《最終改定日―03.3/23 ※参考文献・史料を追加》
東京の被差別部落の歴史と現状・全文 1.はじめに―「東京には被差別部落も部落差別もない?」
多くの人が、部落差別というのは西日本の問題で、東京には被差別部落はないし部落差別もないと漠然と考えています。でもそれは事実ではありません。東京都内には歴史的に確認される被差別部落がいくつもあります。もちろん部落民も生活しています。また、大変残念なことですが部落差別もあるのです。
例えば1999年6月に東京都がおこなった「人権に関する世論調査」(都民2000人対象)によれば、以下のような結果が出ています。Q1 部落差別を知っているかどうか
a.知っている 87.2%
b.知らない 12.8%
Q2 親しくしている近所の人が部落出身者だと分かったときの対応
a.変わらない 76.5%
b.できるだけさけるようにする 4.9%
c.つきあいはやめる等 0.5%
(※年代別では、70歳以上の高齢者と、20代30代の若者にb.c傾向が強い)
Q3 子どもの結婚相手が部落出身者であると分かったときの対応
a.子どもの意志を尊重する 53.9%
b.反対する。ただし子どもの意志が強ければしかたない 19.0%
c.結婚は認めない 3.9% (※内「絶対に認めない」は、1.9%)
Q4 結婚相手が部落出身者で親から反対されたときの対応
(Q4は未婚者のみの回答)a.自分の意志を貫く 68.2%
b.結婚しない 4.8% (※内「絶対に結婚しない」は、0.9%)
Q5 部落出身者の人権が尊重されていないと感じるときは
(Q5は1人が2つ以内の回答)1.部落出身であることを理由に地域社会で差別的な取り扱いを受ける 27.7%
2.結婚問題で周囲から反対を受ける 27.5%
3.就職・職場で不利な扱いを受ける 24.6%
4.特にない 8.7%
意識調査の数字自体は、全国平均とあまり変わらないものです。「東京は部落差別意識が希薄だ」という主張に根拠がないことが明らかとなりました。全国的には、結婚時など親密なつき合いが生じる機会に特に強い差別意識があらわれることが明らかになっていますが、これも同じでした。
部落差別事件も、残念ながら後を絶ちません。詳しくは「都内で起きた部落差別事件」のコーナーを参照ください。インターネットの掲示板に、執拗に東京都内の被差別部落の一覧が掲示されたり(実際には間違いが多い)、都内在住の個人の名前や住所を書きこんで「こいつは部落民だ」などと書いて殺人を教唆する事態も起こっています。
2.江戸の被差別民衆と弾左衛門
現在、被差別部落民(「部落民」)と呼ばれている私たちの先祖は、少なくとも中世にさかのぼるさまざまな被差別民衆だったと考えられています。
江戸時代、浅草に幕府の下にあって東日本全域の被差別民衆を支配した「弾左衛門」(だんざえもん)という人がいました。江戸の被差別民衆は、この弾左衛門の直接・間接の支配下にあって、被差別民衆の仕事とされるさまざまな仕事に従事し生活していました。この江戸の被差別民衆が、私たち東京の部落民の祖先です。2-1.弾左衛門とは?
弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代13代続いた全関東の被差別民衆の支配者です。幕府側の正式呼称は「穢多頭弾左衛門」、自らは「長吏(頭)弾左衛門」と称しました。世襲制で身分は長吏(穢多身分)に属し、江戸町奉行の支配をうけていました。
弾左衛門の支配下にあった被差別民は、長吏(ちょうり)、非人(ひにん)、猿飼(さるかい)、乞胸(ごうむね)などです。また歌舞伎を江戸中期まで興行面で支配しました。皮革・灯心・筬(おさ)等各種の専売権や全関東の被差別民衆への支配権を背景に、歴代弾左衛門は、旗本なみの屋敷に住み、上級旗本の格式で生活し、その財力は大名をしのいだと言われています。
弾左衛門とその配下にある長吏たちは、江戸市中の警備・警察、刑場と刑の執行管理をつとめていました。こうした役は中世以来長吏たちの仕事だったのです。また弾左衛門は、巨大な財力を背景に金融業を営み、市中に手広く貸し付けていました。町民たちはこの金を「穢多金」などど呼んで蔑視していましたが、しかし借りに来る町民は後を絶ちませんでした。
巨大な権力と財力にもかかわらず、弾左衛門の身分は賤民であり、武士はもちろん江戸の町人からも差別される対象でした。歌舞伎や古典落語、あるいは各種の記録には弾左衛門とその配下に対する江戸庶民の強い差別感情が記されています。一方、歴代の弾左衛門は、被差別民の専制的支配者であると同時に代表者としても行動しています。被差別民の利益確保のために幕府に対して様々な訴えをおこないました。特に最後の弾左衛門となった13代集保(ちかやす?)は、幕末・明治維新の動乱期に、自分と配下の被差別民の身分引き上げをもとめて強力な活動を展開しています。
弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。
― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、鎌倉以来の家の由緒を述べた。そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。実はこのとき、後北条氏のもとでそれまで関東の被差別民の筆頭の地位にあった小田原の太郎左衛門が「後北条氏発行の証文」を差し出して支配権の正当性を訴えたが、徳川氏はこれを許さなかった。そして太郎左衛門の「証文」を取り上げて弾左衛門に与えてしまった ―
この家伝のうち、徳川家康の江戸入府以降の話は事実、それ以前の話は、弾左衛門の被差別民支配権を正当化するための作為と考えられています。おそらくこうした作為は幕府にとっても都合がよかったので、積極的に「許容」されたということでしょう。
徳川氏の江戸入府以前の弾左衛門の地位ですが、江戸近辺に定住する中世以来の地域の被差別民の頭、後の長吏小頭(ちょうりこがしら)的存在であったと考えられます。また、まだその頃には「弾左衛門」と名乗っていなかった可能性も強いと言われています。
いずれにせよ弾左衛門の支配体制は、あるとき突然確立したものではりません。それは江戸幕府と強く結びつくことによって、近世中期(享保期)になってようやく確立したものでした。(詳しくはコラムを参照してください)1)【コラム】―弾左衛門は江戸時代13代つづいた?
