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 ■INDEX資料室狭山事件の資料室

狭山事件第2次再審請求・特別抗告棄却決定

     

主    文
 本件抗告を棄却する。
         
理    由

 弁護人中山武敏ほかの抗告趣意は,憲法14条,31条,34条,37条,38条,76条3項違反及び判例違反をいう点を含め,すべて実質は,審理不尽,理由不備をいう単なる法令違反,事実誤認の主張であり,いずれも刑訴法433条の抗告理由に当たらない。
 なお,所論にかんがみ,職権をもって次のとおり判断を加える。

 1 筆跡について
 (1) 所論
 所論は,新証拠である大塩達一郎作成の昭和50年12月15日付け鑑定書(大塩鑑定書),宮川寅雄作成の昭和51年1月20日付け鑑定書(宮川鑑定書),大野晋作成の昭和51年7月31日付け鑑定書(大野第2鑑定書),磨野久一作成の昭和51年1月10日付け鑑定書(磨野第2鑑定書),山下富美代作成の昭和61年10月1日付け意見書(山下意見書),木下信男作成の平成5年3月3日付け意見書(木下第1意見書),神戸光郎作成の平成5年4月10日付け鑑定書(神戸第1鑑定書),木下信男作成の平成8年4月18日付け意見書(木下第2意見書),日比野丈夫作成の昭和61年8月1日付け鑑定書(日比野鑑定書),宇野義方作成の昭和61年10月30日付け鑑定書(宇野鑑定書),大類雅敏作成の昭和61年12月5日付け鑑定書(大類鑑定書),江嶋修作ほか作成の昭和61年12月10日付け意見書(江嶋ほか意見書),戸谷克己作成の平成5年4月7日付け意見書(戸谷意見書)等によれば,脅迫状及びその封筒(浦和地裁昭和38年押第115号の1)の筆跡は申立人のものではないと認められるから,確定判決の認定には合理的な疑いがあるというのである。
 しかしながら,上記各証拠のうち,大塩鑑定書,宮川鑑定書,大野第2鑑定書,磨野第2鑑定書は,第1次再審請求で上記と同一の論点について刑訴法435条6号の再審事由として主張されて既に判断を経たものであり,これを今回の第2次再審請求で再び再審事由として主張することは,刑訴法447条2項に照らし不適法である。
 なお,異議審において,神戸光郎作成の平成12年2月18日付け鑑定書(神戸第2鑑定書),半沢英一作成の平成12年3月17日付け鑑定書(半沢鑑定書)が提出されているが,異議申立ての趣意の理解に資する参考資料とする趣旨であるならばともかく,これらを再審事由として追加的に異議審で主張する趣旨であるとすれば,再審請求審の決定の当否を事後的に審査する異議審の性格にかんがみ,不適法といわざるを得ない。これらの鑑定書についての原決定の説示は,前者の趣旨の資料であることを前提とした上で,所論にかんがみ,その証拠価値について付言したにすぎないものとみるべきである。以下,当審においても,原決定と同様の見地から,これら鑑定書の証拠価値について付言することとする。
 (2) 本件筆跡鑑定書等に共通する問題点
 所論が援用する筆跡に関する鑑定書等のうち,第1次再審請求で判断済みの大塩鑑定書,宮川鑑定書,大野第2鑑定書及び磨野第2鑑定書を除く,山下意見書,木下第1意見書,同第2意見書,神戸第1鑑定書,同第2鑑定書,日比野鑑定書,宇野鑑定書,大類鑑定書,江嶋ほか意見書,戸谷意見書及び半沢鑑定書(以下,これらを「本件筆跡鑑定書等」という。)は,大別すると,作成者の異同判別の手法として,被検文書(脅迫状)と対照文書の筆跡の特徴あるいは用字癖に着目するものと,各文書等からうかがわれる作成者の国語能力に着目するものとがある。そして,本件筆跡鑑定書等は,このいずれの観点からも,脅迫状と申立人の作成した警察署長あて上申書等の間には,筆跡,書字能力,文章作成能力等の点で顕著な差異が認められ,同筆とは認められないというのである。
 しかしながら,確定判決がその信用性を肯定したいわゆる3鑑定(関根・吉田鑑定,長野鑑定及び高村鑑定)が指摘するとおり,脅迫状と申立人の作成文書の筆跡には類似する特徴が多くある一方,異筆性をうかがわせるような相違点はない。また,確定判決,上告棄却決定等が説示するとおり,用字の点においても偶然とはいえない特徴的な共通点が見られる。脅迫状の作成状況について申立人がした捜査段階での自供,被疑者段階の警察署長あて上申書等の作成状況,起訴後に申立人が自発的に作成した書簡等の内容等を総合すると,脅迫状と申立人の作成した上記各文書との間において,書字能力,文章作成能力等の点で作成者の同一性を否定すべき事情もうかがわれない。
 これに対し,本件筆跡鑑定書等では,脅迫状と対比して警察署長あて上申書等における運筆の渋滞,誤字,文章・表記の拙劣さ等を指摘し,これらを異筆の根拠とするのであるが,これらの見解は,次のとおり,警察署長あて上申書の書字条件等を考慮しないものであるといわざるを得ない。
 すなわち,警察署長あて上申書は,昭和38年5月21日夜,警察官2名が申立人方を訪れ,5月1日のアリバイについて申立人から事情聴取した際,申立人が警察官から求められ,同日の行動(後に判明したところでは,事前に家人らと口裏合わせした虚偽のアリバイである。)について,警察官から渡されたわら半紙とボールペンを用い,警察官2名,兄及び父親らが見守る中,約10分ないし20分をかけて作成した文書である。また,脅迫状写しは,申立人が,昭和38年7月2日,勾留中に取調べの検察官から求められて脅迫状の内容を思い出して,万年筆を用いて再現したものである。これら文書と他に人のいないところで自発的に作成されたことの明らかな脅迫状との間の書字条件には心理面等でかなりの相違があり,それに伴い,表現力,文字の正誤,筆勢の渋滞,巧拙につき差異が生じたとしても,何ら不自然とはいえない。現に,申立人が起訴後精神状態が安定した時期に自発的に作成した,内田裁判長あて上申書,関源三あて手紙等では,自己の意思内容を的確に伝達するとともに,脅迫状程度の書字・表記を十分になし得る能力を示しているのである。
 申立人が被疑者段階で作成した文書と脅迫状の間に見られる筆勢,書字の巧拙,漢字の使用率,文章表現の差異は,このような文書作成時における心理的条件等の違いのほか,被疑者段階では参照すべき資料もなく,即座に作成することが求められたことも影響していると考えられる。申立人の捜査段階の供述によれば,脅迫状作成に当たり,いわゆる吉展ちゃん事件の犯人の脅迫文言を参考にして,あらかじめ雑誌「りぼん」から振り仮名の付された漢字を拾い出して書き写した上,それを見ながら,3回の書き損じを経て4回目に書き上げたというのであって,その供述を前提にすれば,資料の参照,下書きの有無という点でも,文章作成の条件は,脅迫状と警察署長あて上申書等とではかなり異なるものである。
 また,本件筆跡鑑定書等のうち,文書内容等に基づいて推測される作成者の国語能力から,筆者の異同を判別し得るとの立場については,同一人が作成する場合であっても,参考書物の利用,練習あるいは清書の有無又は文書作成時の心理状態等により,書字・表記・表現の正誤・巧拙の程度も異なり得るのであり,また,ある文書では漢字で表記したことを他の文書では平仮名で表記したりすることも一般にあり得ることであるから,そもそも,限られた文書の記載のみから,その作成者の書字・表記・表現能力の程度・水準を厳密に確定することはできないと考えられる。
 所論は,申立人の生育歴等からは,十分な国語教育を受ける機会がなく,本件当時の申立人の国語能力は小学校の低学年の水準にとどまっていたという。
 確かに,申立人は,小学校5年修了後,農家の子守奉公,靴屋の店員見習い,製菓工場の工員,土工,養豚業手伝いなど職を転々とし,義務教育において十分な国語教育を受けていない。しかし,申立人は,靴店に住み込みで働いていた14歳のころには,店主の妹から約3か月間平仮名や漢字を習い,得意先の名前程度は漢字で書けるようになっていたと認められ,その後も,原決定が指摘するような社会的体験,生活上の必要と知的興味,関心等から,不十分ながらも漢字の読み書きなどを独習し,ある程度の国語的知識を集積していたことがうかがわれる。弁護人西川雅偉作成の平成10年8月4日付け再審請求補充書の「付録21」として提出されたAの昭和38年6月8日付け検察官に対する供述調書(写し)の中には,「αは,私の家に居るとき,読んでいたものは歌の本とか週刊明星が主でしたが,私が野球が好きで報知新聞をとっていると,この新聞の競輪予想欄を見ては,しるしをつけていたし,私の家でとっている読売新聞も読んでおりました。また,去年の12月ごろ,αが自動車の免許証を取りたいと言っていたとき,私が免許証をとるとき使った交通法規の本と自動車構造の本をαに貸してやったら,それを少し読んでいるのは見ました。」との供述部分がある。
 上記供述調書は,検察官が第1審の第1回公判で立証趣旨を「被告人の性格,血液型等」として証拠調べ請求したが,弁護人が不同意の意見を述べたため,撤回された証拠である。弁護人は再審請求審でその主張する他の論点の裏付けとなる資料として上記供述調書を援用したものであるが,再審請求手続に上程した以上は,これを再審事由の存否等の判断資料として考慮することは許されると解すべきである。
 そして,その内容は,昭和37年から同38年にかけてAの経営する養豚場に住み込みで働いていた当時の申立人の知的関心と文章体験をうかがわせるものといえる。また,申立人は,起訴からほどない時期において,関あて手紙を始めとして自らの意思,感情を的確に表現する文書を作成し得ているのである。したがって,所論がいうように,本件当時の申立人の国語能力が小学校低学年程度の低位の水準にあったなどとは到底認められない。
 本件筆跡鑑定書等は,以上の各文書間の書字条件の相違を考慮せず,あるいは,申立人の国語能力等が小学校低学年の水準にあるとの見解の下に,脅迫状は申立人により作成されたものではないと断ずるものであって,その内容には,上記の点に照らして基本的な疑問があるといわざるを得ない。
 以下においては,上記の点を踏まえ,本件筆跡鑑定書等について,便宜上,筆跡等の特徴に着目した鑑定と国語能力に着目した鑑定とに分け,その内容について具体的に検討することとする。
 (3) 筆跡あるいは用字の特徴に着目した鑑定書等
 ア 神戸第1鑑定書について
 神戸第1鑑定書は,「脅迫状と狭山警察署長あて上申書のそれぞれの筆勢,筆圧,配字形態,字画形態,字画構成,筆順,誤字,文字の巧拙,書品,文字の大小,書体等を比較照合するとともに運筆を調べた結果,同筆と判定する根拠は薄弱である反面,偶然とはいえない恒常性のある相違点が数多く認められることから,両者は異筆と判断される。」というものである。
 しかし,同鑑定書は,いわゆる伝統的筆跡鑑定の手法によりながら,運筆の連続等の点を筆跡の同一性判定に当たって重視しているが,これらの点は,経験上,作成すべき文書の性質・内容,作成時の状況,書き手の心理状態により変化し得るものであり,必ずしも書き癖として固定しているとは限らないものである。例えば,同鑑定書は,脅迫状に見られる「な」の字の第1筆と第2筆の連続,「す」の字の運筆の連続を警察署長あて上申書との間の「恒常性ある相違点」として指摘するが,このような「な」「す」等の字の運筆の連続の現象は,申立人が起訴後精神状態が安定したと見られる時期に自発的に作成した文書(関あて昭和38年手紙,昭和38年8月20日付け接見等禁止解除請求書)中にも認められるところである。前記のとおり,警察署長あて上申書は,作成時の精神的緊張が筆勢の渋滞となって現れていることからすると,同鑑定書が指摘する被検文書(脅迫状)との間の相違点が「恒常性ある相違点」というに値するか疑わしく,同鑑定書は,確定判決が依拠するいわゆる3鑑定の結論を左右するに足りるものとは認められない。
 なお,異議審で参考資料として提出された神戸第2鑑定書は,「3鑑定は,雑誌『りぼん』を手本にして脅迫状の漢字を書いたという所与条件を考慮していないため,筆跡鑑定としての適格性を欠いている。また,長野鑑定書は,誤字,当て字が大体において習慣的,無意識の中に書かれたと見るのが妥当のように考えられるとしているが,その考察は上記所与条件と矛盾するものである。漢字の書字能力が低いものが手本を模写すると,筆速が遅くなり,字画や,線の曲・直の調整に手間取り,運筆を停止することもしばしば起こり得るが,脅迫状の文字には,漢字を含めて流れるような筆勢があり,全体として,手本などを無視した筆勢が顕著である。脅迫状にある『子供』の『供』の6文字のうち一つは『供』様〔編注:「供」は崩し字体で表記されている。〕に筆記されており,同字は書字能力の低い者が多少練習しても書き得るものではないと断じ得る。このように脅迫状には上記所与条件と明らかに矛盾する点が見いだせる。一方,雑誌『りぼん』には脅迫状に見られる当て字は一つとして見当たらないから,そこに浮かび上がってくる作為性に照らし,脅迫状の作成者の書字能力は相当高度と考えられる。」という趣旨のものである。
 しかし,関根・吉田鑑定及び長野鑑定は,捜査段階において申立人が自白する以前に行われた鑑定であるから,両鑑定が申立人の自白内容を考慮していないのは当然である。また,伝統的筆跡鑑定は,筆跡自体の分析から筆者の同一性を判定するものであるから,被検文書(脅迫状)の作成者と疑われる者の供述の内容を考慮しなければ,鑑定の適格性に欠けるという指摘も当を得ない。また,誤字,当て字に関する長野鑑定の前記見解は,鑑定事項である筆跡自体の同一性の判定とは別に付随的に用字の観点から一つの推測を示したものにすぎず,それが,後に判明した書き手の平素の用字の傾向と合致していなかったとしても,鑑定全体の信頼性が左右されるものとはいえない。神戸第2鑑定書のいう所与条件とは,要するに,脅迫状の漢字は手本(活字体)をまねて書かれたものということに帰するが,前記(2)のとおり,申立人は,脅迫状を作成するに当たり,雑誌「りぼん」の漢字の活字体を直接見ながらまねて書いたとは述べていないのであるから,同鑑定書のいう「所与条件」はそもそも申立人の自白内容を正しく理解したものとはいえない。また,拾い出されて脅迫状に使用された漢字はいずれも画数の少ない模写の容易なものばかりであり,漢字の表記能力が低い者であっても,練習(書き損じ)を経ることにより活字体の字形から離れた勢いのある筆跡となることも十分にあり得るところである。「供」について指摘する点も,同字は書き写すことがそれほど難しい文字ではないから,漢字の書字能力が低くても書き得るものと考えられる。また,漢字の知識に乏しい者が重要な文書を作成しようとする場合に,文中に漢字を多用しようとする意識が働いて,漢字の意味と無関係に同じ又は近い音のところで平仮名に漢字を当てることもあり得るところであり,脅迫状に雑誌「りぼん」に見られない当て字が使われていても,格別不自然なこととはいえない。したがって,脅迫状の当て字の存在から直ちに作成者の作為性を前提として書字能力が相当高度であったと推断するのも相当とはいえない。
 したがって,神戸第2鑑定書もまた3鑑定の結論を左右するものとは認められない。
 イ 山下意見書について
 山下意見書は,「主として筆跡計測学の立場から,被検文書の脅迫状と対照文書の警察署長あて上申書とに共通する文字,偏,旁(つくり)につき,筆順,字画構成の特徴の比較検査を実施し,これを基に統計的に算出した異同比率(対照特徴総数中に見られる同一特徴の百分比)を鑑別基準にして,両文書の筆跡それぞれについて異同比率を算出したところ,両文書は筆跡異同不明領域に属することが判明したから,これらを同一筆跡と認めることはできない。併せて,漢字の出現率,誤用,当て字と誤字,漢字の熟知性,筆勢・筆速等の諸点における相違をも検討すると,同一筆跡と断定することは不可能である。」というものである。
 しかし,山下意見書によれば,異同比率に基づく上記の鑑定方法では,被検文書と対照文書との間に,最低4文字以上の共通同一漢字があることが望ましいというところ,脅迫状と上申書とに共通し,異同比率算出の基礎にし得た漢字は,「月」「日」「時」の3文字にすぎず,共通漢数字の「五」を加えてやっと4文字になる程度であり,基礎資料として量的な問題があることは山下意見書も自認するところである。また,漢字の出現率,誤用,当て字と誤字,漢字の熟知性の相違の点は,無意識に表れる書き癖とは異なり,同一人が作成する場合でも,参考書物,練習・清書の有無,それらを作成した際の心理状態等により異なり得るものであるから,必ずしも異同鑑別の上での決定的基準にはならないと考えられる。そうすると,山下意見書の証拠価値は限定されたものといわざるを得ず,3鑑定の結論を左右するに足りるものではないと認められる。
 ウ 木下第1意見書及び同第2意見書について
 木下第1意見書は,「@ 脅迫状と警察署長あて上申書の各共通文字につき,数値化した異同性の指標を設定し,「ツ」については,第2筆と第3筆の長さの比を指標として測定した結果,脅迫状に存在する9個の「ツ」と警察署長あて上申書に存在する3個の「ツ」は,過誤危険率0.4%以下で同筆でないといえるので,両文書は過誤危険率0.4%以下で同筆でないと判定できる。A 脅迫状及び封筒と警察署長あて上申書の共通文字の「時」についても,脅迫状の6個の「時」は,ほぼ正字であるのに対し,警察署長あて上申書の3個の「時」は,いずれも明らかに誤字であるから,これらは同筆ではなく,両文書もまた同筆ではないことが証明される。B 脅迫状と内田裁判長あて上申書の共通文字の「に」について,第2筆と第3筆を結ぶ連続線が第2筆となす角度を指標として測定した結果,脅迫状の13個の「に」と内田裁判長あて上申書の4個の「に」とは過誤危険率0.3%以下で同筆ではなく,両文書は過誤危険率0.3%以下で同筆でないと判定される。C 脅迫状の「な」は,第1筆と第2筆を連続させて一筆で書かれているが,この点は,申立人の手になる警察署長あて上申書,内田裁判長あて上申書,甲あて手紙の「な」には見られない特徴であり,この相違からも脅迫状の「な」と各対照文書の「な」とが同筆でないことが証明される。したがって,脅迫状とこれら対照文書の筆跡は同筆でないと判定される。」というものである。
