
 しかし、特段の予定は被害者にはなかった。当日朝登校前の被害者の日記にも「誕生日うれしい」と書かれてあるだけで具体的な予定の記載はなかった。
 被害者の姉N・Tの供述(原審1審第2回公判供述)は、

 その日はYさんの誕生日だったんですね。
 はい。
 誕生日については計画か何かありましたですか。
 全然なかったです。
 たとえば友だちを呼ぶとか、そういうことはなかったですか。
 ええ、そういうことは別に何も計画はありませんでした。
 誕生日について何かYさんは学校に出かける時に言ってましたですか、別に何も話してなかったですか。
 ええ、話していませんでした。
 学校からの帰りについては、何も話さなかったですか。
 ええ、別にありませんでした。
 帰りが遅くなるとか、早くなるとか、そういうことはない。
 はい。
 どこかに立寄るとか、あるいは友だちを訪ねるとか、そういう話もなかったんですか。
 はい、ありませんでした。
 朝の食事はどんなものですか。
 楽しみにしていた誕生日だったので、赤飯をたいて食事しまし  た。

 と供述している。
 また、兄N・Kの昭和38年5月9日付員面でも「Yは入学以来帰宅するのは午後6時頃までには遅くとも帰宅する」とし、「その日に限って午后6時40分頃と思いますが、帰って参りませんので」車で迎えに行ったというのであるから、兄KもYが帰路どこかに寄ってくるようなことは聞いていなかった。
 更に、父N・Eの昭和38年5月1日付員面でも「いつもなら学校が終って帰宅するのは午後5時半頃は帰って来るのですが、今日は帰る時間になっても帰宅しないので」と供述し、何らかの予定がYにあったことを窺わせない。
 被害者は、いつも午後6時頃までには遅くとも帰宅するというのであればなおさら、万年筆を使用することがあり得るような何かの約束があるのであれば、少なくとも帰宅時間について、家族に伝えるのが通常であろうし、それもなされていないことを考えると、万年筆にインクを補充する必要がある様な予定があったとは考えられない。
 被害者が緊急な必要もないのに、単にことさら在中インクを満たそうとの一心から、郵便局員の目を盗んで勝手に異なる色のインクを補充する必要性があるとはとうていいえない。又、被害者の家庭は、郵便局でインクを補充しなければならないような困窮した状態でもなく必要性が全くない。
 第4に、被害者宅は自宅にはライトブルーのインク瓶があり、同じライトブルーのインクは自宅に戻ってから補充すれば充分である。帰宅までにインクを補充しなければならない必要性がなければ、翌日の学校に備えて、帰宅してから補充すれば足りる。このような必要性があったとの証拠も全くない。
 第5に、被害者は従前と同じライトブルーのインクで前日(事件当日朝登校前のも含む)まで日記をつけており、ブルーブラックを補充すれば、日記を書くにしても、インクの色が異なってしまい、きれい好きな年頃であろう被害者が、自宅で補充せずに異なるインクを郵便局でことさら補充する必要性は何もない。

ロ.インク補充の動機の不存在

 次にインクを補充する動機も全く存しない。
 まず第1に、既述のようにライトブルーのインクが少なくなったとの認識自体は、被害者には、なかったはずである。
 本件万年筆の充填方式は内部スポイト式でスポイト部分まで開けたとしても金属様になっていて、その残分量は外からは確認できない。被害者が本件万年筆を使用するにあたって、インクが少なくなったか否かが判別しうるのは、万年筆を使用していて、インクがかすんできたときである。
 しかし、本件万年筆で証拠上最後に使用したと認められる前記ペン習字の清書面を見ても最後まで通常のインク状態で記載されており、インク不足となってかすれたような事実は全くない。
 これでは、インクを補充する動機そのものが存しない。
 第2に、確定判決によっても、ペン習字の清書のあとに、被害者が自宅に帰宅するまでに、万年筆そのものを使用する何らかの目的も認められない。
 まず当日の下校時までに万年筆を校内で使用することはなかった。
 更に、立ち寄った郵便局でも、万年筆のインクを補充すべき何らかの動機もなかった。又、その後、万年筆を使用するような予定があったとは認められない。
 第3に、更に、ブルーブラックのインクを補充する動機が他にあったと解するのも不自然である。@万年筆を使って、書き物をする予定は全くなかった。A帰宅すれば、常用しているライトブルーのインクビンがあるのに、途中補充するのは不自然である。B万年筆を使い始めた高校生が、インクの色を全く無頓着に、補充するのは不自然である。

(3)万年筆から被害者及び請求人の指紋が全く採取・検出されないことの不自然性

 @当時の吉展ちゃん事件につづき身代金を取りに来た真犯人を取り逃がした失態を演じた本件事件は、訴追側にとっても大事件であった。
 被害者宅に投函された強迫状からは、指紋検出作業がなされ、訴追側は、「犯人」を請求人に絞り込んで請求人宅の家宅捜索が念入りに行われた。
 そして、請求人宅からは、「ついに」被害者の所持したとされた物(万年筆)が発見される。誰が考えても決定的証拠である。捜査側として当然思いつくのは、発見された物からの、被害者及び請求人との結びつきの確固たる裏付けである。万年筆から、被害者又は請求人の指紋が発見されるだけで決定的となる。細心の注意を払って、指紋採取活動がなされるのは当然である。 しかし、まず万年筆押収時の不自然性を指摘しなければならない。
  捜査官は第3回目の万年筆捜索時、わざわざ兄六造に万年筆外側の指紋をことさら消し去るように素手で取らせている。何故素手で兄六造に取らせたのかも不思議で、はじめから請求人の指紋が万年筆にないことを知っていたかのようである。本来は、その万年筆から、請求人の指紋が検出されれば決定的に重要な証拠の一つであり、捜査に手慣れた将田、小島、原検事までが立ち会っているのであるから、当然に、指紋の保全がなされて当然であった。
 何とも不自然である。この家宅捜索の同行者には小島捜査主任もおり、小島は、第2回家宅捜索時に「松のふし穴」部分を探しており、これは万年筆が発見されたお勝手鴨居の上の右約15pのところにあって、この「松のふし穴」を捜索するときは、必ずや万年筆が同時に目に入る位置だからである。
 このような小島が、第2回請求人宅捜索からわずか8日前にも、その同じ場所を捜索していながら、その場所に、万年筆が置かれていることを確証しながら、平然と捜索に向かうのは、何とも解せないのである。
 小島が、将田を介して、原検察官からの本件万年筆隠匿場所にかかる請求人のメモを受け取った時に、既に小島が捜索した場で、2回の捜索時に現場に立ち会い、何もなかったことは直ちに判ったはずであるのに、小島が、将田や原にその旨をコメントした様子は全くなくあまりに不自然である。
 捜査主任であった小島の態度としても、真に、本件万年筆の様な重大証拠が発見されるかも知れないようなメモの受け取り状況として、あまりにも不自然である。

