|
狭山事件特別抗告申立書補充書 7
第6 被害者の死体からの死亡日時の推定
1 はじめに
確定判決によると、被害者の死亡時刻は5月1日午後4時半頃とされている。
弁護人らは確定判決の基礎となった「五十嵐鑑定書」の結論について、記載の各死体所見と、法医学上の定説になっている死体の死後変化=死体現象による死後経過時間を推定するための各指針と、解剖時に観察された各死体現象とを個別、具体的、総合的に対比し、また胃の内容物の解剖所見と食物の消化についての定説的見解などからみて、被害者の解剖時までの死後経過時間は「最長死後2日以内、最後の食事後2時間以内」との結論を得た。弁護人らが立論の根拠として、裁判所に提出したのは法医学の図書や論文などであったが、その記載内容はいずれもほぼ同一であった。2 死体現象からみた死亡時刻推定についての検察官の意見に対する反論
(1) 五十嵐証言
検察官の弁護人らの主張する死体現象からの死亡時刻推定に関する反論の主な論拠は、五十嵐医師の控訴審第54回公判における証言である。
「死体現象の発現は、固体差がある上、気象条件や死体が置かれていた状況等により異なるものであり、死後経過時間をある程度正確に判定できるのは、せいぜい死後6時間以内の場合であり、それ以後は教科書どおりに死後経過時間を推測することはできず、結局総合所見により経験に基づき幅を持たせた推測をすることしかできない。」
というものであり、五十嵐鑑定の記述する死体現象から、被害者の死後経過時間を2日乃至3日間と推定した結論は、一層首肯できるものであると検察官は主張する。(2) 五十嵐証言についての概括的批判
死体現象からの死後経過時間の推定にあたって、五十嵐証人が証言する固体差その他の要因が作用することは誰しも否定できないことであり、弁護人らもこのことを前提として述べているのである。弁護人が裁判所に提出した各証拠の記載によっても明らかなように、これらの指標はいずれも右の事情をふまえて、一定の時間の幅を設けて、過去の数知れず多数の実例による経験をまとめてつくられたものである。しかも弁護人の意見は、時間の幅の最長限を用いて述べているのであるから、検察官の前記のような主張や五十嵐証言の内容は、弁護人らの主張に対する何らの反論にならないのである。
五十嵐医師の法医鑑定における専門家としての知識も、これらの確立された諸指標を基礎にしなければならず、自らの「経験」と称するものをことさら持ち出して恣意的な判断をすべきでないことは、言うまでもないであろう。
五十嵐証言の「死後経過時間がある程度正確に判定できるのは、せいぜい死後6時間以内であり」などと言うことは、法医学の図書・論文等のどこにも書かれておらず、ここで五十嵐医師が言う「ある程度」とはどのくらいの正確さや時間の幅を言うのか全く示されていない。「結局総合所見により経験に基づき幅を持たせ推測することしかできない」というだけなら、法医学が蓄積した過去の膨大な事例から集計された指標は全く無用のものであることになる。もし鑑定人がこれらの指標で示された時間経過より大きく外された結論を主張しようとするのであれば、何故そうなったかその根拠を明確に示さなければならない。そうでなく、ただ「経験」と言う言葉を振り回すだけで理由を糊塗することが許されるなれば、学問としての「法医学」はその存在意義を主張することができないであろう。
法医学における死体現象からの死後経過時間の推定は、すぐれて自然科学の問題であり、死体をめぐる環境の多様性を考慮して、指標も一定の時間の幅を以て示すほかなく、又その方が妥当であることは当然である。
また、「総合的所見」と言う言葉ものちに述べるように、解剖所見に示された各死体現象が殆ど死後2日以内、(角膜などに見られる現象は死後8〜12時間)を示しているのに、どうして「総合」にすれば死後3日の経過を五十嵐鑑定で結論できるのか、全く奇異な「総合」と言わねばならず、この「総合」もまた前述の「経験」と同様、「恣意」の別名と言わざるを得ず、科学としての法医学を捨て去る記述である。3 五十嵐鑑定は死後3日ではなく、2日であったことを否定してしない
「鑑定書」は、その「鑑定結果」六の「参考事項について」Bにおいて、「本屍の死後経過日数はほぼ2〜3日位と一応推定する」と述べ、またCにおいて、「本屍に於ては、生存中最後の摂食時より死亡時までには最短3時間は経過せるものと推定する」とも述べている。死後経過を時間にすれば、48〜72時間位ということになる。
「本屍の死後経過日数はほぼ2〜3日位と一応推定する」の一応とはどういう意味なのか、何故一応推定という表現を用いたのか。死後2日と3日では本件の裁判をめぐる状況は大きく変わってしまう。この「鑑定書」についての問題点は後で述べるが、ここで少なくとも言えることは被害者の死亡時刻については、五十嵐鑑定の記載では請求人の自白による犯行時間帯での死亡か否かを確認できておらず、死亡時刻推定の証拠価値が確定的でないことを自認していることになる。4 死体現象と死後経過時間の推定
個体の死後比較的早く出現する変化を「早期死体現象」と言い、比較的後期に現れる死体変化を「晩期死体現象」と言うが、被害者の死体は姿を消してから3日後に発見されたので、もっぱら被害者の死体における「早期死体現象」と、それから推定された「五十嵐鑑定書」の死後経過時間の問題点を論じることで足りる。
死後経過時間の推定の指針となる重要な死体現象はどの法医学の教科書等においてもほぼ共通の事項とそれらによるほぼ同一の推定時間が挙げられている。これらは春秋の空気中における平均的な判定資料であり、季節の違いや死体周囲の環境や死体の置かれる状況、個体差、死因などによって差異を生じ、これらの点を十分考慮しなければならないことは言うまでもない。
また、死体現象以外にも、胃の内容物の量や消化度から、食後およそ何時間で死亡したかを推定することができ、最後に食事した時間がわかっていれば、それから死亡時間を推定することができる。
死後経過時間の推定の指針となる重要な「死体現象」と「死後経過時間」をもう一度列挙すれば、つぎのとおりであるとされている。
@ 体温降下1時間に約1℃ 12時間まで
A 体温降下1時間に約0.5℃ 12時間以上
B 角膜の軽度混濁 8〜12時間
C 瞳孔の透視不能 48時間内外
D 死斑の出現開始 1〜2時間
E 死斑の指圧による退色 6〜8時間まで
F 死斑転位可能 15時間まで
G 死斑最高 15時間内外
H 死体硬直の出現開始 2〜3時間
I 再硬直可能 5〜6時間まで
J 死体硬直最高 12〜15時間
K 死体硬直の緩解開始 24〜36時間
L 死体硬直の消失 3〜4日
M 下腹部の腐敗性変色 24〜48時間
