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統一応募用紙40年と公正採用選考の課題(2)

竹村毅・元労働省大臣官房参事官


地名総監 統一書式や推進員制度を作って
 1960年代後半になったら戸籍謄本や社用紙を求める企業が非常に増えました。この昭和40年から45年が転換期だったと思います。その理由は中卒が少なくなり、高卒が増えたことが原因です。被差別部落でも進学率が上がって行きました。日本の経済発展とともに産業構造が変わり、中卒と高卒の職場も変化しました。集団就職の頃は中卒が中心で、分野としては個人商店や繊維産業が中心でした。40年代以降はそれが徐々に高卒に移りました。高卒の生徒は電機産業が主でした。今はロボットですが昭和40年代のコンピューター工場は女性が何百人も並んでハンダ付けをしていました。百貨店の店員も中卒から高卒になっていきました。そして、一番の特徴は金融機関や保険会社でも高卒の女性を採用するようになりました。それまで銀行は男性でした。ここで問題になったのは被差別部落出身者に対する就職差別の問題です。そこで就職差別反対運動が盛り上がりました。その企業側の被差別部落を排除するための対抗策として、事前の身上書を書かせるというもので、コクヨや第一法規が身上書付の履歴書を売り出しました。
 私自身も1959年に労働省に入った時も徹底的な身元調査をされました。刑事が2人、私の下宿に訪ねてきて、色々と聞かれたことがありました。当時、勤務評定反対闘争があったころで、私は京都大学で学生運動をやっていて、京都大学生協の学生代表の理事でした。生協を通じて学生運動をする中で、京都の部落解放同盟の事務所にもオルグに行きました。学生運動と言っても色々な団体とスクラムを組んで闘いました。卒業後、労働省に就職して、今度は京都府の課長として部落解放同盟の事務所に行きましたが、学生の頃の運動で解放同盟の人たちは顔見知りだったということもありました。
 昭和40年代まで履歴書は形式が決まっていました。毛筆で縦書き。右から履歴書と書いて、本籍、現住所、筆頭者指名、続柄、生年月日、学歴、賞罰を書いて、最後に偽りがないことを証する署名捺印をしました。その次にペン書き、横書き書式になり、コクヨや第一法規の身上書付き履歴書で使われるようになりました。その履歴書の他に会社ごとに社用紙が作られました。その社用紙によって、家族や財産の状態などが聞かれました。これらの差別選考がまず、近畿で問題になりました。関東では東京が労働市場としては大きかったのですが、わりと部落問題に無関心な人が多かったと思います。しかし、近畿では、京都と大阪、神戸が通勤範囲内で、運動の影響もあったのですが、3府県の履歴書の内容が問題になりました。大阪の会社は地元大阪だけではなくて、京都からも神戸からも採用するわけです。当時、大阪では本籍は採用で聞いてはいけなかったのです。続柄も家族欄はいらないということでした。京都では、本籍は都道府県だけでいいといわれました。兄弟は家族構成を知るためにあってもいいと言われていましたが、勤務先はダメでした。当時、同じ通勤圏でありながら、各府県の企業に対する指導がバラバラでした。それで、1971年に書式を近畿で統一するようしました。差別項目になるようなものは排除しようという大まかな取り決めがされました。近畿統一応募書式に沿った京都方式、大阪方式、兵庫方式が作られました。私は東京の労働省に戻って、統一した応募用紙ができないかと思っていたときに、日本工業規格のJISマークが思い当たりました。JISマークの会計帳簿がすでにありました。そこで、履歴書の用紙の大きさをB4からA4にし、紙の厚さとインクの色をJIS規格で決めました。そして、この規格に履歴書の参考様式例を添付しました。この参考様式例は文部省と全国高等学校長協会、労働省との三者で協議してJIS規格としました。もちろん部落解放同盟や全国同和教育研究協議会からの要請も踏まえてのことです。そして、1972年(昭和47年)には全国高等学校統一応募用紙がつくられました。
 この統一用紙制定は、江戸時代からの身元調査の奉公人請状の内容を断ち切り、就職差別の解消を目的としていました。ところが、この統一応募用紙ができて2年後に部落地名総鑑事件が起きました。この事件の発覚によって、表向き履歴書の差別項目を除いた様式だけを整えても公正採用選考は確立されないということが明白になりました。ハローワークは、労働基準監督署のような権力を持たないサービス機関です。職業安定法という法律がありますが、これはあくまでも企業と求職者が対等な立場で話し合って採用選考が行われ、職安はそのお手伝いをするという役割です。そこに強制権はありません。部落地名総鑑事件が起きた時に、私自身が起案をして企業内同和問題研修推進員制度(現・公正採用選考人権啓発推進員制度)を作りました。これは同和問題の正しい理解・認識の徹底、公正な採用選考システムの確立などを充実させるためのものです。この制度を作るときに労働省内部でも大変でした。同和の2文字を入れたことがけしからんと言われました。当時私は同和担当をしていて、部落地名総鑑事件は同和問題だったから、企業内同和問題研修推進員制度としたのです。そこで局長決済までもらって既成事実にして通しました。
 この部落地名総鑑事件は労働行政の転機となりました。この事件によって企業内同和問題研修推進員制度をつくり、労働行政の仕事の内容が変わりました。それまでは就職差別事件が発生した場合、その企業を呼んだり、訪ねて違反企業を指導しました。それが個別指導からグループ指導にかわりました。100人以上の企業を対象に企業内同和問題研修推進員を選任させて、公正採用選考に関する雇用主研修を開催するようになりました。当時、公正な採用選考や面接の基準がなかったんです。そこまで行政がお節介をやくことは、本来は越権行為です。しかし、就職差別の実態の深刻さを考えると、せざるを得なかったのです。面接の定義や採用選考チェックポイントも作りました。何もないところから作ったので、正直苦労しました。当時、「同和問題理解のために」(労務行政研究所)という450頁の本を参事官の肩書きで出しました。当時、部落解放同盟中央本部役員であった小森龍邦さんにも事前に相談しました。小森さんは「中央官庁の一定のポストにある者が、部落問題で本を出したのはお前がはじめてだ」と言われたことが印象に残っています。当時この本を出版してくれるところはありませんでした。仕方がないので、労務行政研究所を呼んで、原稿料その他は一切いらないから、初版の3000部は私がリュックに詰め込んで売って歩くから出してくれと言って出版しました。

 部落地名総鑑事件が労働行政の転換点に
 そして、部落地名総鑑事件以降の労働行政では、企業内同和問題研修推進員制度の設置、採用選考のあり方を提示、啓発資料の作成・配布が行われるようになりました。  この啓発資料に人種差別撤廃条約を掲載したのですが、外務省からクレームがでました。誰の許可を得て印刷した?と言われました。当時、仮訳でした。そのために事前に外務省に許可を取ってもらわなければ困るということでした。外務省から資料を回収しろと言われました。それなら、原典を自分で訳せば 構わないだろうと考えて、フランス語が堪能な職員に翻訳をさせて作ったこともありました。はじめて国際的な基準を研修資料としました。

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部落解放同盟東京都連合会
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