  Aスポイト部分に被害者の指紋が採取・検出されないのは不自然
 原決定は、結局は、昭和38年5月1日の午前中、ペン習字の清書をライトブルーのインク入りの万年筆で書いた後、請求人と出会う前にブルーブラックを補充したと述べているに過ぎない。
 そこで、すでに主張してるように本件関係証拠をいくら精査しても証拠上考えられる場面は2ヶ所だけである。
 a 第1はペン習字の清書を終えた後、被害者が下校するまでの学校にいたときの間である。
 しかし、関係者の供述によっても、仮に補充したとしても、被害者自らが補充したか否かの可能性だけであって、第三者が補充したことはない。
 b 第2は、郵便局での可能性である。
 しかし、郵便局員Sd氏の供述からしても万年筆のインクが補充されたとは考えられない。まして、誰かが被害者から依頼されて補充した事実は考えられない。
 c するとa、bとも、被害者以外の人が補充した証拠は全くなく、被害者自ら補充したと認めうるに足る証拠もない。
 d そこで、仮に確定判決のようにa又はbで補充された可能性を考えたとしても、それは被害者自らが補充した可能性だけである。
 e しかし、これは、極めて不自然である。本件万年筆のスポイト部分は金属性様のもので、明らかに指紋が付着しやすい。
 f 本件万年筆のインク補充方法はスポイト式であり、インク補充をすれば、必ずやその者の指紋が付着する。
 g 確定判決によれば、仮に5月1日にインク補充がなされてもなされなくても、常時被害者が使用して、被害者のみがインクを補充していたものであり、スポイト部分には被害者の指紋のみが常時付着しているはずである。これは、ブルーブラックを帰宅途中で補充したか否かには、全く左右されない。
 兄N・Kの公判供述によっても、時折、被害者の万年筆を借りて、使用したことはあるものの、Kがインクの補充をしたとの供述はない。
 h しかし、本件万年筆のインク入れスポイト部分からは被害者の指紋は全く採取・検出されていない。
 押収された本件万年筆はインク入れ部分が中でスポイト式になっている構造のもので、そのスポイト部分も実際に手にしてみると、指紋がよく印象されやすい素材である。
 兄六造が万年筆を素手で、手指で持ったとしても、指でつまむように持っており内部にあるスポイト部分には全く手を触れていないし、また請求人の自白でも、内部のスポイト部分に触れたこともない。押収された万年筆が被害者の本物の万年筆であるとすれば、常時被害者がインクを補充していたのであるから、スポイト部分に被害者の指紋が付着して当然であるのに、それさえもないのはあまりにも不自然である。

このページのtopへ戻る

3 万年筆取得過程(自白)の不自然性

(1)請求人は、昭和38年6月25日付原検察官に対する「一、私は」で始まる供述調書で、本件万年筆の取得時期について「又鞄から本やノートを出す時、筆入れが出たのでその筆入れを盗んでズボンの後のポケットに入れて持っておりました。その中には万年筆も入っていました。」と供述している。

(2) さらに、請求人は、第一審第七回公判廷において、本件万年筆の取得時期につき以下のように供述している。
 (昭和38年押第115号の符号42、万年筆を示す)
 この万年筆見覚えありますか。
  はい、あります。
 これは誰の万年筆ですか。
  Yちゃんのものです。
 いつ取りました。
   同じ時計取った時、じゃないです、あのね、これはYちゃんちへ手紙届けに行く時カバンを捨てる時一緒にこれが出てきたのでその時取ったです、それで筆入れの中にあったです。
 と答えている。

(3)これは、明らかに確定判決と矛盾する。
 確定判決によれば、雑木林で脅迫状を万年筆で訂正したあとに、被害者宅に向かう途中で、カバンを捨てている。
 「脅迫状を万年筆で訂正したときには」請求人は、まだ、「万年筆を入手していない」のである。

このページのtopへ戻る

4 万年筆発見経過の不自然性

(1)確定判決の万年筆発見の自白の不自然性

 @ 万年筆発見自体にかかる自白の不自然性

 T 本件万年筆はあたかも被告人の自白により発見されたかのごとく装ったものである。昭和38年6月25日付検面で「勝手場」入口鴨居上と自白し、翌日、家宅捜索により発見されたとした。

  U しかし、この自白は、極めて不自然なものである。

 (イ)6月24日付自白では、本件万年筆の隠匿場所は「風呂場入口」の上の鴨居上であった。

 (ロ)翌6月25日付検面自白では「勝手場入口」の鴨居上とされた。

 (ハ)そして第3回目捜索時(6月26日)には「お勝手入口かもい」から、本件万年筆が発見された。
 問題は、「決定的な物証」である万年筆の自白を24日に採りながら、そのまま放置し、家宅捜索を1日おいて26日にしており、この間25日に再び自供を取った上で、家宅捜索していることである。被告人自らが自白した最大物証にかかる供述の裏付けを一日、間をおいているのが何とも不自然である。

 A 本件万年筆にかかる自白自体の不自然性

 T 被害者の父N・Eの昭和38年5月2日付員面によれば被害者は「パイロットオレンジ色のペンで、よく胸や腰のポケットに差し込んで携帯していた」とされている。当日も、このとおりだとすれば、請求人の自白と明らかに矛盾する。請求人の自白によれば、本件万年筆は筆箱(員面では「筆入れ」とされている)の中に入っており、この筆入れは「薄茶色の一見革製に見えるチャック付」鞄に入っていたことになる。右鞄は自転車の荷台の後ろに、荷掛けの紐でくくりつけられていたとされる。
 そして、犯行現場で、そのまま自転車を立てかけて犯行に及び、被害者を芋穴に逆さ吊りにした後、封筒を開けてそこに身分証明書を入れ、自転車に乗り、途中鞄や荷掛け紐を捨て、このとき鞄から筆入れを取り出して、ポケットに入れ、自転車に乗ってUd・K宅まで行って、N宅の所在を聞いてN宅に行き、納屋に入り兄Kが停めた車のすぐ脇に並べて自転車を置き、N宅玄関ドアに差し込み、Id養豚でスコップを盗み、芋穴の近くに遺体を埋める穴を掘り、遺体を芋穴から引き上げて埋めて土を戻し、自宅に戻ったとされる。この間、請求人の自白では、自転車に乗っているとき筆入れの中で万年筆などの音がしたというのであるから、ズボン後ろポケットに万年筆が入った筆入れを入れたまま行動していたことになる。