N 血色素浸潤、腐敗網、腐敗水泡 2〜4日
O ウジの出現 24時間内外
(南江堂刊、矢田昭一外6名各共著『新基礎法医学・医事法』21頁)
なお上に掲げた図書以外における記載も、ほぼその推定時間は同様であったことを念のために記載しておく。5 「五十嵐鑑定書」の記載する死体現象と死後経過時間の推定
(1)体温降下
まず前記@・Aの体温降下については、鑑定書は「概括的全身所見」において「屍体温は暖昧を触知せしめず」と記載するだけで、具体的な体温の数値を示していない。土中に埋められた死体が周辺の土の温度にほぼ等しい価を示していたのではないか、ということを推測せしめるだけであって、死後経過時間の推定には役立たない。体温特に直腸内の温度等の具体的測定がなされていれば、何らかの推定の根拠となる数値が得られたかもしれないが、五十嵐医師はこれをしていない。
(2)角膜の混濁
前記B・Cの角膜の混濁については、「顔部所見」のところに「角膜は微溷濁を呈するも、径約0.7糎に開大せる歪形瞳孔を容易に透見せしむ」との記載がある。この記載内容は、前記のBの指針をそのまま適用すれば、死後経過時間8時間乃至12時間の経過を示すことになる。
他の死体現象と同様に、温度など環境条件によって影響されるが、死後開眼のままで空気にふれておれば、乾燥のために露出部分が表層性混濁を起こし不透明になりやすい。このような場合、死後2時間位で混濁が始まることもある。そのためか、内外の法医学教科書には、‘角膜混濁は乾燥による’と記述されている。しかし、死後の角膜混濁はもともと乾燥によるものではなく、蛋白質の変性による実質性混濁で、角膜の内層から始まる。乾燥によるものではないことは、閉眼のままでも混濁することや、静水中の臥位の水死体でも見られることからも明らかであり、また、眼科の角膜移植の際、断面が平面的でないため接着が充分でないと、体液の循環障害のため、もともと透明であった移植角膜が混濁し、いつまでも不透明のままでいることがあるということは、上述のことを裏付けるものであろう。(南江堂刊、東北大学教授赤石英著『臨床医のための法医学』33頁、34頁)」。
角膜への栄養補給と新陳代謝物の除去が死亡とともに停止し、蛋白質の変性を起こさせ、混濁を生ぜしめるのである。
前記BCの数値はいずれも閉眼を前提としたものである。上に述べた説明によっても明らかなように、本件の死体が目隠しをされ土中に埋められていたとしても、角膜の混濁への影響は、前記のBCの数値に基づく推定を訂正すべき何らの理由は見出せないものと言わなければならない。
さらに弁護人らが調査したところ、鳥取・島根・岡山・広島・山口の中国地方5県における昭和57年から同61年に至る5年間に法医解剖に付された死亡時刻の明確な560例(焼死体・嬰児死体を除く)による観察結果を、鳥取大学法医学教室の岡田吉郎・井上仁の両名がまとめた資料が存在した(科学警察研究所報告法医学編 1988年41巻2号所収)。
この資料によれば、「死後6時間未満であれば殆どが透明であったが、6時間以上になると微濁の例が出現し、18時間以上になると中・強濁例があらわれて、時間の経過とともに増加した」と報告されている。そしておそくとも48時間以内には、すべてが中・強濁となっていることが図によって示されている。
調査死体の数の多さ、考えられる様々な死体の状況からみて、この資料は角膜の混濁度による死後経過時間について検討するのに決定的なものである。被害者の角膜の状態はどのように長く考えても、五十嵐鑑定書が言う3日間(72時間)が認められる余地は全くないのでる。(3)死斑
前記D乃至Gの死斑については、「鑑定書」は「概括的全身所見」において、「全身の皮色は一般に死後の蒼白を示すも、躯幹及び上下肢等には淡赤色虎斑状死斑が弱く発現しあり」と記載されており、その他の個所では、「胸腹部所見」として「皮色は左右外側面並びに胸骨部は虎斑状に淡赤色を呈するも」とか、「背部所見」として「左右両側の外側部に於ては皮色は虎斑状に淡赤色を呈す」などの記載が見られる。直接に「死斑」という言葉を用いてないのでやや曖昧であるが、これを死斑と理解するとしても、本死体に於ける死斑の発現状態は「弱く淡い」ものであることがわかる。
これを前記の指針と対比してみれば、もっとも長時間の経過した後のGの「死斑最高」の示す死後15時間内外よりかなり少ない時間の経過を示していることになることは明らかである。
また五十嵐医師は、前記Eの「死斑の指圧による退色」の有無についての検査結果を何ら記載していないが、このことも死斑の発現が弱く、検査の必要さえ感じていなかったことを示している。
「死亡による心拍停止の結果、血液循環が停止した状態で、死体が一定の姿勢のままで静置されていると、血液は自重によって血管内を就下する。この現象を『血液就下』というが、就下した血液が外表から認められる状態が死斑と呼ばれる。死斑は死体の下部に発現し易いことは右に述べたところによっても自明であり、本件のように腹臥位にあった死体では前面の方に発現するのが普通である。
死斑の発現は、通常は死後2〜3時間からはじまり、当初は斑紋状に現れ、次第に融合して広くなり、程度も時間と共に増強し、死後15時間くらいを頂点とし、その後は大体同程度の状態を持続するとされている。また急死や本件のような窒息死体の場合は血管内での血液が移動しやすく、死斑の発現時間も早いとのことである。」(金原出版滑ァ、四方一郎・永野耐造著『現代の法医学』14頁以下参照)
死後あまり時間を経過していないとき、例えば死後4〜5時間では死体の体位を変化させることで一旦発生した死斑が消失し、また新しい死斑が体位の変化によって下部になった場所に発現することがあり、これを「死斑の移動」という。しかし、ある程度以上時間が経過した後に死体の体位を変えても一旦発生した死斑は消失せず、これとは別に体位の変化によって下になった部位に新たな死斑を発生することになる。これは死後8〜10時間位の死斑の動きであるとされている。
「確定判決」では、「死斑」について請求人の自白における犯行態様や時間と死体における死斑の発現状況が矛盾するか否かが一つの争点となり、これについて複雑な論理操作を用いて弁護人の主張を却けた。この点についての確定判決批判はここでは述べないでおくが、死体現象としての死斑と死後経過時間の推定に関して、前記Eで言えば、「死斑最高」は死後経過時間15時間内外とされ、死斑の色調は最高時以後は「帯紫赤色」であって「弱く淡い」ものではない。また「虎斑状」は死斑の融合以前の状態を示し、「五十嵐鑑定書」における「死斑」に関する所見記載はすべて死体の死後経過時間が短時間にすぎないことを示している。(4)死後硬直