実は現在では、系譜上初代弾左衛門とされる集房(「シュウボウ」。「ちかふさ」と読んだと推測されます)が後から創作された架空の存在であることが分かっています。なぜ架空の初代弾左衛門が創作されたのか?
弾左衛門研究者である松岡満雄(まつおかまんゆう)さんの研究によればつぎのような理由が考えられます。5代目の集久(「シュウキュウ」「ちかひさ」?)と6代目の集村(「シュウソン」「ちかむら」?)との間に、吉次郎(きちじろう)という人物がいた。集久の子で集村の父だが、彼が町奉行に「お目見え」する前に亡くなってしまった。歴代弾左衛門は相続にあたって、町奉行所におもむきそこで幕府から承認されて長吏頭となる儀式、「お目見え」を必ずおこなっていたのである。吉次郎はそれをする前になくなってしまった。したがって幕府からは正式な弾左衛門とは認められない。しかし、弾左衛門家やその支配下の長吏たちの間では、彼は既に「御頭」と認識されていた。こうして、吉次郎を歴代に数えるかどうかで幕府側と長吏側とで差が生じた。弾左衛門の代数が、幕府側の認識の方が長吏側の認識より一つ少なくなってしまうのである。この齟齬を調整するため、実際の初代弾左衛門である集開(「シュウカイ」法名、実名は集房「シュウボウ」「ちかふさ?」)の人格を二つにわけ、生没年不詳の初代集房を創作してわざわざ代数あわせをした。現に、長吏側の記録では初代は集開と記録されている。(参考文献―松岡満雄「浅草弾左衛門の系譜」『解放研究』10号所収)
さて、ということになると正確には12代、あるいは若くして亡くなった吉次郎を代数に数え、初代を集開(集房)としたうえで、13代とするのが正確ということになるかもしれません。優秀な若者を養子にし、弾左衛門をつがせた
それから、13代とは言うものの、実際に血縁の上で集開(集房)とつながりがあるのは10代集和(「シュウワ」「ちかまさ」?)までです。彼の代で元々の弾左衛門家の「血脈」は絶えます。しかし、幕府にとっても東日本の長吏たちにとっても、弾左衛門は欠くことのできない存在でした。
そこで弾左衛門家の手代(家老です)や有力な長吏小頭たちは、全国各地から弾左衛門家と関係のある若者を捜し出し、先代の養子として跡を継がせていったのです。こうして選ばれた若者たちは、必ずしも弾左衛門支配地域の出身ではありませんでした。また、弾左衛門家と遠縁の関係にあたる者がほとんどですが、それでも選定にあたって必ず「個人として優れた人物」という条件がつけられました。
弾左衛門は、東日本全域の被差別民衆の専制的支配者であるとともに、時には自分たちの利害を代表して幕府と駆け引きをする必要もあった被差別民衆の代表者でした。優れた政治力を発揮できる人物でなくては、とても務まりませんでした。2)【コラム】―弾左衛門は自らを「長吏・弾左衛門」と称した
「穢多」は明らかな蔑称・賤称だった
弾左衛門は、幕府からは「穢多頭・弾左衛門」と呼ばれていましたが、自分からは決してこの呼称を用いませんでした。江戸時代においても「穢多(えた)」という名称は、差別する側から一方的に押しつけられた蔑称・賤称だったからです。ですから歴代弾左衛門は自分のことを、「長吏・弾左衛門」あるいは「長吏頭・弾左衛門」と自称しました。
これは弾左衛門配下の被差別民たちにとっても同じ事でした。幕府や一般社会からは「穢多」と呼ばれた被差別民たちは、東日本では「長吏(ちょうり)」、西日本では「かわた」という中世以来の呼び方で自称していました。そして長吏・かわた身分の人たちは、この呼び名に対して誇りを持っていました。「長吏」「かわた」は中世以来の職分にかかわる呼称
「長吏」というのは元来漢語であって、「官吏の長」と言う意味です。古代末期から中世初期の日本では寺院や神社などで、寺務・社務の役職名として使われていました。長吏身分の人たちは、中世以来「清め」という役目を担っていて、これは当時の一般の信仰と深くかかわっていました。このあたりで寺院や神社で役職名として使われていたこの漢語と接点があったのかも知れません。いずれにせよ、近世の長吏たちは「自分たちは社会にとって必要な、そして大切な『役』を担う者として、『長吏』と呼ばれているのだ」と認識していました。「長吏」の呼称は誇り高いものだったのです。
西日本などで使われた「かわた」という呼び名は、中世の「かわた百姓」に源を有する言葉です。かわたたちが代々皮革の仕事に携わってきたことがこの呼び名につながったと考えられます。したがって東日本も西日本も、担っている「役」・職分にかかわって元来の呼称があったわけです。「穢多」と呼ばれることには何度も抗議した
ところが、中世末期から近世初期にかけて、一般社会の側は長吏・かわたを指して「穢多」と呼ぶようになります。そしてこれが徐々に浸透していき、江戸幕府も正式な身分呼称として「穢多」を用いるようになるのです。
長吏・かわた身分の人たちは、このような呼び名には納得できませんでした。ですから彼らは、自分たちを「穢多」と呼んで差別することに対して何度も抗議しています。東日本全域の被差別民の頭である弾左衛門も、長吏身分に属する身でした。だから歴代弾左衛門は、幕府に対しても誰に対しても、自らのことを誇りを持って「長吏・弾左衛門」あるいは「長吏頭・弾左衛門」と自称し続けたのです。3)【コラム】―歌舞伎と部落差別の関係、弾左衛門は歌舞伎を江戸中期まで支配