 しかし,木下第1意見書は,脅迫状と警察署長あて上申書については,片仮名の「ツ」の第2筆と第3筆の長さの比のみに,脅迫状と内田裁判長あて上申書については,平仮名「に」の第2筆と第3筆を結ぶ連続線が第2筆と作る角度のみに着目しており,3鑑定が指摘するような被検文書と対照文書間の筆跡の類似点や共有する個性的特徴の検討を全く行っていない。「時」の誤字について指摘する点も,漢字の知識に乏しく,「時」の字を正しく表記できない者が参考書物等を参照して脅迫状を書いた可能性を度外視するものである(なお,脅迫状では,「時」の「土」の部分が「主」の崩し字となっており,この点は警察署長あて上申書の「時」の誤字が「土」を「主」と記載しているのと共通する特徴といえる。)。
 脅迫状の「な」の第1筆と第2筆の連続の点も,既に神戸第1鑑定書の項で検討したのと同様のことが指摘できるのであって,現に,関あて昭和38年手紙の中には,「な」の第1筆と第2筆を連続させたものが存在しているのである。
 以上の点からすると,木下第1意見書は3鑑定の結論を左右するに足りるものとは認められない。なお,木下第2意見書は,検察官提出の平成4年12月7日付け「再審請求に対する意見書」に参考資料として添付された科学警察研究所警察庁技官の高澤則美作成の平成元年1月18日付け鑑定書を論難するものであるが,これも同様に3鑑定の結論を左右するに足りるものとは認められない。
 エ 半沢鑑定書について
 半沢鑑定書は異議審で提出されたものであって,これを異議審で再審事由として主張することはもとより不適法であるが,所論にかんがみ,その証拠価値について付言する。
 半沢鑑定書は,「筆跡が同一であると判定し得るためには,対照2資料間に『希少性のある安定した類似性』が認められ,かつ『安定した相異性』が認められないことが要件である。これに対し,異筆と判定し得るためには,たとえ部分的であっても『安定した相異性』が認められれば,必要十分である。そして,上記要件の有無を判定するためには,文字ないしは文字群について,筆致が魯鈍であるか否かといった主観の入る余地のある定性的分析ではなく,該当文字の出現頻度といった定量的分析を行い,これを統計的に処理するのが相当である。脅迫状及び申立人の工場勤務時の早退届から久永裁判長あて上申書に至る9点の対照文書(『申立人筆跡資料』という。)から対照文字の写真一覧を作成し,書き癖の出現頻度から,その特性の『安定性』『偶発性』を確率的に確認していった結果は次のとおりである。@ 申立人筆跡資料は昭和38年9月6日付け関源三あて書簡まで『え』と書くべき67文字のうち66文字を『エ』を書くという安定した特性が現れている。しかし,脅迫状の方は『え』と書くべき4字のうち2字は『え』,2字は『江』を当てており,申立人筆跡資料に見られる安定した特性『エ』が全く現れていないのであって,両者には『安定した相異性』が認められ,異筆である。A 申立人は,昭和40年まで『や』と書くべき148字すべてについて正常に『や』と書いているのに対し,脅迫状の方は『や』と書くべき2字を『ヤ』と書いており,両者の間には『安定した相異性』が認められる。B 申立人は,昭和40年まで,『け』86文字のうち少な目に数えて81文字につき,第2,第3筆を右肩環状連筆で書いていないが,脅迫状の『け』1文字は右肩環状連筆で書かれている。申立人は,昭和40年まで,『す』225文字のうち少な目に数えて220文字につき,第1,第2筆を右肩環状連筆で書いていないが,脅迫状は3字の『す』すべてが右肩環状連筆で書かれている。申立人は,昭和40年まで,『な』154字のうち少な目に数えて145字につき,第1,第2筆を右肩環状連筆で書いていないが,脅迫状は5字の『な』すべてが右肩環状連筆で書かれている。これら『け』『す』『な』の右肩環状連筆についても,対照2資料間に『安定した相異性』すなわち異筆性が認められる。C 脅迫状と警察署長あて上申書等とに共通して見られる『ツ』の当て字について,平仮名に先立って片仮名が教えられた時期に教育を受けた中で,国語の習得度の低かった人々が,慣れない平仮名の一部を最初に学習した比較的なじみのある片仮名で代用したことは,活字になった資料こそ少ないが多くの事例があったと思われるから,その希少性を過大視することは誤りである。」というものである。
 しかし,一般に,用字,表記,筆圧,筆勢,書字の巧拙等は,その書く環境,書き手の立場,心理状態などにより多分に影響され得るのであるから,これらの諸条件を捨象し,該当文字等の出現頻度や,筆勢等に影響される字画の連続という限られた特徴点のみに着目して統計的処理を行い,これを判断基礎とすることが理論的に相当であるか疑問があるといわざるを得ない。すなわち,用字の点は,同一人であっても,その時々の気分や文書の性質により用字を異にすることもあり得るところであり,ことに脅迫状についてはその文書の性質上,意図的作為を施すことも十分考えられるから,脅迫状では,「エ」ではなく,「え」「江」を用い,あるいは「や」に代えて「ヤ」を用いたからといって,他の文書においてそれ以外の字を用いることは,十分に考えられる。また,運筆の連続は,その時々の書き手の気分,筆圧,筆勢などによっても変化し得るものであり,必ずしも書き癖として固定しているとも限らないことは既に指摘したとおりである。したがって,平仮名の右肩環状連筆の特徴をとらえて,「希少性ある安定した類似性」「安定した相異性」を指摘するのは相当とはいい難い。「ツ」の用法の希少性を過大視することの誤りをいう点も,実証的な根拠が示されていない上,そのよって立つ「統計的処理」の立場から離れた独自の推断であって,当を得ないものである。
 以上から,半沢鑑定書は3鑑定を左右するに足りるものとは認められない。
 (4) 国語能力に着目した鑑定書等
 ア 日比野鑑定書について
 日比野鑑定書は,「脅迫状と警察署長あて上申書とを比較対照し,両文書にみられる文字配列の状況,当て字,誤字,筆順など漢字,片仮名の使用状況,筆勢,運筆,文章の作成状況,句読点の使用状況等からみて,両文書が同筆であるとは考えられず,両文書の作成者の書写能力や漢字能力には差があり,申立人の能力では,雑誌『りぼん』を手本としても脅迫状を作成することは不可能であった。具体的には,@ 脅迫状に見られる『江』,『刑』,『札』の3字は,小学校の1年から6年までの教育漢字にはなく,当時の当用漢字において初めて出てくるものである。これは筆者の漢字能力がある程度高度なものであることを示しており,申立人が雑誌『りぼん』によって幾つかの漢字を知ったというが如きは到底信じられない。A 脅迫状には,当然平仮名で書くべきものを,その音によって無理に当てている漢字が,死−し,知−し,出−で,名−な,江−え,気−きの6種類ある。このような不自然な用法は極めて作為的,故意的であり,当然漢字で書くべきものを仮名書きすることはあっても,その逆は普通には有り得ないのであって,筆者が特殊の目的をもってこの脅迫状のみに上記当て字を使用したものと認められる。B 脅迫状に誤字が少ないのに対比して,警察署長あて上申書の誤字は,正字が見当たらない程に溢れているのであって,これは非常な相違点である。C 脅迫状には,余字に『ツ』を用いた例はなく,また,『え』と『江』が混用されているが,警察署長あて上申書では『エ』に統一されており両者の相違点として注目される。」というものである。
 しかし,既に述べたとおり,そもそも,限られた文書の記載のみに基づいて,各文書作成者の書字・表記能力の程度・水準を厳密に確定することはできないというべきである。また,確定判決が説示するとおり,「刑」と「札」の漢字は,字画数が多くなく,ありふれた漢字であるから,当時,申立人が身辺にあった新聞,雑誌等の印刷物などで見て習得する機会は比較的容易にあり得たと考えられ,「江」の漢字についても同様のことがいえる。脅迫状の当て字について指摘する点も,前記のとおり,漢字の知識の乏しい者が文中に漢字を多用しようとする意識などが働いて,音を頼りに同じ音の平仮名に漢字を当てることによっても生じるものと考えられる。日比野鑑定書は,その余の片仮名の使用状況,筆勢,運筆,文章作成能力等に関する指摘を含め必ずしも当を得たものとはいい難く,3鑑定の結論を左右するに足りるものとは認められない。
 イ 宇野鑑定書について
 宇野鑑定書は,「脅迫状と脅迫状写しの両文書について,警察署長あて上申書,接見等禁止解除請求書,内田裁判長あて上申書,関あて手紙類などを参考資料として,文字,語彙,文章の表記の点から比較検討した結果,両文書には著しい差異が認められ,脅迫状と脅迫状写しは同一人の筆跡とは認められない。具体的には,@ 平仮名『え』について,脅迫状では,『江』と『え』が使われ,『エ』は全く使われておらず,『え』の代わりに『江』を用いるのが脅迫状の表記上の特徴であるが,警察署長あて上申書等では,すべて片仮名の『エ』が使われている。A 平仮名『や』について,脅迫状ではすべて片仮名の『ヤ』が使われているが,警察署長あて上申書等では平仮名『や』が使われている。一般に,平仮名で表記しているところに,特定の文字だけ片仮名にするのは考えにくいことであり,特殊な表現効果を狙う場合か,用字の癖のような場合にそういうことが現れる。B 脅迫状に見られる促音『っ』を『ツ』で表記するのは稀少性があるとはいえない。C 脅迫状には促音表記が見られるが,申立人作成の文書等からは,事件当時,申立人には促音表記が身に付いていなかったといえる。D 脅迫状中の『な』『す』及び『け』について見られる字画の連続は自然に身に付いた運筆,筆勢の習慣であり,このような字画の連綿現象は,申立人の手になる脅迫状写しや関あて手紙中には見当たらない。」というものである。
 しかしながら,自発的に作成された脅迫状と被疑者段階で作成された警察署長あて上申書等の間の書字条件には相違があり,それに伴う差異が生じたとしても,不自然ではなく,現に,申立人が起訴後精神状態が安定した時期に自発的に作成した関あて手紙等は,脅迫状程度の書字・表記を十分になし得る能力を示していることは既に指摘したとおりである。申立人は,当時,「え」に代えて「エ」を多用する傾向があったことは所論指摘のとおりであるが,申立人は「え」の字自体は知っており,脅迫状では,気分あるいは意図的作為により,「エ」を用いずに「え」「江」を用いたとも考えられる。申立人は,昭和38年6月27日付けの甲あて手紙では,「え」と表記すべきところを,「江」(「中田江さく」が本文中に3か所,封筒の上書に1か所)と書き,あるいは,「エ」(「よしエ」が本文に3か所)と書いていることが認められる。取調べの過程で脅迫状等を見せられた可能性があるとしても,申立人は,控訴審の公判において,「中田江さくというのは何か見て書いたのか,(それとも)覚えていて書いたのか」との質問を受けて,「ただ書いたと思います。」と答えており,上記の表記が脅迫状等を見たことに影響されたものとは考え難い。このように,申立人は,「え」と表記すべき箇所に「エ」と共に「江」を用いることもあるのである。したがって,上記所論の点をもって直ちに異筆の根拠とするのは相当ではない。また,脅迫状における「ヤ」の使用はわずかに2例にすぎず,この2例から直ちに「ヤ」の使用が書き手の用字癖であるとか,特殊な効果をねらった用字であると断ずることはできないと考えられる。また,警察署長あて上申書のほか,申立人が被疑者段階で作成した文書等からは,当時,申立人は,促音の「っ」に限らず,一般に平仮名の「つ」を「ツ」と表記する顕著な習癖を有していたことが認められ,この点は正に脅迫状の用字(「ツツんでこい」)と共通する特徴といえる。促音表記について指摘する点も,警察署長あて上申書に促音表記が1か所,甲あて手紙にも2か所の促音表記があるほか,申立人作成の供述調書添付図面の説明書にも促音表記が随所に存在するから,同鑑定書は前提とする事実認識に誤りがある。脅迫状の「な」「す」「け」に見られる字画の連続の点も,昭和38年中の関あて手紙に平仮名「な」の字の字画の連続が,昭和38年8月20日付け接見等禁止解除請求書にも,平仮名「す」の字画の連続が見られるから,これを脅迫状の筆者固有の書き癖と見ることはできない。既に指摘したとおり,字画の連続は,習慣となって固定しているものとは限らないから,この点は,筆跡の異同判定の要素として重視するのは必ずしも相当とはいい難い。以上により,宇野鑑定書は3鑑定の結論を左右するに足りるものとは認められない。
 ウ 大類鑑定書について
 大類鑑定書は,「申立人の小学校時代の出席状況・成績,仕事の状況,申立人作成の脅迫状写し,警察署長あて上申書,手紙等を検討した結果,事件当時の申立人は字及び文章が満足に書けない水準にあり,句読法が身についていなかった。これに対し,脅迫状では,句点は,誤用もあるが,行末に置こうとする意図が見られる上,突然の断止で,マルとダッシュを用いているのは,高度な句読法といえる。また,脅迫状には部分的に字が大きく書かれている箇所があるが,このような手法は詩文にみられる用法であり,欧米や我が国の詩文に精通した者でなければこのような手法を用いることはできない。したがって,脅迫状は,申立人のように,句読の意識も明白でなく,句読法が身についていない者には作成することができない。」という趣旨のものである。
 しかしながら,脅迫状の文章は句読点を用いているといっても,おおむね各行の終わりに句点が付されているにすぎず,マルとダッシュの点も含め,その作成に高度の表記能力を要するものとはいえない。詩文に精通した者でなければ強調すべき文字を大きく書くことはないというに至っては独自の見解というほかはない。したがって,大類鑑定書も3鑑定を左右するに足りるものとは認められない。
 エ 江嶋ほか意見書について
 江嶋ほか意見書は,「社会学,教育学の見地から生活史的方法による調査をし,申立人の国語能力等を解明した結果,申立人は,十分な基礎的国語教育を受けず,読み書き能力の極めて乏しい状態のまま社会に出たため,その後の仕事先や日常生活場面でも,書式の決まった文書に,住所,名前,極く限られた文字や数字等を書き込む程度のことをこなせただけであり,自分の意思内容を伝達するに足るまとまりのある文章を書くことは到底できない状況にあった。したがって,申立人には,脅迫状のような要求を的確に表現する文書を自分で作成する能力はなかったといえる。」というものである。
 しかし,申立人の国語能力が同意見書の指摘するような低位の水準にあったとは認め難いことは既に述べたとおりである。脅迫状は,ありふれた構文である上,当時の「吉展ちゃん事件」の犯人の脅迫文言をも参考にしたという申立人の自白を前提にすれば,その作成はさして困難であったとは認められない。したがって,江嶋ほか意見書も,3鑑定の結論を左右するものとは認められない。
 オ 戸谷意見書について
 戸谷意見書は,「脅迫状と警察署長あて上申書,捜査官に対する各供述調書添付図面の申立人自書の説明書,甲あて手紙,脅迫状写し,関あて手紙類を対象として,脅迫状の筆者と申立人の平仮名・片仮名・漢字の能力,句読点を使いこなす能力,文章の構成力,指示語・接続語を使いこなす能力,文章思考能力と内容構成能力,客観的描写・叙述の能力などの作文能力を,小学校の学習指導要領と国立国語研究所の研究に沿って分析,検討した結果,脅迫状作成者の作文能力は,小学校高学年あるいは小学校卒業以上のかなり高度なものであるのに対し,申立人のそれは,小学校低学年以下であり,両者の間には厳然たる格差が存在し,たとえ吉展ちゃん事件の脅迫電話や雑誌『りぼん』を参考にしたとしても,申立人が脅迫状を書くことはできなかった。申立人が昭和38年9月6日付け以降の関あて手紙類を書いたのは,勾留中の自学自習による驚くべき発展といえる。当時の申立人は促音の『っ』に片仮名の『ツ』を用いているが,脅迫状に見られる『ツ』の使用は,本件当時出回っていた振り仮名付きの漫画本,大衆小説などに多く見られた用法によったものではないかと推測されるから,両者に共通する特徴点とは見られない。」というものである。
 しかしながら,当時の申立人が脅迫状程度の文章を書く能力がなかったとはいえないことは前記のとおりである。すなわち,昭和38年9月6日付け以降の関あて手紙類は,その内容からみて,仮に,作成に当たり拘置所職員からその体裁,表記等についてある程度の教示,助言があったとしても,文章まで第三者が申立人に助言して書かせたとは到底認め難いものであり,このことは,参考となる資料さえあれば,申立人に脅迫状程度の文章や字を書き得る能力があることを示すものにほかならない。脅迫状と被疑者段階で申立人が作成した警察署長あて上申書等との書字条件の相違を考慮することなく,勾留中の「自学自習」を想定し,短期的に国語能力が驚くべき発展を遂げたとする見解は当を得ないというべきである。また,促音の表記としての「ツ」に限らず,一般的に平仮名「つ」を「ツ」と表記する用法が大衆小説等に多く見られたものであるから,共通する特徴点とは見られないとの見解も首肯し難いものである。本件当時の申立人には,警察署長あて上申書に見られるように,促音の「っ」に限らず,平仮名の「つ」を「ツ」と表記する顕著な特徴があることは既に指摘したとおりであって,このような表記は正に脅迫状(「ツツんでこい」)と共通する特徴的なものということができる。
 したがって,戸谷意見書の判定には疑問点が多く,3鑑定の結論を左右するに足りるものとは認められない。
 (5) 筆跡に関するその余の新証拠
 その他,筆跡に関する新証拠である弁護人松本健男ほか作成の昭和63年10月15日付け「筆跡鑑定に関する調査結果について」と題する調査報告書,弁護人松本健男ほか作成の平成5年5月10日付け「高澤(筆跡)鑑定に関する調査結果について」と題する調査報告書,弁護人横田雄一ほか作成の平成8年4月13日付け調査報告書,Bの昭和38年6月18日付け司法警察員に対する供述調書,Cの昭和38年6月20日付け司法警察員に対する供述調書も,本論点に関する所論を裏付けるに足りるものとは認められない。
 以上の結果,弁護人から提出された上記各証拠をすべて併せても,3鑑定の結論を左右するに足りるものではない。もとより,筆跡鑑定は同筆であることの決め手となるまでのものではないが,3鑑定の結論はいずれも脅迫状の作成者が申立人であることの高度の蓋然性を示しており,これを申立人が犯人であることの一つの有力な情況証拠であるとした原決定の判断は正当である。

