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第六 被害者の死亡時期ないし死体の埋没時期について
確定判決は、昭和三八年五月一日午後三時五〇分ころ、請求人が被害者に出会って、四本杉に連れ込み、同所で強いて姦淫し、殺害して、午後九時ころ、農道に被害者の死体を埋めて遺棄した旨の第一審判決の認定を肯認しているところ、所論は、新証拠として、(1)五十嵐鑑定書、(2)法医学・栄養学関係文献抜粋写(赤石英著「臨床医のための法医学」二四〜三八頁、四方一郎・永野耐造編「現代の法医学」一二〜一八頁、三五頁、同第二版二三、二六、三五頁、矢田昭一ほか著「新基礎法医学・医事法」一〇〜二二頁、野崎幸久著「栄養生理学」一四〜一九頁、露木英男編著「栄養生化学」六九〜七二頁、速水泱著「栄養生理学提要」五四〜五七頁、岡田吉郎・井上仁「死体外表所見(角膜混濁・死斑・硬直)からの死後経過時間の推定」(科学警察研究所報告法科学編四一巻二号一六四〜一六七頁)、若杉長英著「法医学」第三版一三、一五、一九頁、同第四版一七〜二〇頁、塩野寛著「臨床医のための最新法医学マニュアル」二九〜四四頁、勾坂馨編「TEXT法医学」一一〜一八頁、何川凉著「法医学」二一〜二四、三五頁、富田功一・上山滋太郎編「標準法医学・医事法制」第二版一九〇、一九六、一九七頁、松倉豊治編「法医学」第三版三六、四七、四八頁、船尾忠孝ほか著「臨床医のための法医学」第二版二五、二七、三〇頁、永田武明・原三郎編「学生のための法医学」第三版一七ないし一九、二一、二二、二七頁、高津光洋著「検死ハンドブック」二九、三〇、三六、三七、四二、四七頁、高取健彦「エッセンシヤル法医学」第三版三五、三九、五〇、五一頁、石山イク夫編著「現代の法医学」六〜九頁)、(3)S・Yの昭和三八年五月四日付司法警察員に対する供述調書(S員面)、(4)同人の同年七月五日付検察官に対する供述調書(S検面)、(5)A・Sの同月二日付検察官に対する供述調書(A検面)、(6)狭山市祇園**番所在の土地に関する不動産登記簿謄本、(7)証人上田政雄、(8)同木村康等を援用して、(1)本件死体の死後経過日数は、五十嵐鑑定書記載の角膜の混濁の度合い、死斑の出現の具合、死後硬直等々の早期死体現象の所見より推定すると、昭和三八年五月四日午後七時から午後九時にかけて行われた五十嵐鑑定人の剖検の時点から遡ること二日以内であることが明らかであるから、被害者が殺害され、農道に埋められたのは同月二日以降であつて、同月一日に殺害されてその日のうちに埋められたことはあり得ない、また、(2)被害者の死体の胃内容物、その消化の度合いなどから推定される、生前最後の食事摂取時から死亡時までの経過時間は、約二時間以内と認められるところ、被害者が同年五月一日午前中に調理の実習で作ったカレーライスの昼食が生前最後の摂食とすると、被害者は、それから二時間以内、すなわち、下校前に死亡したことになり、被害者が実際に下校した時間と矛盾を来すから、殺害されたのは、昼食後に更に摂食して後であったと認められる、(3)この二つの推定経過時間を併せ見ると、五月一日午後に被害者を殺害し、その日の夜に死体を埋めた旨の自白は虚偽であって、事実として成立し得ないことが明らかであり、原判決は、このような虚偽自白と五十嵐鑑定人の誤った鑑定に依拠して、第一審判決の事実認定を是認したもので、請求人の無罪は明らかである、というのである。なお、所論が他の論点につき援用する前記上田第二鑑定書及び木村意見書でも、五十嵐鑑定書の所見を踏まえて、摂食時から死亡までの経過時間につき、前者は、自己の解剖例なども参考にしたうえ、「食事後二時間くらい」と、後者は、「食後約二時間前後」と、それぞれ推定意見が述べられている。また、請求人は、石十嵐鑑定書を殺害の犯行日時に関する新証拠に挙げるが(平成四年九月二九日付事実取調請求書)、右は、確定判決が是認した第一審判決の事実認定において、殺害日時の認定に用いられた証拠であり、所論が別の趣旨で新証拠として提出するのであれば格別、そうでない以上、刑訴法四三五条六号にいう新らたに発見した証拠とは言えない(もっとも、請求人提出の石十嵐鑑定書写の表紙には、「参考」と朱書されていることからすると、単に、資料として提出したとも解されるが、いずれにせよ新証拠ではない。)。
