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統一応募用紙40年と公正採用選考の課題(1)

竹村毅・元労働省大臣官房参事官


竹村さん 私と人権問題
 私は1965年(昭和40年)、「同対審答申」が出た頃から部落問題に関わるようになりました。
 労働省(現・厚生労働省)に就職したのが1959年(昭和34年)で、最初は北海道札幌市の公共職業安定所(現・ハローワーク)に赴任し、学生の職業紹介を担当していました。そこで痛切に感じたのはアイヌ民族の求職者に対する職業差別でした。当時、一般的に中卒で就職する方は中学卒業者全体の70%近くありました。その中で、アイヌ民族は中卒が100%でした。担当教員と中学を卒業する求職者、その保護者、職安からは私の4者で何ヶ月かかけて話し合って、本人の適性検査をし、企業に対する希望を聞いて、企業を紹介しました。その時、こんな経験をしました。アイヌ民族の求職者の求職票を企業に持っていったら、投げ返されました。 職安に人の紹介を頼んだのに、「アイヌを紹介するとは何事だ」と言われました。それくらいアイヌ民族に対する差別がひどかったんです。だから、集団就職で東京などに出る方も多勢いました。私はこの札幌の公共職業安定所で2年間働きましたが、アイヌ民族で本当にいい職業についてもらったということが一人もありませんでした。この体験が、私自身が人権問題にとりくむきっかけになりました。
 私が秋田県能代の公共職業安定所の所長をやっていた1970年(昭和45年)、最後の集団就職の特別編成列車が組まれました。当時、私は集団就職の統括責任者として中卒の生徒を連れて上野駅でおりて、浜松市まで引率して行きました。その頃は個人商店に勤める生徒が半分、他は繊維工場などに就職していきました。
 私はアイヌ民族に対する差別の問題から就職差別の問題に職務として関心を持つようになりましたが、地方から東京に職務が変わったときに、労働省ではちょうどウタリの人たちの雇用対策が話題になりかけていました。ところが当時、ウタリと言っても、職場では、わかる人が少なかったのです。そのために、私に「お前は北海道に行っていたから知っているだろう」と話があり、私がウタリ対策を担当することになりました。これは差別の問題ですから、そこから波及して、一般の学卒全体、障がい者、同和問題、高齢者も担当するようになりました。私の労働省での生活は入省してから様々な人権課題を経験し、大臣官房参事官、職業安定局高齢者対策部長、職業安定局高齢・障害者対策部長を努めました。その中で唯一担当しなかったのが女性差別問題や性差別の問題でした。これは女性局があったのでそちらで対応されていましたが、退職してOBになってから担当することになり、今は廃止されてなくなってしまいましたが、「女性と仕事の未来館」の設立準備で4年間関わりを持ちました。こうした人権課題には共通するものがあると思います。