江戸における歌舞伎の興業は、近世初期には長吏頭・弾左衛門の支配下にありました。
近世芸能である歌舞伎が中世以来の存在である長吏(ちょうり)の支配下にあったのは、おそらく中世以来「清め」と「勧進(興行)」が一体と考えられてきたことによるものでしょう。「清め」は中世以来、長吏の本来的な「役」の一つでした。
また、江戸の歌舞伎は、浄瑠璃の影響を受けて演劇性が強かった上方歌舞伎とは違って、「荒事」「にらみ」などに代表されるように、当初からかなり様式化・抽象化された舞台芸術でした。その成り立ちには、ある種の「清め」の役割、要素があったことが考えられます。その意味からも、弾左衛門の支配下にある被差別民という立場が当時の常識では「必然的」とされたのかも知れません。政治力をバックに弾左衛門支配から独立
しかし江戸初期以降、歌舞伎は大衆芸能として大きな人気を誇り、大奥や大名にまでファン層を拡大します。歌舞伎関係者は、こうした自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざします。1708年(宝永5年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたすのです。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していました。またこの訴訟は、歌舞伎十八番の一つ『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』成立の契機となったという有力な説もあります。
しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われました。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けています。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことでした。4)【コラム】―筬(おさ)をはじめとする専売権
「筬」(おさ)は、機織りの「機」の中の重要な部品です。明治になって金属性の筬が使われるようになるまでは、竹で作られていました。江戸時代これが弾左衛門の専売制であったことはごく最近になって分かった事実です。(東日本部落解放研究所の研究成果)
弾左衛門や、その支配下の東日本の被差別民たちは、筬のほかに皮革、灯心、砥石などの専売権を持っていました。これらの物を商う者は、被差別民であろうと一般の商人であろうと、弾左衛門から許可を受け、また決まった金額の許可料を支払わなくてはなりませんでした。5)【コラム】―弾左衛門家の家伝「弾左衛門由緒書」
弾左衛門を知る上で最も重要な文書とされるのが、弾左衛門家の正式の家伝である「弾左衛門由緒書」です。歴代弾左衛門にとっては、東日本の全被差別民衆を支配する権利を証明する証拠書類であり、極めて重要な文書でした。
この家伝が最初に歴史上に姿を現すのは、1715年(正徳5年)に江戸町奉行に提出されたときです。以降江戸時代を通じて弾左衛門数度にわたって幕府にこの名前の文書を提出し、「弾左衛門が全ての被差別民衆を支配するのは、頼朝公以来清和源氏の家法である」と主張したのです。伝家の宝刀「弾左衛門由緒書」は歴史的偽文書
「弾左衛門由緒書」には、「弾左衛門家の先祖はもともと鎌倉にあって鎌倉幕府成立時から被差別民衆の支配を任された存在だった。鎌倉に住む前は、摂津国池田(大阪府池田市ではなく、現在の兵庫県川西市の近辺。清和源氏の発祥地とされる『多田の荘』のあたり)に居住していた。弾左衛門が被差別民支配を担うようになったのは、鎌倉幕府を起こした源頼朝によってその支配権を公認されたからだ。徳川氏が関東に入国したときも、先祖が『鎌倉以来の由緒』を述べ、家康からその支配権を承認された」と書かれており、その証拠として1725年(享保10年)には「頼朝公証文」も提出されました。
徳川氏が、「鎌倉以来の由緒」を認めて弾左衛門に東日本の被差別民衆支配権を与えたのは事実ですから、この文書は歴代弾左衛門にとってまさに「伝家の宝刀」でした。
しかし、重要な書庫文書である「頼朝公証文」は明らかな「歴史的偽文書」です。書式などから江戸中期以降に作られた全くの偽物であることがはっきりしています。きっとそんなことは享保期の幕府官僚たちにも分かっていたはずです。しかし、それを承知しながら幕府は弾左衛門の主張を根拠あるものとして認め、その支配権を公認し続けたのです。
このあたりの事情からも、幕府と弾左衛門との間に、相互利用の関係があったことが窺われます。弾左衛門以前の関東では、複数の有力の頭が支配
なお、弾左衛門の東日本全域の被差別民衆支配は、実際には江戸中期(享保)になってようやく完成したことが東日本部落解放研究所等の最近の研究で明らかになっています。徳川氏の江戸入府以前の弾左衛門(当時はまだ弾左衛門とは名乗っていなかったと推定される)の地位は、当時の江戸周辺の被差別民衆を支配するにすぎない微弱なものでした。
戦国時代以前の関東には、近世における弾左衛門のような絶対的かつ集権的な支配体制はまだありませんでした。100年にわたって関東の中心地域を支配した後北条氏のもとでは、数人の有力な長吏の頭がいて、それぞれ自分の支配領域を持って被差別民衆を支配していました。中でも後北条氏の本拠地小田原の長吏頭であった太郎左衛門は有力な存在で、実質的に後北条氏領国内の被差別民衆の筆頭の地位にあり、「同輩中の首席」のような立場で、その他の有力な頭たちを影響下においていました。
