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(自白を離れて客観的に存在する証拠)

 その二 地下足袋・足跡について

 所論は、原判決は、自白の信憑力を補強するものの(3)として、「五月三日佐野屋付近の畑地から採取された足跡三個は、被告人方から押収された地下足袋中の一足によって印象されたものと認められる。」旨説示し、かつ、同事実は「全く自白を離れても認めることのできる事実であり、…被告人の自供部分(すべて各犯行の重要部分に当る)を慨ね端的かつ強力に裏付けている。」ともいっているけれども、被告人の履物の大きさは十文半であって、兄六造の九文七分の地下足袋を借りて履いたことはあるがきつくて履きにくい、また、被告人の五月二日夜の行動に関する捜査段階での供述と現場足跡が発見されたとされている場所とは一致していない、のみならず、右足跡の採取に当たっては捜査当局の作為が介在していることが窮われ、右の現場足跡が果たして右の地下足袋によって印象されたものかどうかには疑いがあり、原判決挙示の石膏型成足跡三個は捜査当局によって偽造された疑いがある、そればかりでなく、被害者の死体が発見された場所及びスコップが発見された場所付近で犯人のものと推認される別の地下足袋一足とその足跡とが発見された事実があるのに、被告人は、自白をしていた当時から現在まで右事実は全く知らないと供述しているところからすると、少なくとも被告人が被害者の死体を埋めた後スコップを捨てたとの供述部分は虚偽架空である。要するに犯人は別にいるのであって被告人ではないというのである。
 そこで、この点を考えるに、問題は三つある。その一は、佐野屋付近における現場足跡の採取経過であり、その二は、採取された石膏型成足跡の鑑定の結果であり、そしてその三は、死体発掘現場方面で発見された別の地下足袋一足が存在することである。まずその一について考えてみると、航空自衛隊入間基地司令中村雅郎名義の気象状況について(回答)と題する書面によれば、犯人が佐野屋付近の茶畑へ現れた前日である五月二日の現地の天候は、午後四時五五分から七時四五分まで雷雨があったのであるから、右七時四五分以降司法巡査が現場足跡を採取した翌三日午前六時三〇分ころまでの間に、耕作者ないし付近の住民など本件と関係のない者が右場所へ立ち入ることは考えられず、また、仮に前日の午後七時四五分までに現場へ立ち入った者があったとしても、右の雷雨によって足跡は消失していると推認される。犯人が逃走した三日の午前零時前後に現場へ立ち入る可能性のあった者は、本件の犯人か、犯人が逃走した後現場付近の捜索に当たった警察官以外にはあり得ないと考えられるところ、証人飯野源始の原審供述によれば、「自分は狭山署の捜査係であるが、刑事課長諏訪部警部の指示により、五月三日午前六時三〇分ころから同八時三〇分ころまでにかけて長谷部警視に案内されて、犯人のものと思料される足跡のうち鮮明なものを選んで左一個と右二個の計三個を石膏型成足跡として採取した。その場所は佐野屋の東方約四〇米の地点から南へ入る農道を約一三〇米入った右側(西側)の馬鈴署の畑ですぐ南に茶株があるが、その茶株から二さく目の馬鈴署の間に西に向かって印象されている二〇歩ないし二五歩のうち、鮮明な、農道に一番近い第一足跡と第二足跡、更に七・八歩位入った最も鮮明だと思われる一個の計三個を採取した。足跡は地下足袋によって印象されたもので、前夜七時ころまでに降つた豪雨の後にできた足跡であることは判然としており、捜査員の中にはこれと同種の地下足袋ないし職人足袋と称されるものを着用していた者は誰もいなかったから、これらの足跡は、逃走犯人によって印象されたものであると思料された。なお、立会人は畑地の所有者横山喜世である。石膏の材料を集めに行って持参したのは相勤者の小川事務官である。同石膏型成足跡三個(昭和三八年押第一一五号の五)はそのとき採取したものに相違ない。」と答えている。
