部落解放同盟東京都連合会

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第一 はじめに

       

【目次】

一 確定判決の脆弱性について

二 確定判決が唯一強気の認定をした「秘密の暴露」ということにつ
  いて

三 原決定は憲法31条,37条,76条3項に違反する

四 原決定における最高裁判所判例違反について

五 法令の解釈適用を誤っていることについて

          

一 確定判決の脆弱性について

 本件再審請求の弾劾の対象となっているのは確定判決の事実認定であるが,そこにおける特異な構成は,また有罪認定の脆弱性を象徴することにもなっている。この点をまず指摘しておきたい。
 確定判決の「第3,事実の誤認の主張について」と題して,弁護人らの主張の審査をなすにあたってのその冒頭におかれた下記判示部分がそれである。いささか辟易の長文であって,その要旨のみを引用する。
 「ところで,実務の経験が教えるところによると,捜査の段階にせよ,公判の段階にせよ,被疑者若しくは被告人は,常に必ずしも完全な自白をするとは限らないということで,このことはむしろ永遠の真理といっても過言ではない。」,「人は真実を話すがごとくみえる場合にも意識的にせよ,無意識的にせよ,自分に有利な事実を潤色したり,意識的に虚偽を混ぜたり,…するものであることを,常に念頭において供述を評価しなければならない。」,「被疑者や被告人が捜査官や裁判官に対して述べるのは,…大罪を犯した犯人が反省悔悟し,ひらすら被害者の冥福を祈る心況にある場合すら…自分に不都合と思われる部分は伏せ,不都合な点は潤色して供述することも人情の自然である。しかるに所論は自白とさえいえば,被疑者や被告人は事実のすべてを捜査官や裁判官に告白するものだ,これが先験的な必然であるというかのような独断をまず設定したうえで,そこから出発して被告人の供述の微細な食い違いや欠落部分を誇張し,それゆえ被告人は無実であると終始主張している。これは全く短絡的な思考であって,誤りである。」という部分がそれである。
 上記は確定判決の本件自白に対する基本的な態度というべきところ,さて,確定判決は,この「実務の経験」によって,自白における夥しい不自然性などに正面からむきあって検討を加え,「(弁護人らの)その思考の誤りであることを」論証しているのか,というと決してやってくれない。また確定判決は,「証人や被告人の供述(自白)を基礎として確実な認識を穫得することはなかなか困難な作業ではあるけれども,適切な批判や吟味(この思考過程は直線的ではなく円環的であり,弁証法的である。分析的であるとともに総合的なものである。)を加えるなら価値ある観察が可能である。」とさえのべる。しかし確定判決の内容を検討すると一見して判明されることだが,自白に含まれる不合理,不自然性,虚偽,変遷について実証的分析を全くやらず,もとよりこれら諸特徴を統一的に総合して判断することを全くやっていない。これでは「価値ある観察が可能となる」筈がない。つまり確定判決は「弁証法的」という衒学的説明を用いて本件自白の問題性を「永遠」の彼方に押しやろうとしたのである。
 なぜこのことをまずかかげねばならないのか。その答が「永遠」これである。
 確定判決はなぜ,「自白を離れて客観的に存在する証拠」をまずかかげたのか。自白偏重をさけるためであろうか。そうではなく,「物証」の証明力をかかげることで自白の脆弱性に敵対したのである。実は,確定判決は本件自白に怖れを感じていたのである。
 「自白を離れて」という表現に関連して思い起こすことは,名古屋高等裁判所昭和63年12月14日決定(名張毒ぶどう酒事件再審請求棄却決定)が,
 「請求人の自白調書を除外した爾余の証拠だけでも請求人が本件確定判決認定判示のとおりの犯行をしたと断定するになんら支障がないとした本件確定判決の判断には賛同できない。」(判例タイムズ。834号274頁参照)とした判示である。
 寺尾判決は決して「自白を除外した爾余の証拠だけでも,」とはいえず,「自白を離れて」と表現し,つまり『これら物証だけでも有罪認定を維持できる』とはいい切れていない。自白の信用性を検討せねばならない個所(木綿細引紐の出所など)においては,例の「実務の経験」(真犯人は嘘をつくものである。)で問題を覆い隠す。確定判決が上記「実務の経験」をもち出したのは,本件全体を鳥瞰し,有罪認定に都合のよいように考え出した後思案なのであった。判例時報(756号)の解説裁判官も「余り他に類例のないもの,」というている。
 寺尾確定判決の証拠構造は「物証」と被告人との結びつきを先ずかかげ,これでもって「犯人に疑いない」と認定するが,その実,「物証の証明力」の基礎に,例外なく自白を持ち込むというやり方をとっている。しかして,自白に助けを求めたがために,自白に内在する矛盾に反撃されるという自己矛盾におちいっている。
 名張事件の確定判決のようになんの外連みもなく「自白はいらない」(事の正否はいま措く)とはいえないのである。
 弁護人らは2000年3月31日付異議申立補充書(4頁。以下参照)においてその点を指摘した。すなわち寺尾確定判決について証拠構造の分析と総合評価を,白鳥決定,財田川決定を指針として正しく履践するには,以上の問題点をふまえねばならないことあきらかにした。要するに確定判決がその認定維持に都合よくえがいた証拠構造である「自白を離れて」ということのほんとの意味を確定したうえで,証拠構造の分析をやる必要があると主張した理由もそこにあったのである。
 原決定のやっていることといえば,上記補充書で指摘した点を無視し,ひたすらに,確定判決及び原原決定の判示部分を長々と,それこそ丁寧になぞる。そして「原決定は白鳥決定,財田川決定の示した確定判決の証拠構造の分析と総合評価をきちんとやっている。」旨,単に結論をのべるのである。その内容は文字どおり空疎の一語につきる。
 とかく原決定は,各争点について(例外なくとは言わないが),原決定,弁護人の主張と新証拠の内容を,それぞれ長々と引用並列し,そこまではよいのであるが,各主張を論理則,経験則にてらして,綿密に対比検討するということはせずに,単に,「所論を採用することはできない,」などという紋切り型で押し切っている。

