部落解放同盟東京都連合会
資料室 狭山事件の資料室 狭山事件確定判決-INDEX

(自白に基づいて捜査した結果発見するに至った証拠)

 その一〇 腕時計について。

 所論は、本件腕時計の側番号が捜査当局によって出された品触れの側番号と異なっていることや、被告人が六月二四日に腕時計を捨てたと自供して図面まで提出しているのに捜査当局が直ちに捜索を行わずに五日後の同月二九日ころになって捜索に着手したことなど、本件腕時計の発見経過については疑惑があり、それが自白の真実性をおびやかしている、時計を捨てた場所を図面に書いたのは六日二四日ではない、O・Mが時計を発見した七月二日よりも前に既に被告人は取調官に本件の腕時計を見せられて、腕にはめてみた、また、捜査官が二日問にわたって多勢で被告人の書いた図面を見ながら深して見付からなかったのに、七月二日O老人が被告人の自供した場所からわずか七メートル余り隔てた茶株の下で発見したというのは、あまりにも都合のよい話である、これらの事情を考え合わせると、捜査当局は、被告人が時計を捨てた場所の地図を書いたりO老人が「発見」する以前に、既に何らかの方法で本件腕時計を人手していて、無理に被告人に時計を捨てた場所の地図を書かせたうえ、その付近で聞込みをしたり、捜索をしたようなふりをして、まだ時計が発見できないような雰囲気を作出し、そこで被告人の捨てたという場所付近に腕時計を差し置き、O老人と通謀して同人に発見させるという手の込んだ工作をした疑いがあるというのである。
 そして被告人は、当審(第二六回)において、「時計を捨てた場所の地図を書いたのは六日二七日ころで、次の日の夕方時計を見せられたと思う。地図を書いた日を特に覚えているのは、雨が随分降ってきた日の夕方から雷がものすごく鳴ってきて取調室に雨が漏るので、弁護士と面会する部屋に移ったことがあるが、そういうことがあった日の翌日時計を見せられ、その時計を自分の腕にはめてみた。」と供述し、当蕃(第七回)において被告人は、その取調べに当たった員青木一夫証人に対して「時計のことですが、時計を示した時、まだ見つかっていないときですね、書くのに青木さんの金張りの時計を見せてもらって型は判らないから書いたと思うけどね。」と発問し(この間に対して青木証人は「私の時計は金張りじやなく、その当時からこの銀張りの時計である。」と答えている。)、また「Yちゃんの時計が出てきて、その日か次の日かに私に時計を見せた記憶はないか。」と発問し、更に「それで、結局俺の手にはめてみたら、ぴったりだったんでね、だから俺がYちやんも案外腕が太いな、俺の腕にぴったり合うじやないか、そうしたら遠藤さんが合うわけだお前が殺したんだものと言ったので、なんでもいいから俺は刑務所へ行って野球やりたいから早く出して下さいと言ったら、長谷部さんがそこは大丈夫だ、石川俺にまかしておけよと言ったことを記憶しておりますか。」と発問し、「じや、Yちやんの時計は俺がはめてみれば四つ日の穴だからね、俺今でも記憶しておるからね、・‥…だから俺腕にはめてみたらぴたり合ったわけだね、四つ日の穴がね、そこで長谷部さんが以前Tさんがはめていたので穴が足りないので一つあけたので、ちょうど石川と合うじやないかと長谷部さんが言ったですね、だから買った時計より一つ余計穴があけてあるわけだね。」と発問し、当審(第九回)において被告人は、その取調べに当たった員長谷部梅吉証人に対して、「時計のことについて尋ねるが、時計の件は六月二十六、七日ころの木曜日に取調べを受けたときに図面を書いたと記憶している。そのときの取調官が誰か今覚えていないが、Yちゃんの腕時計をどこへ捨てたというので、俺が田無の質屋へ入れたといったら、我々はとっくに調べてある、黙っていたってわかっているんだ、どこへ捨てたというのかというので、田中へ捨てたといって図面を書いたら、その翌日知らない刑事が証人のところへきて、課長時計が見付かりましたといって時計を出した、そのとき俺がそれでは見せてくれといってその時計を手にとり、これがYちゃんの腕時計ですかといって自分の腕にはめてみたらぴったり合ったので、Yちやんは案外腕が太かったんだといったら、傍らにいた遠藤さんが、石川が殺したのではないか、殺した本人が知らないなんていうと笑われるぞといって皆で笑ったことがあったが、そういうことを覚えているか。」