 これを当落において取り調べた五・三司法巡査飯野源治・同小川実共同作成の狭山警察署長あての「現場足跡採取報告書」と対照すると、同報告書には、佐野屋東方一四・八米の地点(この点は、原審で取り調べた五・四員関口邦造作成の実況見分調書の添付図面と対照すると、佐野屋東方二七米で茶垣が切れた地点から更に一四・八米の地点というべきである。)から南へ入る農道を一三三・七米入った右側(西側)にある狭山市大字堀兼字芳野○○○番地馬鈴薯畑内で、所有者は同市大字堀兼○○○番地農業Y・Tで、立会人は同所同番地のY・Kである旨、また、右足跡の発見は犯人の逃走方向に向かって警察犬で逃走方向を追跡して遺留足跡を発見した旨記載されていて、大筋において前掲の飯野証言と同趣旨であるといえる。また、当審において取り調べた五・四員関口邦造作成の狭山警察署長あて「被疑者の足跡と思料されるものの発見に就いて」と題する書面によれば、これはその文面からみて同人作成の前記同日付実況見分調書よりも前に作成されたことが明らかであるが、被疑者が逃走した直後の五月三日午前一時ころ懐中電灯を用いて、被疑者が現れたと思われる佐野屋東方を捜査中、別紙図面(1)の地点州において茶抹とゴミを捨てた畑の中に北に向かって横線模様の地下足袋跡(右)が一個発見されたので保存のため地面に棒で地下足袋跡を○をして茶の枯木を折って立てておいた、なお、この地点から南へ一米離れた畑の中に横線模様の地下足袋で踏みかためられた足跡が直径一米位の範囲に丸く見分されたが重複して印象されており採取不能であった、この状況から被疑者はこの地点に潜伏していたものと推定された、午前五時四○分ころ警察犬が来て逃走した被疑者の捜索にあたるためが(1)の足跡から臭気をかがせたため、警察犬によって足跡は損傷してしまい採取不能となってしまった、そこで、佐野屋前の県道を約五○米東進した地点を南に入る農道を南進し約一三〇米位の別添略図(2)の地点馬鈴著畑において(1)の地点において発見したのと同一と認められる横腺模様の足跡二〇個位を発見したので直ちに佐野屋北側県道にいた上司に午前六時ころ報告したものである、更に農道を南進して別添略図(3)の地点の畑を斜めに東から西に通っている(1)(2)と同一と思料される足跡三〇個位を発見した、…本日実況見分を命ぜられた際、この地点を見分したところ、多数の足跡によって踏み荒らされて足跡採取は不能であった、となっている。かように原審に顕出された同日付員関口邦造作成の実況見分調書によれば、同日午前一〇時より午後一時にかけて同調書に記載されたとおりかなり広範囲に実況見分が行われたのであるが、その記載によれば「県道南東畑地を見分する、不老川に至る間無数の長靴及地下足袋ズック跡が認められたが本件被疑者の足跡と思料される、通称地下足袋が印象されてあったのは二ヶ所あったので写真撮影したる後見尺をなす。」とあって、右の「通称地下足袋」の部分は黒色の原文とは異なり青インクで訂正されている点をみると、最初「素足跡」と書こうとして「素」の字を「表」と誤記したのでこれを棒線で消して一たん「素足跡」と書いた後、今度は青インクで「素足」を消して「通称地下足袋」と訂正したと認められる、まことにずさんなものであり、添付の写真も@の標識を撮影したものや石膏をとかすため使用したとおぼしきバケツと入影が写されているものがあるけれども、その他はおおむね遠景写真で、採取足跡そのものを撮影したものが存在せず、写真の影象からみて晴天時と雨後の少なくとも二日以上にわたって撮影したものを寄せ集めたものであると認められることも所論のとおりである。しかしながら、実況見分が行われた五月四日の右時間帯においては、足跡が印象されてから既に三十数時間を経過し、付近は雑多な足跡が入り混じっていてもはや犯人の足跡を判別することができなかったため足跡の接近撮影をしなかったものと判断される。そして現場足跡の実況見分をするに当たって、足跡を接近撮影した写真が添付されず、その代わりに日を異にして撮影されたことの明らか遠景写真を添付するなど拙劣な方法であることは否定できないけれどもこれらの写真相互及び実況見分調書の添付図面に一件記録中の航空写真を対照すると、茶株の形状等からして、足跡を採取した位置を明確に看取することができる。また、およそ足跡というのは人が歩行又は駆足によって地上を移動することにより印象されるのであるから、連続しているのがむしろ当然である。ただ他の足跡等によって不明瞭になることのあるのはもとよりで、前記飯野証言や関口報告書に足跡の個数が記載されているのは、明瞭なものの個数をいっているものと解するのが合理的であり、その間連続した旨の記載がないから別の足跡である旨の所論及び関口調書に後日青インクで訂正した部分がある点をとらえてその信憑性を云々するのはともかく、右調書が偽造であるとの所論はいずれも採用できない。
