部落解放同盟東京都連合会
資料室 狭山事件の資料室 狭山事件確定判決-INDEX

(自白に基づいて捜査した結果発見するに至った証拠)

 その九 万年筆について。

 所論は、被告人方の勝手場人口の鴨居の上から本件万年筆が発見されたという六日二六日の前に、五月二三日及び六月一八日の二回にわたって被告人方の捜索が行われており、その時発見できなかったものが六月二六日の捜索で発見されたということはいかにも不自然であり、また、捜査官は被告人の自白を得て駆けつけたのであるから自ら捜すべきところを、わざわざ立会人六造に捜させていることも、いかにも芝居がかっており、捜査官がそこに万年筆があることを確信していたようにみえるのは不自然である、更に捜査官は鞄の場合と同様に、何らかの方法で万年筆を入手しておいて、被告人を不当に誘導して万年筆を置いた場所を図面に書かせたうえ、その場所に員関源三をして万年筆を差し置かせ、あたかも被告人の自供に基づいて捜索するようなふりをして、兄六造にこれを取り出させた疑いが濃く、捜査官に作為があったかのごとくいうのである。
 そして、被告人もまた、当審において、員長谷部梅吉が「お前の家に万年筆がある。剃刀を置いてある所を地図に書け。そこに万年筆があるから。」というので、いつも剃刀を置いておく勝手場出入口の鴨居を地図に書くと、そこから本当に万年筆が出てきた、警察では五月二日に犯人が残した足跡が兄の地下足袋だと言うし、五月一日の晩兄が一〇時ころ皮のジャンパーを着て地下足袋を履いて単車で帰ってきたこともあったので、犯人は兄ではないかと考えたなどといい、万年筆の所在を書いた見取図(当庁昭和四一年押第二〇号の2)について、「長谷部警視から俺の家を捜したら万年筆を見付けたが、そのことを俺から言わせようと思って、そのままにしてきたから図面を書けと言われたから、ここにありますと言って鉛筆でその図面を書いたわけです。長谷部警視が鴨居のところにあるというから、その場所を書いたのであって、自分の方から進んで、ここにあると言って書いたのではありません。」といい、あたかも捜査官の偽計によって虚偽の供述をしたかのようにいい、所論に添う供述をしている。
 しかしながら、被告人の右当審供述はそれ自体極めて不自然であり、殊に兄六造が犯人ではないかと思ったという点は奇怪な供述(被告人は、河本検事から犯人は兄六造ではないかと言われて怒り、渇呑茶碗を投げつけようとしたと言っている。)であって、到底そのまま信用することはできない。
 そして、員青木一夫、同長谷部梅吉、同関源三の当審各証言に徴して被告人は、自分から進んで万年筆がある場所の見取図を書いたものと認められ取調官が偽計を用いてこれを書かせたと疑わせる節は見いだせない。なお被告人は、原審(第七回)において本件万年筆を示されて、「これはYちやんちへ手紙届けにいく時カバンを捨てる時一緒にこれが出てきたので、その時取ったです。……家へ持って帰り、時計と同じところへ置きました。逮捕された後も、この万年筆はかもいの上にありました。」と供述しており、その他関係証拠を検討してみても、万年筆を奪取した時期や場所については嘘といわざるを得ないが、万年筆を鴨居に隠匿してしたという点は信用することができる。
 次に、所論が指摘する被告人の家族の当蕃(第一六回)各証言を検討する。
 まず兄六造は、「勝手口の入口と風呂場の屋根裏の野地板の輯にはねずみ穴がいくつかあり、ぼろ切れでそのねずみ穴をふさいでいた。警察官が六月一八日の第二回目の捜索に来たとき、その一人が、ぼろ切れを取って穴を見せろと言ったので、自分で取って見たらいいでしようと答えた。その警察官は箱を台にしてぼろ切れを取って穴の様子を見ていた。勝手場の入口の所で、万年筆が出てきた所にもねずみ穴があって、陸足袋の片方とハンカチのぼろ切れをその穴に詰めてあったが、小島警部ともう少し背の低い人が、ぼろ切れを取って、その辺を手で深ったりしていた。そのとき警察官はばろを詰め直してくれなかったので、私が後から全部詰め直した。六月二六日の第三回目の捜索のときには、小島警部が『一雄君が万年筆があるっていうから、そこをちょつと兄さん見てくれ、ここだ。』といって、勝手場のつけかもいの上の、二回日の捜索の時にぼろ切れを詰め直した場所を指示した。写真を撮ってから、『取ってくれ』と言うので『こんな所にあるわけない、この前見ていったんだから。』と答えると、『いや、一雄君が図面までちゃんと書いてくれたんだから、ここにある、取ってくれ。』と言うので、足袋とぼろ切れを取ったところ、鴨居のねずみ穴の手前の方に万年筆があった。小島警部は袋を出し、『袋に入れろ。』というので万年筆を袋の中へ入れた。」、「万年筆が出てきた日の四、五日前だと思うが、関さんか来た。関さんが来たとき寝ていたらおふくろが起こしにきた。何回も起こされるので起きたら、関さんは上へ上がっていて、『なんだこっちに寝てるんか。』、『弟さんに頼まれて下着を取りに来たんだ。』と言った。それで、おれは『わからないからおふくろに聞いてくれ。』といった。そしたらおふくろが後で届けるとか言って、七、八分位話して帰ったと思う。起こされたとき、関さんは勝手場に上がっていて、私の方へ向かって来た。廊下を下りて四帖半の方へもう途中まで来ていた。関さんが『お母さんじやなんかよく判らない、ほかの人は誰かいないか。』と言っているのを聞いたような記憶もある。そのときは下着を取りにきたというだけだった。そのほかに関さんが勝手場の方から訪ねてきたことはない。いつも玄関からくる。あの人は座ってくれといっても座らない。玄関で立ち話しなんです。あの日に限ってどうわけか知らないけれども、誰もいないと思ったのかもしれないけど、風呂場の方へ上がってきた。」と述べている。