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二 確定判決が唯一強気の認定をした「秘密の暴露」ということについて

 確定判決は,「弁護人は,鞄類,万年筆,腕時計,足跡等の物証の発見経路について,いずれも捜査官の作為があると総合的に主張している。当裁判所はいやしくも捜査官において所論のうち重要な証拠収集過程において,その1つについてでも,弁護人が主張するような作為ないし証拠の偽造が行われたことが確証されるならば,それだけでこの事件はきわめて疑わしくなってくると考えて,この点について充分な検討を加えた。しかしながら弁護人らのこの主張は1つとして成功しなかったと認めざるを得ない。」とのべ,「いわゆる秘密の暴露」(判例時報756号14頁参照)の存在をあげ,本件自白の信用性は動かないと判示している。
 上記の「確証」には問題があり,弁護人としては検察官の主張,立証に合理的疑いをいれる余地のあることを立証できればそれで足りるのである。それは扨て措き,上記強気の認定を確定判決時のものとして百歩譲るとしても,原決定時においては,本件押収万年筆が偽造された物であることは,そこで提出された新証拠である齋藤鑑定書において確証されているところである。この1点において,確定判決の有罪の証拠構造は崩壊している。
 原決定が確定判決について「自白を離れて」という意義を確認したうえで新旧証拠の総合評価を厳密にやっていれば,あるいはそこまでいかなくとも原原決定の白鳥・財田川決定違反を正しく指摘できていれば,再審開始決定は実現していた。
 以下において,原決定については憲法31条,37条,76条3項の違反があること,最高裁判所の判例である白鳥決定及び財田川決定に違反するものであること,判決に影響を及ぼすべき法令の違反ならびに重大なる事実誤認のあることを考察し,論証することとする。