 なお、前記(2)の地点で採取された足跡は、前記飯野源治ほか一名作成の「現場足跡採取報告書」の記載及び証人飯野源治の当審(第五〇回)の供述によって認められるその歩幅が六四糎あるいは七五糎で、西に向かって印象されている点にかんがみると、同証人の推測とは逆に、むしろ犯人が佐野屋へ往く際の足跡であると推測される。
 次にその二の考察に移る。
 五・二三員小島朝政作成の捜索差押調書によれば、裁判官の許可状により、五月二三日早朝被告人方の居宅玄関のコンクリート地面東側に置かれた下駄箱の右側下隅から横線模様の地下足袋二足が恐喝未遂被疑事件の現場の遺留足跡と類似するとして差し押さえられ、また、勝手場に至る境の所のブリキかんの上にあった同様の地下足袋二足が、更に、風呂場入口のコンクリート上にぬれたままあった同様の地下足袋一足が差し押さえられ、これらが原審に証拠物として提出されてそれぞれ押第一一五号の二八の一及び二八の二となったことは記録に徴して明らかである。ところで、六・一八県警本部刑事部鑑識課警察技師関根政一・同岸田政司共同作成の鑑定書並びに右両名の原審証言を総合すると、五月二四日県警本部鑑識課長山中芳郎の下命により、前掲現場から採取した石膏型成足跡三個(鑑定資料(1))と前掲被告人方から押収した前記押第一一五号の二八の一の地下足袋一足(鑑定資料(2))とを受領し、これを鑑定資料として、(1)の足跡は(2)の地下足袋によって印象されたものかどうかについて鑑定をしたことが認められる。その鑑定経過は右鑑定書に詳細であるが、そのなかで指摘しておくべきことは、足型の測定の項に「足型測定器を使用し被疑者石川一雄の素足の足長を測定するに右足は約二三・九糎、左足は約二四糎である。次に鑑定資料の(2)の地下足袋をはかせてみると、やや窮屈である模様であったが、こはぜは最上部まで装着した。」とある箇所及び鑑定資料(2)の地下足袋は金寿印のマークで九七の文数記号があり、その本底の足長は約二四・五糎(拇趾先端から踵部ほぼ中央後端まで)足幅は約九・二糎(竹の葉型模様右側横線の前部から五本目の位置の足幅)とある箇所である。そして、各種の検査を重ねたうえ、最後の考察に入り、
 「鑑定資料(1)の足跡は、頭出面より観察し、足袋底に泥土が相当附着したままの状態で印象された足跡であるため、底型デザインの大部は顕出されていないが、印象面に大きな移動変型はなく、うち右足地下足袋によって印象された二個は、破損こん跡がほぼ固有の状態で顕出している。特に資料(1)の3号は、竹の葉型模様後部外側縁に著明な破損こん跡が存在し、踏付部前端外側縁部に特有な損傷こん跡が認められる。また資料(1)の2号は、拇趾先端部および踏付部前端外側縁部に損傷部位を認められるので、いずれも決定的な異同識別資料としての適格性がある。
 前述の鑑定経過においては、特にこれら破損部位の実体究明を行うため、対照足跡の印象実験ならびに採型実験を反覆実施し、さらに被疑者についてこれらの実験を行う等措置し、比較検査においては各角度からこれを掘下げて鑑定の客観的妥当性の確立を期した。
 次に貼付地下足袋は、跣足の足跡に準じ足跡面に歪を生じる。また磨耗形体は製造時における固有特徴と使用度等が関連し、特有な形状となるがこれらの印象条件も併せて検査した。
 以上の各検査段階を総合すると、右足による足跡二個は対応する資料とそれぞれ符合している。勿論前述の比較測定数値に若干の差異はあるが、立体足跡の場合印象箇所、土質の柔軟の度、歩行速度、歩幅、姿勢等により重心の移行、地面におよぼす重圧等が、その都度変化するので印象された形状も同一でなく誤差を生じるのであるが、各数値を見ると同一のはき物で足跡を印象した場合の許容範囲内の誤差である。また顕出面に同一性を否定すべき特徴要素が全く存在しないので、単なる類似性または偶然性の一致等のものではないと確信した。
 次に左足の地下足袋による現場足跡は、対応する資料と拇趾の傾斜状態に共通性を認められ、特有な形体ではあるが決定的な異同識別の基礎となるべき損傷特徴が顕出されていない。したがって対応する資料と同一種別・同一足長のものと言い得るが、決定的な結論には到達できない。」
としたうえ、鑑定結果として、
 「1、鑑定資料(1)の1号足跡は、同上(2)の左足地下足袋と同一種別・同一足長と認む。2、鑑定資料(1)の2号足跡は、同上(2)の右足地下足袋によって印象可能である。3、鑑定資料(1)の3号足跡は同上(2)の右足地下足袋によって印象されたものと認む。」
と結論している。
