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3 封筒の宛名の筆記用具に関する原決定の判断に誤りがあるとの主張について
(1)所論は、要するに、原決定は封筒表側の「少時様」の「少時」と「様」とが別種の筆記用具で書かれたとする齋藤保鑑定書の判定はにわかに与し難いとしてこれを斥けたが、齋藤鑑定が判定の対象とした資料は、「指紋検出作業及び他の鑑定作業後の写真を弁護団側が公判記録からカラー複写したもの」で、同複写は、十数年前になされたものであり、その後の経時的変化により、現時点で観察されうる封筒の文字の状況とは異なり、カラー複写の方がより原形に近いという点を看過してはならないし、万年筆インクは褪色し、ボールペンインクの色調は保存されるという相違が存することからすると、封筒上の「少時」と「中田江さく」の文字は、いずれも万年筆様のもので書かれ、他方、「様」の文字はボールペンで書かれているという齋藤鑑定書に対する原決定の判断は誤っている、というのである。
しかしながら、齋藤鑑定書の判定にはにわかに与し難いとした原決定に、誤りはない。すなわち、本件脅迫状の封筒の表側と裏側の「中田江さく」の文字が、万年筆様のもので書かれていることは、これを視覚的に検査した秋谷鑑定書も指摘するところであり、そのとおり肯認することができる(なお、同鑑定書の内容を検討すると、ここに「封筒に記載された文字の筆跡」とは、「中田江さく」の文字を指していることは明らかである。)。しかし、封筒裏側の「少時様」の文字について、埼玉県警察本部刑事部鑑識課員斉藤義見ほか作成の昭和38年5月13日付け捜査報告書は、「ニンヒドリンのアセトン溶液による指紋の検査を行ったところ、表面上部中央に書かれた『少時様』様の文字が、液体法と還元法(過酸化水素水による還元)等により消滅した。」と述べているのであり、齋藤鑑定書が、「記載文字の溶解を認める記述はない。」とするのは当たらない。同県警本部刑事部鑑識課塚本昌三作成の昭和38年9月27日付け写真撮影報告書添付の写真により認められる、指紋検出のための試薬処理以前の封筒の状態と対照しながら、本件脅迫状の封筒の現物を具に観察すると、その表側の「中田江さく」の文字は、褐色はあるものの、「く」の文字を除いては、はっきり読み取れるのに対し、「少時」の文字は、完全に消滅していて、肉眼で読み取りは不可能であり、「様」の文字も溶解し、ぼやけて、ほとんど読み取り不可能な状態にあることが認められる。そして、同写真撮影報告書添付の写真で「少時様」の3文字を観察すると、「少時」と「様」の文字がそれぞれ別異の筆記用具を用いて書かれたとするのは、いかにも不自然である。このように見てくると、「少時」の文字は、「様」の文字と同様、ボールペンで書かれたと見られるのであり、ニンヒドリンのアセトン溶液のかかり具合によって、「少時」の文字については、溶解が進み色素が流れてしまい(ボールペンのインク様の青い色素が、極薄く、不定形に広がり、用紙の繊維に付着しているのが見て取れる。)、ほとんど完全に消滅して読み取り不可能となり、他方、「様」の文字も溶解したが、色素が流れて拡散してしまうに至らなかったということができる。齋藤鑑定書の見解を援用する所論は、採用することができないといわなければならない。(2)なお、所論は、異議申立補充書(平成12年3月31日付け)において、齋藤保作成の平成12年3月28日付け鑑定書(以下「齋藤第2鑑定書」という。)を援用し、原審において、弁護人らは、新証拠として齋藤保作成の平成11年4月13日付け鑑定書(以下「齋藤第1鑑定書」という。)を提出して、本件脅迫状の封筒表に記載されていた「少時様」のうち「様」はボールペンで書かれ、「少時」は万年筆で書かれており、これによれば、犯行後被害者から万年筆を奪った旨の請求人の自白は誤りであることとなり、犯行前における万年筆使用の事実は、自白修復の余地がなく、その全面的崩壊をもたらすとの主張を行ったところ、原決定はこれを拝斥したが、齋藤鑑定人は本件脅迫状と封筒の実物を閲覧・謄写し、現物の観察結果等を加えて必要な実験を実施し、「少時」の筆記用具が万年筆であるとした齋藤第1鑑定書の正しさを再確認するとともに、新たな諸痕跡を発見し、その成因を明らかにしている、すなわち、齋藤第2鑑定書は、@ 本件封筒の表面には、粗目の安い軍手により印象されたものと認められる布目痕4箇所、滑り止め手袋によって印象されたものと認められるツブツブ痕1箇所がある、A 封筒表側に認められる小さな日付様の文字は「20日」と読めるものと思われ、その筆記用具はペン又は万年筆(以下「ペン等」という。)