3.部落への見込み捜査に傾斜する警察
「生きた犯人をつかまえろ」この至上命令においつめられた埼玉県警は、狭山市内の3つの被差別部落に目をつけ、部落の青年をかたっぱしから調べ始めました。
真犯人があらわれた「身代金受け渡し現場」の近くに被差別部落出身者が営む養豚場があり、そこに働く被差別部落の青年たち(石川一雄さんもその一人)が、地域では「不良青年」と見られていたというのが実際の理由でした。地域社会の差別的な「思い込み」や「偏見」に、全く無批判に追従した「見込み捜査」でした。
★当時のマスコミ報道などで、差別捜査は明らか
このあたりの事情は、当時取材にあたった新聞記者たちの証言、当時の多くの週刊誌報道(今日のワイドショー報道に通じるものがあります)によっても裏付けられています。何の根拠もなく「犯人は部落の人間にきまっている」「部落の人間が犯人なら、誰も文句を言わない」といった露骨な差別意識が捜査の周辺に存在していました。
取材にあたった週刊誌記者たちは、当時次のような記事を残しています。
「(捜査段階で)市民の口から集まった情報は、なぜか“よそもの”と呼ばれた、ある特定の地区の人をさすものが多かった。いわれのない差別にもとづくものかも知れなかった」
「石川のことを取材していると他の部落の者は、“あそこは…”と変に指を突き出す。違う部落だからそんな犯罪をおかすのも当然といわんばかりだ。こんなに差別感が根強いものとはしらなかった」
|
これらの記事は、いづれも5月23日に石川さんが逮捕された後に、「石川有罪」の立場で事件を総括的に報じて書かれたものです。「石川は事実逮捕され、警察発表でも犯人なのだから、犯人なのだろう」と信じる記者たちですら、捜査周辺にうずまく差別意識については驚きを禁じ得なかったのです。
こうして多くの部落青年たちが何の証拠もなく取り調べを受け、その中から、事件当日のアリバイが明確でなかった石川一雄さん(当時24才)が5月23日、別件で逮捕されたのです。石川一雄さんは被害者とは一面識もなく、もちろん被害者の家族のことも知りませんでした(これは警察側の認定です。自白でもそうなっています)。これまでの捜査とは180度違う方向、被害者と何のつながりもない人間を警察は逮捕したのです。
逮捕後も石川さんは1ヵ月にわたって犯行を否認します。しかし警察は違法な二重逮捕や長時間にわたる取調べを強行し、「『やった』と言えば10年で出してやる」という甘言も弄して、とうとう、うその自白を引き出しました。差別のため小学校も十分いけなかった石川さんには、当時法律の知識など全くありませんでした。弁護士がどういう仕事をしてくれるのかも知らず、自分の目の前で絶対的権力者としてふるまう警察官の言うことだけを、ただ信じてしまったのです。
★矛盾に満ちた自白過程
ところで石川さんは、5月23日に逮捕されたときは微罪の別件逮捕でしたが、実は3人犯行の従犯の疑いをかけられて逮捕されたのです。ところが警察が主犯と言っていた残り2人には明白なアリバイが見つかりました。逮捕から1カ月以上が過ぎ、既に3人犯行の従犯としての自白を始めていた石川さんは、あわてて単独犯行の自白をし直すことになりました。
こうして石川さんは、自白と、自白によって発見されたとされる数点の証拠物件(被害者のものとされる万年筆、鞄、腕時計)を根拠として、殺人犯の汚名を着せられるわけです。
(このページのtopに戻る)