前記指針G乃至Lについての「鑑定書」の記載は、「概括的全身所見」に於ける「死体硬直は足関節に於てやや強く存在するも、その他の諸関節に於てはいずれも緩解しあり」というものである。
この「緩解しあり」という言葉が、「緩解の進行形」を示すのか「緩解している」ことを表現しているのかいささか曖昧であり、そのいずれかによって「死後硬直」による死後経過時間の推定は影響をうける。
死後硬直は、体内のATPレベルが低下して発生するというのが現在の通説である。ATPとはアデノシン3リン(燐)酸のことであり、三大栄養素は体内で分解されてATPの形で貯蔵される。生体に必要なエネルギ−はこのATPによって供給されるが、死後筋肉内のATPの量が約4分の1以下になると死後硬直が発生してくるといわれ、ATPが減少するとアクチン・ミオシン間の接合が切れることがなくなり、筋肉の伸展性が減少するのである。
また死後硬直の緩解は筋肉の変性腐敗によって起こるものと考えられている。
一般に、死後硬直はわが国の春秋の季節の下では死後3時間くらいで顎関節からはじまり、四肢の大関節、指、足指と進んでいくが、死後12時間から15時間で最強に達し、その後24時間から36時間で緩解に移行し、死後70〜90時間経過するともとの状態になると言われている。もっともこれは一般論であって、死亡前の筋肉の運動状態や、死因・死体の扱われ方等々によって影響を受ける。
例えば本件の死体のように窒息死の場合には、死体硬直の出現が早く、従って緩解も早いことになる。また、「再硬直」と言って一度生じた死体は無理に関節に外力を働かせると緩解するが、死後5〜6時間以内であれば人工的に緩解した筋肉は再び弱い硬直をおこす。これが再硬直である。死後6〜8時間以上での外力による緩解であれば再硬直はおこらない。従って本件の死体のように殺害場所から複雑な経過を辿って埋没されるに至ったのが容易に想像できる場合、硬直後種々の外力が加わったことも充分考慮にいれなければならず、又ここで述べる(2)〜(6)までの死体現象が、いずれも死後経過時間が長くても2日以内のものであることを併せ考えると、ますます外力による緩解を考えなければならない。前述の硬直・緩解の一般論から死後経過時間を単純に推測することは適切でないのである。(5)下腹部の腐敗性変色
「鑑定書」は「胸腹部所見」において、「腹部はほぼ平坦にして、腹壁は堅固ならず。妊娠線を認めしめず。皮色は左右外側面並びに胸骨部は虎斑状に淡赤色を呈するも、その他の部位に於ては一般に死後の蒼白を示す」と記載しているが、下腹部腐敗性変色の存在については一言も述べていない。腐敗変色は、死後24〜36時間で下腹部が青緑色に変色しはじめ、次第に腹部全体に拡がり、遂には全身に及ぶ。硫化水素が発生し、硫化ヘモグロビンを形成するためと言われている。従って、右の「鑑定書」の記載は本件の死体が腐敗性変色をいまだ発現しない程度に新鮮であったことを示している。
(6)血色素浸潤、腐敗網、腐敗水泡
自己融解に加えて微生物の溶血作用により赤血球は破壊され溶血する。死後2〜3日で、周辺の組織は溶血した血色素によって暗赤色に着染される。特に、肺・肝・膵・胃粘膜・血管内膜・気管粘膜などに強い浸潤がおこる。
また皮膚静脈周辺に血色素やヘモグロビンが浸潤するため、外表から暗赤色乃至青緑色の樹枝状模様としてみられ、これらは死後2〜4日後で現れるとされているが、「鑑定書」では血液に関し、「心臓摘出に際し暗赤色流動性血液多量を洩す」の記載があるだけで、着染・浸潤を示す記載やその他の記載は全くない。
皮静脈周囲に血色素や硫化ヘモグロビンが浸潤するため、外表から暗赤色乃至青緑色の樹枝状模様としてみられるのが腐敗網であり、死後2〜4日で現れるとされるが、「鑑定書」にはこれらの記載は全く見られない。また、この時期を過ぎると表皮は膨隆し、水泡あるいは気泡を作るが、これまた「鑑定書」には一切の記載がない。(7)ウジの出現
蠅は屍臭を好み、死体が地上にある場合は、死後遅くとも30分以内に死体に飛来し、眼・鼻・口・耳等の湿潤なところに産卵する。卵の孵化は10時間程度とされ、ウジは皮下軟部組織から蚕食し、成長して皮膚を蚕食し、そのため死体表面の皮膚の至るところに小孔が多数形成される。ウジによる死体損傷も死後経過時間推定の資料となる。
請求人の自供による本件の犯行経過によれば、蠅の産卵の機会は死体埋没までに充分にあり、「鑑定書」の死体所見記載にウジがないことも、被害者が請求人の自供と全く異なった経過で、殺害されたことを示しているのである。
なお「鑑定書」の「下肢所見」の末尾に、「その他には、小さな虫害少許が存する外、特記すべき損傷・異常を認めしめず」の記載があるが、これはウジではなく、蟻などの咬傷によるものと考えられる。6 五十嵐鑑定書における「死体現象」と「死後経過時間」の推定のまとめ
すでに述べたように、前記三の@乃至Oの早期死体現象を資料として死後経過時間を推定するに当たっては、周囲の環境、死体の置かれた状況、個人差、死因などによって違いがあるので、判定に際しては充分これらに注意して総合的に考慮して決められなければならないことは言うまでもない。
しかし、すでに5で見たように、「鑑定書」の所見記載に述べる死体現象からみられる死後経過時間は、「死後硬直」を除きすべて本件死体が死後遅くとも48時間以内のものであることを推定させる資料ばかりである。また「死後硬直」にしても死体の取扱いの多様な実情を想定すれば、強制緩解を考えねばならず、それ以上の経過を推定できるものではないのである。さればこそ五十嵐医師は、「本屍の外表所見、内景所見、死因、剖検時気温を併せ考慮すれば、本屍の死後日数はほぼ2〜3日位と一応推定せらる」として2日の可能性も認めているのである。五十嵐医師は「ほぼ2〜3日位」と幅を持たせたが、死体現象のほとんどは被害者の死体の死後経過時間はかぎりなく最長2日以内であることを示しているのであり、もしそうだとすれば、請求人の5月1日中の犯行はあり得ず、自白の架空性、請求人は犯人ではなく無実であることを「鑑定書の所見記載」が明らかにしていることになるのである。
これらの指針と死体現象が示す資料を対比すれば、死体の死後経過時間は最長2日以内と結論するのが自然であるにもかかわらず、五十嵐鑑定人は自らの「経験や総合」によって3日もあり得ると前述のとおり結論し、証言しているのである。法医学上の資料が示す事実を無視してこのように主張するのであれば、自らそういう結論を導き出した独特の論理過程を明らかに説明するのでなければ、ただ根拠のない独断の押しつけにしかならない。2日以内を示す各データの総合が、どうして急に3日以内も含むことに化けるのであろうか。経験とか総合とかいう言葉が五十嵐流にこのように使われることが許されるのなら、法医学は学問ではなくオカルト的託宣になってしまう。7 胃の内容物と最後の摂食時からの死亡時間の推定について