である、B 「少」及び「時」は、抹消した文字の上に書かれた改ざん文字であり、その筆記用具はペン等であり、抹消用具はペン等インク消しである、C 本件脅迫状の表側には、粗目の安い軍手により印象されたものと認められる布目痕5箇所が認められる、D 封筒表裏上の「中田江さく」は、犯行の前に滲みが存在していたのであるから、既にペン等で書かれていたと推認できる、E 「少」及び「時」の溶解反応と「様」のそれとの対比、「少時」と「様」の流失態様の相違、「時」の訂正線の色調と2条線からして、本件封筒の「少時」の文字が万年筆(又はペン)によって書かれたことは明らかである、などと指摘しているのであって、同鑑定書は、封筒表の「少時」の筆記用具が万年筆であることを証する証拠として、「少時」以外の文字等(封筒の「20日」の文字、「少」「時」の背景・周辺にある抹消された文字等)の筆記用具が万年筆であることを証する証拠として、封筒と脅迫状の手袋痕を証する証拠として、封筒表裏の「中田江さく」の記載時期を証する証拠として、新規明白な証拠というべきである、というのである。
しかし、封筒上の「少時」の文字が、「中田江さく」の文字と同様に、万年筆様のもので書かれ、他方、「様」の文字は、ボールペンで書かれているとの齋藤第2鑑定書の核心的判定部分が採用できないことは既に述べたとおりである。
同鑑定書の指摘する@ないしDの中には、齋藤第1鑑定書においては全く触れていないものがあるにもかかわらず、第2鑑定書で初めて発見されたという根拠が薄弱である。同鑑定書の基本的資料は、指紋検出前の昭和38年5月2日に埼玉県警察本部刑事部鑑識課塚本昌三が撮影した封筒の写真(同人作成の同年9月27日付け写真撮影報告書に添付)を弁護団が複写したモノクロネガフィルムから、原寸大に焼き付けたもの(写真1)及び指紋検出後の封筒の写真(写真33、34)であり、これらを目視ないし拡大鏡により精査したところ、本件封筒の表面には、荒目の安い軍手により印象されたものと認められる布目痕4箇所、滑り止め手袋により印象されたものと認められるツブツブ痕1箇所がある、というのであるが、そこまで判定可能かすこぶる疑問である。第1鑑定書においてツブツブ痕について詳細まで言及しなかったのは、提出されたのがポジのみであったため濃淡に限界があったと説明しているが、十分な理由となっていないように思われる。
本件脅迫状についても、基本的資料は、前記塚本昌三が撮影した脅迫状の写真(同人作成の同年9月27日付け写真撮影報告書に添付)を弁護団が複写したモノクロネガフィルムから、原寸大に焼き付けたもの(写真44)であるが、これを目視ないし拡大鏡により精査したところ、粗目の安い軍手により印象されたものと認められる布目痕5箇所が認められるとしているが、同写真を具に見てもそのように判定されるか判然としない。
さらに、封筒表裏の「中田江さく」の文字が滲んだ状態にあり、外側から水がしみ込んで濡れたものと認められ、他方、事件当日発見された脅迫状と封筒は翌日指紋検査がなされ、関係者の指紋が検出されているが、水に濡れた紙からは指紋の検出は不可能であるから、脅迫状と封筒は濡れていなかったことが認められるところ、その結果としていえることは、封筒の表側と裏側に書かれていた「中田江さく」は、犯行前に既に書いてあったということである、と鑑定しているが、その結論のみならず、そこに至る事実認識においても、独断に過ぎ、十分な論証に欠ける嫌いがあるといわざるを得ない。
要するに、齋藤第2鑑定書の指摘は、一つの推測の域を出ないものというほかはなく、所論のように新規明白性を備えた証拠ということはできない。(3)また、所論は、異議申立補充書(平成13年1月26日付け)において、小畠邦規作成の「意見書」(以下「小畠意見書」という。)を援用し、「『少時』はブルーブラックインクにより書かれた文字であり、筆記用具は万年筆である可能性が高い。『様』はボールペンにより書かれた文字である。『少時』『様』は現存する封筒ではいずれも判読不能であるが、いずれも指紋鑑定の際の薬品処理によるものである。ただし、『少時』は封筒に残留していたと推定されるインク消し等によるものであり、『様』はアセトンによるボールペンインクの流出によるものである。事件当時の封筒では、『中田江さく』については既に文字が滲み、かすれが観察されるが、これは、『中田江さく』が書かれた後に、封筒に対し外的要因(携行に伴う、汗による文字の滲み・衣類等との摩擦によるかすれ)が加わったことが原因と考えられる。これに対し、『少時』は鮮明であることから、脅迫状が届けられる直前に書かれたものか、書かれた後の保存状態が良かったことを示唆する。」とする小畠意見書は、有機化学の分野における専門家としての立場から、齋藤鑑定書の正しさを裏付けている旨主張するが、齋藤鑑定書について指摘したと同時に、その結論のみならず、その前提をなす事実の認識判断が、独断に過ぎ、にわかに賛同することはできず、それは一つの推測の域を出ないものというほかはない。
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