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(死体及びこれと前後して発見された証拠物によって推認される犯行の態様について。)
その一五 出会い地点について。
所論は、原判決は判示第一の事実中で、被告人が「通称『山の学校』附近まで行ったが、同所から引き返し、再び右荒神様の方へ歩いて来た際、同日午後三時五十分頃、同市入間川千七百五十番地先の右加佐志街道のエックス型十字路において、自転車に来って通りかかった」被害者に出会った旨認定判示しているが、右認定事実に添う被告人の自白は取詞宮の不当な誘導による虚偽の自白であって、客観的事実にも反するというのである。
そこで、論点ごとに順次検討する。
(1)まず所論は、捜査官が植木職O・Saから、五月一日被告人とT・Akとの二名が山学校付近にいたという情報を得て、この情報に基づいて被告人を不当に誘導し追求した結果、被告人の出合い地点に関する自白が形成されるに至ったものであるかのようにいうのである。
いかにも、当審で取り調べた植木職O・Saの五・二七員調書及び六・五検原調書によれば、Oは五月一日午後二時ころ、当時建築中であった東中学校の東方の雑木林の中で、被告人とT・Akと思われる二人連れの姿を見掛けたと供述している。しかし、同じく当審で取り調べたO・Saの六・三〇検小川陽一調書、捜査主任検事であった証人原正の当審(第一七回)供述、証人青木一夫の当審(第七回)供述によれば、Oは、東中学校の東方の雑木林の中で被告人とT・Akと思われる二人連れの姿を見かけたという供述を、被告人とT・Akであったかはっきりしないという供述に変えていること、他方、取調官らも当初はこのO情報をかなり重視していたが、その後その信用性について疑いをもつに至ったことが認められる。もっとも、証人T・Akは当審(第一八回)において、被告人らと共犯にかかる窃盗(原判示第四の(1)の事実)等被疑事件で六日四日に逮捕され、その際「本件」の容疑でも取調べを受けたが、その後五月一日のアリバイ関係がはっきりした旨供述しており、これによれば捜査当局は六月四日の段階ではまだO情報をかなり重視していたのではないかと思われる。しかしながら、捜査当局としては、遅くとも第二次逮捕の六日一七日ころにはもはや「本件」につきT・Akには共犯の容疑がないとみていたものと思われる。
そうだとすれば、被告人の当審二七・三○回)供述中の「(Oという植木屋さんが)おれとTが通称山学校付近に二人できるところを見たと警察へ知らせたらしいです。多分面通しもされたと思います。」とか、「山学校付近にTとおれといたということで、山学校ということになっちゃったです。」という、所論に添うかにみえる供述は、そのままには信用できない。
他方、被告人は当審(第二回)において、「長谷部さんだと思うが、Tがやったというんだね、五目一日にYちゃんをやったというんだね、だけど、俺は知らないから知らないと言ったわけですね。しかし、Tがやったと言っているからね、お前が知らないと言っても、裁判へいってお前がやったことになるとね、だけどね、俺はね、やらないと言ったんだけどもね。」と供述して、T・Akとの共犯関係をはっきり否定しており、また、当審(第二六回)において、弁護人の質問に対して、被害者との出会い地点を山学校付近の十字路であると言い出したのは、取調官ではなく被告人自身であり、自分で考えてそのように供述したと述べているのである。加えて、被告人は、捜査段階でも六・二三員青木調書中で「私はこの朝家を出る時は、仕事に行くと言って出たのです、それで弁当を持って出たので余り早く帰るわけにもゆかず、庚神様の方へぶらぶら行きました。庚神様は五目一目が毎年御祭りです。この日も御祭りでおもちゃ屋などが出ていて人が五十人位出ていたようでした。私は庚神様を通り越してみんなが山学校と呼んでいる夏だけ使う学校がありますが、そっちの方へ向かって行きました。」と述べており、その後同趣旨の供述を維持しているのである。
叙上の関係証拠に徴すれば、被告人が取調官の不当な誘導によってやむなく出会い地点の供述をするようになったとは考えられない。