と発問し、「時計を持ってきたのは夕方ではなかったか、俺が図面を書いた夕方であるが覚えているか。」とか、「その日は晴れた日ということは、その日検事の取調中俺は糞をしてしまったので、検事が帰ってから遠藤さんにその話をしたら、同人は今日は晴れているから洗濯してしまえ、そうすればうちにわからないだろうといったが、俺は洗濯なんかしたことがないから、かまわずうちへ届けてくれといった、そういうことで、その日が晴れた日で六月二八日であったということをはっきり記憶しており、そしてその日に時計を持ってきたので自分の腕にはめてみたのであるが記憶ないか。」(この問に対し長谷部証人は記憶がないと答えている。)と発問して、所論を裏付けるように、時計を捨てた場所を図面に書いたのは六月二四日ではなく六月二十七、八日ころであり、またその翌日の夕方腕時計を見せられていると主張し、その日の天候やその際の具体的状況を挙げてこのことに間違いはないというのである。
 (1)そこで考えてみるに、まず、六・二四員青木調書(第三回)添付の時計を捨てた場所を説明している図面(七冊二○七五丁)の被告人自書の日付をみると、いかにも所論がいうように「6月29日」と読めないわけではない。しかし、同調書添付の時計の略図(二○七四丁)や同日付の員青木調書(第一回)添付の佐野屋までの道筋を被告人が書いた図面(二○六〇丁)の各日付の数字を、子細に比照してみると、二○七五丁の図面日付も「6月24日」であることがわかる。すなわち、数字の「4」の筆法が三通とも共通であること、これと六・二九員青木調書に添付されている図面(二一五〇丁)及び当審において捜査の経過を明らかにする趣旨で取り調べられた五・ニセ員清水利一調書に添付されている図面(一六冊二七二一丁)の被告人自筆の数字「9」の筆法とを比較検討すれば、このことは明らかである。
 更に時計を捨てた場所については、六・ニ七員青木調書においても述べており、その図面(二一一四丁)も添付されているが、この図面と右の二○七五丁の図面を比較してみると、六月ニ七日付の図面の方がより具体的正確に時計を捨てた場所を示しているのである。もし二○七五丁の図面が六月二九日付であるとすれば六月二七日付二一一四丁の図面を書いた後、更にこれよりも簡略な図面を二九日に書いたということになり、合理的でないことになる。ところで、先に述べたとおり、所論は右六・二四員青木調書添付の図面の日付が一見「6目29目」であるように読めることや、被告人の供述に基づいて、被告人の員調書の日付は故意に遡らせてあるといい、被告人が三人共犯の自白をしたのは六月二三日で、単独犯行の自白をしたのは六日二六日であるというのであるが、それは、この六・二四員青木調書添付の図面(二○七五丁)の被告人自筆の「6月24日」の記載を「6月29日」であると誤読したためであって、一つの大きな前提を失うものといわなければならない。
 次に、被告人のいう時計の図面を書いたり本件時計を見せられた日の天候についてであるが、当審において取り調べた航空自衛隊入間基地司令中村雅郎作成の「気象状況について」という回答書二通(一五冊二三八六丁・二三九〇丁)、埼玉県園芸試験場入間川支場長入子善助及び熊谷気象台の各証明書(二三九六丁・二四〇〇丁)によると、六月末ころ川越市付近で雷雨のあったのは六月二九日と三○日の両日であり、六月ニ七日は曇り、六月二八日は曇り、時々小雨であると認められ、被告人のいうとおりの気象状況であったとは認められないのである(ただし、六月ニ七日は被告人のいうとおり木曜日である。)。
 次に、被告人が七月二日以前に見せられて腕にはめてみたという時計であるが、押収の腕時計(昭和四一年押第一八七号の六一)をみると、バンドの穴数は被告人がいう四個ではなく、六個である。
 もっとも、被害者Yと姉Tの二人がこの時計を使用し、両名が使用する場合にそれぞれ違ったバンド穴を使用していた形跡がみられないわけではない。
 しかし、被害者Yが使用する際に購入時のままでは足りないので新たに穴をあけたという形跡は見受けられない。また、七・七検原調書によれ.ば、その記載内容からみて同日以前に被告人に対して時計を見せた様子は窺えない。なお、被告人は六月二八日に検事の取調べを受けたというが、同日付の検調書は記録中に存在しない。