弾左衛門家は、後北条氏に代わった徳川氏と協力して、この小田原太郎左衛門ら旧来の有力な頭たちの支配を覆し、近世の弾左衛門支配体制を確立していったのです。5)【コラム】―弾左衛門以前の関東の被差別民衆支配、後北条氏と結んだ小田原太郎左衛門
徳川氏の入国以前の関東には、弾左衛門のように単独で専制的に被差別民衆を支配する存在はまだありませんでした。その代わり各地に有力な長吏の頭たちがいて、それぞれ広域の支配権を持って被差別民衆を支配していました。
中でも有力な頭だったのが、小田原の長吏頭・太郎左衛門でした。太郎左衛門は後北条氏本宗家と密接に結びついていました。「武器製造に必要な革を納めるために、広域にわたる被差別民衆支配を認める」という内容の、後北条氏本宗家発行の文書(「弾左衛門由緒書」と違って正真正銘の戦国文書です)も獲得しています。
後北条氏は、各地の有力な支城に一門を配し、小田原の本宗家がこれを束ねる形で広大な領国を支配するという、いわば「同族連合政権」でした。その点で、徳川氏のような集権的な支配体制ではありませんでした。この支配体制の違いが、被差別民衆に対する支配の体系にも影響を与えていたようです。
各地の有力な長吏の頭たちは、それぞれの地域を治める北条氏一門と結びついていました。太郎左衛門も、小田原地域の有力な頭として、この地を治める北条氏本宗家と結びついたのです。そして太郎左衛門は、北条氏本宗家の権力をバックに、丁度「同輩中の首席」のような立場で、各地の多くの有力な頭に強い影響力を行使しました。弾左衛門支配に抵抗した太郎左衛門
江戸時代になって、次第に弾左衛門支配体制が作られてくると、旧来の支配層であった太郎左衛門たちの立場は微妙なものになっていきます。幕府と弾左衛門からすれば、既に彼らは長吏小頭という弾左衛門の下にある立場になっていました。有力な頭たちの中では、北関東の複数の頭たちが弾左衛門と結び、弾左衛門支配に積極的に協力することを選びます。彼らは弾左衛門の下で特に格式の高い有力小頭として遇されます。
しかし、かつて関東一の威勢を誇った小田原太郎左衛門は、新興の弾左衛門の下風に立つことに我慢できませんでした。太郎左衛門は、幕府に対して「自分こそ全関東の被差別民衆支配者として由緒正しい存在である」と、前述の後北条氏本宗家発行の文書を提出して訴えます。
しかし、幕府はこの訴えを却下します。しかも、正真正銘の「戦国文書」である太郎左衛門の証拠書類を取り上げ、弾左衛門に与えてしまうのです。幕府の立場からすれば、後北条氏と密接につながってきた小田原太郎左衛門らは、ぜひとも排除しなければならない存在だったのでしょう。
しかし、それでも太郎左衛門らは抵抗を続けました。太郎左衛門の影響力の強い相模の国西部に対しては、江戸時代中期になるまで弾左衛門の支配は貫徹しませんでした。7)【コラム】―まるで小弾左衛門、長吏小頭
長吏小頭(ちょうりこがしら)とは、江戸時代、弾左衛門の下にあって関東各地で広域にわたって被差別民衆を支配した長吏の頭たちのことです。普通10〜数10の部落を支配しました。弾左衛門は、これらの小頭を通じて各地の長吏たち被差別民衆を支配しました。小頭たちは、その支配領域においては丁度小弾左衛門のような立場で部落の長である小組頭(こぐみがしら)を支配しました。各部落では小組頭が一般の長吏たちを支配したのですが、一方で各部落は、それぞれが属する本村(一般地区)の支配をも受けました。
小頭の前身は、中世末期に存在した各地の有力な長吏の頭
長吏小頭は、弾左衛門支配体制が確立する以前、後北条氏の支配時代に各地域に存在した有力な長吏の頭たちにその原型があるようです。その時代、弾左衛門のように単独で、しかも専制的に全被差別民衆を支配する存在は関東にはまだありませんでした。その代わり各地に有力な頭たちがいて、おのおの広域の支配権を持っていて、それぞれに被差別民衆を支配していました。
中でも有力な頭だったのが、小田原の長吏頭・太郎左衛門でした。太郎左衛門は後北条氏本宗家と密接に結びつき、その力を背景に「同輩中の首席」のような立場で、各地の多くの有力な頭に強い影響力を行使していました。
しかし、後北条氏が敗北し、新たに徳川氏が関東の支配者となってから、後北条氏と密接に結びついていた小田原太郎左衛門を中心とする被差別民衆支配体制が覆されることになります。江戸の小勢力だった弾左衛門が、太郎左衛門ら旧来の有力な頭たちの上に君臨する形で、歴史上はじめて全関東の被差別民衆を単独で集権的に支配する絶対的体制を確立するのです。
そして小田原太郎左衛門ら旧来の有力な頭たちは、弾左衛門の下で各地の被差別民衆を支配する長吏小頭へと立場を変えていくことになります。弾左衛門の支配下にあった、江戸の被差別民衆
2-2.長吏(ちょうり)
長吏は、弾左衛門自身が属した身分です。西日本などでは「かわた」と呼ばれます。幕府や差別する側が使った名称で言えばいずれも「穢多」ということになりますが、これは江戸時代においても明らかな蔑称でした。長吏や「かわた」たち自身は、基本的にこの呼び名を拒否していました。