(2)所論は、五目一目に被告人は荒神様(三柱神社)の所を通っていないと主張し、その理由として、当日は同神社の祭礼の日であり流行歌のレコードが大きくスピーカーで流されていた事実があるのに、被告人は検察官の取調べに際して「レコードがかかって流行歌等歌っていたのではないか。」と質問されても「それは聞きませんでした。」と述べており、このことは、被告人が当日の状況について無知であること、すなわち当日荒神様の所を通っていないことを示すものであって、荒神様の所を通った旨の自白は明らかに客観的事実に反するというのである。
たしかに、当審で取り調べたN・Seの六・二七員調書によれば、同神社で祭礼気分を盛り上げるため流行歌のレコードをスピーカーで流した事実はあったようであるが、被告人がそこを通った際にたまたまレコードがかかっていないこともあり得るし、レコードがかかっていても被告人が気にとめなかったこともないとはいえない。それに、被告人は取調官に対し、入間川駅で下車して荒神様の方へ行った事情について詳細具体的に供述しており、確たる裏付けこそないが十分信用できる。少なくとも、被告人がスピーカーからレコードが流されていたのを聞かなかったと供述しているという一事によっては、当日被告人が同神社の所を通らなかったとはいえななお、被告人は当審(第二六回)において、「山学校の方でYちゃんをつかまえたといったら、それではそれを証明するものがあるかといわれたので、子供のころ荒神様に綿菓子とかおもちゃ屋が出ていたから、その日は荒神様のお祭りだったので、おもちゃ屋が出ていて綿菓子が桜の木の下に出ていたということを地図に書いて示しました。お祭りがあったのかどうかも知らなかったです。荒神様のお祭りには何年も行ったことがないです。」と供述しているが、不自然であって信用できない。
(3)所論は、出会い地点が被害者の平素の通学路と異なったコースに当たることを理由として、被告人の自白には信憑性がないというのである。
ところで、関係証拠によれば、被害者の川越高校入間川分校への通学路は通常自宅から権現橋、佐野屋脇、薬研坂を通り狭山精密前から入間川四丁目を通って学校に行く道順を往復することになっていたところ、被害者が当日下校後右の通学路を通らなかったことは確かであるが、実際にどういう経路を経て被告人と出会ったかは必ずしも明らかではない。
ただ、被害者の死体とともに発見された雑部金領収証書乙一枚(昭和四一年押第一八七号の一四)の存在と被害者の家庭科と体育の先生であった証人U・Toの原審(第六回)供述とによれば、被害者は下校後右領収書を受領するために狭山郵便局に立ち寄ったことが推認できるに過ぎない。しかし、被害者が当日何らかの事情で、例えば荒神様のお祭りの模様を見物しようとして平素の通学路と違う加佐志街道を通ることも十分考えられるところである。なお、所論は出合いの時刻に関する被告人の自白ははっきりしないというのであるが、被害者の学友であった証人N・Toの原審(第六回)供述によれば、被害者は同日午後三時二三分ころに下校していることは前述のとおりであり、このことと被害者は下校後学校の近くにある郵便局に立ち寄っているので、その所要時間を考慮し、かつ学校から原判示エックス型十字路までの距離関係(当審第一回及び第四回検証調書によれば、学校と右十字路との間の距離は約一四〇〇米である。)を考慮すると、被害者は自転車で午後三時四〇分ないし五〇分ころ右エックス型十字路に差し掛かったものと推認される。
そうだとすれば、被告人の自白する被害者との出会い地点が平素の通学路と異なるコースにあることや、その時刻に関する自白がはっきりしていないことを理由に、被告人の自白に信憑性がないと主張するのは早計に失するものといわぎるを得ない。
(4)所論は、被告人の六・二七員青木調書(第二回)添付図面(2)によれば、出合い地点の右脇の方に独立した形で樹木が書かれており、その下に「かきのき」と横書きされていること、及び原審の検証に際し立会人である検察官原正が、「被告人が『被害者と出会った地点の付近に柿の木があった』と述べているが、その木は実は桑の木である。現在この桑の木は切られているが、当時はこのように立っていたものである。」と特に指示説明している点を指摘して、桑の木と柿の木を間違えることは都会の者ならともかく、養蚕の盛んな農村育ちの被告人には絶村あり得ないことであるから、被告人の出会い地点のエックス型十字路近くに柿の木があったという自白は客観的事実と全く相違しており、この点からも被告人の出合い地点に関する自白は信用性がないというのである。
