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1950年、北海道北見市、営林局会計課員殺人事件。1986年8月27日、再審無罪確定。
1950年10月10日、北見営林局会計課員Oさん(当時20歳)が、公金19万円を所持したまま行方不明となり、北見市警(当時)は「公金拐帯事件」として捜査を始めました。しかしOさんの行方はようとして知れず、同じような営林局会計職員「失そう」事件がまたおこります。Oさん「失そう」から2年後の1952年、この同種「失そう」事件が、実は殺人事件であったことが発覚(留辺蘂営林局会計係員Kさん殺害事件)、この事件の容疑者として逮捕されていたS(53)が、Oさん殺しも同時に自供します。さらにH(28歳)が両事件の主犯として逮捕されます。
S・H両名の自供にもとづいて捜査した結果、Oさんの遺体が発見され、北見営林局会計課員Oさん「失そう」事件は、実は強盗殺人事件であることが分かったのです。事件の主犯Hは警察の取り調べの中で、「Oさん殺しの実行犯」として軍隊時代に顔見知りだった梅田義光さん(28)の名を口にします。1952年7月、北見市警は梅田さんをOさん殺しの実行犯として逮捕しました。その後梅田さんは、ほとんど拷問に等しい取り調べにより犯行を自供。Hの証言もあったことから1954年7月7日、北見地裁で無期懲役判決が出ます。梅田さんは無実を訴えて札幌高裁・最高裁への上訴しますが、1958年、最高裁で刑が確定しました。
梅田さんは獄中から第1次再審請求を出しますが棄却。1971年網走刑務所から仮出獄を果たした後、1979年に第2次の再審請求。1982年12月10日、釧路地裁で再審開始が決定されます。1985年2月4日、札幌高裁は検察側の即時抗告を棄却し、再審開始が確定。そして1986年8月27日、釧路地裁で無罪判決が言い渡され、この判決が確定して無実となりました。
身に覚えのない殺人事件の犯人として逮捕されてから、実に34年の年月がたっていました。※このウインドウはブラウザの「閉じる」ボタンで閉じてください。
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松山事件
1955年、宮城県志田郡松山町、農家一家4人惨殺事件。1984年7月11日、再審無罪確定。
1955年10月18日午前3時30分ごろ、宮城県志田郡松山町で農家が全焼し、焼け跡から一家4人の惨殺体が発見されました。
12月2日、東京・板橋区在住の斎藤幸夫さん(当時24歳)が別件の傷害容疑で逮捕されます。ついで12月8日、本件の強盗殺人および放火容疑で再逮捕され、12月30日に殺人罪で起訴されました。
斎藤さんは、留置場内で前科5犯の男から「警察ではやってなくても認めて裁判で本当のことを言えばいい」とだまされ、拷問に耐えかねてウソの自白をしましたが、この男は警察のスパイだったことが後で分かります。1957年10月29日、仙台地裁古川支部は死刑の判決。1960年11月1日、最高裁が上告を棄却し、死刑が確定しました。
斎藤さんは獄中から無実を訴え続け、1979年12月6日、仙台地裁が再審を開始。1984年7月11日、ようやく無罪判決が出ました。
免田事件、財田川事件とならぶ、死刑台からの生還を果たした重要な意味を持つ再審事件でした。※このウインドウはブラウザの「閉じる」ボタンで閉じてください。
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