 所論は、右鑑定書の記載によれば、鑑定のための対照足跡を作成するに当たり、警察技師加藤幸男の分は本件足跡採取現場の土を県警本部鑑識課に運搬し、畑とほぼ同一条件の状態で土を盛り足跡の印象実験を行ったのに、肝心の被告人の分については狭山署において別の土を用いて足跡の印象実験を行った点を非難し、これを前提として、現場から採取した鑑定資料(1)の石膏型成足跡を前記加藤幸男の対照足跡とすりかえ、この足跡が鑑定資料(2)の地下足袋によって印象されたものかどうかを鑑定したものである。要するに、足跡を偽造したものであるというのであるけれども、鑑定の経過は右に述べたとおり正当に行われていて疑惑を容れる余地は全く存しない。
 以上によって、現場足跡の採取経過及び地下足袋の押収手続に疑念をさしはさむ事情を見いだし難く、これらを資料としてなされた鑑定の結果も信用するに足り、証人岸田政司の当審(第四六・四九回)供述を加えて検討してみても、その間捜査当局の作為ないしは証拠の偽造が行われた疑いがあるとの所論は採用の限りでない。
 所論は、また、右3号足跡と前記右足地下足袋とは、弁護人の測定によると、部分によっては一六粍もの差があり、両者は一致しないというのである。しかし、弁護人の測定方法は3号足跡と右足地下足袋をそれぞれ写真撮影してこれを拡大し、さらにトレーシング・ペーパーに書き写し、対応すると思われる測定基点を定めて測定したというのであるが、弁護人も自認するとおり、どの点を測定基点と定めるかによって大きな誤差が生ずるものであるばかりでなく、写真撮影の方法、引き伸ばしの方法・倍率などによっても少なからず誤差の生ずることは自明のことである。ところで、昭和四八年一二月更新弁論における弁論要旨に添付された資料によって弁護人の測定方法を見ると、まず3号足跡と地下足袋の写真撮影に当たり、寸法の割り出しのため同時に定規や三角定規が並べて撮影されているのであるが、これらはセルロイドかプラスチック製のものと思われる。しかし、かかる定規の目盛りが正確に刻まれていないことは往々にしてあることであり、この目盛りを基準にして各部分の長さの測定をしているのは、方法においてすでに誤っているといわざるを得ない。
 しかも3号足跡の写真と地下足袋の写真にはそれぞれ異なった定規が写されているのであって、両者の目盛りが一致しているかどうかも確認できないのである。次に、弁護人が測定対象とした諸点についても、3号足跡及び地下足袋の現物と、前記添付資料中の写真とを対照して検討すれば、判定基点として厳密にそれぞれ対応する点を設定したものとは認め難い(その最もはなはだしい例はイ点である。)。所論は、3号足跡と地下足袋の間には、最高一六粍もの差が出る箇所があるというのであるが、両者の現物によって所論の指摘するそれぞれの対応箇所を測してみれば、その誤りであることが明らかである。
 したがって、弁護人の測定結果を根拠として3号足跡と地下足袋との一致を否定し、前記鑑定書の結論が信用できないとする所論も失当である。その他所論並びに弁護人らの最終弁論にかんがみ検討しても、前記鑑定書の結論の信用性に疑いをさしはさむ余地はない。
 次にその三として所論は、被害者の死体が発見された場所及びスコップが発見された場所付近で地下足袋一足とその足跡とが発見されたことを云々し、犯人は別人であると主張するので、この点を考えてみるに、まず、佐野屋付近で発見され採取された地下足袋の足跡は五月二日の午後一一時ころから翌三日の午前にかけての問題であるのに対して、死体が発見された場所の付近から発見された地下足袋は五月一日の兇行にかかわる問題であることを明確に区別して認識する必要がある。そもそも、スコソプが発見された場所から足跡が発見されたこと及びその方面で地下足袋一足が発見されたという事実から、直ちに犯人は被告人以外の別人であると主張すること自体、それだけでは論理の飛躍であり問題とするに値しないものといわなければならない。弁護人らは五月一日には被告人がゴム長靴を履いていたことを当然自明のように前提するけれども、この点について、被告人の自供を裏付ける確かな証拠は何ら存在しない。被告人は五月一日にも兄六造の地下足袋を履いていた可能性があることが考えられる。