いかにも、被告人の六・二七員青木調書(第二回)添付の図面必(七冊二一一八丁)には、指摘のとおり「かきのき」が図示されており、原検事は原審の検証に際し指摘のとおりの指示説明をしている。しかし、右図面をみると、その「かきのき」は出合い地点よりかなり離れたところに描かれていて、それが出会い地点の特定に格別意味があるかどうか明らかではない。むしろ、右図面をみると、出会い地点の十字路の特定に意味があるのは「ちやのき」、「くわばたけ」、「むぎばたけ」の図示であることが明らかである。そして、この「ちやのき」、「くわばたけ」、「むぎばたけ」という右十字路の説明は、原審及び当審における各検証の結果によって認められる十字路の状況とよく合致しているのである。そうだとすると、原検察官の右の指示は誤解によるものとみるほかはなく、被告人の出会い地点に関する自白が客観的状況と相違するなどとはいえない。
(5)所論は、被告人は六・二三員青木調書中で、被害者をエックス型十字路でつかまえた状況について、「後ろの方から自転車で女の子がやってきたので荷台のカバンを押さえた。」と述べていたところ、六・二七員青木調書中では「私はこの前、後から来たYさんの自転車の荷掛けを押さえたといったが、それは間違いで、私はその時山学校の方まで行って荒神様の方へひっくりかえって来たらYさんと擦れ違ったので荷台を押さえた。」と述べ、六・二九員青木調書中でも「山学校の前あたりまで行って引き返してきた。」と述べている、しかし、現に事実を経験した者が、後ろから走ってくる自転車を止めたのか、対向してくる自転車を止めたのかという点について記憶違いをするとは考えられない、この供述の変更は、捜査当局が、殺害現場への連行に都合良くするため(六・二三員青木調書第二回によると、出合い地点がエックス型十字路よりも遠くなるので都合が悪い。)と、後ろから走ってくる自転車の荷台を押さえて停止させることが極めて囲難であることに気付き、被告人に供述を変更させたものと考えられる、しかも自白調書では「ひっくりかえった」というが、なぜ「ひっくりかえった」かについて合理的な説明もしていない、この点についての自白には迫真性が全く欠落している、のみならず、荷台を押さえて自転車を止めたといっても、どのような姿勢で引き止めたのか、両者の位置関係はどうであったか、止める前に周囲を見渡して警戒したのか、自転車のスピードはどれ位であったか、その時Yの表情はどうであったかなどについては自白調書は全く触れていない、自白調書は読めば読むほど出会い場面を彷彿させるものではなく観念的であり、疑惑に包まれている、出会い場面の描写は、単に茫漠とした観念として、捜査当局が被告人に与えたものであって、被告人自身の経験を物語るものではない、出会い地点に関する被告人の自白には信憑性がないというのである。
たしかに、被告人は六・二三員青木調書(第二回)中で「後ろの方、庚神様の方から紺色様の自転車の荷掛けに鞄をつけて、その自転車に乗ったちょっとみて女学生に見える黒っぼい上衣に同じ色のスカートをはき、白い短い靴下に黒い靴をはいた女の子が来ました。私は『用がある』と言って自転車の荷台の鞄を押さえて止めました。」と述べていたところ、六・二七員青木調書(第一回)中では「私は後ろから来たYちゃんの自転車の荷掛けを押さえて『チヨット停まれ』と言ったと話しましたが、それは間違いで、私はその時山学校の方まで行って庚神様の方へひっくりかえって来たら、Yちゃんとすれ違ったのです。そして私はすれ違ってからこの前話したようにYさんの自転車の荷掛けを押さえたのですが、その時右手で押さえました。そしてYちゃんが自転車を降りたから『用があるから、こっちへ来い』と言って倉さんが首っこをして死んだ山の中へつれて行ったのです。」と述べて、供述内容を変更し、その後は同趣旨の供述を維持している。