死体現象からの推定とは別に、胃内容の量や消化度からも食後何時間で死亡したかを推定することができる。最後に食事をした時間がわかっていればそれから死亡した時刻を推定しうる。
一般に言われているのは、米飯・野菜・果物は食後2〜3時間、肉類は4〜5時間で胃から腸に移り、6時間経過すれば胃から空腸上部まで殆ど空虚になるというのである。
「鑑定書」の所見によると、「(胃の)腔内には大約250竓の軟粥様半流動性内容を容る。消化せる澱粉質の内に、馬鈴薯、茄子、玉葱、人参、トマト、小豆、菜、米飯粒等の半消化物を識別せしむ」と胃の残存内容物が記載されており、これとは別に腸に、「十二指腸内並びに空腸内には微褐ー淡黄色半流動性内容ごく小許を容る。廻腸には黄緑色軟粥様内容と共に小豆のかわ小許を容る」との所見記載がある。これらを資料として五十嵐医師は、「本屍に於ては、生存中最後の摂食時より死亡時までには最短3時間は経過せるものと推定する」と結論した。
胃の容量は成人の平均で800ミリリットルであるが、1400ミリリットルにも達する人もあり、個人差が大きい。仮に被害者の最後の食事の量を右の成人平均の胃の容量以下である750ミリリットルとすれば、食事量の約3分の1が胃に残留していたことになる。また腸内の所見からみれば、すでに食事は胃に一部は残りその余は腸に達していることがわかる。
さきに述べた米飯(普通の食事量100〜150グラムとして)・野菜の食後の胃での残留時間が2〜3時間であることと照応して考えると、胃内にまだ3分の1の量が残っているとすれば、遅くとも食後2時間以内に被害者は殺害されたことになる。
胃内の残存物として発見された「茄子」・「トマト」は、いずれも胃での残留時間は食後1〜2時間であり(トマトに関しては直接の資料はなかったが、なす科の植物であり他の果物類との差異も考えられない)、これらの残留も前記の「遅くとも食後2時間以内」という推論を裏付ける。
また「馬鈴薯」の残留時間も食後2〜3時間で、馬鈴薯の固形性が崩れていない状況からみても、右の推論の時間を否定する何らの根拠にならない。また、「玉葱」・「人参」・「小豆」・「菜」等の食後の胃での滞留時間も右の「馬鈴薯」と同じとされるので、これまた同様の結論である。
特にこれらの食物が極めて未消化で、形も崩れていない状況は添付写真で明らかであり、被害者の死が最後の食事後極めて短時間のうちに訪れたことを示している。
もちろん食物の消化にも個人差がある。年令や健康状態、不安、恐怖、怒り、苦痛などの精神緊張状態が消化を遅らせることはよく知られている。しかし、被害者は元気ざかりの16才の女性であり、個人差として消化を阻害する要因など何一つ考えられず、また前記の精神的な阻害要因の存在にも何らの証拠もない。
以上の考察からすれば、五十嵐鑑定書の「胃内容並びに腸内容の消化状態及び通過状態より考察するに、本屍の最後の摂食時より死亡時期までの間には(ごく特殊なる場合を除き)最短3時間を経過せるものと推定せらる」という結論は極めて奇異なるものと断定せざるを得ない。
まず「最短3時間を経過」とはどういう意味があろうか。それでは「最長」どのくらい経過した死亡なのかについては、何の判断もしていない。「食後何時間」または「食後何時間から何時間までの間」と書くのが普通の書き方であり、そうでなければ鑑定の意味がない。また右の結論にはわざわざ「ごく特殊なる場合を除き」という注意書きが加えられているが、ここで胃内の残留食物量や各食品の滞留時間として用いた数値は、すべて「栄養生理学」の教科書が共通にあげているものであり、「ごく特殊な」結論を述べているのは五十嵐鑑定の方なのである。
確定判決は、胃の内容物からみた被害者の死亡推定時間を食後2時間であって3時間ではあり得ない、とした上田鑑定を、「五十嵐鑑定を資料とした再鑑定であることを考慮しなければならない」と述べてこれを退けたのである。
しかし、このような確定判決の論理は、奇妙なものと言わざるを得ない。死体の剖検は1回限りしかなし得ず、これにより捜査上必要な一定の結論を得ると共に、裁判になれば、充分批判検討の対象となることができるよう、できるだけ精細にこれを文書化し、またカラー写真まで添付するのである。法医学的な結論が、警察鑑定医の判断のみによって左右されてはならない。そのために残された資料による「再鑑定」を、ただ「再鑑定」であるが故に、価値が低いとする理屈は到底承服できない。具体的に「再鑑定」の何が限界であるかを指摘するのでなければ、このような判示は無価値である。なお付言すれば、解剖時に写された多くの写真は、検察官によって匿し持たれ、未開示のままである。これが開示されれば弁護人らの立論の正しさがますます明らかになるであろう。
五十嵐鑑定書の方こそ広く学問的に承認された一般的知識を否定乃至は無視した結論を述べているのである。鑑定書はその内容の専門的知見の正しさに即して検討されなければならず、確定判決のようにこれを他の要素、例えば判明している被害者の下校時刻等を根拠にしてこれを退けることをしてはならないのである。
そもそも、被害者の最後の食事が色調・匂いなどにより、カレーライスであることを確定できる何らの残留物もないのである。赤飯の小豆が殆ど未消化のままで胃内に残留していたことも、最後の食事がカレーライスでないことを明らかに物語る。また、小腸内容物の色調の記載があるのに、胃については記載のないこともこれを明らかに示す証拠である。
なお念ために言えば、十二指腸内並びに空腸内に存在した小許の黄色半流動性内容物や、廻腸内の黄緑色軟粥様の内容物の色調は、肝臓内で生成された胆汁の黄褐色で着色されたものであり、黄の色調がみられるとしても腸内における消化段階の通常現象であって、積極的にカレーライスと結びつくものではないのである。胃腔内にあった食品はごく普通の食材とされる農村的な食品ばかりである。カレーライスが最後の食事であれば、これに用いられた肉はどこへ消えたのか。肉は一般に胃内で見られたそれ以外のものとは異なり、その他のこれまでに述べた食品よりも胃内滞留時間が長く、3〜4時間又は4〜5時間とされているのであり、五十嵐鑑定書や確定判決は、このような基本的事実さえ無視して誤った結論を出しているのである。