さて、当審第七五回公判において取り調べられた六・一五員伊藤操作成の実況見分調書によれば、所論の地下足袋が投棄されていた場所は、狭山市入間川一六九八番地麦畑内で、荒神様(三柱神社)の南方約二〇〇米、西武線入間川駅の東方約三〇〇米、当時建築中の統合中学の西方約六〇〇米の地点でその南方は約二〇〇米を隔てて新築家屋二、三軒あり、その南方約五〇米の所にエンピ(スコップ)が遺留されていた畑があり、南方やや東寄り約三〇米に旭団地と呼ばれる市営住宅がある、畑の中に行き止まりになった私道があるが、その左側と右側とにそれぞれ左足と右足とが別々に放り込んだように一双の地下足袋が幾らか倒れた麦の上にあった地面には直接していない状況であった、殊に地下足袋(右足)には泥土が親指と他と指との爪先の割目の上まで一杯つまっており、両側底にも同様付いており十枚こはぜのもので、立会人S・Rは、この足袋に付いている泥は私方の畑の土とは違いますと指示説明した、足袋は両足とも泥土の乾燥具合等から相当期間放置されてあったものと認められ、こはぜには金寿と銘があった、この地下足袋は被疑者が遺留したものと認められたので領置した、となっている。S・Rの六・一八員調書によると、同人はこの足袋は職人が履く足袋で中古であったが、そうかといって捨てるような履き古した足袋ではないので不審に思ったが、そのまま足袋の下になっている麦を引いたところ鎌を入れないのに自然にとれたから麦が青いうちに足袋がその上に乗ったので下になった麦が腐ってしまったのかと思った、五月一日のN・Yの事件に関係があるのではないかと思って駐在所に届け出たのである、この足袋には一寸変った泥が着いていた、というのは、私方の畑の土のようでなく、赤土のようで、場所によっては違うが穴を掘ったときに出る土のようなものが着いていた、土は普通乾いた土でなく、ぬかるみを歩くとつくような土が足袋の回りや底の部分と爪先の割目には下から押し出した恰好で固まっており、左側の足袋の内側には麦の重なり合っている中にあったためかかびが生えており、最近捨てたものではなく一箇月以上経過しているものと思われた、大きさは大体の感じでは十文位と思うと述べている。そこで、押収の地下足袋一足(当庁昭和四一年押第二〇号の11、12)を検すると、やはり九文七分で金寿の印があり、甲の部分に穴があいており、裏のゴムも相当磨耗していかにも古びて見えるけれども、なにぶん発見されるまでに畑の中で麦が立ちくされするまで相当長期間日光や風雨にさらされていたこと、投棄の方法が異様で証拠隠滅の臭いが感じられることなどからすると、あるいは本件に関係があるのではないかととの疑いがないわけではない。ところが、被告人はこれまで五月一日にはゴム長靴を履いていたと終始供述してきている。しかし、そのことを裏付ける証拠はどこにも見いだすことができない。本件の捜査はこのような初歩的な点で欠陥があることはさきにも指摘したとおりであるが、しかしそうかといって、被告人が五月一日に地下足袋を履いていなかったという確証はどこにも見いだすことができない。むしろ、被告人の当時の職業は鳶職手伝いであること、仕事に行くといって母に弁当をこしらえてもらって出かけたということが仮に真実だとすれば、それまでにも被告人は兄六造の地下足袋を借りて仕事をしたことがあるというのであるから、五月一日にも六造の古い地下足袋を無断で借用して出かけ、本件凶行に及んだ後帰宅するに際し、泥で汚れた地下足袋を脱ぎ、これを前記の麦畑内に投棄して素足となり、さらにスコップを投げ捨ててから帰宅したということも考えられなくもない。しかしながら、要するに、右地下足袋と「本件」との関係は、結局において不明であるというほかはなく、地下足袋が存在するということから当然に犯人は別人であって被告人ではないということにはならない。
 なお、五月一一日にスコップを発見した現場である狭山市人間川旭町○○○○番地S・T方の畔道付近において同じ日にスコップの近くで採取した足跡」ついては、その石膏型成足跡が明瞭に出ているのであれば犯人割り出しの決め手ともなり得るであろうけれども、なにぶんにも右石膏型成足跡は、足跡が既に風雨等によって変形した後のものと判断され、到底同一性判定の資料にならないので、証拠価値のないものとして廃棄処分されたものと考えられる。この点につき検察官において、当否の最終段階まで故意に証拠の存在を隠していたとは認められない。
 以上の次第であるから、右地下足袋と足跡とは、自白を離れて被告人と犯人とを結び付ける客観的証拠の一つであるということができ、原判決がこれを被告人の自白を補強する証拠として挙示したのはまことに相当であって、論旨は理由がない。

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