江戸の長吏たちは、弾左衛門屋敷の周辺に集住し、直接弾左衛門の支配を受けました。
長吏たちの主な仕事は、斃牛馬の処理、その結果手に入る皮などの加工、太鼓や武具など様々な革製品の製造販売、町や村の警備や警察、祭礼などでの「清め」役、各種芸能など勧進ものの支配、山林や狩猟場、そして水番などの番仕事、草履作りとその販売、灯心・筬(おさ)(※コラム4)など各種の占販特権の管理・行使などです。これらの仕事はいずれも中世以来長吏たちの仕事とされ、江戸時代、他の人たちがこれをおこなうことは基本的にありませんでした。
また、これは長吏の独占的な仕事ではありませんが、かなり有力な仕事として実質的な獣医や医師、薬品の製造販売など医療にかかわる仕事がありました。なぜ長吏たちが獣医や医師を有力な生業としたかというと、明治以前、長吏たちの持つ人体や動物の体に関する知識が、一般の医師や獣医たちが持つものよりも正確で実証的なものだったからです。これは中世以来長吏が刑吏や斃牛馬の処理に携わってきたことと無関係ではありませんでした。
有名な『蘭学事始』の中に次のようなシーンが出てきます。前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らは『ターフェル・アナトミア』の人体解剖図が正しいかどうか確認するために小塚原刑場に刑死者の解剖「腑分け」を見に行くのですが、このとき執刀にあたったのが「穢多の虎松の祖父、90才の高齢だが健やかな老人」でした。彼は、良沢や玄白ら見学者たちに肺、心臓、肝臓、腎臓、胆嚢、胃などを正確に切り分けて名前を述べて示し、さらにその他の血管や筋など複数の器官についても「これらの名前は分からないが、どの人体内部も必ずこのようになっている」と語りました。そして、それらの様子が、いちいち『ターフェル・アナトミア』の解剖図と一致していたのです。
江戸の長吏であった「虎松の祖父」は、このとき既に系統だった人体解剖技術を持っており、しかも主要な臓器の名前、位置まで知悉していました。そしてこの実証的知識が、良沢や玄白ら一般の医師たちがまだ十分に知らなかった西洋医学の基礎知識と完全に一致していたのです。2-3.非人(ひにん)
非人は、関東では長吏頭・弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にありました(西日本では、必ずしも「かわた」の支配下ではありません)。
江戸の非人には、抱非人(かかえひにん)と野非人(のびにん)との別がありました。野非人は「無宿」(今日的に考えると路上生活者のような立場の人々。ただしあくまでも社会的な身分なので、イコールではない)で、飢饉などになると一挙にその数が増えました。一方抱非人は、非人小屋頭(ひにんこやがしら)と言われる親方に抱えられ、各地の非人小屋に定住していました。非人小屋は江戸の各地にありました。
非人小屋頭はそれぞれ有力な非人頭(ひにんがしら)の支配を受けており、江戸にはそれは4人(一時期5人になったこともある)いました。この4人の非人頭がそれぞれ弾左衛門の支配下にあったわけです。4人の非人頭の中でも特に有力なのが浅草非人頭・車善七(くるまぜんしち)でした。
非人の主な生業は「物乞い」でした。江戸時代、非人以外のものが勝手に「物乞い」をすることは許されていませんでした。また街角の清掃、「門付(かどづけ)」などの「清め」にかかわる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事しました。また江戸の非人たちは、街角の清掃に付随して紙くず拾いを始め、それ発展させて再生紙作りもおこないました。
江戸で最も有力な非人頭であった浅草非人頭・車善七は、1719年(享保4年)以降、弾左衛門・長吏の支配から独立しようと幕府に訴えを繰り返しました。しかし歌舞伎などと違って、弾左衛門を超える経済力・政治力を持っているわけではなかった非人たちは、結局最後まで弾左衛門の支配下に置かれつづけました。2-4.猿飼(さるかい)
猿飼は中世以来の被差別民であり、関東においては弾左衛門の支配を受けました。江戸の猿飼は、長太夫と門太夫という二人の頭が支配し、二人は配下の猿飼たちと一緒に弾左衛門屋敷の近くに住んでいました。
猿飼が被差別民とされ、しかも長吏の支配を受けるものとされたのは、中世以来、「清め」と「勧進」が一体の関係にあると考えられてきたからでしょう。また猿が厩の守り神であり、長吏が斃牛馬の処理にあたってきたこととも関係があるかもしれません。
武士の町でもある江戸においては、猿飼たちはどうしても必要な存在でした。将軍や大名を含む江戸の上級武士たちは例外なく馬を飼っており、江戸城や武家屋敷には厩があったからです。正月などには、江戸城でも大名や旗本の屋敷でもかならず厩の祭りをおこないましたが、その際猿飼たちの芸はどうしても必要でした。
猿飼たちは、旅興行にも出かけたましたが、そのときの「旅手形」は弾左衛門が発行しました。また、猿飼は旅籠に泊まることが許されず、かならずその土地の長吏や猿飼の家に泊まらなければなりませんでした。長吏と猿飼の関係は深かったのです。2-5.乞胸(ごうむね)
浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました。
乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が非人頭車善七の支配を受けるとされたことでした。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。
一応「身分は町人」とされていた乞胸でしたが、しかし前近代にあっては職業と社会的身分および居住は分離できないと考えられていました。したがって乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されました。
乞胸は江戸中期までは乞胸頭仁太夫の家の周辺等江戸の街の数カ所に住んでいました。しかし1843年(天保14年)天保の改革の時、幕府によって集住を命じられます。その理由は「身分は町民だなどと言っているが、非人と同じような業をしているのだから市中に置くのはよろしくない」(町奉行鳥居甲斐守〈耀蔵〉の水野忠邦への上申)という差別的なものでした。
1870年(明治3年)、「平民も苗字を名乗ってよい」という布告が出されましたが、このとき乞胸は布告から除外されました。つまり近代になって、はっきりと行政的に被差別民の規定を受けたわけです。
弾左衛門支配外の江戸の被差別民衆 3 願人(がんにん)
弾左衛門は、江戸と関東の被差別民の総支配者であり代表者でした。しかし、彼の支配下にない人は被差別民ではなかったのかといえば、決してそうではありません。江戸の町には、彼の直接・間接の支配を受けない被差別民がまだ住んでいました。例えば歌舞伎役者たちや「座頭」たちがそうであり、もう一つの代表がここで紹介する「願人」です。
願人は乞胸と同じ大道芸人たち
願人は、大道芸を生業とする下層の被差別民です。乞胸(ごうむね)とほとんど同じ生業をしていますし、生活圏もほぼ重なっています。しかしその成り立ちは少し違っていました。記録によれば願人たちは、京都の鞍馬寺の僧侶のたく鉢での行いが始まりとされる大道芸を行う芸人でした。1802年(享和2年)には、大きな鉄の鉢をたたいて「お釈迦、わい!」と大声で叫びながら往来する願人の存在が記されています。この頃はまだ「僧侶」的なものを感じさせる存在だったわけです。
しかし40年ほど時代が下った1842年(天保13年)になると、もっぱら踊りや謡などを街頭で見せて銭を稼ぐ存在として記録されるようになります。おりから天保の改革を行っていた幕府によって、厳しく取り締まられるようになっていました。願人には、鞍馬大蔵院末と鞍馬円光寺末の2系統があって寺社奉行の管轄とされていました。彼らへの取り締まりも寺社奉行が行いました。明治維新後は非人・乞胸や新たな窮民と合流して都市貧民層を形成
1871年(明治4年)8月28日、いわゆる「穢多・非人賤称廃止令」(太政官布告)が出た後、弾左衛門配下にあった長吏・非人・猿飼・乞胸の身分呼称は廃止されました。歌舞伎や座頭も身分呼称として同時に廃止されました。しかしどういうわけか「願人」だけはしばらくの間の残り、正式になくなったのは、1873年(明治6年)に東京府が特に「願人呼称廃止」を布告したときでした。
「賤称廃止」が布告され身分が引き上げられたと言っても、何一つ生活保障などなされませんでした。それどころかそれまでの稼業(物貰い)が禁止されましたから、彼らの生活は江戸時代以上に困窮を深めるようになります。江戸時代以来、非人・乞胸・願人などは、いずれもその生活圏や生業が重なっていました。彼らは、明治維新後近代化が進む中で発生した新たな窮民と合流しながら、近代都市東京の貧民層を形成していくのです。
4.皮革産業を中心とした部落産業とともに
明治維新後、最後の弾左衛門(13代集保、明治維新後に弾直樹と改名)は、浅草の自分の屋敷の近くに靴を作る工場を作りました。皮革や履き物の仕事が中世以来被差別部落の伝統的な仕事の一つとしてあり、靴の材料となる皮を集めるルートや基礎的な加工技術がすでにあったからです。
◆真の解放令ではなかった太政官布告 明治維新後、いわゆる「解放令」が太政官布告という形で出ます。しかし、この命令はただ単に「穢多・非人という賤称を廃止する」という内容のものにすぎず、弾左衛門ら被差別者たちが求めていた真の解放策ではありませんでした。
太政官布告が出されるのと前後して、それまで弾左衛門とその配下の被差別民衆が持っていた各種の専売権が取り上げられました。この結果、被差別民衆たちは生活の基盤を一挙に突き崩され、貧困にあえぐことになります。同じ頃、武士たちがその身分と特権を否定されましたが、彼らには多額の補償金が与えられました。明らかな差別待遇でした。
被差別部落=貧困という図式的な理解が、かなり長い間日本の歴史認識では常識とされてきました。しかし最近の研究では、この図式ができあがったのはむしろ近代になってからであること、具体的には、明治維新後何の保障もなく専売権を取り上げられた結果であることが分かってきました。◆近代日本皮革産業の創設者・弾直樹 最後の弾左衛門・弾直樹は、中世以来自分たちの生業であった皮革産業を、近代工業として育てあげ、いろんな専売権を取り上げられた後の部落民の生活保障の手段としたいと考えていました。そのために彼は、個人で外国人技師を招聘し、皮革技術の伝習所を作り、またこの靴工場を設立しのです。こうしたことのために彼は膨大な私財を投資しました。江戸時代、三井と並ぶ江戸第一の大富豪と言われた弾左衛門家の財産も、この投資のためにほとんど使い果たされてしまうほどでした。