 父富蔵は、「万年筆が台所の方から出たことは知っている。警察官はうちの中を探さずに、てんがけそこへ行って、六造に『ここにあるから出せ』といって六造に万年筆を取り出させた。」と述べている(「てんがけ」とは、最初にとか、いきなりとかいう意味の方言である。)。
 母リイは、「関さんが家の中に上がってきたことが一回あるが、その日にちはおばえていない。関さんはいつもは玄関から入ってくるが、上がり口にかけたことも、お茶を飲んだりしたこともなく、いつも立って話しをした。関さんはおせんべいを持っていってやるとか、下着を持っていってやるとか、そういってくれた。その日風呂場で洗濯していると、関さんに『おはようございます』と声をかけられたが、どなたかと思って返事をしなかったら、『お母さんですか』と言うのではいと返事をした。風呂場の前の外から『お母さん一雄君が下着が欲しいって言うから貰いにきた。』と言ってくれたので、『あれまあだれもいないで困っちゃったね』と私がそう言って、で上がらしてもらうということで上がった。それで私が六造を四帖半に起こしにいった。そのとき関さんは、風呂場のガラス戸をあけた所の板の間に立っていた。私は六造に『一雄が下着をほしいっていうんだけどよわったね』と言って、また風呂場に入って洗濯をしていた。風呂場に入ってから関さんと六造とはなんだか話をしていたようだが、はっきりおぼえていない。関さんはすぐ帰ったと思うが、それもはっきりしない。
 六造はいつも夜眠れないので、朝起きないで、いくどもいわなきゃ起きない。」と述べている。
 ところで、員関源三は被告人方の近くに住んでいて、青少年チームの野球のコーチをしてやったりしたことから被告人と知り合いであったところ、被告人が逮捕されてからは、被告人のために家族への連絡、差入れ、下着類の取替えの伝達などの便宜を計り、被告人方を何度も訪れたことは一件記録上に現れているところであるが、同人は当審(第六・五三回)において、「出動の途中下着交換の伝言などのために被告人方に立ち寄ったことがあるが、いつも玄関から訪れていた。勝手場の出入口で伝言したことは一度だけある。それは玄関で声をかけたところ、お母さんが勝手の方に見えたので、そちらへ回って母規と語をしたのである。そのとき家の中へは入っていないし、母親が六造を起こしにいった記憶もなく、六造に会った事実もない。』と証言している。また、「六月二十三、四日ころ証人は被告人の家を訪ねるに当たり万年筆を持っていかなかったか。」という弁護人の間に対して「持っていきません。」と答えている。
 他方、原審検証調書添付写真49(一冊二一三丁)、当審第七回検証調書(持に添付写真34ないし41とその説明文、一九冊三三三三丁以下)によれば、兄六造が勝手場出入口の鴨居にあるねずみ穴だといっている穴は、縦二・三糎、横二・五糎、探さ二・三糎の大きさで、その周囲をみてもねずみが噛って通路とした形跡はなく、しかもその穴の奥は空洞となっていて、ねずみがつたって通るような所でもなく、ねずみ穴であるかどうかは極めて疑わしい。殊に、陸足袋やハンカチでふさぐ程の大きい穴でもない、(ただし、原審検証の際にはぼろ布が詰められていた。)。また、鴨居の高さは床から約一七五・九糎で、万年筆のあったのは鴨居の奥行約八・五糎の位置であるから、背の低い人には見えにくく、人目につき易いところであるとは認められない(なお、検察官は原審検証の際に、万年筆がぼろ切れの下に隠されていたと指示しているけれども、ぼろ切れに隠してあったという証拠はないから右の指示は誤りである。)。なお、証人関源三の当審(第六回)供述によれば、同人は被告人が浦和拘置所に勾留されていたとき被告人の母親と弟清に同道して被告人と面接させたが、その際被告人が母親と清に「関さんが悪いんではない、みんなは関さんのことを悪く言ってはいけない。」と話していることが認められ、被告人自身は関源三に対して好意さえ寄せていたことが窮われ、他方当審において取り調べた被告人の関源三あての四○・七・一八及び四五・四・四手紙(当庁昭和四一年押第二○号の4のうち)の文面をみると、被告人の家族は、そのころには被告人が関源三と面会することを快く思っていなかったことが窮われる。その他、さきに触れたところであるが、家族の者達が被告人のため五月一日のアリバイ工作をし、あるいはIs米屋の手拭についても作為をした疑いがあり、員小島朝政の当蕃証言によれば、第二回目の家宅捜索の際に、家人が捜索員を罵倒したことも認められる。
 叙上の諸事実を考え合わせると、被告人の家族の前示各証言は、その内容がいかにも不自然で、たやすく信用することができない。これに比べて関源三の証言は十分信用することができる。したがって、関源三が所論のように、捜査官があらかじめ何らかの方法で人手していた本件の万年筆を持参して、被告人方の勝手場人口の鴨居の上に差し置いてきたなどということを窮わせるものは何もないというべきである。
 なお所論は、五月二三日の第一回の捜索は午前四時四五分から一四時間余の長時間にわたって行われたのに、万年筆が発見されなかったのは不自然であるというのであるが、五・二三員小島朝政作成の捜索羞押調書によれば、右捜索は午前四時四五分から午前七時二分までの二時間余であることが明らかである。
 要するに、被告人の自供に基づいて万年筆が発見された旨の原判示は、当蕃における事実の取調べの結果に徴しても、肯認することができる。それゆえ、論旨は理由がない。

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