級友達が知っている被害者の最後の食事は料理の実習でつくって皆で食べたカレーライスであり、食事時間は午前11時50分頃から12時5分頃までであったことがわかっている。この時間から死亡時間を推定すれば、午後2時過ぎ頃ということになる。しかし、これは知られている被害者の下校時間などと明らかに矛盾する結論である。結局カレーライスが被害者の最後の食事という前提が誤っているのであり、級友達の知らない被害者のその後の別の食事の胃腸内での残留を考えるのが、客観的事実からの結論となる。8 すべてのまとめ
以上検討してきた「死体現象」が示す死後経過時間は、そのほとんどが限りなく遅くとも死後2日以内であることを示している。勿論、本件死体は土中に埋められたものが発見されたのであるが、土中にあったことが「死体現象」にどのような影響を及ぼすのか詳らかには不明であるが、たとえ保存的に作用するとしても、各死体現象が物語る死後経過時間を24時間も左右するものではあり得ない。
また胃内に残留した各食品の状態が物語る食後経過時間も、2時間前後とするのが妥当な結論であることは、繰り返し述べてきたところである。
確定判決のように勝手な推測を用いずに事実を見れば、カレーライスの残留物が胃内に存在したという確たる証拠はなく、カレーライスのあとで、もう一度どこかで被害者が食事をした可能性を否定することはできないのである。このように考えて、はじめて死体現象が示す死亡推測時間と胃の内容物が示す時間が矛盾なく説明できる。
五十嵐鑑定書は事実を見誤ってか、あるいは意図的にこの矛盾を糊塗するために、「本屍の死後日数はほぼ2〜3日位と一応推定せらる」とか、「本屍の最後の摂食時より死亡時期までの間には最短3時間を経過せるものと推定せらる」と結論づけたのである。
五十嵐鑑定書の所見記載を正しく検討すれば、請求人の自白による犯行はあり得ず、請求人は無罪なのである。9 裁判所が援用するS・Y証言等について
確定判決は、
「5月2日農作業(ごぼうまき)に出掛けたが、そのときA・S所有の農道に土を掘って犬か猫でも埋めたような痕跡があるのに気付いた」との証言を引用し、被害者の死亡時間について、「死体は5月1日の夜のうちに農道に埋没されたことを疑う余地はない」
と判示している。上記のS証言の信憑性のなさについて、弁護人らは数多くの具体的実例をあげて明らかにし、1992年11月24日付再審請求補充書にまとめて提出した。弁護人らがそのとき指摘した疑問点はつぎのとおりである。(1)S供述の内容
未提出であった同年5月4日付の員面調書と、同年7月付の検面調書がある。員面調書はきわめて簡単に、
「5月2日の午前9時頃仕事に来ていたときから新しく農道を掘った人がいるという話を捜索にきていた警官や消防団員に話をした」というだけのものである。
他方7月5日付検面調書はかなり具体的にそのときの状況を供述したものになっている。その供述は、
@ 5月2日に現場付近の自分の畑に行ったのは、朝の農協総会が9時40分頃終わったあとのことである。畑へ行った目的は、入間川H○○○○番地の畑でごぼうの種をまくためであった。隣のAの畑を見たらごぼうが沢山まいてあった。
A Aの畑のごぼうを見ながら農道へ出て、山へ寄った方をちょっと見ると、農道の土が白くなって最近掘って埋めたようになっていたので、そばへ行ってみた。よく見ると巾3尺位、長さ4尺位の四角に掘ったような穴があった。
掘らぬところは青苔のような草が生えており、掘ったところは土が乾いて白くなっており、埋め余ったと思われる土が麦畑の方に平らにかきあげられてあった。
それにしても穴が大きいなと思い、自分の畑に帰ったあとも12時頃まで3回位穴のところへ行って掘ったあとを見た。
この日(2日)は、3時頃まで畑で仕事をしたが、雨が降ってきたので帰った。
というものである。(2) S証言・供述の真実性の検討
@ まず検面調書で述べている、自分の畑へ行ったのは「朝の農協総会」が終わった後というのがあり得ない。農家は早朝から田畑に出て働くのが普通であり、朝の農協総会など考えられない。Sは奥富農協の組合員であったと考えられるが、同人が言う9時40分に終わった農協総会であれば、遅くとも8時半頃から始まったことを想定せざるを得ない。5月2日の出来事として記憶の濃い根拠を示すために「農協総会」を持ち出したのであろうが、余りにも不自然である。農協総会は通例午後又は夜に開かれることは、全国共通と言える。
A この畑へ行った目的は、「ごぼうの種まき」と言うのであるが、2審で弁護団が提出した東京大学農学部八幡敏雄教授作成鑑定書の記述及び参考資料によっても明らかなように、2日の前日である5月1日は、16時30分頃から雨が本降りとなり翌5月2日の午前2時50分頃まで続いた。2日の天気は朝から曇りであり、晴れないままで17時頃からはまた雷雨となった。5月2日の朝までの一連の雨量は30ミリ弱であった(航空自衛隊入間基地の観測結果による)。
通常ごぼうのみならず種蒔きは、好天のときに行われる。ごぼうの種蒔きは畝巾を50センチ余りとし、株間を約6センチ位として1ヶ所に2・3粒の種をまき、種蒔き後鎮圧する。そしてその上から少量の土をかけておく。
2日の朝のごとき降雨のあとであれば「八幡鑑定書」も言うように、火山灰地の表層土は粘着性となり、農具に粘りついて土あしらいは困難をきわめる。種蒔き後ふりかける土も粘っていて、ふりかけることができなくなる。従って、2日の朝に種蒔きに出かけることは考えられず、また畑に行ったとしても種蒔き等、到底できない。
2日朝ごぼうの種をまいたというS供述は、先に述べたところだけでもあり得ない。
B 同人の公判廷での証言によれば、この農道を通ったのは「2日」のことであるというだけが語られており、その時刻は特定されていない。また、農道を通ったのは付近の自分の畑に「ごぼうまき」に行った際であり、そのとき死体発見現場で、
「ちょうど、土がなんかかかっているから行ってみましたらね……その土が、その、大きく、その掘ったようにすっかり埋めてありましたです。それでその土のところはよく平らになでてありました」
とのことであった。
S証言では、ごぼうまきに行った畑の地番特定のための尋問を検察官はしておらず、Sも「死体発見場所の北側」と答えているだけである。
また、畑へ行った時間についても、「農協総会」のくだりは省かれ、その時刻はいつか特定されず、ただ「ごぼうの種まきに行ったとき」ということだけが証言されている。
農協総会は通例午後乃至夜の開催であり、早朝はあり得ない。奥富農協がその後統合されて名称の変わったJA狭山市奥富支店には、現在2日の朝総会が開かれたとの何らの記録も残っていない。