 2 脅迫状の記載訂正前の金員持参指定の日付について
 所論は,新証拠である大塩達一郎作成の昭和54年3月20日付け写真撮影報告書,弁護人中山武敏作成の昭和54年3月30日付け写真撮影報告書,串部宏之・北田忠義作成の昭和54年5月15日付け意見書,昭和38年5月4日付け朝日新聞朝刊記事(写し)によれば,「脅迫状中の金員を持参すべき指定日の日付訂正部分を,赤色部における分光特性を強調する検査方法により判読したところ,その塗消部分には塗消以前には,申立人が自白した指定日である『4月28日』ではなく,『4月29日』と記載されていたことが判明した。したがって,申立人の自白が真実に反しており,その余の自白も捜査官の誘導による虚偽架空のものであることが明らかである。」というものである。
 しかしながら,上記新聞記事(写し)を除く証拠は,第1次再審請求において同一の論点について再審事由として主張され,第1次再審請求棄却決定において,「申立人の供述中,当初準備していた脅迫状に金員持参の指定日として4月28日と書いてある部分を4月29日と書いたと読みかえたとしても,その前後にわたる自供内容に格別矛盾が生じたり,不合理な部分が出たりすることは考えられない。」として,既に判断を経たものであるところ,その判断は正当なものと是認できる。これに訂正前の日付についての地元警察の認識を報じた事件発生直後の上記新聞記事(写し)を加えてみても,所論は,実質上同一の証拠に基づく再審事由の主張の繰り返しというほかはなく,刑訴法447条2項に照らし不適法であって,これと同旨の原判断は正当である。