 U その後、万年筆が入った筆入れを鴨居に隠しておき、その後筆入れは風呂場で燃やし、万年筆だけは取り出して鴨居に置いていたとされる。しかし、請求人宅では、自白によっても何も使用していない。
 しかし、これはあまりにも不自然である。
 第1に、請求人にとっては金目のものにならない万年筆を被害者から取ること自体理由がない(換金目的もあり得ない)。
 第2に、請求人には筆入れや万年筆を盗って自宅に保管するような動機は全くない。当時の請求人にとって文字を書くという生活習慣そのものがなく、万年筆を必要としていない。
 まして、鞄に入っていた他のものは捨てたのに、意味もなく鞄から筆入れを取り出す必要はない。また本件万年筆はピンク色で女物であり、いくら隠したとはいえ、家族に見つかっては不審に思われるだけである。万年筆も全く使用しておらず、使用する予定もなかった。これでは何のために取ったのか全くわからない。
 第3に、自白では一旦、万年筆在中のまま筆箱(筆入れ)を鴨居の上に隠し、その後筆箱だけ燃やしたとされるのであり、鴨居の上に厚みのある筆箱を隠したとしたら、家人の目にとまらなかったわけがないし、しかも筆箱を燃やして、腕時計は5月11日に捨てたとするのであるから、使う予定もないピンク色の女物の万年筆だけ自宅に残しておくのも不自然である。
 第4に、本件万年筆はピンク色で、かなり目立つ物である。請求人逮捕に先立ち、連日警察官が石川宅を訪れ、場合によっては家の中に入ってくることも予想され、被害者が遺体で発見された後は、マスコミでも大々的に連日報道され、そのような状況下で被害者の万年筆を、ことさら発見しにくい場所に隠すわけでも、捨てたりして処分するわけでもなしに、ことさらとっておく必要はない。
 実際にも捜査官らは請求人宅に上がり込んだりしていた。例えば、上申書を作成させられた5月21日には、警察官今泉久之助と斉藤留五郎が午後8時半頃、請求人宅を訪れている。第1審第6回公判で今泉は、

 石川の家に午後8時30分頃行って、あなた達は上に上がったんですか、下に腰掛けていたんですか。
  上がりました。
 家族の人達はどういうふうな状況でしたか。
   家族の人たち、ちょうど上がりはな座敷といいますか、玄関から突き当たりの座敷へ行きましたら、どうぞ上がって下さいと言うので上がりまして…

 このように、請求人はこの時すでに、本件被疑者と疑われ、そして警察官が自宅にまで上がり込んでもなお、一旦置いた万年筆を、やすやすと発見しやすい本件「お勝手出入口鴨居上」に置いたまま放置しそれ以上には、発見されないように隠そうとしないままにしておいたと考えるのも何とも不自然である。
 5月21日作成の上申書で、多少のウソを入れてでもアリバイを述べようとする請求人の行動とも矛盾する。

(2)第3回目の家宅捜索(昭和38年6月26日)の不自然性

 第3回目の請求人宅捜索は、捜査側作成の捜索差押調書には、本件主任刑事であった小島朝政(県警捜査一課警部)、将田政二警視、小沼二郎主事の立会だけであるが、翌日の朝日・サンケイ・毎日各新聞によれば、原検事及び検察事務官らも立会い、請求人方から出てきたところの写真記事もある(原検事、検察事務官、将田警視、小島警部)。
 何故、原検事、将田警視までが立ち会ったか。よほどの「確証」があったことになる。
 右捜索差押調書には、捜索状況について、

 立会人石川六造とともに勝手板張の間に至り、同所南側出入口内側において本職(捜査官)は右同人(石川六造)に対し
  この辺に一雄君が何か置いてあるというが捜してくれませんか
 と同出入口上方附近を示すと同人は
  幾ら捜したって何もありゃしないよ
 と一人ごとを言いながら、この出入口上方カモジ(上の鴨居)の上を西側の方から右手を入れて手捜ししたところ、同中央カモジの上に至ったとき
  あ、あったこんな物が
 と言いながら、やや驚きの表情でピンク色の万年筆一本を指先で掴み出して本職に差出したので、これを差押さえた。

 そして、この日、原検察官、将田、小島ら捜査官は、請求人が書いた万年筆の置き場所を印したメモを請求人宅に置き忘れたという。これも、いかにもわざとらしい。まず、請求人自筆のメモを何故現場に持ち出すのか。第3回目に同行した小島はそれまでの2回の捜索にも立ち会っており、第2回目の捜索時には、自らも「松のふし穴」を捜索しておりお勝手出入口鴨居上は、極めてわかりやすい場所にあり、小島にとって知り尽くしている場所であり、ことさら請求人のメモの原本を持ってまで行かなければならない必要はない。又、このメモを家人が(実際は弁護士が)、捜査側に届けなかったらどうなったのか。請求人家族が証拠を隠したとして、大騒ぎになったに違いない。
 上記の第3回目の捜索は実に奇妙である。
 第1に、何故、原検事、将田、小島の三人なのか。
 それまでの石川宅家宅捜索において、直接原検事が現場に赴くことはなかった。
 これは、請求人メモと無関係とは思われない。
 本件捜査は小島が主任とされ、その上に、将田、原検事となっていた。従って、一般的な捜査状況や捜査の進展は、遂一小島に報告され、それが将田に伝わることとなる。
 請求人メモは異なった。
 請求人メモ(お勝手鴨居に万年筆があるとする)は、小島の公判供述によれば、小島が将田から渡されている。しかし、本件万年筆がお勝手鴨居にあると自白した6月25日の取調官は原正検察官(6月25日付検面)であり、原から将田へ、将田から小島へと渡され、この3人が一緒に石川宅に赴いたのも奇妙である。
 昭和38年11月13日原審第1審第5回小島朝政の公判供述はこの状況につき、
 「捜索を下命された時に将田警視から半紙に記載された簡単なメモを渡されまして、実は当時の石川被疑者が万年筆をこういう所に、お勝手の入口の天井の鴨居の所に隠してあるそうだから捜索してくれという話があったので、やったわけでございますが。」
 としている。
 請求人宅から、被害者の本物の万年筆が発見されれば、それこそ、決定的である。最大の決定的な証拠を「捜索を下命された時に将田警視から半紙に記載された簡単なメモを渡されまして、実は当時の石川被疑者が万年筆をこういう所に、お勝手の入口の天井の鴨居の所に隠してあるそうだから捜索してくれという話があったので、やった。」というような悠長な話ではない。直ちに、押収に行くはずである。
 第二に、「万年筆発見自体にかかる自白の不自然性」として既述したが、何故、24日に自白・指示したときには見向きもしないで、25日に自白した「お勝手出入口鴨居上」に確信があったのか。すでに、お勝手出入口鴨居上に、万年筆が置かれていることが、将田、小島、原にとっては判明しているかのごとくである。