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三 原決定は憲法31条,37条,76条3項に違反する。

 弁護人は原決定時までに,平成13年7月11日付補充書に添付のリストに記載の各新証拠を提出し,各鑑定人などにつき事実の取調べ(証人訊問請求)を請求したが,原審も原原審もこれを拒否した。
 そのいうところはともに共通している。すなわち事実取調べの要否は,「再審請求においては証拠書類が裁判所に提出されていて,裁判所は自ら直接,その証拠書類を検討しその証明力を判断できるのであり,鑑定人などを証人として取り調べする必要はなく,その要否は裁判所の合理的な裁量で決するもの」(要約)というのである。
 しかし再審判例をみるに,再審開始決定のあった事例で事実取調べ(刑訴法445条)のなされなかったケースは皆無である。これから推認すれば,本件再審請求事件についてただの1回の事実の取調べをするまでもなく棄却されたということは,申立に理由のないことを,書面審理だけで把握でき,意味のない証拠調べはやらなかったのだということになるのであろうか。しかし事実取調べにより再審開始に至ったケースについていえば,公判廷での事実取調べを実施することで,新証拠の明白性が一層明確化され開始に至ったといえるのである。
 これらに対比していえば,本件の原原審のやり方は証拠調べを実施する以前に,その証拠価値を先取りするものであって,その専制的処理は無辜の救済の理念に反する。しかもそれは,証拠取調べの範囲の決定と証拠調べを実施したあとの証拠価値についての自由心証を混同し,ひいては無制限的な自由心証を許容することになり,その不当,違法であることはいうまでもない。上記違法を看過した原決定の審理不尽も重大である。
 とくに利益再審申立のみを認める憲法のもとにおいては,37条2項の根本動機(それは決して証拠決定ずみの証人についての喚問請求権のみを保障したものではないと解される。すなわち充分に審理をつくすことによる公正裁判の確保にある。)は充分に生かされねばならない。とくに再審請求人の事実の取調べ請求は検察官の主張,立証についてのあらたな反証としてなされるものである。
 このような反証にかかわる事実取調べを合理的理由も開示しないまま拒否するということは,無辜の救済の理念に反することになることはもとより,再び,再審の門をとざすことになる。
 原決定の判示からしても,ごく短時間の証人(鑑定人)訊問を実施すれば直ちに解明につながる論点を指摘することはできる。たとえば1つの例にすぎないが,神戸第2鑑定書が脅迫文の,「供」字についての楷書体と行書体についての書字形態の比較において,そこに作為性があるとの同鑑定人の指摘を原決定は肯定しながらも,「同字は書字能力の低い者が多少練習しても書字し得るものではないと断じ得るとした点が明確でない。」と判示している。しかし,この点も神戸鑑定人を証人訊問すれば容易に解明しうるのである。また,原決定の神戸第2鑑定のいう「所与条件」についての神戸鑑定書の問題提起について,「神戸第2鑑定書が指摘する請求人の供述書は鑑定資料になっていないのであるから,3鑑定が同供述調書を考慮していない点をとらえて鑑定書としての適格性に欠けているというのは相当でない」と判示するが,これはあきらかに同第2鑑定書のいうところを誤解している。同鑑定書は「りぼんをみた」という,その「りぼん」そのものの実物を鑑定資料としていないのであるから「りぼん」を対照資料とする再鑑定の必要不可欠であることを伏線として「適格性に欠ける」というものであった。この点についても神戸鑑定人を証人訊問すればたちどころに解明できるのである。
 このように考えてみるとき,原原決定及び原決定において,1回の事実取調べも実施しなかったのは,書面審査で心証を形成しえたという理由からではなく,公判廷での事実取調べを実施することにより,新証拠の明白性や確定判決の事実誤認が一層明確となることを避けるためにあえてそれを拒否したとしかいいようがない。新証拠である死体殺害方法についての上山鑑定書をふくめ,スコップ付着土壌の問題に関する生越鑑定書,地下足袋・足跡に関する井野鑑定書,同山口他1のスキャナー鑑定書についての各鑑定人につき,すべて鑑定証人訊問を拒否したことは,原原決定,原決定に共通して指摘しうる不当かつ違法な事実取調べの拒否として,著しくその裁量を誤ったもので,ひいてはそこにおける審理不尽もまたあきらかである。なお弁護人は原審に対し「刑事訴訟法第279条による照会請求書」(2001年2月9日付)を提出し,検察官手持ちの,本件再審請求事件についての証拠の標目(リスト)の取り寄せを申請したが,原審はこれを拒否して,本棄却決定をなしたもので,この点について審理不尽の法令違反を,あわせて主張するものである。
 上記した事実取調べの拒否は公正なる裁判をうける再審請求人の権利を蹂躪したものであって,単にその裁量を著しく誤ったというだけでなく,憲法31条,37条2項に違反し,ひいては同76条3項に所定の裁判官の良心違反にあたること明白である。