 3 封筒のあて名の筆記用具について
 所論は,新証拠である齋藤保作成の平成11年4月13日付け鑑定書(齋藤第1鑑定書)によれば,封筒の「少時様」の「少時」はペン又は万年筆(以下「ペン等」という。)で,「様」はボールペンで記載されていることが判明したから,「少時様」をすべてボールペンで記載したとする申立人の自白は,客観的事実に反するものであり,ひいては自白全体の信用性に合理的な疑いがあるというのである。
 齋藤第1鑑定書は,「封筒の写真により,封筒の表側を観察すると,『少時』と『中田江さく』の文字はいずれも溶解していないが,『少時』の文字に続く『様』の文字はにじんで溶解しており,その状態は,脅迫状の第1行目と末行の文字の溶解と同様である。一般に,ボールペンで書かれた文字は,指紋検出に用いられる有機溶剤のアセトンにより溶解するが,万年筆のインクは,アセトンでは溶解しないので,封筒の『少時』と『中田江さく』の文字は,いずれも万年筆様のもので書かれていると判定され,他方,『様』の文字は,ボールペンで書かれていると判定される。」というものである。
 しかしながら,齋藤第1鑑定書の見解が当を得ないことは原決定の説示するとおりである。すなわち,埼玉県警察本部刑事部鑑識課員斎藤義見ほか2名作成の昭和38年5月13日付け捜査報告書には,「ニンヒドリン,アセトン溶液による指紋の検査を行ったところ,表面上部中央に書かれた『少時様』様の文字が,液体法と還元法(過酸化水素水による還元)等により消滅した。」との記載部分があり,指紋検出後の封筒の状況もその記載を裏付けているから,齋藤第1鑑定書はその前提とする事実認識に誤りがあるといわざるを得ない。また,昭和38年9月27日付け写真撮影報告書添付の試薬処理以前の封筒の状態を撮影した写真(同年5月2日撮影)により「少時様」の3文字を肉眼で観察したところでは,「少時」と「様」の文字が別異の筆記用具で書かれているとは認め難い。「少時」の文字は,「様」の文字と同様,ボールペンで書かれ,アセトン溶液に浸した際に,「少時」の文字は,インクが溶解,遊離して流れ去ったことにより,ほとんど完全に消滅してしまったのに対し,「様」の文字は,溶解,遊離したインクが流れ去るにまでは至らず,元の部分ににじんで残留したものとみるのが自然である。
 したがって,齋藤第1鑑定書は,「少時様」の筆記道具に関する申立人の自白の信用性を左右するものとは認められない。
 なお,異議審で,齋藤保作成の平成12年3月28日付け鑑定書(齋藤第2鑑定書),小畠邦規作成の平成12年12月17日付け「意見書」(小畠意見書),齋藤保・柳田律夫共同作成の平成13年4月20日付け鑑定書(齋藤第3・柳田鑑定書)が新証拠として提出されている。もとよりこれらを再審事由として主張するのは不適法である(当審で提出された齋藤保作成の平成15年9月22日付け鑑定書(齋藤第5鑑定書),齋藤第5鑑定補遺等もまた同様である。)が,所論にかんがみ,その証拠価値について付言する。
 齋藤第2鑑定書は,「@ 『少』及び『時』の溶解反応と『様』のそれとの対比,『少時』と『様』のインクの流失態様の相違,『時』の訂正線の色調とその周辺に存在する2条線痕からして,封筒の『少時』の文字がペン等によって書かれたことは明らかである。A 『少』及び『時』は,抹消した文字の上に書かれた「改ざん文字」である。抹消された文字の筆記用具はペン等であり,抹消用具はペン等のインク消しである。B 封筒表側に認められる小さな日付け様の文字は『20日』と読めるが,その筆記用具はペン等である。C 本件封筒の表面には,粗目の安い軍手により印象されたものと認められる布目痕4か所,滑り止め手袋によって印象されたものと認められるツブツブ痕1か所がある。D 脅迫状の表側には,粗目の安い軍手により印象されたものと認められる布目痕5か所が認められる。E 封筒の表側と裏側の『中田江さく』の文字は,犯行の前ににじみが存在していたのであるから,既にペン等で書かれていたと推認できる。すなわち,封筒の表側と裏側の『中田江さく』の文字がにじんだ状態にあり,外側から水がしみ込んで濡れたものと認められる。他方,事件当日発見された脅迫状と封筒は翌日に指紋検査が行われ,関係者の指紋が検出されているが,水に濡れた紙からは指紋の検出は不可能であるから,脅迫状と封筒は濡れていなかったことが認められる。その結果としていえることは,封筒の表側と裏側の『中田江さく』の文字は,犯行前に既に書いてあったということである。」というものである。
 また,小畠意見書は,「『少時』はブルーブラックインクで記載され,その筆記用具は万年筆である可能性が高い。『様』はボールペンで記載されている。『少時』『様』は現存する封筒ではいずれも判読不能であるが,いずれも指紋鑑定の際の薬品処理によるものである。ただし,『少時』は封筒に残留していたと推定されるインク消し等によるものであり,『様』はアセトンによるボールペンインクの流出によるものである。事件当時の封筒では,『中田江さく』については既に文字がにじみ,かすれが観察されるが,これは,『中田江さく』が書かれた後に,封筒に外的要因(汗による文字のにじみ・衣類等との摩擦によるかすれ)が加わったことが原因と考えられる。これに対し,『少時』は鮮明であることから,脅迫状が届けられる直前に書かれたものか,書かれた後の保存状態が良かったことを示唆する。」というものである。
 しかしながら,前記のとおり,「少時様」の文字が指紋検査に用いられたニンヒドリンのアセトン溶液により溶解したことから,この3文字はボールペンで記載されたものと認められる。布目痕等の存在を指摘する点も,指紋検出前後の封筒及び脅迫状の写真を見てもそのような痕跡と認められるか判然としない。仮に,布目痕等が存在するとしても,申立人は,「少時様」を記載した経緯等を含め犯行の計画性にかかわる事情について供述を避けているふしがうかがわれることでもあり,その成因は様々な可能性が考えられるところである。「中田江さく」の記載時期について推測する点も,被害者を殺害した後に封筒に「中田江さく」と記載し,その後,水(当夜の降雨)が部分的に当該文字に染みてにじみが生じたとも考えられるのであるから,齋藤第2鑑定書及び小畠意見書の推論には飛躍があるといわざるを得ない。甲(被害者の父)は,自宅で脅迫状を発見した当時の状況につき「封筒は少々濡れていてインキが散っていた。」と証言し,指紋検査前に撮影した脅迫状及び封筒の写真にもにじみの存在が認められるところであり,「犯行日の脅迫状と封筒は濡れていなかった」とする齋藤第2鑑定書は,その前提とする事実認識において失当である。封筒に「20日」の記載があるとの点は,その記載が存在していたとしても,指紋検査後の封筒では,上記文字がほとんど消滅していることからして,「少時様」と同様にボールペンで記載されたとみるのが自然である。齋藤第2鑑定書は,「少時」の字画部分と訂正線のほかに,「時」の周辺に筆圧痕,ペン等による2条線痕が存在するというのであるが,封筒の実物を観察してもそのような痕跡と直ちに認められるものであるか,必ずしも判然としない。なお,当審で参考資料として提出された「齋藤第5鑑定補遺」では,関根・吉田鑑定書中に封筒表面の「抹消文字」,「潜在文字」についての記載があることを指摘し,上記筆圧痕の存在を裏付けるものとして有利に援用している。しかし,関根・吉田鑑定が行われた時点では,「少時様」の文字は指紋検査により既に溶解しており,封筒の外観検査からは当該文字の判読が困難な状態となっていたのであって,同鑑定書はこの溶解した文字部分を指して「抹消文字」,「潜在文字」と表現したものと解する余地もあり,「抹消文字」等の記載が「少時様」とは別の「インク消しにより抹消された別の文字」を直ちに意味することにはならないというべきである。
 また,異議審で提出された齋藤第3・柳田鑑定書は,「独自のソフトに基づくコンピュータ技術を応用し,本件封筒等の文字・文字痕についての多方向からの写真撮影結果の重合や周辺ノイズ処理等によって,肉眼によってはもちろん従前の写真撮影の結果からは判読し得なかった筆圧痕や2条線痕を発見した。具体的には,@ 封筒『少』の部分には,算用数字の『2』が認められ,封筒『時』の部分には,左側に『女』,右側に『死』が認められ,ペン等によって書かれているものと認められる。A 脅迫状の欄外のかき消し線の背後には,『女』,『林』,『供』,『八』,『二』が認められ,その筆記用具はペン等と認められる。B 封筒及び脅迫状の『女』は草書体で書かれ,脅迫状の『林』は,行書体で書かれているものと認められる。」というものである。
 しかしながら,脅迫状の欄外のかき消し線について,文字判別の基準,根拠等は鑑定書に抽象的に記載されているとはいえ,その具体的な作業過程が検証可能な形で明らかにされているわけではなく,鑑定内容から直ちにその指摘するような文字が存在するとは認め難い。また,封筒の「少時」の周辺に存在するという文字も,該当箇所に筆圧痕らしきものが存在すると仮定しても,指摘する痕跡の形状等からは,それが文字として書かれたものか,かき消した線の組合せからたまたま文字を形成するように見えるものか,必ずしも明らかではない。なお,仮に,脅迫状の欄外のかき消し線中に所論のいうような文字が隠れていたとしても,申立人がどこかの時点で上記の文字を書き得なかったとはいえないから,この点の齋藤第3・柳田鑑定書の指摘は申立人の自白全体の信用性を左右するものではない。
 以上のとおり,齋藤第1鑑定書のほか,異議審で参考資料として提出された齋藤第2鑑定書,小畠意見書,齋藤第3・柳田鑑定書はいずれも確定判決の認定を揺るがすものとは認められない(当審で参考資料として提出された齋藤第5鑑定書も,「時」の背後の「2条線痕」はペン等を用い,右利きの者が書いたという趣旨のものであるが,これも,前記「齋藤第5鑑定補遺」と共に確定判決の認定を揺るがすようなものでないと認められる。)。
 なお,弁護人は,本件当時の申立人は万年筆と無縁であったから,ペン等の筆圧痕を残し得るはずはないとして,上記齋藤鑑定の指摘は,申立人と脅迫状との結び付きを否定する意味を有する旨を主張する。
 しかしながら,上記主張の前提となる申立人がペン等と無縁であったとの点は,次の証拠によればかなり疑わしいものといわざるを得ない。すなわち,前記Aの昭和38年6月8日付け検察官に対する供述調書(写し)の中には,申立人が昭和37年から同38年にかけてA経営の養豚場に住み込みで働いていた当時の状況について,「αが家へ来てから字を書く所は見ておりませんし,αの書いたものも見たことはないが,家へ来たとき,青インクの小瓶を箱に入ったまま持っていたし,万年筆も持っていて,1回αとジョンソン基地へ残飯上げに行ったとき,入門証を書くとき,αから万年筆を借りて書いたことはあったが,αがボールペンを持っているかどうかは知りません。」との供述部分がある。
 ところで,捜査段階で行われた関根・吉田鑑定では,封筒及び脅迫状の筆記用具をボールペンとしており,捜査官は,同鑑定の見解を前提として申立人が当時ボールペンを所持していたか否かという点に関心をもって関係者の取調べを行ったことがうかがわれる。Aの上記供述部分は,そのような取調べの流れの中で得られたものであり,万年筆やインク瓶に関する上記供述が誘導等によりされたとは考え難い上,上記供述調書の内容全体が体験した者でなければ述べ得ない具体性を備えていることなどからすると,その信用性は極めて高いというべきである。他方,申立人も,上記供述調書作成の翌日の昭和38年6月9日,検察官の取調べを受け,「私は,Aさん方に居た際,万年筆で蓋のない物を入曽で拾って持った事がありますが,1回も使いませんでした。インクと万年筆を揃えて持っていたことはありません。」(同日付け検察官に対する供述調書)と供述している。犯行を全面的に否認していたこの時期に,申立人が万年筆の所持の事実自体は認め,部分的とはいえAの前記供述調書に沿う供述をしていたことは,同供述調書の真実性を裏付けるものといえる。
 以上の証拠関係からすると,申立人は,本件前の近接した時期に自分自身の万年筆及びインク瓶を所持していた公算はかなり高いものと認められる。もしそうだとすると,申立人が万年筆と無縁であったことを前提として申立人と脅迫状との結び付きを否定する弁護人の上記主張は,その前提において採ることができないこととなる。したがって,仮に,齋藤鑑定が指摘するように「少時様」の「少時」がペン等で記載されており,また,その周辺に2条線痕を含む筆圧痕が存在するとしても,そのような事情は,いずれにしても,犯人性についての確定判決の認定を左右する決め手となるものとは認められない。

 4 雑誌「りぼん」について
 所論は,新証拠であるD,E,F,G,Hの昭和38年7月1日付け司法警察員に対する各供述調書によれば,申立人が脅迫状作成に際して参照したとする雑誌「りぼん」は,本件当時,申立人方には存在していなかったというものである。
 しかし,上記各証拠はいずれも第1次再審請求において同一の論点について再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,所論は刑訴法447条2項に照らし不適法であり,これと同旨の原判断は正当である。

 5 脅迫状の用紙について
 所論は,新証拠である関根政一作成の昭和38年6月21日付け大学ノート綴目に関する捜査報告書(関根報告書)によれば,申立人方から押収された大学ノ一トの綴り目数が,脅迫状の用紙である大学ノート片の綴り目数と異なることが裏付けられ,申立人の自白が信用し難いことが明らかになったから,脅迫状の作成者を申立人とする確定判決の認定には合理的な疑いがあるというものである。
 しかしながら,関根報告書は,脅迫状に用いられたノート片の綴り目の数と申立人方の1回目及び2回目の捜索で押収されたノート7冊のうちの1冊の用紙のそれとが相違しているという事実を明らかにしているにすぎない。他の6冊のノートの綴り目の数がどうであったかは記録上必ずしも明らかではないが,仮に,その6冊のノートの中に綴り目の数が脅迫状のそれと符合するものがなかったとしても,本件犯行から上記捜索までに3週間以上が経過しその間に廃棄・焼却することも可能であったことなどからすると,この点は,申立人が自宅にあったノートから外した紙片を使って脅迫状を作成した旨の自白の信用性を左右するものではなく,確定判決の認定に疑いを生じさせるものとは認められない。