(3)第1回目、第2回目のお勝手鴨居捜索の徹底さ

 第1回目、第2回目の請求人宅家宅捜索で、お勝手出入口の上の鴨居は捜索されたのに、本件万年筆は存在しなかった。

@請求人宅家宅捜索の方法等

 第1回目の家宅捜索は、昭和38年5月23日(逮捕時)午前4時45分から午前7時2分までの2時間17分間行われ、県警本部捜査第一課の小島朝政が責任者となり、芝岡清吉、諏訪部正司各警部、関口邦造、岡島正雄、針ヶ谷守次、福島英次、石川金五各巡査部長、岡村多一郎、E・J、高島泰造各巡査、小堀二郎主事が参加し、県警本部捜査第一課の他に県下から集めた優秀な刑事が配置された。
 捜索の目的は(イ)脅迫状関係(ノート、筆記用具)(ロ)本件に関係あると認められるものであった。
 捜索方法は、まず屋外を実施した後、屋内に移り「捜査員の十一名の者を各捜索分担を決め」「便所はやったでしょうね。…天井裏はやったでしょう」(小島第1審第5回)。
 第2回目の家宅捜索は、差押調書によれば、昭和38年6月18日(第2次逮捕の翌日)午前5時55分から午前8時3分までの2時間8分間され、捜索責任者は小島朝政警部であり、芝岡清吉警部、梅沢茂、吉田良叙、福島英次、清水輝雄、井上態造各巡査部長、吉沢実、高島泰造、飯野源治、春山菊雄、山崎和夫各巡査、小堀二郎、町田勇各主事であった。当時の新聞記事によれば「この日の家宅捜索は埼玉県警捜査一課小島警部が警官約30人を指揮して行い、関東管区警察局田中刑事課長、埼玉県警中刑事部長、同将田捜査一課次席ら特捜本部の幹部のほか、浦和地検の原、滝沢、河本の三検事も立会うなど、これまでになく慎重なもの」であった(6月18日付朝日新聞夕刊)。
 捜索の目的は(イ)被害品、鞄・腕時計・万年筆・財布、(ロ)本件に関係あるものであった。
 捜索方法は「各捜査員に部屋を決めて捜索した」「私(小島)は総指揮者でありましたので、各部屋を見て歩いて」(小島第2審第13回)捜索している。
 第1回目も、第2回目にも、後に万年筆が発見された本件お勝手出入口鴨居上は捜索されていたことが明らかである。
 当時の請求人宅は全部で5部屋あった。南側の正面玄関入口から入るとすぐに下駄箱が右にあり、玄関脇左は、床が板張りの廊下となっている。
 玄関口を入ってすぐ4畳半の畳の部屋があり、ここにテレビが置いてあり、神棚もあった。この部屋の壁部分はすべてしっくい壁である。この4畳半部屋の西隣は6畳の畳の部屋があり、西側の床の間と西北側の押入があり、この押入の天井板がはずれて天井裏に登る出入口があり、この部屋の東北側に仏壇が置いてあった。この部屋の壁もすべてしっくい壁である。この6畳の北隣が4四畳半の畳の部屋で、部屋の中にはタンスがあり、この西側に便所があった。この部屋の壁もすべてしっくい壁である。
 前記の4畳半の畳の部屋の東側、玄関入口の4畳半の部屋の北側は全体が6畳くらいの板の間であるが、その北側部分には4畳半分の畳が敷かれており、部屋の東側脇には、石油缶(カンカンともガンガンともいわれた)の空いたものに洗濯物が入れてあった。この部屋の壁は、西側と南側がしっくい壁、北側が板張り、東側は押入様のものがつくってある板や柱やベニヤ板がそのまま出ている。右の部屋は170センチメートルの弁護人が手を上に挙げても手の指先が天井に着かずに、天井の高さには余裕がある。逮捕時、請求人が寝ていた部屋である。
 北側の東側端の部屋は、台所(お勝手)であり、壁はすべて板張りであり天井も板張りで天井にはきっちりと板が貼っていないので、屋根のトタンの裏側が直接にたくさん見える。170センチメートルの弁護人が、手を上に伸ばしてみると、一番高い天井の部分にも手の指先が付いてしまうほど天井が低い。

 A第1回目の家宅捜索について

 第1回目の家宅捜索にかかる差押調書には、居間奧の4畳半より風呂場方向を写した写真があり、そこには正面に風呂場入口(「風呂場入口鴨居上」)も写っている。
 そして、上記写真には風呂場前には脚立が置かれており、この脚立が置かれている写真右に本件万年筆が発見されたお勝手出入口上の鴨居がある。
 これは明らかに上記脚立を使用して周囲を捜索したことが明らかである。弁護人においても、請求人宅が(火災で消失する以前に)存したときに、上記脚立と同じ形状の脚立を使用し、床から一段上に足をかけて、あたりを見回しただけで風呂場入口の上の鴨居やお勝手出入口の上の鴨居の奧の方まですべて直視できたことを何度となく確認している。なお、上記写真左手前は、台所の西隣で、逮捕時請求人が寝ていた部屋であるが、その部屋の東側隅に石油缶(洗濯物が入っている)がいくつかあるのがわかる。
 請求人宅は、さほど広くはない平家建物である上に、捜査員がある程度部屋割りして捜索し、自分の担当した部屋を終えてから他の部屋に応援に行くなどして、捜索をしているものの、部屋の中に置かれたものなど、部屋の特徴がいくつかある。捜査官から事情を聴取する上で、捜査官は特に何を捜索したか、どういう特徴の部屋を捜索したのかは、比較的正確に記憶に残っていることから、その点に留意して、第2次再審で証拠申請した石川宅家宅捜索に参加した捜査官に質問しているので、それを手掛かりにすると、どの部屋のことかが推認しうる。
 第1回目の捜索についても、部屋割りがされて捜索された。
 お勝手の担当とされたのは、E・Jと某氏(不明、関口邦造(亡)か?)の2人である可能性が強い。
 Eは、平成3年7月13日付弁護士らに対する供述調書で、

 「私は昭和38年5月の石川一雄さん宅の第1回目の家宅捜索に加わりました」
 「当日は、朝早く警察の本部に集まり、上司からその場で順次番号をふって、捜索場所をわりあてられました。そしてすぐに、石川さんのお宅に捜索に行ったのです。」
 「私が割り当てられた捜索の場所は、いわゆるお勝手といわれるところで、あとで、そのお勝手口の上のかもいの所から万年筆が発見されて大さわぎになった場所です。」