 日本的な就職差別や身元調査の成り立ち
 例えば、就職差別では、単に行政のシステムや企業の事業の問題というよりも文化の問題だと思います。これは根の深い問題です。なぜ、このような文化の問題になったのか、歴史を振り返ると、江戸時代の初期の職業紹介の歴史にまでさかのぼることができると思います。今の身元調査や職業差別の中核になっているようなことが、江戸時代の初期に芽生え、明治時代の社会的差別を受容しながら伝統的に引き継がれてきたのです。しかし、こうしたことは私たちの日常生活の中ではなかなか気がつくことがありません。
 例えば、日本の学年度や会計年度はどちらも4月から3月ですが、これは世界で日本だけです。この年度と日本の職業紹介事業は密接な関連があります。江戸時代の職業紹介事業は、参勤交代による江戸の都市生活の中で発生した制度で、今の職業紹介事業の中にも文化として引き継がれています。
 参勤交代とは、江戸幕府が1635年、武家諸法度改定により制度化した大名統制策で、原則として一年交代で、諸大名を江戸と自身の領地とに交互に居住させた制度です。全国の360ほどの大名が江戸に交互に行って、1年ごとに居住するので、全体の統制・調整が必要になります。街道は7つあっても、宿泊施設である本陣は一つの宿場に1つです。江戸と国元の出入りの日程が一度に集中しないように調整すること必要です。そのために出替日を定めて、3百余りの大名の参勤交代の日程を統制しました。この参勤交代に伴って、江戸における雇用も生まれ、それに伴う職業紹介事業も生まれました。1年江戸に居住するために国元から行列を引き連れてきたのでは人件費もかさみます。そこで、家来の中でも下層の武士などは江戸で臨時のアルバイトを雇うようになりました。1年交替の出替り奉行では1年につき3両、日雇い奉行では日給200文程度です。江戸に労働市場ができたのです。この職業紹介事業に目をつけたのが、大和慶安という人でした。江戸の木挽町の医師・大和慶安は、世話好きで、患家から結婚のとりもちや奉公人のあっ旋を頼まれることが多かった。そこで彼は承応(1653年)、医業をやめて職業紹介事業である口入屋(桂庵)をはじめました。また、浅草花川戸の幡随院長兵衛も口入屋を営んでおりました。これは中間や奴の職業紹介でした。この職業紹介システムと身元に関する考え方が現代社会にも引き継がれています。
 口入屋は武家屋敷の奉公人の供給を受け持ちました。それは士分ではない軽輩という徒士、足軽、槍持、中間、奴などです。1710年には江戸に390ヵ所ありました。これを30単位で13に分割して、番組人宿を作りました。紹介して送り込んだ者が悪いことをすると、番組人宿も連帯責任を負うという制度です。出替日は旧暦の3月5日でした。今年の暦では4月14日となります。ちょうど桜のちったあとです。桜の花のもとで歓送迎会をやったというのが江戸文化であったわけです。
 この口入れ屋の職業紹介ですが、はじめはお目見えと言って、求職者と口入屋が大名屋敷に行きます。それから3日間、求職者は通いで働きます。それで良ければ、4日目から住み込みになります。口入屋は1人の紹介で1分(1両の4分の1)の手数料を得ました。今の貨幣では2・5万円程です。当時、男性で年3両稼ぎました。1両を10万円と考えると30万円です。女性で2両でした。住み込みで衣食も支給されました。
 雇用に際しては、大名屋敷に奉公人請状が出されました。この請状で、1.被用者がキリシタンでないこと。2.被用者が公儀や家中の法度を守ること。3.逃亡や損害を与えた時の弁償。4.給金などの取り決めがなされました。こうした取り決めが現代の職業紹介事業に雇用慣習の文化として引き継がれています。身元という概念もここから出てきます。昭和8年にできた「身元保証に関する法律」は、今日の身元調査、身元保証などの原点になっていますが、その考え方は奉公人請状と全く同じです。
 明治になって、参勤交代制度はなくなりました。お屋敷の家事手伝い的な仕事もなくなり、人々は会社や工場に勤めるようになりました。町の郊外には工場が建ちました。ここで日本特有の社宅や寮という寄宿舎もできました。明治期以降、社会の産業構造が転換し、工場労働が発生しました。こうした工場の従業員を集めるために募集人が全国を歩いて回りました。農家の娘さんなどを富岡製糸工場などの繊維工場に連れて行きました。また、それは「蟹工船」などの社会問題を含む事柄に派生していきました。    

 繊維産業と部落差別
 富岡製糸工場が1873年(明治6年)に官営工場として開設されたときに、長野県から女工として雇われた和田英さんが70歳代になって、回顧録を書き残しました。その「富岡日記」に被差別部落出身者への差別実態が書かれています。工場の女工同士で「あの人は『新平民』だから、付き合いなさんな」と言ったと書かれています。和田英は自分もその言動を真に受けて差別したけれども、今考えると申し訳ないことをしたと悔いていると日記に書いています。明治時代のはじめ、企業で部落差別はインフォーマルな形で、影であの人は被差別部落出身者だからと差別したわけです。
 そして、『日本之下層社会』(1899、横山源之助)では「…天満貿易会社にては石川県より新平民の児女を募集し帰り、ために他の職工は「新平民の児」と共に操業するを喜ばずして同盟罷工を企て、大いに紛擾を起こせるあり。」…「天満紡績会社女工百余名(石川県、岡山県出身の者)が「社員中石川県人は加賀乞食なるを以って度外に使役し、給金低薄にするも可なりというを聞きしによる」という原因で、明治30年8月16日にストライキ。警官の説諭により翌日落着とありました。差別する側の女工が団結して、集団で差別しました。それによって企業側は被差別部落出身者とそうでないものを分離する差別的な労務配置が行われました。
 当時は沖縄や朝鮮半島から繊維工に入るようになり、岸和田紡績でも差別ストライキが行われています。在日朝鮮人の女工が民族差別待遇に反対しておこなわれました。糸ができる前の粗紡部に在日朝鮮人や被差別部落出身者を差別的に配置し、工程ごとに分けたのです。労務配置における差別処遇です。
 これらの繊維産業にみる差別の変遷を30年単位で見てみますと、明治期の最初はインフォーマルなかたちで差別が行なわれ、それから30年後には集団でストライキまでして集団で差別を行うようになりました。それから30年経つと、企業で差別的な配置や制度的な排除がされるようになっていきました。これが戦前までの職場と雇用における差別の大きな流れでした。こうした企業の差別実態を知るには昭和30年(1955年)代までに作られた各企業の社史を見るとよくわかります。差別したことを誇らしげに書いています。当社の社員は身元調査を厳重にしたどこに出しても恥ずかしくない社員であると誇らしげに書いています。「同対審答申」が出た1965年(昭和40年)以前はそういった状況でした。

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部落解放同盟東京都連合会
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