しかし、皮を集約できるという権限を奪われたことが結局決めてとなって、最後の弾左衛門の靴工場は経営的に破綻してしまいます。
弾直樹の夢は実現しませんでした。しかし彼こそ近代日本皮革産業の創設者であったことは間違いのない事実です。そして、彼ら先人たちの下で培われた技術が、その後も東京の被差別部落を中心に引き継がれ、日本の近代産業として靴や鞄の産業、皮革産業が発展していきます。◆部落産業と共に歩んできた東京の部落 戦前・戦後を通じて、東京の被差別部落は皮革関係の仕事、食肉関係の仕事など伝統的な部落の仕事(これを私たちは部落産業と呼んでいます)とともに歩んできました。例えば、国内で生産される衣料用などの豚皮皮革は、現在でも東京の被差別部落でほぼ100%生産されていますし、下町を中心とする靴・鞄などの皮革アパレル産業もそのルーツは弾左衛門の靴工場にたどりつく伝統的な部落産業です。
東京の部落産業は、東京で生まれ育った部落民だけではなく、関東を中心に全国から部落民が集まってきてこれを支えました。また、様々な理由で東京にやってきた部落産業以外の仕事に就いている部落民も、親戚や同じ部落の知り合いを頼って、都内の被差別部落とその周辺に集住しました。
5.強制移転と、今日の東京の被差別部落
このように東京では、連綿として被差別部落の生活と歴史が続いてきました。しかしそれにも関わらず、今日多くの人が「東京には被差別部落はない」と誤って認識しています。このような誤った認識が生じた原因はいくつかあります。まず一般的には、都心部が関東大震災や戦災で焼け野原になってしまったこと、高度経済成長などで急速な都市化が進み旧来の街の姿が大きく変わってしまったことがあります。しかし、それだけが原因かというとそうではないのです。東京の被差別部落には固有の問題として、「強制移転」をさせられてきたという歴史があります。
東京の被差別部落は強制移転の結果一定程度分散し、さらに関東大震災・戦災の被害を受け、戦後の急激な都市化の波にも洗われました。こうした結果東京の被差別部落が「見えにくく」なったことは事実です。しかし、もとからあった部落がそれでなくなってしまったわけではありません。あたりまえのことですが、どんな権力者でも鉢植えの植木のように人々を自由に移転させるなどということはできませんし、東京の部落民も、こうした理不尽な移転要求にさまざまな形で抵抗し、自分たちの生活と産業を守ってきたからです。それに三多摩地区などでは、江戸時代に狩り場や山林の管理などを生業としてきた少数点在の被差別部落が、昔のままの形で残ってきました。
こうして今日の東京の被差別部落の原型が作り出されました。◆強制移転の実相 江戸の町は明治維新後東京と名前も変わり、新政府によって「帝都」として急速な整備がおこなわれることになりました。
そんな中で1873年(明治6年)、東京府は「市街地で皮なめしをしている業者は、悪臭もひどいし市民の健康にも害をあたえるから朱引線の外へ移転せよ」と命令を出します。最初の移転命令です。「健康にも害をあたえるから」というのは甚だしい偏見で(健康に害を与えるなら、皮革製品など誰も身につけられない)、言いがかりに近かいものでした。当然皮革業者たちは反発し抵抗します。しかし政府・東京府などによる皮革業者への圧迫はつづき、1892年(明治25年)、今度は警視庁が「今後東京市内での魚獣化製場の新設は認めない、1901年(明治34年)12月31日までに全ての工場は市外に移転せよ」という取締規則を布告しました。
圧迫や統制は「皮なめし」業者に対してだけではありませんでした。1887年(明治20年)には「屠獣場取締規則」が発布され、と場が警視庁管理のもとにおかれ、市内外4カ所に限定されました。また江戸以来非人たちの重要な生業の一つであった「紙くず拾い」についても、1903年(明治36年)にやはり警視庁から発布された「屑物取扱場取締規則」によって規制が加えられ、業者たちは従来の居住地から郊外への移転を強いられました。
東京の部落の皮革製造業者は、こうした理不尽な強制移転命令には極力抵抗しました。ただ、操業拡大のためにより広い土地が必要だったことなどから、最終的には移転先を自ら見つけて郊外(現在の下町周辺区)へと移転していきます。
移転後の地域は湿地帯でした。そのため部落の皮革製造業者たちは、まず土盛りをして自分たちで大地を作るところからはじめなければなりませんでした。非常な苦心をしながら新しい町作りをはじめたのですが、しかしそれでも部落の皮革業者や労働者たちにとって、そこは今度こそ安心して働き生活できる「自分たちの町」でした。
部落の皮革製造業者に対する圧迫はこれで終わったわけではありません。1931年(昭和6年)、ふただび政府から強制移転命令が出されます。東京市内の業者たちに、今度は東京湾岸の埋め立て地に1940年までに移転せよというものでした。都内の部落の皮革製造業者たちは今度は徹底的に抵抗します。「今自分たちが住んでいる土地は、文字通り何もない湿地から苦労を重ねて作り出した自分たちの町だ。それを一片の通達で取り上げられるいわれはどこにもない」。彼らは、内務省や警視庁、そして当時最大の皮革需要先であった陸軍省などに執拗に「陳情」を繰り返し、ついには命令の撤回を勝ち取るのです。