また5月4日の員面調書では、「9時頃」畑に行ったと述べているのに、検面調書では「9時40分」農協総会が終わった後行ったと変わっている。畑へ行ったのは、総会が終わり一旦家に帰って農具やごぼうの種などを持ち、この畑に行ったことになるが、Sの住所は狭山市O○○○番地であり、畑まで直線距離で約2キロメ−トルもある。どの道を通って畑へ行ったのか正確に言うことはむずかしいが、いずれにしても農協総会の出席を前提とすれば、畑へ着くのは10時を相当すぎた時刻になることは間違いない。そうすれば警察で何故「9時頃」と述べたのか、特に7月5日の検面調書での時間が農協総会をその根拠にあげて述べているだけに理解に苦しむ。
C 何かを埋めたは思われる農道の部分も、検面調書では「土が乾いて白くなっており」と述べられているのに、検察官はこの点についても何ら質問をしていない。
2日の天候は雷雨になった夕刻までずっと曇りであり、その前夜はかなりの量の降雨であったことは前述の記録によっても明らかであるから死体発見現場の土が「白く乾いている」ことなどあり得ない。なお、5月4日の死体埋没場所の発見者の一人である橋本喜一郎も法廷で証言した際、現場の地割れについて述べているが、土の白い変色については何ら述べられていない。検察官はこれらのS供述の不自然な点を隠すため、先に述べられた各点についての質問をせず、Sに具体的証言をさせなかったと考えるほかない。
D Sが2日にごぼうの種まきに行ったと特定して述べた入間川H○○○○番地の畑や、その付近の同人所有の畑、A・Sがその付近に所有した畑などの土地は、登記簿謄本や地籍図に記載されている。また死体発見当日の5月4日は、捜査官のみならず近隣の人や報道関係者が多く集まって来た。現場付近で写真撮影が数多くなされ、ヘリコプターからの航空写真も残されている。
朝日新聞のヘリコプターが当日撮影した現場付近の航空写真を、1992年11月24日付再審請求補充書末尾に添付して提出した。そして同じく、添付した地籍図に基づいてSの畑を赤線、Aの畑を青線で囲っておいた。これでSが種まきをしたという畑と、Aの種まきをしてあったという畑及び死体埋没場所の位置関係がよくわかる。
この写真を見れば、Sが供述・証言する入間川H○○○○番地のみならず、付近の同人所有の畑のすべてに、ごぼうの種まきをした場所など、どこにもないことがよくわかる。植えられているものは麦類であり、一部の畑の畝に菜類が見られるが、2日にまかれたごぼうが航空写真に写るほど驚異的に成長したと考える者は誰もおるまい。
他方、Aの畑も麦類(小麦・ビール麦)や茶の木、桑畑が写っているだけで、ごぼうの種まきあとなどどこにもみられない。
Aの供述調書(7月2日付検面)によれば、
「入間川○○○○番地附近に畑6反2畝29歩を持っていて、耕作も自分でやっております。今年の5月1日ごろはこの畑には麦及び桑を作っており、茶の木も散在的に植えてあります。」
とのことであり、ごぼうについては一切述べておらず、航空写真の状況に合致している。
死体埋没場所の農道のすぐ北側のSの前述の畑は普通どおり畝だてがなされ、平まきにされたビール麦や小麦などがすでに収穫期を直前にして草丈高く生えているのが一目瞭然である。
5月2日にごぼうの種まきに行ったとのSの供述・証言は、この航空写真を見ただけで、虚偽ないしは事実に反するものであることは明白である。
なお死体埋没現場付近のA所有の畑でのごぼう栽培の実情を見ると死体埋没場所のすぐ北側(茶の木の反対側)には、5月4日の死体発見当時、ビール麦や小麦(色の濃い部分)が植えられていたことが航空写真でわかる。
ところが、裁判所の昭和38年9月23・24日付検証調書添付写真(26)や(32)を見れば、麦畑がごぼう畑に変わっているのが一目でわかる。これは麦の後作でごぼうが栽培されていることを物語る。実際、この第1審検証の際、立会人橋本喜一郎は「当時…(略)…その畑に向って左手にある牛蒡畑はビール麦が植えてあり、その高さは60センチ位でした」と指示説明している。
Sの検面調書が作成された7月5日頃には、すでに1ヶ月以上も前に麦の収穫が終わってごぼうがまかれ、発芽ののち葉もかなり成育していたことはまちがいなく、ごぼう云々の供述は、その状態から思いついてつくられた話であろう。
E Sはまた、この「犬か猫でも埋められてあるかも知れない」と考えた場所に、「12時頃までの間に3回位行っ(た)」との供述を検面調書でしているが、「(S地区)4丁目の人が犬か猫でも埋めたのか」と考えた場所に、どうして畑から30メ−トル以上も歩いて3回も行ったのか理由は不明であり、それだけでも不自然きわまるものであって措信できない。
前述の「航空写真」にごぼうまきのあとが、SやAの畑にないことやこれまで述べてきたことが、S証言・供述の架空性を物語っている。
Sはまた翌3日にも、この付近の畑に麦の間の草取りに来て、何回も土を掘ったと思われる場所へ行ったと証言していて、供述や証言でみるかぎりでは、この場所にただならぬこだわりを持っていたことをうかがわせている。しかし、被害者の行方不明をラジオで聞いたという3日に消防団や警察がこの場所を捜索に通ったときも、自ら体験した(筈)の事実について何らこれらの者に話をしていないし、検面調書で右の事実を述べながら、証言ではこのことに全く触れていないのでる。これまたS証言・供述の虚偽を示すものである。真実2日の朝の農道の状況が彼の述べるとおりであり、警察や消防にこれを話したのであれば、直ちに対応措置がなされ、死体の発掘作業が開始されぬ筈はなく、4日までそのまま放置された筈はない。S証言の嘘は明白である。(3) 5月4日付S・Y員面調書の日付の偽造
前述のS・Yの員面調書は、死体発見の日である5月4日に狭山警察署助勤刑事部捜査第1課司法警察員警部清水利一によって作成された。作成の場所は、死体発見現場の農道においてとなっている。
しかし、清水利一の昭和46年3月4日、第2審第44回公判の証言調書によれば、清水が狭山事件の捜査に参加したのは、死体発見の翌日「5月5日」からと明白に証言している。同人の証言調書に残された証言はつぎのとおりである。(石田弁護人)狭山事件という、善枝さん殺し事件の捜査に関与されたことがありますね。
はい。
最初その捜査に関与されるようになったのは、いつごろからでしょうか。
事件が発生しまして、善枝さんの死体が見つかった翌日からじゃなかったかと記憶してます。ですから、その前の捜査は全然タッチしておりません。
昭和38年の5月4日の日に死体が発見されたということですから5日ごろと聞いていいですね。
多分死体が発見されたんで私は動員されたと思います。
その前は栃木へ出張しておりました。
捜査に加わるについては、誰かから命令をうけたわけですか。