 叙上の諸点を総合すると、具体的な事実を挙げて正確な記憶によるものであるかのようにいう被告人の当審供述や究問は、必ずしも正しいものではなく、殊に時計の図面、それを捨てた場所の図面を書いた日時や、七月二日の時計発見届出の前に取調官から本件時計を見せられているという部分は、その後に知り得た知識を交えた作為的なものか、重要な点で思い違いをしているかのいずれかであって、結局において信用できないのである。そして、このような被告人の当審供述や発問を前提とする所論も採用することができない。
 しかるところ、本件腕時計の側番号と品触れの時計の側番号とが相違していることや、被告人が腕時計を捨てたと自供した後捜査官が直ちに捜索に着手しなかったことに疑惑がある旨の所論が理由のないことは、原判決が詳細に説示しているところであって、当審における事実の取り調べの結果に徴しても、その説示は正当であるとして肯認することができる。
 なお、この点について付言すると、本事件の捜査の統轄責任者であった員将田政二の当審(第一二回)証言によれば、捜査官は被害者Yの兄N・Kを同道させて本件腕時計を購入した店に赴き、同型の女物腕時計を借り受け、それを見本にして品触れの書面を作成し、軽率にもその側番号まで品触れに記入したものであることが明らかであり(特に、保証書でも保存していない眼り、腕時計の側番号がその発見前に判明している場合は通常考えられない。)また、被告人の取調べに当たった員青木一夫の当審(第二七回)証言によると、「調書をとった時には、どうもそういう道路の真中へ捨てるということは、ちょっと考えられないということで、その日には捜索をしなかった。しかし、それから一、二日位してからと思うが、重ねて尋ねた折に、この前書いた図面は間違いないんだというようなことを言ったので、これは一応捜索しなきゃいけないんじゃないかということで、捜索することにしたと思う。」というのである。原判決が「弁護人等主張の如くたとえ側番号が、品触れのものと違っていたとしても、それはむしろ品触れ自体が誤っていたとみるぺきである。」と説示し、また「何らかの都合で、自供の五日後に至って現場附近の捜索に赴いたとしても」と説示しているところは、当審における事実の取調べの結果によれば、それぞれ前示の各証拠によって裏付けられ、その判断の正当であることがいよいよ明らかになったわけである。
 (2)進んで、所論がいうように捜査当局において腕時計についても鞄類や万年筆の発見経過におけると同様のトリックを用いた事実があるかどうかについて考察する。
 たしかに、七、八名の捜索員が六月二九、三○日の両日にわたり、被告人が書いた図面を持って被告人の指示した三差路付近をくまなく捜索しても本件腕時計を発見し得なかったにもかかわらず、その後間もない七月二日にO・Mによって、被告人か捨てたという地点から約七・五米経れた道路脇の茶株の根元から発見されたことは一見不思議であると考えられないわけではない。しかし、七・二員小島朝政作成の捜索差押調書及び当審第七回検証調書をみると、茶株の周辺には茶の枯葉などが沢山あってよほど注意深く捜さないと見落としてしまうような場所であることがわかる。そして、捜索に携わった証人飯野源治(第二五・五○回)、同石原安儀(第四八回)、同梅沢茂(第四五・四八回)、同鈴木章(第四六回)の当蕃供述及びこの捜索を指揮し、捜索差押調書を作成した員小島朝政の当審(第五五回)証言によれば、同人らは、被告人が捨てたという場所が道路上であるうえそれから相当日にちが経過していることから、通行人のだれかが拾ったかもしれない、あるいは自動車などが道路脇へはね飛ばしたかもしれないなどと考えながら、拾得者がないかと付近の聞き込みをするとともに、現場を丁寧に捜索したことが窺われる(もっとも、O・M方には聞込みに行かなかったようであるが、同人はU方の下屋を借りて住んでいたために捜索員らが同人のことに気付かなかったからであって、他意があって殊更同人方へ行かなかったものとは考えられない。)また、捜索員が捜索に当たって故意に手抜きをした節は見いだせない。多勢の捜索員が二日がかりで捜索をして見落としてしまったことは徹底した捜査をしなかったものとして非難を免れないにしても、殊更捜索員が茶株の根元を捜さなかったとは考えられない。まして、捜査当局において事前に何らかの方法で本件腕時計を入手していて、それを茶株の根元へ差し置いたと推測すべき事情は全く見いだすことができない。