しかし、取調官の作為により、被告人をして無理にこのように供述を変更させたと疑うに足りる状況は、記録上見いだすことができない。これを素直にみれば、被告人が自ら供述内容を変えたものであって、後の供述を信用してよいものと考えられる。
また、たしかに、被害者の自転車を取り押さえた際の相互の位置関係や被害者の表情などについて被告人は詳細な供述をしていない。しかし、他の部分は具体的であって不自然なところもなく、その供述内容が観念的、抽象的で迫真力がないなどということはできない。けだし、実務の経験に徴すればとっさの出来事で、しかも興奮状態にある犯人が、被害者の表情までも気にとめたり、記憶しているという方が、かえって不自然ではないかと考えられるところ、本件についてみると、当時の被告人は必ずしも表現能力に富むものとは認められないのであるから、経験事実をさほど詳細に供述したものとは思われないし、その供述を録取する取調官においても要点以外に子細を漏らさずに調書に記載したものとも考えられないのである。したがって、取調官がいかに誘導しても、犯人でない被告人から出会い場面を彷彿させるに足りる具体的な供述を得ることはできなかったという所論には、賛同することができない。
(6)所論は、証人Y・Ha、同Y・Goの当審各供述によると、同人らは五月一日の午後、出会い地点から「四本杉」に通ずる道路の付近で畑仕事をしており、特にY・Haは、まさにその道路にダイハツの自動車を止めて長男と一緒に桑畑の手入れをしていたというのであるから、もし被告人が自白どおりに被害者をつかまえて、「四本杉」へ連行したものとすれば、被告人はその人達や自動車を見かけたはずであり、そのことを供述したに相違ないと思われるのに、自白調書には逆に「近所に人がいなかった」(六・二七員青木調書第一回)、「その近所には誰もいなかった」(六・二九員青木調書)、「その場所の付近は畑や山で人通りもなく淋しい所で……」(七・一検原調書第一回)などと繰り返して供述している。このことは被告人がその日そこを通らなかったことの証左であり、この点でも被告人の自白は客観的事実に反し、信用性がないというのである。
そこで、まず、証人Y・Haの当審(第二七回)及び当審第七回検証現場における各供述、同検証調書添付の見取図(一九冊三三〇五丁)によれば、Y・Haが当日午後長男とともに桑畑の手入れをしていたという場所は、被告人が被害者を連行して通ったという道路の西側にある、道路に接した桑畑であり、同人らがダイハツの自動車を駐車させておいた場所もその道路東側であり、当時の桑の実の繁り具合や、同人らが桑畑の草かき作業に従事していたことを考慮しても、右道路を通る者があれば、おそらくその通行人に気付くであろうし、通行人の方でも同人らの姿や駐車中の自動車の存在に気付くであろうと思われる。
ところが証人Y・Haは、同女が長男とともに当日桑畑へ赴いたのは午後一時前後ころで草かきの仕事を始めて一時間位経過したと思われるころ、雨が降ってきたので間もなく帰宅した、時刻は正確にはわからないが、帰宅してからお茶を飲んだ記憶があり、すぐ夕飯ではなかったというのである。そして、当審で取り調べた五・一四航空自衛隊入間基地司令作成の「気象状況について(回答)」と題する書面によれば、同日の入間基地付近の天気は曇り後雨で、降雨が始まった時刻は一四時一一分で、本降りになったのは一六時三〇分からであったことが認められる。したがって、Y・Haが長男とともに桑畑を引き揚げて帰宅したのは、降雨後間もない午後二時過ぎころであると認められるのが相当である。
してみれば、前述のように、被害者と犯人との出会い時刻は午後三時四〇分ないし五〇分ころであるから、自白のような経緯や状況のもとに被告人が被害者を連行して、その道を通行したとしても、その時点では既にY・Haらは帰宅しており、その自動車も右道路付近にはなかったと認めぎるを得ない。
次に、証人Y・Goの当審(第二七回)及び当審第七回検証現場における各供述、同検証調書添付の見取図によれば、当日午後、同人が息子夫婦とともに畑仕事をしていた場所は、被告人が被害者を連行して通ったという道路(前記Y・Haのいう道路と同じ。)から東方へ約一一〇米離れたかぼちゃ畑であり、そのかぼちゃ畑から右道路の方を見ようと思えば望見できる位置関係にあったことが認められる。