私は、今もちょっと申し上げましたが、蕨の自動車強盗の事件で栃木へ出張しておりまして、多分2日ぐらい泊りこみで向こうへ行ったと思います。帰ってきて1日休んだわけです。そしたら電話がありまして、中捜査1課長でした。すぐ掘兼の駐在所へ来いというので、それで私は大宮から車かっていきました。
堀兼の駐在所といいますと、当時特別捜査本部が設置されたばかりのころだったですね。そこに。
そうです。
そこであなたは、どんな任務を受持ちましたか。
あのとき、課長、次席のほかに警部を、捜査1課の警部、全部動員されましたから私のやった仕事は、全捜査員の勤務割り、それから記録の整理、それから、自分のところにいく人かまた部下の指揮監督、それから大体そんなようなことだったと思います。清水の当時の埼玉県警での役職は、県警本部の3席の捜査1課の責任者であり、上司の命令を受けて自ら十数名の部下を指揮して行動する捜査部隊の長であった。このような立場にあった者が狭山事件に参加した日を、「蕨の自動車強盗事件での栃木の出張」、「2日くらい泊り込みで、帰ってきて1日休んだ」「中捜査1課長の電話で堀兼駐在所へ行った」等々具体的事実を述べながら、5月5日から捜査に参加したとの記憶を述べたものであり、たとえのちに証言を変更したとは言え、この証言の信憑性は揺るがないものである。
5月4日に農道で作成されたと日付記載のある調書なるものを見てみると、文字も自然の流暢な筆跡で記録されており、とても錯雑した状況下の農道で作成されたとは考えられないものである。また、Sも署名の下に捺印しているが、まさか農夫が農作業の現場に印鑑を持参して行くなどということも、とうてい考えられない。
これらを総合して考えると、5月4日付とされているこの調書は、7月5日付の検面調書と相前後して、その頃狭山警察奥富駐在所で作成されたとみられるのである。このような日付の偽造も、5月2日夜の佐野屋付近での犯人の取り逃がし後に、被害者が殺害された可能性に対する国民の警察への非難をかわすため、無理にでも5月1日に被害者がすでに殺されていたことにしなければならなかったことを示しているのである。(4)まとめ
五十嵐鑑定書記載の各「死体現象」が示す死後経過時間は、遅くとも2日以内であることを示している。土中に埋められてあったという条件が何らかの保存的に作用することがあるとしても、上の結論を左右する何らのの根拠もない。請求人の「自白の物語」によれば、死体は殺害後すぐ埋没されたのではなく、埋没まで約5時間、また掘り出された後も、解剖に付されるまで約7時間(合計約12時間)も地表の空気中に存在していた事実も無視されてはならないのである。
また、胃内に残留した各内容物が物語る食後経過時間も、最後の食事後約2時間以内と結論するのが妥当であることは、詳細に述べてきたとおりである。
被害者は学校で食べたカレーライスのあとで、もう一度どこかで食事をしたことは殆ど確実である。このように考えて、はじめて死体現象が示す死後経過時間と、胃の内容物が示す食事後の経過時間が矛盾なく説明ができる。
また、「5月2日の朝、農道で犬か猫らしきものを埋めた跡を見た」というS証言が如何に信用に価しないものであるかについても、弁護人らは明らかにした。検察官は、弁護人らが主張した具体的事実に何一つ反論できなかったのである。
請求人の自白のような5月1日の犯行はあり得ず、被害者は脅迫状が「刑札にはなすな。気んじょの人にはなすな。子供死出死まう」と書いてあったとおり、5月2日の夜、佐野屋付近で犯人を取り逃がしたあと殺害されたことは確実である。10 「被害者の死亡時期」について原決定の誤り
(1) 死体現象からの推定について
原決定は、「死体現象の変化は様々な条件によって左右され、死後の経過時間を日単位で何日間と確定することは困難であり、その推定には相当の幅をもたせることにならざるを得ないのであって、所論にかんがみ検討しても、五十嵐鑑定の死後の推定経過日数の判定が疑わしいとすることはできない」と判示した。
しかしながら、もとより請求人の主張は、死亡時刻の確定は、「死体の置かれた環境その他様々な条件の変化で左右される」ものであることを否定して述べているものではない。
新証拠として提出した多くの法医学書に記載された死後硬直、死斑をはじめとする各死体現象の発現やその後の変化についての記述は、いずれも上記の様々な条件を考慮に入れての幅、最低値、最高値、最も多い記録が分類されているものであり(例えば塩野30頁)、「死後の経過時間……の推定には相当の幅をもたせることにならざるを得ない」の「相当の幅」は、すでに提出の新証拠の各記述の数値のうちに折り込まれているのである。
請求人の死後経過時間についての主張は、証拠に記述された条件の変化による最短・最長の数値のうち、いずれも最長のものを基礎として述べられているのである。判示のように、これらの幅を前提として掲げられている数値の意味を無視して、ただ「相当の幅」という定性的な言葉だけを振りまわして論じても無意味であり、請求人の主張を否定する何らの理由にもならないことは明らかである。この点についての判示の誤りは明白である。
五十嵐鑑定が奇異なのは、結論を導き出すために、弁護人が新証拠として提出した、各法医学の各死体現象から推定される結論を何一つ引用乃至参照していないことである。蓄積された学問的成果を無視し、「経験」とか「総合的判断」を推論の過程を何の説明もなく、記述していることである。これは法医学という学問とは無関係の記述と言わなければならない。
とりわけ例えば、死体が閉眼状態で経過した場合の角膜の混濁の死後経過時間による変化は、外界の条件の変化を受けることが少ないので重要視されているが、いずれの証拠における記載も、「閉眼している場合は、死後10〜12時間から微濁し(開眼の場合は死後1〜2時間からはじまる)、24〜28時間で最高に達する」というのである。
他方、五十嵐鑑定の記述による死体の角膜は、「微溷濁を呈するも…容易に瞳孔を透視せしむる」というのであり、条件の変化による幅を前提とした前記の法医学書の「28時間で最高に達する」という記載から程遠い「微混濁」であるので、この点から死後経過時間は最長2日以内と推論した弁護人の主張は極めて控え目で合理的なものであることは明らかである。どうしてこれと異なる結論を五十嵐鑑定書が出せるのかについては、何の説明もないのである。(2) 死後経過時間推定のもう一つの柱である、被害者の胃の内容物、その消化の度合いからの推定について
原決定は、「五十嵐鑑定書が認めた胃の半消化物のうち、小豆は、5月1日の朝食に自宅で摂った赤飯の中の小豆が消化しないで残っていたもの、トマトは昼食時にカレーライスと一緒に摂ったもの、その余は、調理の実習で作った昼食のカレーライスの具と米飯と考えられるのであって、関係証拠により明らかな被害者の朝、昼の食事内容に照らしても、五十嵐鑑定には格別不自然あるいは不審な点は見当たらない」と判示している。