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四 原決定における最高裁判所判例違反について

1 原決定は,白鳥,財田川決定にいう新証拠と他の全証拠との総合判断についてつぎのような考え方を展開している。
 「確定判決の基礎となった積極証拠に限らず消極証拠も総合評価の対象とすることができるが,他方,新証拠の重要性,その立証命題と無関係に,再審裁判所が洗いざらい評価し直して自ら心証を形成し,確定判決の動揺の有無の審査を認めたわけではない。再審が確定判決前の判決に対する事後審査ではなく,確定した判決に対し,その確定力を破壊し,亊案全体について審判を行う特段の救済手続であるという認識にたつ以上,旧証拠の再評価といっても限度があるというべきである。」と判示するが,既にここに重大な誤りがあり,このような考え方では,白鳥,財田川決定が示した,明白性の判断方法は,すでに捨て去られているというて過言ではないのである。
 原決定が田崎判事のなした白鳥決定についてのその解説にいう「新証拠の重要性,その立証命題と無関係に,再審裁判所が旧証拠をあらいざらい評価し直して自ら心証を形成し,確定判決の動揺を審査することまで認めた趣旨」ではないこと,「新証拠の持つ重要性とその立証命題であり,それが有機的に関連する確定判決の証拠判断及びその結果の事実認定にどのような影響を及ぼすかを審査すべきで,本決定の示す総合評価とは上記の趣旨に理解すべきである。(昭和50年度最高裁判所判例解説刑事編93頁)」を踏襲していることはあきらかである。
 しかし財田川決定が原決定の立場であるいわゆる限定再評価説=孤立評価説を排していることは,あきらかである。磯辺判事は財田川決定の骨子について,
 「新証拠を加えて再吟味するに先立ち,旧証拠を再評価してそこからどのような心証形成に到達するかについて,まず洗い直しをし,新証拠を加えてこれを比照検討する場合にどの程度堪えられるものかの検算をしたものと思われる。」(昭和51年度最高裁判所判例解説刑事編。290頁)と解説している。
 原決定の「総合評価説」は,あきらかに財田川決定が示した明白性判断方法・再評価説をねじまげるもので,そこには確定判決維持へのこだわりをみることは容易である。原決定は再審法理を財田川決定以前にもどそうとするもので,とうてい許容できるものではない。
 かくては原決定が,原原決定における財田川決定違反(白鳥決定が再評価説にたっていることは当然であるが,財田川決定についてのべる方が理解しやすい。)を是正し,再評価説にたって寺尾確定判決につき,まずその旧証拠の洗い直しをやるなどということは土台無理な注文であった。

2 原決定・原原決定が「新旧証拠の総合評価を実施した」と判示しても,所詮は口先だけのことであることはその基本的思想にてらして当然の成り行きといえる。
 結局のところ両決定は1つの新証拠それ自体で無実であることの明白なる証明力を要求する,白鳥決定以前の再審閉塞の制度に通底していることあきらかである。原原決定はそれだけでなく,証拠構造の主軸とされる筆跡については,検察官もやらない黒の証拠漁りさえやっている。
 要するに両決定ともども,証拠構造の分析の第1歩である旧証拠の洗い直しを全くやらず,確定判決が挙示する,有罪証拠の羅列をなぞって,単に旧証拠と新証拠を対決させている。
 松山再審開始決定(判例時報949号11頁)が示したつぎのような姿勢にはとうてい及びもつかない。
 「もともと個々の供述については必ずしも逐一新証拠が存在するとは限らないが自白は特段の事情がない限り有機的関連をもつものとして統一的に把握すべきもの」,「個々の供述につき新証拠のあるものも,特段の新証拠のないものも合わせて真実性の再検討をすることは,証拠の総合評価上欠かせないことであり,このようにしても確定判決の心証にみだりに介入することには決してならない」と判示している。