しかしながら、同証人らがかぼちゃ畑へ赴いたのは午後一時ころで、仕事中に雨が降ってきたがそのままビニールの覆いの中からかぼちゃの芯を引き出す作業を続け、普通ならば約二時間位かかる仕事を急いでやり、時間はよくわからないが、その畑から約五〇〇米東方にあるほぼ同面積の畑へ移動し、午後五時ころまで引き続き同じかぼちゃの手入れ作業に従事したというのである。したがって、同人らが最初の畑で作業したのは午後三時ころまでであったと認めて差支えない。
してみれば、自白のような経緯や状況のもとに被告人が被害者を連行して右「四本杉」に通ずる道路を通ったとしても、その時は既にY・Goらは、Y・Haらと同様に、最初の畑にいなかったのであるから、披告人がY・Goらの姿を見掛けなかったとしても何ら異とするに足りないのである。
これを要するに、エックス型十字路から「四本杉」へ被害者を連行したという道筋に関する被告人の自白には客観的事実と矛盾するところはないから、論旨は失当である。
(7)所論は、被告人の自白によれば、被告人はいとも簡単に被害者を「四本杉」まで同道させることができたというのであるが、被告人と被害者とは面識がなかったこと、被告人は当時職人の手伝いをしており被害者とは社会的地位が異なっていること、しかも、出会い地点から「四本杉」まではかなりの距離があるうえ、そのころは雨模様であったとはいえ白昼であり、荒神様の祭礼に赴く人達や、畑仕事に出掛けたり帰る人達とも出会う可能性もあり、披害者が叫び声をあげて、同道を振り切ることも容易にできたはずであることなどを考え合わせると、被害者がなぜ披告人と同道したか理解できない、被害者はたとえ被告人に自転車の荷台を押さえられて下車させられ、「ちょっと来い、用があるんだ」などと言われても素直について行くはずはない、ここで、最も常識的に考えられることは犯人と被害者とは顔見知りではなかったかということである。被告人の自白がこのように客観的状況と食い違っていて不合理であるのは、被告人が取調官の誘導によって虚偽の自白を強いられたことの証左である、被告人の自白には信用性がないというのである。
そこで、被告人は出会い地点から「四本杉」まで被害者を連行した状況について員及び検調書中でどのように供述しているかをみると、(一)六・二三員青木調書(第二回)中で「私は『用がある』と言って自転車の荷台の鞄を押さえて止めました。その時その娘は『何すんの』と言いましたので、私は『こっちへ来い』と言って倉さんが首っこをした山の方へ連れて行きました。その時女が先に立って自転車を転がして歩き私がその後からついて行きました。……山へ入るちょっと手前で私が自転車を持つよと言って受け取り私が転がして行きました。……私は山の入口の所で自転車のスタンドを立てて自転車を立てました。それから私は女の子の左手を自分の右手でつかんで山の中に連れて行きました。女の子は嫌とも、キヤーとも何とも言いませんでした。問、その時女の子を脅かしはしなかったか。答、脅かしません。黙ってついて来ました。私はその時Yちゃんということは知らなかったのですが、私はI豚屋にいたので向こうでは私を知っていたかも知れません。」と述べ、(二)六・二五検原調書(第一回)中で「女学生が私の目の前を通り過ぎようとした時、自転車の荷台に鞄を縛り付けてありましたが、それを押さえて『用があるから降りろ』と言うと、女学生は自転車から降りたので、私は『用があるから来い』といって山の方へ連れて行きました。女は『何すんの』と言うので、私は『用があるんだ』と言いましたが、特に脅かした様な事はありません。女は自転車を転がしながら山の方へついてくるので、約三、四百米歩いたころ、山の道になった所を自転車を私が押して山の中の道を歩きました。……女学生は嫌だと言っておりましたが、声を出したり暴れたりはしませんでした。」と述べ、(三)六・二七員青木調書(第一回)中で「Yちゃんは、おとなしくついて来ました。そして逃げようともしませんでした。近所に人がいなかったからおっかなかったので、おとなしくついて来たと思います。」と述べ、(四)六・二九員青木調書中で「『いいからこっちへ来い』と言ってYちゃんの右に並ぶか、私が後になるか位に、私が右、Yちゃんが左に自転車をはさんで歩き出しました。