 6 殺害の態様について
 所論は,新証拠である上田政雄作成の昭和50年12月13日付け鑑定書(補足説明書を含む。上田第2鑑定書),木村康作成の昭和51年12月27日付け意見書(木村意見書),青木利彦作成の昭和51年12月13日付け意見書(青木意見書),上山滋太郎作成の昭和58年3月15日付け鑑定書(上山第1鑑定書),上山滋太郎作成の平成5年5月10日付け鑑定書(上山第2鑑定書),弁護人中山武敏,同横田雄一作成の昭和58年8月3日付け調査報告書,弁護人中山武敏,同横田雄一作成の平成5年2月18日付け実験報告書,新聞記事(写し)12点,法医学文献等の抜粋(写し)20点によれば,被害者の殺害方法は,軟性索条物による絞頸と認められるから,扼殺したとする申立人の自白は,殺害態様について自らが経験していない虚構の事実を述べたものであって,自白の信用性は全体として否定されるというものである。
 しかしながら,上記各証拠のうち,上田第2鑑定書,木村意見書及び青木意見書は,第1次再審請求で上記と同一論点について再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,これを再び再審事由として主張することは刑訴法447条2項により不適法である。また,その余の証拠について,殺害方法を扼殺とした五十嵐鑑定の証拠価値を左右するものではないとした原判断も正当として是認できる。
 すなわち,五十嵐鑑定書のほか,検察官提出の前記「再審請求に対する意見書」添付の石山c夫作成の平成元年2月23日付け鑑定書(石山鑑定書)等によれば(なお,再審請求段階で検察官が提出した反論のための証拠を再審事由の判断資料として考慮し得ることは,最高裁平成7年(し)第49号同10年10月27日第三小法廷決定・刑集52巻7号363頁参照),上山第1鑑定書,上山第2鑑定書が指摘する被害者の前頸部に存在する蒼白帯Xは,死後現象として,被害者の遺体が長時間,深さ数十?の湿った土中にうつ伏せの姿勢で埋められ,不規則な凹凸のある底土と埋め戻された土との間で不均等に圧迫されたことなどにより,死斑の出現を不定形の帯状に妨げた結果蒼白帯が形成されたものであって,生前の索条による絞頸痕ではないと認められる。上山第2鑑定書は,被害者の死体の頭部が前屈していた状況は全く存しないというが,根拠を欠く前提であり,うつ伏せ状態で埋められていた死体の発見状況等に照らすと,死体の頸部が前屈していたとする石山鑑定書の見解に不自然な点はない。
 なお,石山鑑定書は,「被害者の死体の着衣状態で扼頸作用が加わったとした場合に最も考えられるのは,ブレザーとブラウスの襟を一緒につかんで頸部を強く圧迫するとか,ブレザーの襟をつかんで圧迫した際にその下のブラウスの襟部分を巻き込んでしまうことであるが,それによって,主としてブラウスの襟の一部が後頸部と上背面の部分を水平に圧迫することになり,しかも外頸静脈が前頸部において圧迫されるので,後頸部における著明なチアノーゼの発生を無理なく説明できる。また,前頸部のC1の創傷の発生機序についても,C1の位置が胸骨の上方約9?のところにあることから見て,ブレザーの襟をつかんで扼頸作用を加えたりすれば,ちょうどこの部位に襟の縁が位置することとなり,被害者が頸部を左右に振ることによって,この部分に擦過性の表皮剥脱が発生することとなるから,C1は扼圧性のものである。頸部に存する着衣を介して外力作用が加えられたのであれば,軟らかい布状物が作用したのと同じような痕跡しか残らないわけで,扼痕や爪痕がなくとも不自然ではない。」とする。その見解は,剖検所見等とも合致しており十分に首肯し得るものである。そうすると,被害者の死因は頸部扼圧に加え,着衣の一部による頸部絞圧作用も加わった可能性もあることとなるが,それは扼圧を否定するものではないから,申立人の自白と矛盾するものではないし,申立人がその点を述べなかったからといって,自白の信用性を疑わせるものではない。
 その余の新証拠も,本件を扼頸による窒息他殺と判定した五十嵐鑑定の信用性を左右するものではないと認められる。

 7 姦淫の態様について
 所論は,新証拠である上田第2鑑定書,木村意見書,謝国権作成の昭和54年5月25日付け意見書(謝意見書)によれば,被害者の死体には暴力的に姦淫されたことを示す証跡がなく,申立人の自白する態様で被害者を強姦することは不可能であることが裏付けられるから,上記自白は,内容虚偽であることが明らかになったというものである。 しかしながら,木村意見書,謝意見書については,第1次再審請求で上記と同一の論点につき再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,これらを再び再審事由として主張するのは,刑訴法447条2項により不適法である。
 なお,上田第2鑑定書は,第1次再審請求で前記6の「殺害の態様について」と同一の論点につき再審事由として主張されて判断を経たものである。これを上記「姦淫の態様について」の論点との関係で新証拠として見るとしても,関係証拠によれば,本件姦淫行為の際,被害者は,両手を手拭で後ろ手に縛られており,両脚を動かす程度しか抵抗できない状況にあったと認められ,申立人の自白する態様で被害者を姦淫することは十分に可能であったといえる。また,上記の状況からすれば,本件姦淫行為が被害者の反抗を抑圧して強いて行われたことも明らかである。したがって,上田第2鑑定書も,被害者を強姦した旨の申立人の自白が内容虚偽であるとする所論を裏付け,確定判決の認定を左右するものとは認められない。

 8 被害者の血液型と犯人の血液型について
 所論は,新証拠である上山第1鑑定書,上山第2鑑定書,血液型関係の文献抜粋(写し)9点によれば,「五十嵐鑑定は,『うら試験』によって『おもて試験』の判定結果を確認しなかった点,また,凝集素価の低い抗血清を用いた点で誤判定の可能性があるから,被害者の血液型を一義的にO型とは特定できない。また,五十嵐鑑定は,被害者の唾液腺を採取しその血液型の検査を行っていないため,被害者の血液型の分泌・非分泌の別が不明であり,精液の血液型が特定されないことになる。このように五十嵐鑑定の血液型の検査方法には,以上の不可欠の検査を履行していないという重大な欠陥がある。また,犯人の血液型を導くに当たって単数犯との前提に立っている点でも失当である。したがって,犯人の血液型をB型(分泌型)と断定することはできないから,本件血液型をもって,自白を離れた客観的証拠の一つとすることは誤りである。」というものである。
 たしかに,五十嵐鑑定において行われた被害者の血液型及びその膣内から採取した精液の血液型の検査方法は,上山第1鑑定書が指摘するようなものであったと認められる。しかしながら,前記検察官意見書添付の中嶋八良作成の平成元年2月28日付け鑑定書が指摘するとおり,「うら検査」を実施せず,力価8倍の標準血清を使用したとしても,そのためにあり得る誤判定,すなわち,被害者の血液型がO型ではなくBm 型等の亜型ないし変異型である可能性は極めて低く(日本人の場合,その確率は約0・03〜0・09%程度),したがって,被害者の膣内に存した精液がB型でないという可能性もまた極めて小さいと認められる。上山第1鑑定書,上山第2鑑定書は,現時点におけるあるべき血液型判定方法の基準に合致していないとの一事により,五十嵐鑑定の価値全体を否定し去るという趣旨のものであって,相当ではない。
 そうすると,被害者の膣内の精液の血液型をB型(分泌型)とまでは断定できないとしても,その蓋然性は高いと認められ,このことを情況証拠の一つと評価し,上山第1鑑定書,同第2鑑定書等によっても確定判決の認定は揺るがないとした原判断は正当として是認できる。

 9 血痕等の痕跡の存否について
 所論は,新証拠である上田第2鑑定書,上山第1鑑定書,上山第2鑑定書,弁護人中山武敏,同横田雄一作成の昭和58年8月3日付け調査報告書,司法警察員福島英次作成の昭和38年5月6日付け実況見分調書,司法警察員大谷木豊次郎作成の昭和38年7月5日付け実況見分調書,昭和60年2月22日衆議院法務委員会会議録第4号23ないし26頁(写し),新聞記事(写し)13点,静岡地裁昭和61年5月29日島田事件再審開始決定謄本98,99頁(写し),佐藤武雄ほか「急激死亡人屍流動性血液に関する研究」信州大学紀要第3号77ないし103頁(写し),警察技師松田勝作成の昭和38年7月5日付け検査結果回答書によれば,「急性窒息死の場合は頭皮内面の血液量が多量となるところ,被害者の死体の剖検所見では頭皮内面の残存血液量が極めて少なかったことがうかがわれ,その矛盾を説明するためには,上山第1鑑定書及び同第2鑑定書が指摘するとおり,後頭部裂創からの多量の血液の流出を想定するほかはない。申立人の自白どおりに死体処置,すなわち芋穴への逆さ吊りが行われたとすれば,その時点では既に死後の凝固能力残存時間が大幅に経過しており,後頭部裂創からの流動血が芋穴に滴下していたことになる。しかし,芋穴中にルミノール反応は認められなかったのであり,このことは,申立人の自白の信用性に合理的な疑いを生じさせるものである。」というのである。
 しかしながら,上記各証拠のうち,上田第2鑑定書は第1次再審請求で上記と同一の論点につき再審事由として主張されて判断を経たものであるから,これを再び再審事由として主張することは不適法である。ところで,石山鑑定書は,「後頭部の頭髪の糊着状況,後頭部裂創の状態等からは,頭毛の外表に流出滴下するほどの多量の出血があったとは考えられない。頭皮内等の残存血液量が少なかったのは剖検時の心臓摘出の際の放血によるものである。凝固した血液が頭毛にこびりついているような状態で死後の洩出血液がしみ出すことはあり得ず,また,一度凝結した血液が流動化した死体血液によって溶けることはあり得ない。」旨の見解を示している。石山鑑定書は,発掘時の死体の頭部の状況,五十嵐鑑定書添付の被害者の死体の写真等の資料を十分に踏まえ,死体の頭皮内面の残存血量の乏しさについても検討を加えた上で結論を導き出しており,上山第1鑑定書,上山第2鑑定書と対比して,その内容は十分に首肯し得るものである。
 そうすると,後頭部裂創からの出血は多量ではなく,しかも死体を芋穴に入れる際には,既に凝固していたので,流出又は滴下するような状態にはなかったと認められ,芋穴内に血痕反応が検出されなくとも何ら異とするに足りないというべきである。その余の新証拠も確定判決の認定を左右するものとは認められない。

 10 死亡時期ないし死体の埋没時期について
 所論は,新証拠である五十嵐鑑定書,Iの昭和38年5月4日付け司法警察員に対する供述調書(I員面),Iの昭和38年7月5日付け検察官に対する供述調書(I検面),Jの昭和38年7月2日付け検察官に対する供述調書(J検面),狭山市祇園2951番1所在の土地に関する不動産登記簿謄本,法医学・栄養学関係等の文献抜粋(写し)20点によれば,「@五十嵐鑑定書中の『角膜は微混濁を呈するも,径約0・7糎に開大せる歪形瞳孔を容易に透見せしむ』との記載は,角膜の軽度混濁の段階に該当し,上記文献類に示された見解からは,死後8ないし12時間が経過したことが推定される。また,同鑑定書中の『全身の皮色は一般に死後の蒼白を示すも,躯幹及び上下肢等には淡赤色虎斑状死斑が弱く発現しあり』との記載は,上記文献類に示された見解からは,死斑が淡赤色にとどまり,死斑最高の紫赤色を帯びていないことから,死後15時間以上を経過したとは認められないことになる。A上記文献類が示す多年の経験や統計の積み重ねにより,消化の進行が一様でないことを考慮に入れた上での最長時間をもとに被害者の胃の内容物を見ると,被害者は最後の食事から遅くとも2時間後に死亡したと考えられ,その時間を最短3時間とする五十嵐鑑定は誤判定である。BIは,5月2日朝に農協の総会に出席した後,畑に出て農道の死体を埋めた跡に気付いた旨証言するが,農協の総会が午前9時40分に終了することは常識上あり得ないことであり,信用できない。したがって,被害者が殺害され,農道に埋められたのは5月2日以降である。」というのである。
 しかし,五十嵐鑑定書は第1審で取調べ済みの証拠であり,殺害日時の認定に用いられた証拠であるから,刑訴法435条6号にいう新証拠とは言えない(もっとも,弁護人提出の五十嵐鑑定書(写し)の表紙には,「参考」と朱書されていることからすると,単に,資料として提出したとも解されるが,いずれにせよ新証拠ではない。)。I検面及び員面,J検面は,I及びJの公判廷における各証言内容と矛盾するものではなく,その信用性を減殺するものとはいえない。
 なお,所論は,死体の角膜の混濁の程度等を問題とするなど従前の主張と異にする点もあるので,付言する。
 五十嵐鑑定書には,所論指摘の記載のほか,死体現象の一つである死体硬直に関し「死体硬直は足関節に於てやや強く存在するも,その他の諸関節に於てはいづれも緩解しあり」との記載がある。所論が引用する文献によっても,死後硬直は,一般にわが国の春秋の季節の下では死後3時間位で顎関節から始まり,4肢の大関節,指,足指と進み,死後12時間から15時間で最高に達し,その後24時間から36時間で緩解に移行し,死後3ないし4日間経過すると消失するが,残留硬直といって足関節の硬直は2週間ないし3週間残ることがあるとされている。五十嵐鑑定が剖検時までの死後経過日数を「ほぼ2,3日位と一応推定」したのは,このような死体硬直から推測される死後経過時間とも符合するものである。また,控訴審における五十嵐証言によれば,死体現象の発現は,個体差がある上,気象条件や死体が置かれていた状況等によっても異なり,死後経過時間をある程度正確に判定できるのは,せいぜい死後6時間以内の場合であり,それ以後は教科書どおりに死後経過時間を推測することはできず,結局,総合所見により経験に基づいて幅を持たせた推測をすることしかできないというのである。
 以上によれば,五十嵐鑑定がその記述する死体現象等から剖検時までの被害者の死後経過時間を上記のとおり推定したことに誤りはない。被害者の胃内容物に5月1日の朝食時に食べた赤飯の小豆が残っていたことからしても,5月2日以降に被害者が殺害された可能性はないというべきである。そのほか,被害者が最後に摂取した食事から死亡までの経過時間,5月2日朝の死体埋没現場の埋め跡の存否についての原判断も正当として是認できる。