 としている。そして、

 「私は、お勝手のいろいろな場所を捜索しましたが、お勝手入口の上のかもいの所にボロがつめてあったのを覚えています。私はその場所を捜すのに、踏み台のようなものをおいて、その上に登り、捜索しました。どちらの手でとったかはっきりしませんが、私は右ききですので、たぶん右の手でかもいのところにあったボロをとって中も捜しましたが、中は穴があいているようにくぼんでいた記憶がありますので、そのボロは、穴をふさいでいたものだと思います。穴の中には、何もなく、何も発見できませんでした。」
 「そして、そのボロがあった鴨居のところも手を入れたり見たりして、ていねいに捜しましたが、何もありませんでした。」
 「私は、背の高さが158センチメートルで、ほかの警察官よりも低い方ですが、踏み台のようなものに乗って捜したので、かもいの中の奧のほうまで、見えますが、そのとき、中を見ても何もありませんでしたし、手袋をした手でもかもいの部分をよく捜しましたが何もありませんでした。右のことは、私の記憶に今も残っており、まちがいありません。」
 「私としては、当時刑事として誇りを持っており、落ち度がないように捜索したつもりです。」
 「私達が、捜したずっとあとになって、私が今日お話したお勝手出入口上の、かもいのところから、万年筆が発見されたと言われ、まったくびっくりしました。発見されたところは、私がまちがいなく捜して、何もなかったところなのに、本当に不思議に思いました。」

 と供述した
 更に、Eは平成3年12月7日付弁面で、

 「私は、石川さん宅のお勝手の捜索をしました。前に弁護士さんが来た時にもお話しましたが、お勝手の出入口の鴨居のところにボロがちょっと見えたのを発見しました。3センチくらいボロが見えたのを記憶しています。先程、3センチくらいというのは手で示して写真を撮ってもらいました。3センチくらい出ていたボロを、私が取り出して、中をいろいろ見ました。中は暗くてよくわかりませんでした。そして、そのあたりから手の届く範囲の鴨居のところをずっとなでるように捜しましたが、何もありませんでした。目でもよく見ましたが、何もありませんでした。これは間違いありません。」

 と供述している。
 更にEは、上記弁面調書作成の際、E宅において、当時の捜索状況の実演や、具体的に「ねずみ穴」にあったボロの大きさ3センチぐらいを、自ら親指と人差し指の手指で示している(写真)のであって、具体性に富み、真に体験した者にしか表現しえないリアリティーがある。
 上記Eは平成3年12月7日、自宅の居間において弁護士らに対し、面前で自ら自宅台所からイスを持ってきて、自らそのイスに乗り、弁護人が差し出したハンカチをボロに見立てて折りたたんで今の鴨居に見立てたところに、そのハンカチを押しあて、その周辺を捜索するように実演した。
 Eは、第1回目の捜索時において、お勝手出入口鴨居上、万年筆が後に発見された場所を間違いなく捜索したのに、万年筆はなかったのである。
 しかし、原々決定及び原決定は、上記E・Jの供述について、同人の「昭和61年10月には弁護人から請求人宅の捜索の模様を問われても、『昭和54年に退職して間もなく脳血栓を患って以来、長患いしており、昭和38年5月の請求人宅捜索の模様については、古いことで忘れてしまった。』などと述べ、具体的な捜索の状況を供述しなかったというのであるから、E弁面調書が、確かな記憶に基づくものか疑問があるといわざるを得ない」として、E・Jの供述を否定した。
 しかし、上記決定が援用するE供述は、1986年10月2日に弁護人らがはじめてE宅を訪れたときのことであり、テープ全体からしても当時の体験事実を忘れているとの趣旨では、全くなく、大きな事件のことで、その日突然弁護士の訪問を受けた為に、供述回避の態度から、とっさに口に出ただけのことである。同日同人に対する弁護人青木孝らの事情聴取は、

 青木 ごめんください
 雛元 今晩は。…、今晩は。
 青木 ごめんください。
 雛元 今晩は、今晩は。今晩は。今晩は。
 E …。
 雛元 あっ、夜分おそれいります。
 青木 ごめんください。
 雛元 どうもおそれ入ります。
 青木 夜分申しわけありません。あの私ですね弁護士の青木と言いますが。
 E えっ。
 青木 あの、E・Jさん。
 E そうです。
 青木 あの元警察。
 E そうです。
 青木 あの実は、狭山事件を調査しておりまして、…ちょっとお話をうかがわせていただきたいんですが。
 E あーもう忘れちゃったよ。
 青木 まあちょっと古い話ですけどね。あの。
 雛元 簡単なことで立ち話でけっこうなんですけど。
 E もう忘れちゃったよ、脳血栓でここ休んでんだからね。脳血栓。右半身きかなくなって、あんまり。それでももう7年になんだ。

 というやりとりで始まっている。
 Eは、弁護士青木が同人に対して、狭山事件を口にしたとたんに「忘れちゃったよ」と応答しているだけである。むしろ、狭山事件と述べた瞬間に「忘れちゃった」と過剰反応した人が、後に、弁面調書にまで、署名押印したことの方がよほど重要で、かえって信用性が高いというべきである。
 更に、弁護人青木らが続けて当時の請求人宅家宅捜索の写真をEに見せると、

 雛元 ああ、そうですか。写真ですね、見ていただきたいんですけど、これ、Eさん。
 E そうですね。これはたいしたもんだな。これだけの。これこれ。

 と応じ、当時の記憶があることを示し、更に、狭山事件にかかわった元捜査官の諏訪部、福島、石川金五、飯野源治、関口らについても覚えている。またこの事情聴取の際でも、

 E 鴨居ちゅんか、なげしみたいなとこ、そこだ。そこだ。
  …(中略)…
 青木 Eさんの記憶があるところとすると、さっきのこう鴨居っていうんですかね。
 E なげし。
 青木 なげし、なげしの上とか。
 E なげし、なげしもやったよ。
…(中略)…
 E なんか台一つ置いたっけな。

 といって、E宅自宅の出入口(石川宅お勝手出入口風)の上をさして、請求人宅の「なげし」(鴨居とも呼ぶ)を捜索したこと、台一つ置いて捜索したことを認めている。右の供述回避の態度が強い状況下でEが「なげし」を「台一つ置いて」捜索したと供述した意義は極めて大きいのである。
 そして、Eは上記事情聴取の際に、どの程度脳血栓で悪かったのか聞かれて、

 青木 やめる前はなんともなかったんですか。
 E なんともなかったけどね、悪かったんだな、結局は。
 青木 じゃ、どのくらい入院されたんですか。
 E 入院はしねえ。入院するなんて、余裕あらしねえもの。

 と答え、脳血栓といっても、入院する程度でもなく、やめる前は何ともなかったものであって、記憶がなくなってしまうような状況は生じていない。
 上記当日に急に弁護人らの訪問調査を受けて、供述回避の態度を当初とったとしても、その後の供述全体にいささかの影響があるというものではない。
 そして、その後先の平成3年7月13日付弁面調書、平成3年12月7日付弁面調書の他に平成4年5月16日付弁面調書が作成され、この間、先の平成3年12月7日には捜索状況を説明した平成4年7月4日付写真撮影報告書が作成され、一貫して、今回弁面調書で述べたことは間違いないことであることをEは何度も何度も確認している。
 そして、Eがお勝手出入口の上の鴨居を捜索している人物であり、その光景の一部始終を家族の中の1人、石川の姉であるSことAd・Hが目撃していた。
 Ad・Hが第1回目の捜索に立ち会ったときのことである。