 次に所論が援用するO・Tの証言(昭和四七年八月一五日の証人尋問の際の供述、石田、宇津両弁護人の同人に対する質問応答を録取した録音テープー巻を含む。)によれば、同人はO・Mの義姉で本事件当時病弱なMの身の回りの世話をするためM方を時折り訪ねていたものであるが、Mが散歩の途中偶然腕時計を発見拾得して警察へ届け、札金を貰い受けたことを聞いたことや、警察官がM方を訪ねて話をしていたときお茶を出したことが窺われないわけではない。しかし、同人は、右の両事実は雷雨があったころといっているがその前後もはっきりとは記憶していないし、警察官とMとの話の内容も知らないというのである。したがって、同人の証言をもってしては、原判決挙示のO・Mの検調書の信憑性を疑わしいとみることはできない。まして、授査当局においてO・Mと相謀り、あらかじめそこに差し置いてあった本件の腕時計を同人に拾わせたというような事実を推測させる状況は全く見いだすことができない。
 なお、被告人は当審において、「Isの手拭でYちやんの手だか頭を縛ってあったらしいので、その手拭を出したIs米屋の近所だと思ってその近くに捨てたと言ったのです。」(第四回)とか、弁護人の「あなたの自白調書をみると、五月一一日ごろに時計を田中に捨てたという供述かありますが、時計を田中に捨てたというようになったのはどういうことからですか。」との質問に対し、「それは、親父なんかと五月九日か一○日かどっちか日にちははっきりわかりませんが、Mさん方に仕事に行ったです。そうしたら親父がI豚屋のYが警察に連れて行かれたそうだが、お前は何もしていないかといったのです。当時Iにいるとき材木を盗んだことなんかやったから、やっていないとはいわなかったですが、ただ何でもないよといったです。親父は本当に何でもないかといったので、本当に何でもないといって、それでYが連れて行かれたかどうかと思って次の日の新聞を買いに行ったです。だから、一一日だと思えば新聞を買いに行った日が多分一一日だと思います。…おれの友達の家の朝日新聞で、郵便局の坂を降りて行くとすぐのところです。そこのおれの友達が、そこに買いに行ったことは認めてくれたですけど、警察につかまってですよ、峯の方に自転車のタイヤをちょくちょく取替えに行っていたそこの家の人が一一日の日にそのへんでおれを見たと警察にいったらしいのです。」と供述し、「狭山にいるときにそういうことを警察官からいわれたので自白するようになってから時計を田中に捨てたというようになったということですか。」との質問に対し、「そうです。」(第三〇回)などと供述しており、被告人が五日一一日ころ田中の三差路に本件の腕時計を捨てたと自供したのは、取調べ中に警察官から種々誘導されたためであるというのであるが、特定の三差路に捨てたという事実はとうてい誘導しようもないことである。のみならず、被告人は原審(第七回)において「腕時計は風呂場の入口のかもいの上においていたが、五月一○臼か一一日ころ、はっきりわからないけれども田中のIs米屋の近くの道路上に捨てた。」と供述しているのである。この点に関する被告人の当審供述は信用できない。
 以上これを要するに、被告人の供述に基づいて被告人が捨てたという地点の近くから本件腕時計が発見されたことに疑いはなく、腕時計の発見経緯について捜査当局の作為が介在したことを推測される状況は見いだすことができない。そして、当審における事実の取調べの結果に徴しても、原判決の「腕時計の発見経過について」の項において説示するところは大要において首肯することができ、また、原判決が「被告人の自白に基き被告人が自白した地点の近くから本件腕時計が発見されていること」を自白を補強する情況証拠に挙げているのもまことに相当である。殊に被害者から奪取した所持品の処分のごときはまさに犯人のみが知り得る事実であるから、被告人が犯人であることを強力に物語る情況証拠であるといわなければならない。この点に関する所論は根拠を欠き、単なる憶測の域を出ないといわざるを得ない。それゆえ、論旨は理由がない。

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