 11 犯行に使われた手拭について
 所論は,新証拠であるK作成の手拭配布先に関する便せんメモ4枚(東京高検昭和41年領第17号の56ないし59,Lメモ),M米店の得意先から回収され東京高検で保管中の手拭154本(東京高検同領号),N作成の昭和38年5月22日付け狭山警察署長あて上申書(N上申書),Oの昭和38年5月24日付け司法警察員に対する供述調書(O員面),弁護人横田雄一作成の昭和54年6月15日付け手拭154本及びLメモに関する調査報告書によれば,「本件の捜査において,OはM米店から昭和38年度手拭の配布を受けていないと述べ(O員面),Nは配布を受けた昭和38年度手拭は1本のみであると述べている(N上申書)から,確定判決が認定する配布経路により犯行に用いられた本件手拭を申立人が入手した可能性はあり得ないことになる。」というのである。
 しかし,N上申書,O員面については,滝沢直人検事が控訴審で手拭関係の捜査について証言した中で両名の上記供述内容をそのまま引用しているから,新規性のある証拠とは必ずしもいい難い。そして,第1次再審請求においても,同一の論点についてN上申書,O員面を除く上記新証拠が援用されたが,N及びOの上記供述内容にもかかわらず,申立人方では,N,O方のいずれかから,昭和38年度手拭を入手してこれを警察に提出し得る立場にあったとの判断が示されているところであるから,上記所論は実質的に同一の証拠に基づくものといわざるを得ず,少なくとも,N上申書及びO員面を除く上記新証拠を再び再審事由として主張することは,刑訴法447条2項に照らし不適法である。
 なお,付言すると,上告審において弁護人が提出した昭和52年4月26日付け上告趣意書の添付資料であるKの昭和38年6月17日付け検察官に対する供述調書,O員面によれば,O方がM米店の得意先であり,昭和37年暮にも正月用の餅一斗を購入していること,Lメモ等によれば,メモに昭和38年度手拭1本の配布先としてOの氏名が記載され,配布済みを示す「V」印が付されていること,同添付資料であるPの昭和38年6月19日付け検察官調書(P検面)によれば,同人は年賀2日目である昭和38年1月6日ころ,O方を訪ねて,年賀の手拭1本をO本人に手渡したと明言していることなどからして,O方に年賀の手拭を配り落としたということは考え難い。また,Lメモ中では,昭和38年度手拭を2本あて配布すべき得意先の一つとしてNの氏名の上にペン書きで「2」と記載され,Oの場合と同様,その氏名には配布済みを示す「V」印が付されていること,そして,P検面によれば,Oに配ったのと同じ日に年賀の手拭2本を持ってN方を訪ね,奥さんに渡してきたと明確に供述していることなどからすると,PがN方に昭和38年度手拭を2本配ったということも是認できる。
 以上からすると,O員面,N上申書にもかかわらず,O方へ昭和38年度手拭1本,N方へ同年度手拭2本が配られたことが認められ,前者及び後者のうちの1本がいずれも未回収のままその所在が明らかではない疑いがある。そうすると,申立人方に配布された昭和38年度手拭1本に見合う手拭が警察に任意提出され回収されてはいるが,O方及びN方と隣人ないし近い親族として日頃から親しかった申立人方では,両家のいずれかから同年度の手拭1本を入手してこれを警察に提出し得る立場にあった旨を認めた確定判決に合理的な疑いがあるとはいえず,この点についての原判断は正当である。

 12 殺害現場付近で農作業中の者の存在について
 所論は,新証拠である司法巡査水村菊二ほか作成の昭和38年5月30日付け,同月31日付け,昭和38年6月2日付け,同月4日付け各捜査報告書,Qの司法警察員に対する昭和38年6月4日付け,同月6日付け,検察官に対する昭和38年6月27日付け,弁護人に対する昭和56年10月18日付け,昭和60年10月18日付け各供述調書(Q員面・検面・弁面),弁護人中山武敏,同横田雄一作成の昭和56年10月28日付け現場検証報告書,内田雄造ほか作成の昭和57年10月12日付け鑑定書(第1次識別鑑定書),安岡正人ほか作成の昭和57年10月9日付け鑑定書,弁護人横田雄一作成の昭和57年4月28日付け,同年5月29日付け,同月31日付け各調査報告書,弁護人中山武敏,同横田雄一作成の昭和57年9月30日付け悲鳴の到達範囲に関する実験報告書,内田雄造作成の昭和61年7月20日付け鑑定書(第2次識別鑑定書),昭和38年5月4日撮影の航空写真によれば,「申立人は,捜査段階で,杉の木の根元で姦淫行為に及ぼうとした際,被害者が『キャー』『助けてー』と大きな声を出した旨を供述している。しかし,前記各捜査報告書及びQの各供述調書等によると,確定判決が犯行時刻と認定した午後4時ないし4時半を含む時間帯である午後2時ないし4時半の間に,犯行現場である四本杉と2,30mの距離で,Qが桑畑に除草剤を噴霧器で散布していたにもかかわらず,同人は被害者の悲鳴を聞いていなかったことが認められる。また,5月1日当時は,桑の葉もあまり出ておらず,桑の株も低かったのであるから,犯人からも,Qからも,相互にその姿は見えたはずであるのに,Qも犯人の姿を見ておらず,申立人の自白にも農作業をしていた人物のことが供述されていない。このことは,申立人の前記自白が虚偽・架空であることを示すものである。」というのである。
 しかしながら,上記各証拠のうち,Q員面及び同検面の内容は,ちょうど犯行時とされる時刻に犯行場所とされているところの近くで農作業をしていて悲鳴らしいものを聞いたという趣旨のものであって,申立人の自白を裏付けこそすれ,その信用性を減殺するものとはいえない。その余の新証拠のうち,第2次識別鑑定書を除く証拠が,申立人の自白の信用性を左右するものでないことは,第1次再審請求の特別抗告棄却決定,原々決定及び原決定が説示するとおりである。第2次識別鑑定書は,要するに,事件当日と同様の天候条件で照度測定を行い,事件当日の午後4時から4時30分にかけてQと申立人及び被害者の位置関係から,両者が互いに相手を認知し得たはずであるという趣旨のものである。しかし,第2次識別鑑定書は,事件からその時点までに約20年が経過して大きく状況の変化した現場において,気象条件について推測を積み重ねた上にされたものである上,人の認知能力は出来事を予測しそれに注意を傾けているか否かにより大きく異なるものであることをも考慮すると,両者が互いに相手に気付かなかったとしても少しも不自然ではなく,同鑑定書もまた,確定判決の認定を左右するものとは認められない。

 13 死体の運搬方法について
 所論は,新証拠である渡辺謙,中塘二三生作成の昭和63年5月9日付けダミー運搬実験に基づく意見書(ビデオテープ添付),渡辺謙,中塘二三生作成の平成5年3月1日付けダミー運搬実験再意見書(ビデオテープ添付)によれば,自白にあるような態様での運搬方法は客観的に不可能であることが明らかであるから,自白の信用性は否定される,というのである。
 しかしながら,申立人の自白は,殺害現場から芋穴までどのような経過で死体を運搬したか詳細に供述したものではなく,要は,死体を引きずったことがないというだけであって,途中の休止の有無等についてまで触れたものではない。したがって,原決定が説示するとおり,上記自白の趣旨を,同一姿勢のまま,休まず死体を運搬したものと決め付け,上記運搬実験の結果から直ちに自白内容は虚偽であるというのは速断にすぎるといわなければならない。また,上記運搬実験は,本件当時の申立人の肉体的,心理的条件とは異なる状況下で行われており,その証拠価値も乏しいというべきである。したがって,上記各証拠は申立人の自白の信用性を左右するものとは認められない。

 14 死体の足首の状態について
 所論は,新証拠である弁護人中山武敏作成の昭和53年12月24日付け報告書(中山実験報告書),木村康,弁護人倉田哲治作成の昭和54年5月22日付け「芋穴逆さ吊り」実験についての報告書(木村・倉田実験報告書),木村康作成の平成元年12月7日付け「芋穴への逆さ吊り」実験報告書(木村実験報告書),井野博満作成の平成元年12月6日付け「逆さづり」における荷重の測定および損傷についての実験報告書,大西徳明作成の平成元年3月10日付け「芋穴への逆さ吊り」実験被検者の筋力検査報告書,昭和59年3月13日警察技師医師五十嵐勝爾面会録音テープ及びその反訳(五十嵐テープ反訳),昭和59年3月15日付け埼玉新聞記事(写し)によれば,「死体を芋穴に逆さに吊り下げて出し入れしたというのであれば,その足首には必ず痕跡が残るはずである。しかるに,本件死体の足首には圧痕がない。したがって,死体を吊り下げたという自白は虚偽である。」というのである。
 しかしながら,中山実験報告書,木村・倉田実験報告書は,第1次再審請求において,上記と同一の論点について再審事由として主張されて既に判断を経たものであり,これを再び再審事由として主張することは刑訴法447条2項に照らし不適法である。また,五十嵐テープ反訳及び前記埼玉新聞記事の内容は,五十嵐医師の控訴審における「死体の状況だけからでは逆さ吊りがあったと断定する根拠に乏しい」旨の証言と同旨のものであり,新規性のある証拠とは認め難い。その余の木村実験報告書等については,芋穴への出し入れ状況の詳細が申立人の自白からは必ずしも明らかでなく,再現実験の前提条件自体が不確定である以上,証拠価値は乏しい。また,被害者の足首に体重の負荷があった時間がごく短時間であった可能性もあることからすれば,所論がいうように「必ず痕跡が残るはずである」と断ずることはできないというべきである。
 以上によれば,上記各証拠は申立人の自白の信用性を左右するものとは認められない。

 15 死体埋没に用いられたスコップについて
 所論は,新証拠である生越忠作成の昭和50年8月25日付け鑑定書(生越鑑定書),生越忠作成の昭和52年4月18日付け鑑定補充書,Rの昭和38年6月20日付け検察官に対する供述調書によれば,本件スコップは,死体埋没に使用されたものでないことを示すものである,というのである。
 しかし,上記各証拠は既に第1次再審請求で上記と同一論点につき再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,所論は刑訴法447条2項に照らして不適法であり,これと同旨の原判断は正当である。

 16 死体埋没現場の玉石の存在について
 所論は,新証拠である生越鑑定書によれば,「埋没された死体の右側頭部付近にあった玉石は,現場の土壌の性質からして他所から持ち込まれない限り現場には存在し得ないものである。犯人ならば,必ず玉石があったことを記憶していて,これについて説明するはずであるが,申立人が玉石について全く供述していないのは,申立人が犯人でないからである。」というものである。
 しかし,生越鑑定書は第1次再審請求で同一の論点について再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,所論は刑訴法447条2項に照らして不適法であり,これと同旨の原判断は正当である。

 17 車両との出会いについて
 所論は,新証拠であるSの昭和38年6月25日付け司法警察員に対する供述調書(S員面),Tの昭和38年6月25日付け司法警察員に対する供述調書(T員面),Uの昭和38年6月25日付け司法警察員に対する供述調書(U員面),Vの昭和38年6月24日付け司法警察員に対する供述調書(V員面),弁護人中山武敏作成のS移動図,昭和38年5月6日付け毎日新聞夕刊記事,司法巡査ないし司法警察員作成の昭和38年6月24日付け(4通),6月25日付け(2通),6月26日付け(5通),6月27日付け(3通)各捜査報告書によれば,「捜査当局は,脅迫状が甲方へ届けられた直後から,当日(5月1日)の甲方付近における人や車の動きについて聞き込み捜査を実施し,脅迫状が甲方へ届けられた時刻の前後ころに,Wの自動三輸車が鎌倉街道を通行し,また,Sの自動車が甲方付近路上に駐車していた事実を早い時期に把握していたものである。その後,申立人が脅迫状を甲方へ届ける途中に鎌倉街道で追い越していった自動三輸車があったことや甲方付近路上に停まっていた自動車のことを供述したのは,捜査官が,既に聞き込み捜査で把握していた上記事実に合致するように申立人に暗示を与え,誘導した結果である。したがって,いわゆる秘密の暴露があったとして,自白の信用性を肯定した確定判決の認定には合理的な疑いがある。」というものである。
 しかしながら,上記の14通の捜査報告書は,本件発生当日の夜,鎌倉街道を通行した自動三輪車の有無について捜査した結果を記載した書面であるところ,その作成年月日は,脅迫状を届けに行く途中に鎌倉街道で自動三輪車に追い越された旨を申立人が自白した昭和38年6月21日の3日ないし6日後となっているだけでなく,前記14通の捜査報告書のうち10通の捜査報告書には,申立人の自白に基づいて裏付けを取るため捜査を行った趣旨の記載がある。そして,これらの捜査報告書を総合すると,申立人の自白に基づき14名の警察官が狭山市内を中心に60名を超える自動三輪車等の車両所有者から聞き込みを行った過程において,Wが当夜自動三輪車を運転して鎌倉街道を通行したことが初めて判明したものと認められる。
 また,申立人は,昭和38年6月21日の取調べで,脅迫状を届けに行く途中,甲方付近の路上に駐車中の小型貨物自動車を見た旨自白しているところ,S,T,Uの各員面の作成日付けは同月25日,V員面の作成日付けは同月24日であり,4通の員面はいずれも申立人の上記自白後に作成されたことが明らかであって,捜査官は申立人が自白するまで上記の事実を知らなかったと認められる。
 したがって,上記各証拠は,いずれも確定判決の認定の正しさを裏付けこそすれ,その認定を揺るがすものではないと認められる。

