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第一五 万年筆について
一 本件万年筆発見の経緯
所論は、新証拠として、(1)内田雄造作成の昭和五四年五月一〇日付報告書(内田報告書)、(2)内田雄造作成の昭和五八年六月四日付万年筆認知に関する鑑定書(内田鑑定書)、(3)弁護人中山武敏作成の昭和五八年六月二二日付調査報告書(中山報告書)、(4)昭和三八年六月二七日付朝日、産経各新聞記事、(5)弁護人細川律夫ほか作成の昭和六一年一一月三日付請求人方の捜索に従事した警察官に対する捜索状況調査報告書(録音テープ原本八巻とその反訳共。細川ほか報告書)、(6)弁護人中山武敏ほか作成の昭和六一年一一月三日付請求人方写真撮影報告書(中山ほか写真撮影報告書)、(7)石川六造、高松ユキヱ、石川清、市村美智子の同日付弁護人に対する各供述調書、(8)弁護人青木孝作成の同月九日付家族(静江こと足立ヒサイ)に対する請求人方捜索状況調査報告書(青木報告書足立分)、(9)Eの平成三年七月一三日付、同年一二月七日付、平成四年五月一六日付弁護人に対する供述調書計三通(E弁面)、(10)弁護人青木孝作成の平成四年七月四日付元狭山警察署巡査Eに対する捜索状況調査報告書(青木報告書E分)、(11)弁護人青木孝作成の同日付写真撮影報告書(青木写真撮影報告書)、(12)請求人宅の現場検証と焼失後復元された勝手場出入口鴨居の検証、(10)証人小島朝政、(14)同高島泰造、(16)同福島英次、(16)同E二郎、(17)同吉沢実、(18)同梅沢茂、(10)同春山菊夫、(20)同足立ヒサイ(静江)、○21同石川六造、○22同高松ユキヱ、○23同石川清、○24同荏原秀介、○25同内田雄造、○26同小堀二郎等を援用して、昭和三八年五月二三日、同年六月一八日、同月二六日の三回にわたり行われた請求人宅の捜索のうち、第三回目の捜索の際に勝手場出入口鴨居の上から発見、押収されたとされている万年筆(浦和地裁前同押号の四二、本件万年筆)は、捜索に先立ち、予め捜査官が請求人宅に持ち込んで、密かに勝手場出入口の鴨居の上に置いておき、あたかも請求人の自白に基づいて右捜索を行った結果、初めて発見したかのように仕組まれたものであって、もともと請求人宅には存在していなかったことが明らかになったと主張し、このような捜査官の作為を看過して、請求人の自白によって初めて万年筆の隠匿場所が明らかにされ、自白どおりの場所から本件万年筆が発見押収されたと認定した確定判決は、もはや維持できないことになった、というのである。なお、右(1)は、第一次再審請求手続でも提出され、判断を経ている。
検討するに、内田報告書と内田鑑定書は、いずれも、どの位置から、どのような条件の下で、鴨居の上に置かれた万年筆を認識できるかを調べたものであって、その結果、調査時より暗い状況下でも万年筆を認知することが十分可能であり、鴨居前に置かれた「うま」に乗れば、万年筆を見落とすことはあり得ないことが判明したというのである。しかしながら、第一次再審請求手続における特別抗告審の決定も指摘するとおり、第三回目の捜索は、万年筆の隠匿場所について自供を得た捜査官が、右自供に基づいて隠匿場所を捜索したものである点で、捜査官に何ら予備知識のなかった第一回、第二回の捜索の場合とは、捜索の事情や条件を異にするのである。このような前提の違いを抜きにして、鴨居の上に本件万年筆があったのなら、第一回目ないし第二回目の捜索時に発見できなかったはずはなく、見つからなかったのは、当時、請求人宅に本件万年筆が存在しなかったからであると結論するのは、当を得ないというべきである。
中山報告書は、請求人宅の捜索の状況について、請求人の母リイと同胞から、昭和五八年六月二日当時に聴取した結果をまとめたものであり、石川六造、高松ユキヱ、石川清、市村美智子の弁護人に対する各供述調書及び青木報告書足立分も、請求人の同胞から、昭和六一年一一月当時に供述を得てその内容を録取したものである。これらのうち、兄六造の述べるところは、同人の確定判決審での証言(第一六回公判)とほぼ同旨であり、所論援用のその余の証拠と共に確定判決審の関係証拠と併せ検討しても、その評価は、確定判決が右証言について判示したところを出るものではない。また、請求人の母、姉妹、弟の述べるところも、第一回、第二回の捜索時に、捜査官が、後に本件万年筆が発見されたという鴨居の上を調べていたなどというものであるが、請求人宅の捜索が行われてから二十年余も後になされた肉親のこのような供述が確かなものといえるか、にわかに首肯し難いといわざるを得ない。確定判決審の取調べた関係証拠と併せ検討しても、確定判決の事実認定を動揺させるまでの内容を持つものとは言い難い。
細川ほか報告書は、請求人宅の捜索状況につき、昭和六一年一〇月から一一月当時、請求人宅の捜索に従事した元警察官等から事情聴取した結果をまとめたものであるが、「右各捜索当時の具体的な状況についてはよく覚えていないが、不十分な捜索であった。」などとするもので、総じて、各人の記憶が相当あいまいで、いずれも、所論を裏付ける証拠としての内容に乏しい。
E弁面は、請求人宅の第一回捜索に参加した元警察官のEが、平成三年から同四年にかけて、大要、「勝手場の捜索を担当し、その場にあった「うま」を利用して鴨居の上を捜した、そのとき鴨居のところにボロがちょっと見えたのを記憶している、ボロを取り出して中をいろいろ見たが、暗くてよくわからなかった、手の届く範囲の鴨居のところをずっとなでるように捜したが、何も発見できなかった、目でもよく見たが何もなかったことは間違いない。」などと供述し、これまでこれらの事実を他言しなかった理由については、「大きな事件でさしさわりがあると思ったのでいままで言えなかった。」旨述べたというものであるが、右供述は、捜索から約二八年も経って行われたものであるばかりでなく、前掲細川ほか報告書によれば、右Eは、右弁面が録取された四年余り前の昭和六一年一〇月には、弁護人から請求人宅の捜索の模様を問われても、「昭和五四年に退職してまもなく、脳血栓を患って以来、長患いしており、昭和三八年五月の請求人宅捜索の模様については、古いことで忘れてしまった。」などと述べ、具体的な捜索の状況を供述しなかったというのであるから、E弁面が、確かな記憶に基づくものか、甚だ心許ないといわざるを得ない。
このような次第で、これら証拠に所論援用のその余の証拠をも併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるものとはいえない。
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