 そして、@の部屋(玄関口のテレビがあった部屋)から、何かえらそうな人がお勝手のDの部屋の方に行くので、なんでそんな方までやるのかと不思議に思って、その人のあとについてお勝手の方に行ってみました。
 確かそのとき、背の低い人(E)もお勝手の方に行ったのを覚えています。
…(中略)…
 そして、しばらく、その背の低い人がお勝手であちこち捜したあとで、後に万年筆が出たといわれるお勝手南出入口戸上の鴨居(私はよく「ハメ」といいますが)の外に向って右のところにタオルのようなものが少し見えていたのを見つけたようで、例の背の低い人が
 「おいきてみろよ」
 と他の人を呼ぶように言うと、他の部屋を捜索していた人だと思いますが、他の部屋から、顔は全く覚えていませんが、背の高い人が2人位来たのです。その背の高い人のうしろに雪江がついて来たかどうかは、今の記憶ではわかりません。また、雪江がその人に椅子を貸したかどうかも覚えていません。
 そして、背の低い人が、背の高い2人のうちのどちらかに
 「なにかあるみてえだ」
 というと、2人のうちのどちらかの1人が、後に万年筆が発見された鴨居に手を差し入れて、東の方から西の方になでるようにして、手を動かして右端にきたとき、
 「こんなタオルがある」
 と手にとって、その背の高い人が
 「これなんだべ」
 とおじいさんに聞いたのです。そのとき、私のすぐ近くにおじいさんもその状況を見ていたのです。そして、おじいさんが
 「ネズミの出場所だからつめた」
 といったのです。
 更に背の低い人が、
 「もうないか」
 というと、
 「(ネズミ穴の中には)もう中には何もありませんよ」
 と背の高い人がいったのです。
 …(中略)…
 何で、変なところを調べんだべ、と思って記憶にあるのです。
 (昭和61年11月9日付弁護人青木孝のAd・Hに対する請求人方の捜索状況調査報告書)

 そして、右足立ヒサイにかかる報告書は、E新供述がなされる前であることにも留意すべきである。
 Eと一緒に台所の担当者であったもう1人の捜査官は、今のところ確定的には判明していない。但し、もう1人は、関口邦造の可能性が高いことは既に述べた。第1回目の捜索時の最後の押収物のとりまとめをしている写真によれば、関口邦造のすぐ後ろに、E・Jが立っていること(ペア)、関口邦造以外は、他の捜索場所であることがこれまでの調査で判明しているからである。
 しかし、第1回目の捜索にあっては、お勝手をEを含む2名の捜査官が担当した他、もともとは台所の捜索の担当者ではなかったが、担当の場所を捜索した後、他の場所の捜索の応援にいき、お勝手出入口の上の鴨居を捜索した捜査官がいたのである。
 高島泰造は、第1回の石川宅家宅捜索に参加し、担当であった玄関に入ってすぐの4畳半の部屋(テレビがあった部屋)の作業を終わって、台所の捜索に加わった。

 「お勝手に行きましたねえ。こういう上、ちょっとさわったような気がするねえ。このトタンと天井の間。」
 「身長があるからって『おめぇ、そこ見てくれ』と」
 「小島さんだったかな。……おめえでかいからちょうどいいや、なんて。」
 「まだ奧の方が終わってないようで、それで、ただやりに行って。」
 「台でしょ。あ、ありましたね。」

 高島の背の高さは173センチメートルである。
 そして、この高島が捜索していた状況を見ていたのは福島英次である。福島も第1回目の捜索に参加したときの状況を弁護人に供述し、

 「鴨居の上だって聞いた時、俺は、あの辺に立っていてね、背の大きい人がサッサッーと、こう手を入れているような感じを見たんだが、あれじゃ徹底しないと思ったんですがね。」
 「踏み台でも持ってきてね。」

 福島は168センチメートルで、この福島がいう「背が大きい人」とは、自分より「大きい人」となろうが、福島より背の大きいのは、前記高島(173センチメートル)であり「台」があった状況等からしても、一致している。
 福島も168センチメートルであり、本件鴨居を少し離れた位置で目撃していたこと明らかであるから、そうであれば、もし、そのとき、万年筆がその鴨居上にあれば、福島自身もその万年筆を直接発見し得ていたはずである。
 小島は、原審1審第5回公判廷供述で、万年筆の発見状況を次のように供述している

 「それで立会人の六造さんに、実は一雄さんが、こういう所になんか隠してあるという話しなんだけど一緒に来てみてくれないかということを話しましたら、何も見たって、ありやしないよということで、まあちょっと軽い気持ですか、そのあしらって一緒に勝手場の出入口の天井の鴨居といいますか、いわゆる上の敷居ですね上段の敷居の天井ですね、これは六造さんと私と当時の写真撮影の者と3人で、そこへ行きまして一緒に見ておりましたんですが、六造さんが、まあその高い所でもないんですが、ひょいと手をあげて3尺の出入口の所を西のほうからちょっと入り組んだ4、5寸奥へはいった所を、すっと手の平をなでるように押していったら、あっこういうものがあったと言って、その場で同人が取り上げまして、私達に見せてくれたわけなんですが」

 兄六造でさえ、手を入れてなでるようにしただけで、すぐに、万年筆を取り出している。
 福島が見た状況は、上記兄六造が手を入れた光景と何ら変わらない。
 なお、小島が供述した第5回公判では、小島は、第2回目の家宅捜索に全くふれていない。そして、弁護人側が、第2回目の捜索にふれようとしたところ、裁判所によって主尋問の範囲を逸脱しているとして、遮られている。
  B第2回目の家宅捜索について
 第2回目の家宅捜索においても、本件万年筆が発見された本件鴨居が捜索されている。
 第2回目の捜索も小島らによって分担が決められて捜索されている。
 第2回目の家宅捜索にかかる写真中、問題の鴨居あたりに向けて写された写真がある。当時の捜査員のメンバーからすると、写真を撮影したのは小堀か町田である。
 上記写真は左に風呂場、中央及び右側にお勝手出入口があり、上右側が問題の鴨居であり、後ろ向きの人物は、請求人の弟の清である。清の頭上直ぐが問題の鴨居で、同写真はあと数センチのところで上端が切れてしまっており(ネガでも確認できなかった)、直接鴨居上に万年筆があるか否かまでは確認できない。
 しかし、撮影した小堀か町田はこの部分のこの方向から、カメラアングルとして確認している。カメラアングルでは実際にネガにプリントされるよりも「ワク」が大きく、それを確認して、シャッターのタイミングを見て、撮影するものであるから、この撮影時の撮影位置からすると鴨居上に万年筆があったか否かがすぐに判別できる位置であり、万一そこに万年筆があれば、その物の存在についてお勝手担当者に知らせないわけはないのである。
 第二回目の勝手場の捜索担当者の一人は吉沢実である。
 吉沢実は弁護人らに1986年9月7日供述し、