 18 被害者宅の所在探しについて
 所論は,新証拠であるXの昭和38年6月5日付け司法警察員に対する供述調書(X員面)によれば,甲方に脅迫状が届けられたころにX方を訪れた人物は申立人であったとする第1審でのX証言は,X員面に照らし,証拠価値が高いとはいえないから,上記証言を申立人の自白を補強する証拠の一つとして評価する確定判決は誤りであるというのである。
 しかしながら,X員面は,「昭和38年5月1日午後7時30分ころから40分ころまでの間に,降雨の中,傘もささずに自分方を訪れて,甲方の所在を尋ねた男がいた。その後,甲方の乙が殺害されたことを知り,その男が本件と何か関係のある人物ではないかと思ったものの,警察に届けて係わりを持つと多勢で押し掛けられたりして怖いと思い,直ぐに届け出なかったが,結局思い直して届け出た。その男は年齢23,4歳,背丈5尺1,2寸,面長,長髪であり,1,2分の短い時間ではあったが,電灯(40ワット)をつけ正対して話したので,今でも顔は覚えている。会えば分かると思う。」という趣旨のものであって,同人の証言を裏付けこそすれ,同証言の信用性を左右するものとは認められない。

 19 本件万年筆発見の経緯について
 所論は,新証拠である内田雄造作成の昭和54年5月10日付け報告書(内田報告書),内田雄造作成の昭和58年6月4日付け万年筆認知に関する鑑定書(内田鑑定書),弁護人中山武敏作成の昭和58年6月22日付け調査報告書,昭和38年6月27日付け朝日,産経各新聞記事,弁護人細川律夫ほか作成の昭和61年11月3日付け申立人方の捜索に従事した警察官に対する捜索状況調査報告書(録音テープ原本8巻とその反訳共。細川ほか報告書),弁護人中山武敏ほか作成の昭和61年11月3日付け申立人方写真撮影報告書,Y,Z,a,bの昭和61年11月3日付け弁護人に対する各供述調書,弁護人青木孝作成の昭和61年11月9日付け家族(c)に対する申立人方捜索状況調査報告書,dの平成3年7月13日付け,同年12月7日付け,平成4年5月16日付け弁護人に対する供述調書3通(d弁面),弁護人青木孝作成の平成4年7月4日付け元狭山警察署巡査dに対する捜索状況調査報告書,弁護人青木孝作成の平成4年7月4日付け写真撮影報告書によれば,「申立人方鴨居上で発見押収された本件万年筆がそれに先立つ2回の捜索時にも鴨居上に存在していたのであれば,捜査官の視野に入らないということはあり得ないことである。また,上記2回の捜索では本件鴨居のある勝手場について極めて徹底した捜索が行われ,鴨居上は間違いなく捜索されている。にもかかわらず,本件万年筆が2回の捜索で発見されなかったことは,2回の捜索時には本件万年筆は申立人方に置かれていなかったことを示すものである。」というものである。
 上記各証拠のうち,内田報告書は,第1次再審請求で上記と同一の論点につき再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,これを再び再審事由として主張することは刑訴法447条2項に照らし不適法である。
 内田鑑定書は,万年筆,本件鴨居,勝手場,認知主体について,その各諸条件に配慮して再現実験を行ったというものであるが,この実験は,要するに,申立人方勝手場の鴨居上という特定された場所に万年筆が存在することを被検者があらかじめ知った上で視覚上の認識が可能であるかどうかを実験したにすぎない。1回目の捜索では万年筆は押収の対象物ではなく,2回目の捜索は万年筆が押収の対象物とされていたとはいえ,その存在する場所は特定していなかったのであるから,実験が上記2回の各捜索とその目的,規模,方法,実施の重点等の具体的条件において同一条件であったとはいえない。本件鴨居上の奥は,視点の位置や明るさによっては見えにくく,意識的にその場所を捜すのであれば格別,さっと見ただけでは万年筆の存在が分かるような場所とは必ずしもいえず,見落すこともあり得ると認められるから,上記実験結果は,所論を裏付けるような証拠価値があるとはいえない。
 Y(長兄)の弁護人に対する供述は,先立つ2回の捜索で勝手場が捜索されており,2回目の捜索では本件鴨居の近くにあるねずみ穴まで捜索の対象とされていたという趣旨のものであるが,同人は控訴審でも同様の証言をしているから,実質的に新規な証拠とは言い難い。申立人の身内である母,姉妹,弟らの弁護人に対する供述も,事件から約23年を経た時点のものであることなどからすると,その信用性は乏しいというべきである。
 細川ほか報告書は,申立人方の捜索状況について,昭和61年当時,申立人方の捜索に従事した元警察官等から事情を聴取した結果をまとめたものであるが,「各捜索当時の具体的な状況についてよく覚えていないが,不十分な捜索であった。」などというものにすぎず,総じて,各人の供述内容は薄れた記憶に基づくあいまいなものであり,いずれも,所論を裏付ける証拠としての証明力に乏しい。
 d弁面は,申立人方の第1回目の捜索において勝手場の捜索を担当し,その際,勝手場にあった「うま」を利用して本件鴨居の上を捜したが何も発見できなかったという趣旨のものである。しかし,細川ほか報告書によれば,昭和61年10月2日に行われた弁護人による面接調査の際には,dは,「昭和54年に退職してまもなく,脳血栓を患って以来,長患いしており,昭和38年5月の申立人宅捜索の模様については,古いことで忘れてしまった。」などと述べていたのであるから,それから4年余りが経過し,事件からは28年後にされたd弁面が確かな記憶に基づくものとは思われず,その信用性に多大の疑問があるといわざるを得ない。したがって,その余の新証拠も含め上記各証拠は,いずれも本件万年筆が捜査官の作為によって申立人方の鴨居の上に置かれたとする所論を裏付けるものとは認められない。

 20 本件万年筆と被害者の万年筆との同一性について
 所論は,新証拠である科学警察研究所警察庁技官荏原秀介作成の昭和38年8月16日付け,同月30日付け各鑑定書,同技官柏谷一弥作成の昭和38年9月9日付け鑑定書,被害者の当用日記,受験生合格手帳,ぺん習字浄書,学級日誌,eの司法警察員に対する昭和38年10月3日付け供述調書,fの検察官に対する昭和38年5月29日付け供述調書及び司法警察員に対する昭和38年7月27日付け供述調書(f検面,f員面),弁護人横田雄一作成の昭和61年7月19日付け調査報告書(横田報告書),gの司法警察員に対する昭和38年5月7日付け供述調書(g員面)によれば,被害者が常用していたインクはライトブルーであり,事件当日その使用していた万年筆にブルーブラックのインクを入れ替えた形跡がないのに,発見された本件万年筆にブルーブラックのインクが残留していたのは,本件万年筆が被害者の万年筆でないことを示すものであるというのである。
 上記新証拠のうち,f検面及び員面,g員面,横田報告書を除く証拠は,第1次再審請求において上記と同一の論点につき再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,これを再び再審事由として主張することは刑訴法447条2項に照らし不適法である。また,その余の新証拠であるf検面及び員面,g員面,横田報告書も,本件万年筆が被害者の万年筆であるとした確定判決の認定を左右するものとはいえない。
 被害者の兄丙等の証言,甲方に保管されていた万年筆の保証書によれば,本件万年筆が当時被害者が携帯して使用していた万年筆であると認められることは,原決定及び原々決定が説示するとおりである。所論指摘のように,被害者がライトブルーのインクを常用しており,本件当日午前のペン習字の授業でも同種のインクを用いていること,本件万年筆に入っていたインクはブルーブラックであって,被害者の常用していたインクと異なることが認められるとしても,上記ペン習字の授業後に被害者又は万年筆やインクと無縁ではない申立人によって本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がある以上,本件万年筆が被害者の万年筆ではない疑いがあるとはいえない。
 21 学用かばんについて
 所論は,新証拠である関源三の昭和38年7月7日付け検察官に対する供述調書(関検面),hの昭和38年7月3日付け検察官に対する供述調書(h検面),多田敏行作成の「狭山事件とポリグラフ検査」と題する論文(多田論文),弁護人中山武敏作成の鞄発見現場関係見取図,狭山市入間川字中窪1606番1所在の山林に関する公図及び不動産登記簿謄本,昭和36年11月5日撮影の現場付近航空写真,昭和22年2月8日撮影の現場付近航空写真によれば,「昭和38年5月25日に教科書等が発見された後,かばん等が埋められていた溝も捜索の対象とされたことがうかがわれ,その埋没場所自体は,特段の秘密性があったわけではない。上記溝は雨が降ると水が流れることから,現場の地形等をよく知っている申立人が犯人であれば,この溝をわざわざ投棄場所に選ぶはずもない。本件当時,本格的な降雨が約2時間半も継続しており,当然流水も予想されたのに,同年5月29日に行われたポリグラフ検査では,『鞄の始末(処分)してあるのは水の中か君は知っていますか』との質問に対する反応は陰性(−)である。このようにポリグラフに特異反応が認められないのは,申立人が犯人でないことを示している。昭和22年2月8日撮影の航空写真は,溝の南側が往時は畑であったことを示しているが,申立人の昭和38年6月21日付け司法警察員に対する供述調書(午後5時頃との記載のあるもの。)の添付図面で申立人が指示したかばん埋没場所は,同図面に明記されている溝ではなく,溝の南側にこれと平行して走る線(山と畑の間の低い所)上の点に該当する。したがって,申立人は,6月21日の時点でかばんが溝に埋められていることを知らず,かばんは自白に基づいて発見されたとはいえない。」というものである。
 しかしながら,まず,関検面,h検面は,それぞれ公判廷における関源三,hの各証言と同趣旨のものであって,証言の信用性を左右するものではなく,むしろかばん等が申立人の自白に基づいて発見されたことを裏付けるものである。また,現場の溝については,ふだん水がなく,雨が降っても流れは早くないから,溝底に埋められたかばんが流されるとは限らず,当該溝を投棄場所としたとする申立人の自白が不合理な内容とはいえない。また,現場の溝にふだん水がないことからすれば,ポリグラフの前記質問に反応がなかったとしても,別に異とするに足りない上,そもそもポリグラフ検査によって得られる結果には限界があるから,反応のないことが直ちに申立人の自白の信用性に影響を及ぼすものでもない。さらに,かばんの投棄地点に関する申立人の自白は,およその位置を示すものであり,かばんの発見された地点と自白で指示した地点とに食い違いがあっても,自白が虚偽であるとはいえない。関源三の証言等によれば,同人は,申立人の作成した図面を渡され,投棄場所は図面上の「みぞ」であるとの説明を受けて捜索に赴き,最初から溝中を捜索したことが認められるところであり,図面上の表示に所論のいうようなあいまいさが残るとしても,申立人は,当初から投棄場所を溝と特定していたことが明らかである。かばんの埋没場所は,荷掛紐発見地点から西方約56m,教科書発見場所から東方約136mの位置にあり,両地点からかなり離れている上,原決定の説示するとおり,5月から6月という時節柄,本件かばんは草木の繁茂する雑木林の端付近の溝の中で泥に覆われていたのであるから,これらの地域が以前の捜索の対象とされていたとしても必ず発見できていたはずであるともいえない。
 以上によれば,その余の新証拠も含め上記各証拠は,申立人の自白により本件かばんが発見されたとの確定判決の認定を左右するものではないと認められる。