‥…その時私は別に恐ろしい顔もしないし大きい声を出したのでもありません、Yちゃんは黙っていっしよに来ましたが、その時その辺りには人もいなかったし、おっかなくなっていっしよについて来たものと思います。それから私は山の中へ人る少し手前で『自転車を俺が持つよ』と言って私が自転車を持ちましたが、これは自転車を押さえておいてYちゃんに逃げられないために持ったのです。……騒ぎも逃げようともしなかったが、その時私は『すぐ帰すから』と言いました。別に脅かすということはしません。」と述べ、(五)七・一検原調書(第一回)中で「Yちゃんを山の方に連れ込んだ時の模様は前に申したとおりで、特に脅かしたようなことはありません。しかし私は「こっちへ来い、すぐ帰すから』と低い声ではありましたが、すごみを利かせて、押しつける様な声で言ったし、その場所が付近は畑や山で人通りもなく淋しい所ですから、Yちゃんにすれば、私が恐くて嫌だと言えずついて来たと思います。私はこっちへ来いと言って、山の方に歩かせYちゃんが先に自転車を転がして歩き、私がその自転車の右側に並ぶようにし、くっついて歩きました。……Yちゃんは『何するの』と何回か言いましたが、私はその度に押さえつけるような声で『用があるんだ、すぐ帰すから来い』と言って、Yちゃんを歩かせ、更に『だれか来るといけないから急げ』と命じて歩くのを急がせました。Yちゃんは、私が恐かったので私の言うとおりになっていたのかも知れないが、暴れたり声を出したりはしませんでした。……山の方に行き、山に入ろうとするころ自転車を私が持ってYちゃんは私のすぐ前を歩かせました。……倉さんの首っこをした付近の山の所で『そこを右に入ってくれ、すぐ帰すから』と言うと善根ちゃんは私が命じたとおり黙って山の中の細い道を右の方に入って歩きました。それから四本杉の付近まで来た時、そこで止まれと言ってYちゃんを止め、私が自転車をその山道に立ててYちゃんの手首をつかんで、林の中に道から二、三米引っ張り込み、すぐ帰すから手を後ろに回せというと、黙って両手を後ろに回したので、松の木を背中に抱かせるよにして、私がポケットに持っていた手拭でYちゃんの両手を後ろ手に縛りました。私は大きな声でどなりつけたり、殴ったりはしませんでしたが、押さえ付けるようなすごみのある声で、それまで命令したので、Yちゃんも恐くなって嫌だと言わないで、逃げなかったと思います。手を後ろに回せと言った時も黙って手を後ろに回し、縛った時も声を出すようなことはしませんでした。Yちゃんは泣きはしませんでしたが、黙ってむっとした顔をしておりました。」と述べている。
これらの被告人の員及び検調書をみると、所論がいうように被害者がしかく簡単に出合い地点のエックス型十字路から「四本杉」まで被告人について行つたものとは認め難い。被告人は、暴行や脅迫を加えたことを否定し、被害者は格別抵抗しなかったなどと供述しているが、真実を告白しているかどうかは極めて疑わしく、被告人の自白どおりであるとしても、被害者は予期もしなかった異常な事態に遭遇し、昼間ではあったが、近くに救いを求めるような人影はなく、また高校入学後間もないことでもあり新しい学用品等が入っている鞄を載せていた自転車の荷台を被告人に押さえられたため、逃げるに逃げられず畏怖心にかられて被告人のいうとおりに「四本杉」まで連行されたものであることは容易に推認することができる。たしかに、被害者の姉N・T、兄N・K、学校の先生U・Toの原審各証言によれば、被害者は、スポーツが好きで体格もよく、明朗な性格の持主で、学業成績も優れ、人物もしっかりしていて、見知らぬ人が道で誘ってもたやすくついて行くような女性ではなかったことが窺われる。しかし、いかに人物がしっかりしていても、まだ一六歳の高校生であってみれば、予期もしない異常な事態に遭遇し、ずるずると被告人の意に従い、取り返しのつかないはめになってしまったと考えることができる。
してみれば、所論は、関係証拠を総合的に考察することなく、いたずらに推測をめぐらしているだけで、採用の限りでない。それゆえ、出合い地点に関する論旨は理由がない。
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