 吉沢さんは捜索はどこをやられたとご記憶ですか?
  お勝手の方かな。
   …(中略)…
 一回目、お勝手の方……。
   …(中略)…
 私なんか行ったときは大したものみつかんなかったんじゃなかったですか。
    …(中略)…
 ふつうの捜索よりきっとていねいにやったような気がしますよねえ。
   …(中略)…
 勝手場の天井ね、野地板のところなんかも全部見られましたか?
  うーん、やったんですけどね。やった時点では何にもみつかんなかったんだよね。
   …(中略)…
 私らやったときはねえ、そこ怠っちゃたんだよね。見つかんなかったっていうんだよね。
   …(中略)…
  一回目のときは、ずっとみられたんですねえー。
   みましたね。
    …(中略)…
 もちろん、大きな事件のことだからねえ、なんか自分たちやったところを、自分たちの責任もあるからね。ていねいにやったような気もするんだけど。

 上記の「うーん、やったんですけどね。やった時点では何にもみつかんなかったんだよね。」という答えの響きは深刻である。上記の答え自体は、野地板の捜索に対するものではあるが、吉沢は、お勝手捜索の担当者としてきちんと捜索したのに、その当時はみつからなかった(なかった)ということを、何度も繰り返して答えているようである。
 当時の請求人宅現場で、お勝手の野地板のところ(お勝手の屋根下)まで捜索している状況では、当然に、問題の鴨居まで見えてしまう。事実、弁護人らが、焼失前の請求人宅で何度実験しても、野地板を探すような状況では、問題の鴨居の上の部分がすぐに直視できてしまう。また、台などを使用すれば、瞬時に問題の鴨居上の部分が直視できてしまうような構造である。
 台所の担当で「ていねいにやった」のに、万年筆は発見されなかったのである。そして、第2回目の捜索の台所の担当の他の1人は春山菊夫か梅沢茂のいずれか1人である。この2人のうちいずれが台所の担当者であったのかにつき現時点では確証まではできないが、いずれであってもていねいに捜索していることは明らかであり、万年筆があったお勝手出入口の上の鴨居を捜索の際に見落とすことはあり得ないのである。

 春山さんがいろんなところをふくめて、床とか壁のところとか、なげしのところとか、天井とか捜索されて、結局、どこからも何も出てこなかったわけですか。春山さんの……。
 その時は出てこなかったですね。私は何も見つけてなかったですね。私は、何もでねえよで終わっちゃいましたね。

 そして、春山は捜索については警察学校で「きびしく教育受けますよ」と言い、梅沢は、

 天井が、こういうように、あるようなのじゃなくて、じかに、野地板みたいなのが……。
 ええ、ええ。
   …(中略)…
   1つの部屋を2人じゃないですか。
   …(中略)…
   分担が終われば。他の所にも。

 捜査官は警察学校で訓練を受け、見落としのないように、何かあるかも知れないと思って、考え得るところをくまなく捜索しているのである。何もないと思っている人が、あるはずがないと思って、そのようなところは見向きもしない場合とは格段の相違があることは明らかである。
 更に、第2回目の捜索にあっては、台所の担当者ではないが、捜査主任の小島が1986年10月19日に弁護人らに供述し、第2回目の捜索の時に「ふし穴」があり、「ふし穴に軍手だの陸足袋」などがあって、そこを「のぞきこんでみて」自らも捜索し、更に、担当者に重ねて捜索させ「私が怒ったの、記憶」あるんですと、その状況(詳細はすでに主張済み)を説明している。小島は164・5センチメートルである。
 ただし、小島は上記「ふし穴」があった場所は、万年筆の部屋ではないとは言いながらふし穴があったのは「天井脇」で部屋は「板張りの部屋」「ガンガン(石油缶)があった部屋ではない」としている。小島は、ガンガン(石油缶)があったのは、どの部屋なのか、それまでの家宅捜索でよく知っており「ガンガン」があった部屋とお勝手とを間違えることはない。しかし、状況からすると天井脇でボロがつめてあるような箇所は、いくら請求人宅を捜しても台所のお勝手出入口の上の鴨居しかない。板張りの部屋は台所と、請求人が寝ていた部屋しかなく、請求人が寝ていた部屋は「ガンガン」があった部屋である。「ガンガン」がない部屋で、すべて壁が板張りの部屋は、お勝手しかない。本件記録にあらわれた全ての証拠を結合しても、ボロがつめてあったのは、問題のお勝手の鴨居しかない。
 状況からすると、小島がその場で怒った担当者は、吉沢実並びに春山菊雄(162.5センチメートル)か梅沢茂(161センチメートル)、いずれかの2人であり、この3人はいずれであっても小島(162.5センチメートル)よりも背は低い。
 ところで、この小島が担当者に対してお勝手出入口の上の鴨居のところで怒っているのを請求人の兄六造が目撃している。
 石川六造は原2審第16回公判で万年筆が出てきたお勝手の出入口の上について第2回目の捜索のときの状況を、

 すると、第2回めのときに、そのボロきれを詰めた所を警察官が捜していたことがあったんですね。
 ええ、陸足袋のボロきれが、片一方あったんです。それから半かちのボロきれがはさまってました。
 何か、そのボロきれを取り出せと、だれかが言ったのですか。
  ええ。
 その警部はだれですか。
  さあ、小島警部と、もう少し背の低い人がいたと思います。

 と供述している。
 確定判決は、六造の供述を、ただ家族の供述だからとして一方的に信用性を否定したが、再審請求係属後の小島その他の捜査官の供述によって裏付けられたと言うべきである。
 この兄六造の供述が重要であり、かつ信用性が高いのは、原審2審の公判廷でなされており、兄六造の供述は小島新供述が出てくる以前にあったことである。
 小島は本件捜査主任であり、捜査官であった小島が、ことさら記憶と異なる供述をし、兄六造の供述に合わせることはあり得ないし、そもそも小島はそれまで、高い部分の捜索は抜けておったとして、万年筆が第1回目、第2回目の家宅捜索で発見されなかったことを弁解していたからである。
 更に小島の供述は具体的に「陸足袋」や捜索方法についても、リアリティ溢れる説明をしている。
 小島供述により、これまで全く無視されてきた兄六造の供述の信用性が復活したというべきである。
 結局は、第2回目の捜索においても吉沢実並びに春山または梅沢が捜索し、更に小島が、お勝手出入口の上の鴨居を捜索したことが認められ、本件万年筆はなく、その捜索状況を石川の兄六造が目撃していたことが明らかである。