ちなみに、皮革製造業者以外の皮革加工・販売業者については引き続き江戸時代以来の生活圏に残り、やがて浅草近辺に大きく広がっていくことになります。こうして今日に続く下町を中心とする東京の被差別部落が誕生しました。
6.東京の被差別部落の現状と私たちの活動
東京の被差別部落は現在も地域の部落産業とともに歩んでいます。しかし、多くの部落産業は零細な経営形態もあって、厳しい不況によって大きな打撃を受けています。また、部落産業以外の仕事に就いている部落民も、不況の影響を受けているのはもちろん、引き続き起こっている悪質な差別事件に見られるような差別・偏見に日常的に脅かされ続けています(最近の差別事件のコーナーを参照)。
よく、「被差別部落の存在が分からなくなったり見えにくくなれば差別はなくなっていく」とか「そっとしておけばなくなる」という意見を口にされる方がいます。私たちはこういう考え方を「寝た子を起こすな」式の考え方と呼んでいますが、東京の被差別部落の現実を見てみると、この「寝た子を起こすな」式の考え方が誤りであることがよく分かります。
東京の被差別部落は強制移転などによって確かに「見えにくく」はされてきました。しかし、それにも関わらず差別事件は後を絶たちません。一方で被差別部落が拡散させられてきた結果、昔ながらの部落民の支え合いや大切なきずなが分断されがちとなり、不当な差別を受けたときに「それはおかしい」とみんなで跳ね返すことができにくくなってしまったのです。
私たちはこのような状態を解決するために、まずなによりも都内在住の部落民のつながりを回復することが重要だと考えています。そのために都内に10個の支部を設け、それぞれの地域ごとになかまたちの生活相談や地域社会への働きかけなどの日常活動をしています。
また、東京都などの行政に対しても「東京にも被差別部落があり、差別があることを都民に広く知ってもらい、その解決にむけてみんなで知恵を出し合うようにしてほしい。行政機関は特に積極的な姿勢を打ち出してほしい」と訴えていますが、こちらの方はなかなか十分な対応が示されていません。
私たちは、被差別部落の歴史や文化に誇りを持ち、積極的な姿勢で生活していける東京をめざして、これからも都内の被差別部落を中心に、それ以外の地域や人々にも訴えてさまざまな活動を展開していきます。
《参考文献・資料》
「人権に関する世論調査(平成11年6月調査)」 東京都政策報道室(当時)
「台東区史・通史編」 台東区史編纂専門委員会
「部落の歴史像―東日本から起源と社会的性格を探る」 藤沢靖介著 解放出版社
「江戸・東京の被差別部落の歴史―弾左衛門と被差別民衆」 浦本誉至史著 明石書店
「江戸・東京の部落史年表―近世編」 浦本誉至史 (社)東京部落解放研究所 すいへい・東京19/20/21号
「江戸時代の被差別社会」 石井良助編 明石書店
「資料・浅草弾左衛門」 塩見鮮一郎著 批評社
「弾左衛門とその時代―賤民のドラマツルギー」 塩見鮮一郎著 批評社
「弾左衛門の謎―歌舞伎・吉原・囲内」 塩見鮮一郎著 三一書房
「江戸の非人頭車善七」 塩見鮮一郎著 三一書房
「江戸社会と弾左衛門」 中尾健次著 解放出版社
「弾左衛門―大江戸もう一つの社会」 中尾健次著 解放出版社
「弾体制と人間差別」〈講演録〉 荒井貢次郎 東京部落解放研究59号
「弾左衛門制度と賤民文化」 塩見鮮一郎・中尾健次・藤沢靖介・松浦利貞・三橋修・松岡満雄著 批評社
「弾左衛門から借金した金融業者」 松島一心 東京部落解放研究60・61号
「浅草弾左衛門の系譜」 松岡満雄 明日を拓く16号(解放研究10号)
「江戸非人の諸相」 友常 勉 明日を拓く1号
「解剖と被差別民―医史学にみる近代解剖の基点の欠落」 松永俊夫 明日を拓く19号
「皮革産業を支える人々―目で見る東京の皮革産業」 (財)東京都同和事業促進協会編
「荒川の部落史―まち・くらし・しごと」 「荒川部落史」調査会編 現代企画室
「木下川地区の歩み」 東京部落解放研究会 明日を拓く2・3号《史料等》
「落穂集」 人物往来社「江戸史料叢書」
「江戸砂子」 小池章太郎編 東京堂出版
「武江年表」 東洋文庫「増訂 武江年表1・2」
「御府内備考」 雄山閣
「町方書上」(国立国会図書館蔵)
「寺社書上」(国立国会図書館蔵)
「守貞漫稿」 魚住書店「聚類 近世風俗志」
「嬉遊笑覧」 吉川弘文館「日本随筆大成 別巻第7〜10 嬉遊笑覧1〜4」
「江戸府内・絵本風俗往来」 菊池貴一郎著 青蛙書房 青蛙選書3
「旧事諮問録」 青蛙書房 青蛙選書3
「工芸志料」 東洋文庫「増訂 工芸志料」
「弾左衛門関係資料集―旧幕引継書」 中尾健次編 解放出版社
「編年差別史資料集成」 原田伴彦編 三一書房
「史料集―明治初期被差別部落」 部落解放研究所編 解放出版社
「鈴木家文書」 埼玉県部落問題関係資料集編集委員会編・発行
「下野国太郎兵衛文書」正・続 群馬部落研東毛地区近世史学習会編・発行
「下野国半右衛門文書」 群馬部落研東毛地区近世史学習会編・発行
「重宝録 第一」 東京都
「南伝馬町町名主高野家日記言之上控」 東京都※この文書はリンク・フリーです。ただし、差別的な利用はお断りします。なお、利用の際部落解放同盟東京都連合会にご一報いただければ幸いです。
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