しかしながら、事件当時、埼玉県内においてはまだビニ−ルハウス栽培は行われておらず、非常に高価なトマトを「昼食時にカレーライスと一緒に摂った」という証拠は一切示されていない。のみならず、被害者の級友は誰一人として、トマトをカレーライスの材料として学校に持参したことを認めていない。
さらに原決定は、「所論は、本件の場合、胃腸の内容物、その消化具合などに照らし、最後の食事から死亡まで、約2時間以内しか経過していないはずであると主張し、五十嵐鑑定を誤りと断定するのであるが、原決定が指摘するように、食物の胃腸内での滞留時間や消化の進行は、食物の量や質、咀嚼の程度などによって一様ではなく、個人差もあり、更には精神的緊張状態の影響もあり得るのであって、胃腸内に残存する食物の種類や量、その消化状態から摂食後の経過時間を推定するには、明確な判断基準が定立されているわけでもなく、種々の条件を考慮しなければならないのであるから、幅を持たせたおよそのことしか判定できないのであって、死体剖検の際に、胃腸の内容物を直接視認して検査した五十嵐鑑定人が、『摂食後3時間以上の経過』と判定したものを、五十嵐鑑定書記載の所見を基に、一般論を適用して、『摂食後2時間以下の経過』と断定し、五十嵐鑑定の誤判定をいうことは、相当でないというべきである」と判示している。
しかしながら、ここに書かれている食物の量や質、咀嚼の程度などによって消化の進行が一様でないことは、何ら弁護人は否定していない。新証拠が示す多年の経験や統計の積み重ねによって、しかも上記に述べられている消化の進行が一様でないことも考慮にいれたうえ、一定の幅の最長時間をもとに「最後の食事後遅くとも2時間」と主張しているのである。
判示はさらに、個人差を挙げて請求人の主張を却けようとしているが、被害者は強壮な高校1年生のスポーツ・ウーマンであり、その個人的特性を考えると、消化時間は促進的に考えられてもその逆でないことは明白である。
また被害者の「精神的緊張状態」も挙げられているが、請求人の自白や確定判決が認定したカレーライスを食べてから殺害にあうまでの過程のどこを見ても、殺害直前数分間は別として「精神的緊張状態」が存在したようなことはどこにも窺われない。
判示は、請求人が引用している資料の時間経過を、単に一般論であるとしているが、これらの数値は死体の固体差やその他の諸状況等を考慮したうえで一定の幅を持たせて掲げられているのであり、決して単なる一般論ではない。
請求人は消化時間として示された数値の中で最長時間を選んで「食後2時間以内」と述べているのである。五十嵐鑑定は「摂食後3時間以上の経過」と記述しているが、3時間以上というのであれば5時間も6時間も含むと言うのであろうか。「何時間から何時間までの間」と限定して記載するのでなければ鑑定書はずさんそのものであってその用をなさない。この点からだけでも五十嵐鑑定は失格であり、鑑定書の名に価しない。
また判決が振り回す「個人差」も、それが当該の死者においてはどのように現れる個人差であるのかが明示されなければ、都合の良い独断を押しつけるための言葉になってしまう。被害者の「個人差」は、消化の場においてすでに述べたとおり、通常人より「促進的」であることは言うまでもない。
なお念のために付け加えると、判示は「死体現象からみた死後経過時間の推定」の問題について、すでに述べたように、「様々な条件によって左右され、死後の経過時間を日単位で何日間と確定することは困難であり、その推定には相当の幅をもたせることにならざるを得ない。」と述べている。しかし、死後数カ月や数年を経過した死体の晩期死体現象からの推定の場合ならいざ知らず、本件は、5月1日の午後4時過ぎの殺害とされている死体を、5月4日の午後7時から解剖を開始したという僅か3日間の死亡時刻の推定の問題であり、このような短時間の出来事について(時間単位ではなく)日単位の推定すらも法医学ができないと判示は主張していることになるが、これは法医学がこれまで蓄積してきたデータや多様な経験に基づく成果を無視していることを公言していることにほかならず、驚くべきことと言わなければならない。
また判示は、五十嵐医師の現場を踏まえた判断を絶対視しようとしているが、同医師としてもこれまでの法医学の成果を考慮に入れずして死後経過時間の判定ができる筈はなく、もしこれらの成果を示す経過時間をあえて否定し別の結論を出そうとするならば、当該死体現象における通常導かれる判断を否定する根拠を示すのでなければ、単なる恣意・独断による根拠のない記載と見做さざるを得ない。判示の五十嵐医師の示した判断の押しつけは、法医学の成果を無視したものであることは疑問の余地はない。
なお更に付け加えると、五十嵐鑑定書における死後経過時間の推定結果は、「死後2日〜3日」というものであり、2日を否定していない。
2日間というのであれば、5月1日犯行説は完全に否定される。判示はこの点について何らの判断を示さず、沈黙のままであるが許されることではない。五十嵐鑑定書は他の多くの疑問があるが、この点に着目するだけでも、請求人の5月1日犯行説を裏付ける証拠となっていないことは明白であるが、裁判所はこれを無視しているのである。(3)死体埋没時刻について
原決定の判示は証人S・YやA・Sの証言を援用して、5月2日の朝には「農道上に大きな土を掘り返した跡があった」ことを認定し、それまでに被害者の死体が発見された農道に埋められていたことを認定した。
同証人の最初の農道上の土の異変について気づいたとする発見時刻が果たして何時であり、また正確な記憶に基づいて述べられたものであるか否かについての疑問は、弁護人が具体的に詳しく述べてきたところである。5月2日の朝の何時頃に異常に気づいたのかは明確ではないが、「農協で開かれた総会が9時40分に終了するものとして開かれることは常識上あり得ず、同人の証言がまずこの点において措信しがたいことはすでに述べておいた。(4)結論
以上述べたとおり死体死亡時期についての原決定の誤りは明白であり、判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であることも明白である。原決定の取り消しは免れない。
原決定は、弁護人らの主張をことごとく無視して、これに対応する判断や理由を全く示さないまま請求棄却の決定をしたものであり、こんなものは「裁判」ではない。
◆狭山事件特別抗告申立書―補充書-INDEXに戻る |
|
e-mail : mg5s-hsgw@asahi-net.or.jp |