(5)以上のように本件万年筆が第3回目の捜索時に発見されたお勝手出入口の上の鴨居は、第1回目の捜索でも第2回目の捜索でも捜索されていたことが明らかであるが、それにもかかわらず、その時、本件万年筆はなかったものである。
 ところで、鴨居の状況については、原2審以降の裁判所の判断は180度転換している。
 本件鴨居は、原1審判決のとおり「人目に触れるところ」「手を伸ばして捜せば簡単に発見し得る」場所である。少し離れて見たり、背の低い人でも背伸びをしたり、小さな台に乗るだけでも、あるいは本件捜査官の173センチの人や168センチ位の背の大きい人であれば、すぐに見える高さである。
 「ねずみ穴」については、小島が「松のふし穴」と供述したり、6月26日の第3回捜索時の万年筆発見鴨居の右端にもボロ等が被写されている通り、そこにつめてあったボロは捜索担当時の対象となったと考えられる。このボロは右6月26日の捜索の際の写真にも被写されている。
 更に、浦和地方裁判所第一刑事部が昭和38年9月23日、24日に行った検証にかかる検証調書にも、本件万年筆が発見された鴨居について、
 「被告人が被害者の万年筆、腕時計を隠していた布きれのある鴨居」
 と記載され、この「布きれ」は、右6月26日の捜索の際の写真の「ボロ」と同じである。
 第1回目、第2回目の捜索の際にも存在したであろうことは疑いない。
 確定判決は、「陸足袋やハンカチでふさぐ程の大きい穴でもない(ただし、原審検証の際にはぼろ布が詰められていた)」と、このボロが第1回目、第2回目の捜索時にはあたかも存在しなかったごとく推測するが誤りである。第2次再審に提出された当時の捜査官の供述や家族の供述によっても、明らかにされている。
 少なくとも台所を捜索した捜査官は元々の担当者2人がおり、この2人を含めて複数の捜査官が2回にわたり、各2時間近くかけて勝手場を捜索したにもかかわらず、鴨居上の万年筆をことごとく見落とすようなことがあり得ないという当然の疑問について、原々決定及び原決定は合理的な説明を全くし得ていない。
 家宅捜索は、特に本件のような重大事件にあっては「人目に付きやすい」ところも「人目に付きにくい」ところも様々な方法で、ていねいに捜査官の責任と自覚、威信をかけて行うものであって、よほど特段の事情でもない限り(例えば通常は捜査しない土の中に埋めてあったとか)2回にわたって捜索したのに、見落とすことはありえないのである。
 弁護人らが調査にあたった本件請求人宅捜索にかかわった捜査官は警察学校で訓練を受けた、捜査を誠実に実行し、何かが隠されていないか見落としがないかを念頭に置きながら、一つの担当場所を複数でやるときは相互に、そこはやったか、ここはやったかなどと声を掛け合って入念に捜索をしていることが窺える。狭山事件は、吉展ちゃん事件直後に大々的にマスコミに取り上げられた事件だけに、逮捕した被疑者宅の家宅捜索に投入された刑事らは、まさしく、Eがいうように「自覚と責任」をもって請求人宅家宅捜索をやりきったことは当然である。
 上記の捜索の仕方は、当初からあるはずがないと思い込んで漠然と証拠物を捜すのとは全く異なるのである。確かに請求人の家族のように、ことごとく背の低い人だけによる漠然とした物色であればともかくとして、低い人はそれなりに台などをして捜索し(E、吉沢等の供述)、背の高い人も台をしたり(神棚を台をして捜索している写真有り)、手を伸ばしたりして、直接手を入れたりして捜索していたことがうかがえる。捜索に従事した中には背の高い捜査官(高島が173センチメートル、福島が168センチメートル)もいたのであり、「鴨居は背の低い人には見えにくい」という認定は何ら意味をもたず、現実の捜索状況を無視した誤りである。背の高い人も低い人もおり、台を使う人も、そのまま手を伸ばして捜索していた人もおり、前記は捜索場所の高さ等に合わせて手抜かりがないようにしていたことを窺わせるに十分である。第1回目、第2回目とも手抜かりなく、十分な捜索をし、本件鴨居も捜索したのに本件万年筆は存していなかったことは明らかである。
 確定判決は、警察官が台に乗り、ねずみ穴につめたボロ切れを取り出して調べていたという捜索状況にかかわる請求人家族の証言を合理的な理由もなく、無視したが、第2次再審における元捜査官の供述により、それら家族の証言が裏付けられた意義はきわめて大きい。にもかかわらず、原々決定及び原決定が、確定判決の結論を維持したことは明らかに誤りである。
(6)原決定は、原々決定と同様に小島やEをはじめとした証人らの供述に直接耳を傾けようとすることもなく、弁護人らの証人取調請求にも全く応じないままなされたものである。
 原々決定及び原決定は、多数の捜査官らの供述を不十分な捜査であったかのごとくまとめ、捜査官の真摯な供述内容を無視し、更にE供述についても当初調査段階での供述回避のために「忘れちゃった」旨を弁解した点を恣意的にとらえて、あたかも本当に「忘れているかのごとく」扱うことによって、新証拠の評価判断を明らかに誤ったものである。

このページのtopへ戻る

5 まとめ

 原々決定及び原決定を含めて、確定判決についても本件万年筆が被害者が所持していた万年筆であるか否かについては、その認定方法の点で、極めて不当な認定過程を辿っているといわざるを得ない。本件一件記録からしても、被害者が事件当日の午前中ペン習字の清書で使用したのがライトブルーで、発見された万年筆在中インクはブルーブラックであったことは、確定判決をはじめいずれの決定も認める事実である。すると、本件万年筆が被害者が所持していたものであるか否かを推認する方法は、上記の在中インクの色の違いからして、まず本件万年筆が、被害者の万年筆ではないとの合理的な疑いがすでに生じていることが大前提である。この合理的疑いは確定判決及び原々決定、原決定が援用するN・K、N・T、Ys・Tの供述によってもとうてい覆らない。
 結局は、本件万年筆は、その取得過程、発見経過をはじめ、客観的観点からも被害者が所持していた万年筆との同一性について合理的な疑いがすでに明白となっており、被害者が所持していた万年筆であるとはとうていいえず、別物(偽造証拠・虚偽証拠)であることは明らかである。

このページのtopへ戻る

13 ← 14 → 15

 ◆狭山事件特別抗告申立書―補充書-INDEXに戻る

部落解放同盟東京都連合会

e-mail : mg5s-hsgw@asahi-net.or.jp 

Site Meter