そこで検討する。(一)五十嵐鑑定は、昭和三八年五月四日午後七時ころから午後九時ころにかけて実施した剖検により認められた外表所見(死斑の発現状況、死後硬直の状態、角膜混濁の状況等)、内景所見(筋肉、内臓等の緩解状態)、死因等のほか、気温、死体保存状況等の全体的所見から、鑑定人の経験に徴して、剖検時までの死後経過日数を「ほぼ二〜三日位と一応推定」したものである。
所論は、これに対し、その援用する証拠と確定判決審の証拠を併せ見ると、剖検時までの死後経過時間は、長くても二日間以内であると主張するのであるが、死体現象の変化は様々な条件によって左右され、死後の経過時間を日単位で何日間と確定することは困難であり、その推定には相当の幅を持たせることにならざるを得ないことは、所論援用の文献も認めるところであって(前掲塩野三〇頁、勾坂一八頁、若杉第四版二〇頁、何川三五頁、富田・上山一九六頁、船尾三〇頁等)、所論にかんがみ検討しても、五十嵐鑑定の死後の推定経過日数の判定が疑わしいとするいわれはない。(二)五十嵐鑑定の食事後死亡までの経過時間に関する判定は、剖検時、胃腔内には、消化した澱粉質のなかに馬鈴薯、茄子、玉葱、人参、トマト、小豆、菜、米飯粒等の半消化物が識別される軟粥様半流動性内容約二五〇ミリリットルが、十二指腸内及び空腸内には、微褐淡黄色半流動性内容極少量が、回腸内には、黄緑色軟粥様内容と共に小豆の皮少しが、それぞれ残存していたことなど、その胃内容並びに腸内容の消化状態及び通過状態の観察結果から考察して、「最後の摂食時より死亡時までには最短三時間は経過せるものと推定する。」とするのである。
五十嵐鑑定書が認めた胃の半消化物のうち、小豆は、五月一日の朝食に自宅で摂つた赤飯の中の小豆が消化しないで残っていたもの、トマトは昼食時にカレーライスと一緒に摂ったもの、その余は、調理の実習で作った昼食のカレーライスの具と米飯と考えられるのであって、関係証拠に明らかな被害者の朝、昼の食事内容に照らしても、五十嵐鑑定に格別不自然あるいは不審な点は見当たらない。所論は、カレーライスには肉類が使われているはずのところ、胃の内容物に肉片が認められなかった点を問題にするが、被害者が食べたカレーライスに肉片が入っていたとしても、それがどの程度の大きさのものであったかは、判然としないのであるから、肉片が胃内に発見されなかったことをもって、胃の内容物が昼食のカレーライスではないと断定するのは相当でない。また、医学常識として、肉類は胃液中の消化酵素の作用により、死後もある程度分解消化されることも考えられるから、右の点は格別異とするに足りないというべきである。
所論は、本件の場合、胃腸の内容物、その消化具合などに照らし、最後の食事から死亡まで、約二時間以内しか経過していないはずであると主張し、五十嵐鑑定を誤りと断定するのであるが、食物の胃腸内での滞留時間や消化の進行は、食物の量や質、咀嚼の程度などによって一様ではなく、個人差もあり、更には精神的緊張状態の影響もあり得るのであって、胃腸内に残存する食物の種類や量、その消化状態から摂食後の経過時間を推定するには、明確な判断基準が定立されているわけでもなく、種々の条件を考慮しなければならないのであるから、幅を持たせたおよそのことしか判定できないことは、所論援用の文献も認めているのである(前掲勾坂一八頁、高取五一頁等)。死体剖検の際に、胃腸の内容物を直接視認して検査した五十嵐鑑定人が、「摂食後三時間以上経過」と判定したものを、五十嵐鑑定書記載の所見を基に、一般論を適用して、「摂食後二時間以下の経過」と断定し、五十嵐鑑定の誤判定を言うことが、当を得ないことは明らかである。所論援用の証拠や上田第二鑑定書、木村意見書を確定判決審の証拠に併せ検討しても、最終の摂食から死亡までの経過時間につき五十嵐鑑定書の判定に疑義があるとは言えない。