 22 腕時計について
 所論は,新証拠である司法警察員遠藤三ほか作成の昭和38年5月8日付け捜査報告書(遠藤ほか報告書),iの昭和38年7月2日付け司法警察員に対する供述調書(i員面),多田論文,昭和38年5月28日付け日本経済新聞朝刊記事によれば,「昭和38年5月8日の時点で被害者の兄ら買受関係者がシチズン製コニー型の腕時計を被害品と同一品として特定し,これに基づいて特別重要品触書が作成配付されている事実は,被害品の型はコニーであって,ペット(発見された本件腕時計)ではないことを示すものである。また,捜索時に本件腕時計がiが発見した地点に存在していたとすれば,捜査員が見落としたはずはない。捜査員らが捜索した際に発見されなかったとすれば,その際には本件腕時計は存在しなかったと考えるのが自然である。したがって,本件腕時計は被害者の所持品ではなく,申立人の自白によって発見されたものでもない。」というのである。
 しかしながら,コニーとペットの形状は類似しており,被害者に時計を買い与えた兄の丙が警察官らと共に販売元に赴いてその種別を特定するに際してペットをコニーと誤ったにすぎず,そのため,捜査官は,被害者が所持していた腕時計をコニー6型腕時計と特定し,しかも業者から見本として借り受けた腕時計の側番号を被害者の腕時計のそれと誤って重要品触れしたものと認められる。重要品触れに写真入りで掲載された商品名コニーのシチズン製金色側女持ち腕時計そのものが販売業者から借り受けた見本品として現に存在していることは上記の事実を正に裏付けるものである。また,発見された腕時計には,バンドの複数の穴のうち,手首の細い姉が使用するときのバンド穴と手首の太い被害者が使用するときのバンド穴の2か所が連続して,ふだん止め金を通さない他の穴よりうがたれてやや大きくなっているという,被害者の時計バンド固有の特徴が認められるところ,姉丁は,この発見された腕時計を試着してみたところ,バンドの大きくなっている穴二つのうちの,内側の穴(手首の細い方の穴)に止め金を通したとき,自分の腕に丁度具合よく合致した旨を証言している。以上によれば,本件腕時計は,被害者の持ち物であることは明らかである。
 したがって,前記丙が被害者のために購入した腕時計の種別を特定するに至った経緯を記載した遠藤ほか報告書は,発見された本件腕時計と被害者の時計の同一性の認定を左右するものとは認められない。
 また,i員面は,第1審で検察官が「腕時計発見状況」を立証趣旨として証拠請求し,弁護人が不同意意見を述べたため,証拠請求が撤回されたものであり,そもそも新規な証拠とはいい難い。しかもその内容は,第1審で取り調べられたiの昭和38年7月3日付け検察官に対する供述調書と同趣旨のものであって,その供述内容からしても直ちに本件腕時計が容易に発見できる場所に存在していたとは言い難い。
 多田論文は,ポリグラフ検査では,腕時計を捨ててしまったかとか隠してしまったかという設問には反応がなく,自白内容と合致しないというものであるが,ポリグラフ検査の設問に明瞭な反応がみられなかったことが直ちに申立人の自白の信用性を減殺するものとはいえない。その余の新証拠も,申立人の自白の信用性を左右するものとは認められない。

 23 指紋について
 所論は,新証拠である奥田豊作成の平成10年10月5日付け意見書,齋藤保作成の平成11年4月13日付け鑑定書(齋藤第1鑑定書)のほか,異議審で提出された齋藤保作成の平成13年5月26日付け鑑定書(齋藤第4鑑定書)によれば,「申立人が脅迫状と封筒及び同封した身分証明書について,自白どおりの取り扱い方をしたのであれば,これらには当然に申立人の指紋が付着しているはずである。現に,申立人が本件と同様に封筒のあて名及び脅迫状を作成した実験では,指痕は脅迫状・封筒の表裏を合わせ計221個(うち指紋合致数は計18個)に達している。これを指紋採取報告書に記載の合致指紋2個を除く指痕数5個と対比するとき,犯人が脅迫状など作成にあたって指紋を遺留せぬよう手段を尽くしたことは明らかである。申立人の自白からは,脅迫状作成時に指紋付着を防ぐ処置を講じたことはうかがわれないところ,申立人の指紋が検出されなかったのは,申立人がこれらの物に手指で触れたことがないからである。したがって,脅迫状を作成したとする申立人の自白は虚構である。」というのである。
 しかしながら,齋藤第4鑑定書は異議審で提出されたものであり,これを再審事由として主張することは,もとより不適法である。原決定が指摘するように,指紋の付着は,犯人の体質,印象物体の材質,気候等の複雑な条件に左右され,犯人が手を触れたであろうところに指紋が印象されていないことも珍しくないことは裁判所に顕著な事実である。また,脅迫状の作成前後に脅迫状等が具体的にどのように取り扱われたのか,鑑定書の実験の前提となる諸条件自体が不確定といわざるを得ない。さらに,申立人の自白には出ていないからといって,申立人が指紋付着を防ぐ処置を講じていなかったとも決めつけるわけにはいかない。そうすると,上記各証拠は,異議審で提出された齋藤第4鑑定書を含め,申立人の自白の信用性を左右するものとは認められない。

 24 佐野屋付近での体験事実について
 所論は,新証拠である増田直衛作成の昭和58年10月12日付け夜間の恐喝未遂犯行現場における人物通行車等の視覚的認知に関する鑑定書(増田鑑定書),藤井弘義,小林總男作成の昭和58年10月12日付け恐喝未遂犯行現場近傍における足音自動車音等の伝搬と認識に関する鑑定書,弁護人中山武敏,同横田雄一作成の昭和58年7月15日付け地下足袋装着魚の目についての調査報告書(中山ほか魚の目報告書),丁の昭和38年5月3日付け司法警察員に対する供述調書(丁員面),jの昭和38年6月11日付け司法警察員に対する供述調書(j員面),kの昭和38年6月5日付け司法警察員に対する供述調書(k員面),lの昭和38年6月4日付け司法警察員に対する供述調書(l員面),司法巡査小川実作成の昭和38年5月3日付け恐喝未遂被疑事件捜査に関する嘱託犬の使用状況についての捜査報告書,司法巡査鹿野茂作成の昭和38年5月3日付け嘱託犬の使用状況についての捜査報告書によれば,「佐野屋付近へ身代金を受取りに赴いた状況に関する申立人の自白は,犯人がたどったのとは異なる往復経路を述べていること,身代金の持参を待っていたとする間に佐野屋前の県道を通行した人や車がありながらこれに気付かなかったと述べていること,身代金持参者の役をした被害者の姉の丁と現場で問答するに当たり相互の位置関係や明るさの点から実際には同女の姿は見えたはずがないのにその姿を現認したと述べていることなど,客観的事実に反する不自然な内容であって信用できず,虚偽供述である。」というのである。
 しかしながら,まず,丁員面,j員面,l員面,k員面は,各人の公判廷における証言内容と同趣旨のものであって,その信用性を減殺するものとはいえない。
 佐野屋前の車両や人の通行に気付かなかったという点については,その時点で申立人がどの辺りにいたのか,申立人の昭和38年6月24日付け司法警察員に対する供述調書及び同月25日付け検察官に対する供述調書などによっても位置関係は判然とせず,増田鑑定書等の実験の前提条件自体が不確定というべきである。仮に,通行人の存在に気付き得るような場所にいたとしても,格別異常な動作があったわけではない通行車両や通行人に気付かず,あるいは,これを記憶にとどめていないことも十分あり得るというべきである。次に,犯人と丁の問答の際の視認状況についても,当時の天空の状況,現場の明るさ,両者の位置関係等が明らかではなく,増田鑑定書等の実験がこれら前提条件の多くを推定に頼っていることを考慮すると,同実験が当時の状況を忠実に再現し得たものといえるか甚だ疑問といわざるを得ない。また,原々決定が説示するような当時の混乱した張り込み態勢に徴すると,申立人の自白した経路をたどれば,必ず張り込みの警察官に発見されたはずであるともいえない。中山ほか魚の目報告書についての所論は,申立人の足裏に魚の目があり,地下足袋を履いて身代金を受け取りに行くことは不可能であったというものであるが,報告書作成時点の申立人の足裏の状態が約20年前の事件当時のそれをそのまま推認させるものとはいえない上,当時,足裏に魚の目があったからといって,地下足袋を履いて身代金を受取りに赴き,張り込みの警察官に捕まることなく逃げ帰ることが必ずしも困難であるとはいえない。したがって,その余の新証拠を含め上記各証拠は,申立人の自白の信用性を疑わせるものとは認められない。
 25 佐野屋付近の畑地内の地下足袋の足跡痕について
 所論は,新証拠である井野博満作成の昭和50年12月13日付け鑑定書(井野第1鑑定書),警察技師関根政一作成の昭和38年5月4日付け「恐喝未遂被疑事件捜査について」と題する捜査報告書(関根足跡報告書),渡辺毅作成の昭和54年4月20日付け意見書(渡辺意見書),吉村功作成の昭和54年6月15日付け意見書(吉村意見書),弁護人深田和之作成の昭和54年5月23日付け「破損痕に関する実験結果(一次)」と題する書面(深田実験報告書),井野博満作成の昭和55年9月20日付け鑑定書(井野第2鑑定書),弁護人安養寺龍彦作成の昭和55年9月20日付け報告書(安養寺報告書),井野博満,湯浅欽史作成の昭和58年9月26日付け鑑定書(井野・湯浅鑑定書),弁護人中山武敏,同安養寺龍彦作成の昭和58年9月30日付け足跡に関する重ねあわせ検査報告書(中山・安養寺報告書)によれば,佐野屋付近の畑に残された足跡が申立人方で押収された地下足袋で印象されたとすることには合理的な疑いがあるというのである。
 しかしながら,井野第1鑑定書,関根足跡報告書,渡辺意見書,吉村意見書,深田実験報告書は,第1次再審請求で上記と同一の論点につき再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,これらを再び再審事由として主張することは,刑訴法447条2項に照らし不適法である。
 また,井野第2鑑定書,安養寺報告書,井野・湯浅鑑定書についても,第1次再審請求における異議棄却決定,特別抗告棄却決定で説示されているとおりであり,これに中山・安養寺報告書を併せてみても,確定判決の認定を左右するものとは認められない。
 なお,異議審において,山口泰,鈴木宏正共同作成の平成12年9月20日付け「3次元スキャナを用いた足跡石膏型の計測に基づく鑑定書」及び「補足意見書」(山口・鈴木鑑定書)が提出されている。これを再審事由たる新証拠として主張することはもとより不適法というべきであるが,所論にかんがみ,その証拠価値について付言する。山口・鈴木鑑定書は,「3次元走査機(スキャナ)を用いた立体形状の精緻な観察により,3号足跡を3次元分析した結果,3号足跡の滑り止め横線模様は全体として不明瞭で,瘤状の隆起が多数あること,関根・岸田鑑定書が『あ号破損痕』と命名した部分の踵寄りには対照足跡には見られない張り出し形状があること,3号足跡の縫い目の外周の溝等も不鮮明であることなどから,3号足跡は本件地下足袋によって印象されたとの結論を導き出せる証拠価値はない。」という趣旨のものである。しかしながら,3号足跡の写真のみならず,同足跡の石膏の実物を見ても,印象状態が粗いにもかかわらず,竹の葉型模様後部の3本の横線を明瞭に見て取ることができるから,山口・鈴木鑑定書の指摘は当たらない上,同足跡の「あ号破損痕」と本件地下足袋の「あ号破損」の類似性も十分に肯定できるところであって,同鑑定書は,関根・岸田鑑定書の信用性を左右するものとは認められない。

 26 供述調書添付図面の筆圧痕について
 所論は,新証拠である荻野晃也作成の昭和50年12月20日付け鑑定書(荻野鑑定書),弁護人大野町子ほか作成の昭和53年5月23日付け報告書(大野ほか報告書)によれば,「申立人の自白調書添付の図面の中には,捜査官があらかじめ用紙に印象しておいた筆圧痕を申立人に筆記具でなぞらせる方法で作成されたものがある。荻野鑑定書等は,控訴審で行われた宮内,上野各鑑定の対象外となった図面について鉛筆線より先に付けられた筆圧痕があるかどうかを解明し,捜査官の強制ないし誘導により自白がされたとの疑いを生じさせるものである。」というのである。
 しかしながら,上記各証拠のうち荻野鑑定書は,筆圧痕と鉛筆線の先後関係を判定するについての一つの方法論を提示するにすぎない上,同鑑定書及び大野ほか報告書は,第1次再審請求で上記と同一の論点につき再審事由として主張されて既に判断を経たものであるから,所論は刑訴法447条2項に照らして不適法であり,これと同旨の原判断は正当である。

 27 自白の心理学的分析について
 所論は,新証拠である浜田寿美男作成の昭和61年10月20日付け「自白供述の心理学的分析」と題する意見書,山下恒男作成の昭和63年12月5日付け「自白の『不自然さ』についての心理学的検討」と題する意見書(α自白再現実験ビデオテープを含む。)によれば,申立人の自白には合理的な疑いがあるというものである。
 しかしながら,この点の原々決定及び原決定の説示は正当として是認できるところであり,上記各意見書は,申立人の自白の信用性に影響を及ぼすものとは認められない。

 28 結論
 以上のとおり,所論引用の新証拠のほか,再審請求以降において新たに得られた証拠を含む他の全証拠を総合的に評価しても,申立人が強盗強姦,強盗殺人,死体遺棄,恐喝未遂の各犯行に及んだことに合理的な疑いが生じていないことは明らかである。したがって,所論引用の新証拠について,刑訴法435条6号にいう証拠の明白性を欠くか,あるいは,第1次再審請求において同一の論点につき再審事由として主張されて既に判断を経たことにより刑訴法447条2項に照らし不適法であるとして,本件再審請求を棄却すべきものとした原判断は,正当として是認できる。

 よって,刑訴法434条,426条1項により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 島田仁郎 裁判官 横尾和子 裁判官 甲斐中辰夫 裁判官 泉 コ治 裁判官 才口千晴)

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