《読売新聞、02.2/20朝刊、13面「論点」より》
「証拠開示」ルール化が急務
指宿 信(いぷすき・まこと)
鹿児島大学教授(法学博士、刑事訴訟法専攻)
先月二十三日、東京高裁は、いわゆる「狭山事件」について、被告人であった石川一雄氏からの再審請求を棄却した。ここでは、再審請求審理の中で求められていた「証拠の開示」問題を、現在進行中の司法改革において取り組まれるべき課題として考えてみたい。
弁護団が強く求めていたのは、検察庁の手元にある、積み上げると二メートルにも及ぶといわれる未開示の証拠群へのアクセスであった。ところが、この要求は受け入れられることなく今般の棄却決定となっている。
わが国では死刑囚による再審請求事件四件を合めて、数多くの再審事件で、元の裁判では被告側が触れることのできなかった証拠が重要な役割を果たしてきている。枚挙にいとまがないが、たとえば松山事件では、任意に検察側が開示した書状の通し番号の欠落から偶然にも重要証人の虚偽証言が明らかになった。梅田事件では、検察側から出された被害者の頭蓋写真が決定的な反証材料となった。再審事件のみならず、冤罪を訴えて無罪となった数多くの著名事件でも無罪方向の手がかりが得られたのは同様である。松川事件で被告人らのアリバイを証明する第三者のメモ帳が検察側によって秘匿されていた、いわゆる「諏訪メモ」はあまりに強烈な事例であろう。
開示の経緯は、偶然や、検察側に理解があった場合、国民的な注目を集めた結果として開示されたものなど様々である。いま目を向けるべき点は、そうした証拠を被告・請求人側が知ることができなければどうなっていたか、ということである。わが国の刑事裁判では、証拠の収集と立証の責任を検察側に負わせ、被告側にも独自の訴訟活動を期待する「当事者主義」と呼ばれる構造を採用しており、相対する側に手持ちの資料や情報を開示することは、それと矛盾するという考え方がこれまで一般的であった。最高裁は一九六九年に、検察が法廷で利用しない証拠についても裁判所が個別に開示命令を出せることを承認したが、これも手続きの段階に制限を加えた非常に限定的なものにとどまった。
他方、諸外国では九〇年代に証拠開示問題について劇的な変化を見せていることは注目に値しよう。たとえば、カナダ最高裁は誤判事件を契機に公判に入る前の段階で検察側に全面的な証拠開示義務があるとしたし、イギリスでもいくつもの誤判事件を教訓に、利用するしないにかかわらず検察側は手持ち証拠の一覧を弁護側に示すルールが定められた。近年、映画を通じて知られるようになった米国の「カーター事件」は再審無罪を勝ち取った事件だが、このケースは被告人に有利な証拠がルールどおりに開示されていなかりたことが重要なポイントてあった。これも、米国では通常審の開示ルールが整備されていたこと、そうした手続き違反を再審理由に認めていたからこそ実現したものである。
わが国では通常審、再審請求審いずれにおいても、検察側には手持ち証拠の一覧すら開示義務がなく、被告・請求人は証拠の存在を知り得ない危険がある。これではたとえ裁判所に開示命令権があっても意味がない。とりわけ再審請求審では、未開示証拠へのアクセスは真実発見にとって替え難い。たとえ司法改革で通常審の証拠開示手続きが整備されたとしても、この問題は未解決のままになる。
誤判の続いたイギリスでは、九六年に再審請求審査のため独立した機関を設置し、強力な証拠開示命令権を認めて証拠収集に支障がないよう配慮した。
わが国でも、通常審、再審請求手続き共に開示に関するルール整備が喫緊の課題であることはもちろん、現在進行中のすべての再審請求審において全面的な証拠のすみやかな開示が、真実の発見と正義実現のため不可欠だろう。