3 本申立書の「はじめ」において,確定判決における特異点として,「真犯人は嘘をつくもの」で,これらは「永遠の真理」という説をたてていることを指摘したが,確定判決の証拠構造を支えてるのはいうまでもなく自白である。「自白を離れ」ようとした動機はそこに根ざしていた。確定判決はこの自白の問題性について,それが単に「供述の徴細な食い違いや欠落部分」があるにすぎないと主張しているが,決して本件自白の欠陥はそのような生やさしい,軽いものではない。
 原原審に提出の1998年6月19日付補充書などに主張しているように,犯行の動機,脅迫状作成の時期,被害者との出会いの状況,被害者父N・Eの名前を聞き出した時期,強姦の意思が発生した時期,万年筆強奪の時期,殺害方法,脅迫状訂正の時期,訂正筆記用具,教科書,鞄埋没の方法・時期等々,ほとんど犯行の全経過について変遷を重ねている。
 問題は変遷だけにあるのではなく,自白内容と客観的事実との間に明白なるくいちがいが生じている。重大争点である殺害方法について(今回の原決定の認定は自白の殺害方法から益々遠ざかるという悲喜劇を演じている。),万年筆奪取時期・場所,脅迫状訂正筆記用具について,身代金持参指定日について,脅迫状と妹美智子の大学ノートの綴目のくいちがいなどがこれにあたるが,既に,強盗強姦,強盗殺人,死体遺棄を自白している犯人のそれとはとうてい考えられない異様な事象というべきであって体験供述でないことは明白である。
 原決定,原原決定がこれら自白問題について,仮りに,前記松山事件の審査が示すように,自白全体を統一体として把握し審査の対照にくみいれ,すなわち旧証拠たる自白の洗い直しをやれば,彼らのいう「総合評価」が空疎なスローガンに終ることはなかった筈である。
 原決定は,前記綴目に関する新証拠の明白性について,「同報告書を確定判決審の関係証拠と併せ考えても妹のノートから外した紙片を使って,脅迫状を作成した旨の自白の信用性がこれによって揺らぐ」ことはないと表示する。しかし「関係証拠と併せ考えた」形跡は全くない。言葉の上だけでの「併せ」にしかなっていない。原決定の構造内容は,ここにみられる一事が万事となっている。決して過言ではない。
 畢竟するに,原原決定,原決定に示される孤立評価説は,従来の,新証拠それ自体に無実であることの証明力を要求するものであって,必然に,「弱い証拠構造に立脚した確定判決が,逆に確定判決により,諸々の矛盾は十分検討済みであるとの理由で再審により救済されうることがより一層至難になるという一見パラドキシカルな運用すら現実には生み出し兼ねない」(判例時報909号20頁。徳島ラジオ商殺し再審開始決定)ことになる。本件狭山再審審理においても,このパラドキシカルな実情のもとでかえって不当な棄却決定を押しつけられているといえるのである。寺尾確定判決は有罪の主軸の証拠として,脅迫状,脅迫文と,同筆跡鑑定書をあげている。しかし筆跡鑑定が弱い証拠(最高裁判所判例自体が伝統的筆跡鑑定の証明力には限界のあることを認めている。)であることは公知のことであるところ,このような弱い証拠構造のもとで,この主軸を支える自白すなわち旧証拠について,頭から「旧証拠の再評価といっても限度がある」(原決定。4頁)ときめつけられれば,旧証拠の王たる自白と弱い主軸も,遂に傷つかずのまま温存され,まさしく徳島決定のいうところの,弱い証拠構造の故にかえって再審申立における救済をうけられないこととなるのであり,本件もまたその典型である。
 原決定が身代金持参指定日に関する写真や新聞などについて(同55頁),さらには雑誌リボンの貸借に関する石川美智子らの員面調書(同63頁)などを検討済みとして排除するが,これらについても自白の質と強度に関する全面的再検討のもとでは,再審査の枠組みにはいり,結果として明白性の発見に至りうるのであり,新旧証拠の総合評価の効果をそこにみることができたのであった。
 原原決定,原決定の自白全体についての姿勢は,自白のなされたこと自体をもって当然に自白の真実性を推定することに通ずるもので,彼らのいう「旧証拠の再評価というても限度がある」とは実質的にはこのことを意味しているのである。
 以上の考察のもとで,原原決定,原決定が白鳥決定及び財田川決定に違反していること,すなわち確定判決の証拠構造の分析(旧証拠の洗い直し)をやらず,したがって新旧証拠の総合評価を欠落させていることは,まことにあきらかである。

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五 法令の解釈適用を誤っていることについて

 原原決定は,新証拠である大塩達一郎の写真撮影報告書,串部宏之外1の意見書及び新聞記事について(同55頁)同じく新証拠である小川京子らの員面調書について(同63頁),玉石の存在に関する生越鑑定書について(同177頁,178頁)いずれも,「第1次再審請求におけると同一の理由により再審を請求するもので,」あるいは,「実質上,同一の証拠に基づく同一主張の繰り返し」,として,さらには,「いずれも所論と同旨の主張を裏付ける新証拠として,既に第1次請求で提出され,上記棄却決定理由の中で判断を経ており(要約),いずれも法447条2項に照らし不適法である」とした。原決定も上記判断を正当とするが,両決定はいずれも確定した再審判例に違反している。
 まず,確定判決の確定力を破るための新証拠としては,確定判決後に発見された証拠はすべて新証拠として取り扱われているのであり,このことは先例において確定した考え方となっている。またさきの再審においての確定力は,同一の証拠(証拠方法と実験則上の資料性において形式上,実質上同一の場合)についても,今回が別異の理由によるあらたな再審請求であるときは,確定判決の当否を審査するための新証拠として対照資料となりうるのであって,この場合には法447条2項の禁止にあたらない。あれとこれを混同してはならない。
 再審請求は,何次にもわたることがしばしばであるところ,それぞれに別個のあらたな根拠付けによって申し立てられている時,従前の棄却決定の内容確定力が全てに及び,従前の新証拠が審査の対照とならないとすれば,このことは実質上,新旧にわたる全証拠の総合評価を拒否するにひとしいこととなる。徳島再審事件(第6次。判例時報990号。53頁,54頁参照)などにてらして原決定,原原決定が確定した判例に違反していることはまことにあきらかである。
 かくては両決定が,白鳥決定,財田川決定に示される,新旧証拠の総合評価をやらず,これに違反していることもまた理の当然というべきである。

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