(三)次に、埋没時期についてみるに、第一審証人S・Yは、「昭和三八年五月一日は、荒神様の祭りで終日休養し、二日の朝、自分の畑へごぼうの種まきに行った際、隣地のA・S所有の畑の幅六尺くらいの農道上に大きく土を掘って埋め戻し平らにならした跡があるのに気付き、犬か猫でも埋めたのかなと思って、二、三回そこを通った、翌三日の朝、ラジオで堀兼の女子高生が行方不明である旨聴いたが、麦畑の草取りに行った際、またその現場へ行って考えてみたけれども、他人の畑の農道なので掘って調べることまではしなかった、その翌日の四日にも現場近くの畑へ農作業に出かけたが、午前一〇時ころ、付近を捜索しながら近づいて来た警防団や警察の者が、右農道の異状に気付き、自分が貸したおかめという草掻きの道具で掘ったところ、被害者の死体が出てきたので驚いた」旨を供述しており(第三回公判)、右は、消防団員として捜査活動に協力し、死体発掘現場に居合わせた証人H・Kの証言(同第三回公判)ともよく符節が合うのであって、右Sが殊更虚偽の証言をしたとは考え難く、右供述に不審の廉は窺われない。
所論は、右Sが、前記証言に先立って捜査官に供述したS員面及びS検面の中で、「五月二日、入間川本里**番地の自分の畑へ行ったのは、農協で開かれた総会が午前九時四〇分ころ終了した後で、ごぼうの種を播いた。」旨供述している点をとらえて、(1)農家は早朝から農作業に多忙なのが通常であるから、朝のうちに農協総会を開くことなどあり得ない、(2)播種は好天のときに行うものであるから、前日は本降りの雨天、二日当日朝も曇天であったのに、ごぼうの播種をしたというのは不自然であり、(3)隣地の持ち主であるA・Sの供述調書(A検面)には、ごぼうの播種のことはまったく触れられていない、(4)五月四日撮影の航空写真(平成四年一一月二四日付再審請求補充書添付)によれば、S、Aそれぞれの畑に、ごぼうを播種した事跡が見当たらないなどと主張し、右S員面、S検面はいずれも信用できず、延いては、Sの第一審証言もまた内容が虚偽であることが裏付けられるというのである。
しかしながら、農協の総会を朝のうちに行うことや、ごぼうを雨降りの翌日に播種することがあり得ないこととはいえない。また、A検面にごぼうの播種のことが触れられていないからといって、Aが播種を行わなかったとは言えないのであって、同人は、第一審公判で証言して、「ごぼうは、毎年多少は作った。今年も一段ぐらい作ってあったと思う。播種は四月二〇日ころではなかったかと思うが、すでに五月四日には生えていた。」旨述べており(第三回公判)、この証言内容と、Sが第一審第三回公判で、弁護人からの反対質問に対して述べた内容、すなわち、「(ごぼうを)自分の畑のわずかなところへ播き、そこまで行ったら、ちょうどA・Sさんのすぐの畑で五月二日にごぼうが生えていた。それで、わたしは、Aさんのところでは、今年はずいぶん早く播種したなと思って、畑を見ながら六尺幅の農道まで出た。それで東を見ると、(農道の)泥が白く乾きかかっていた。もう十時ぐらいになっていたから、Aさんがもう来てきれいにして帰ったのかなと思って、そばに行ってみた。」という供述(第一審記録四五五丁裏から四五六丁裏)とは、よく符合するのである。したがって、Sが五月二日の朝、ごぼうの播種作業をしたとき、隣地のA所有の畑の農道に掘り返した跡があるのを見付け不審を抱いたこと、そして、同月四日午前一〇時ころ、その場所を捜索に当たっていた消防団員らが掘ったところ、被害者の死体が発見されたことは、疑う余地のない事実と認められる。所論援用の航空写真をもって、S、A両名の畑にごぼうの播種の事跡がないと認めることはできない。 このような次第で、所論援用の証拠と確定判決審の関係証拠を併せ検討しても、S・Yの前記証言が真実に反し、虚偽であるとはいえない。(四)そうしてみると、所論指摘の証拠は、これらを確定判決審の証拠と併せ見ても、被害者の殺害が五月二日以降に行われた可能性を裏付けるものではなく、第一審判決の事実認定を是認した確定判決に、合理的な疑いを生じさせるものとは言えないことは、明らかである。
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