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(一) 神戸鑑定
神戸鑑定書は、まず、本件脅迫状と警察署長宛上申書それぞれの筆勢、筆圧、配字形態、字画構成、筆順、誤字、文字の巧拙、書品、文字の大小、書体等を比較照合するとともに運筆を調べた結果、同筆と判定する根拠は薄弱である反面、偶然とはいえない相違点が数多く認められることから、両者は異筆と判断されるというのである。
しかしながら、確定判決の援用する高村鑑定書や長野鑑定書、さらには、所論援用の山下意見書も指摘するとおり、書字・表記、特にその筆圧、筆勢、文字の巧拙などは、その書く環境、書き手の立場、心理状態などにより多分に影響され得るのであつて、かたや、本件脅迫状は、書き手自らの自由な意思表示として書かれた身代金の要求文書であるのに対し、対照資料である警察署長宛上申書は、請求人が自宅で書いたものではあるが、被害者失踪当日の行動につき警察から事情聴取を受けた者の弁明文書であり、しかも、わざわざ自筆の上申書の提出を求められたのは、被害者方へ届けられた本件脅迫状との対比に供する筆跡を得たいがためであることが、請求人にとっても容易に推察できたはずであつて(上申書作成のいきさつ、作成の状況について、第一審第六回公判における警察官今泉久之助の証言がある。)、このような両文書それぞれの性格、文書作成の経緯、環境、書き手の置かれた心理的立場、状況の違いを考慮すると、神戸鑑定書が両文書の相違点として指摘する諸点が、直ちにその書き手の相違を意味するものとは、必ずしも言い難いというべきである。
このことを、請求人が自書した前掲aないしgの文書のうち、主として、昭和三八年五月下旬から同年九月上旬にかけての三か月の間に請求人が自書した文書について検討する。
請求人は、確定判決審の第二四回公判において、筆跡鑑定を命じられた戸谷富之鑑定人から、同年五月二三日の逮捕以降に字の練習をしたかと問われて、「別に練習したことはないが、留置されて直ぐ、原検事に、この事件の脅迫状かなにか知らないが、セルロイドのケースに入ったものを見せられて、それを見ながら書けといわれて書いたことは、何回かある。調べに来る都度書かされたが、書かされた日数はわからない。」旨答え、被害者のN・Yの父の名は前から知っていたかと問われて、「全然知りません」と答え、N宛手紙を書いたいきさつについて問われて、「河本検事が、私のうちでもNの家に謝りに行ったから、お前も謝りの手紙を書けと言われたから書いた。」と述べ(検察官は、東京高等検察庁平岡俊将作成の上申書(確定判決審記録九九一丁)において、この手紙が書かれたいきさつ、N・E(被害者の父)から任意提出を受けて領置したいきさつについて、請求人と異なる説明をしている。なお、青木一夫作成の供述書(同記録八八六丁)、証人原正の確定判決審第一七回公判における証言(同記録一八〇四丁))、同第二七回公判においては、弁護人の問いに対し、「警察にいるとき、原検事から、脅迫状か何かわからないがセルロイドの中に入ったものを手本にして、六月六日ころまで何回も書かされた。その後同月二六日ころに、原検事らに言われて、手本を見ないで書かされた。」旨述べ、また、同第六六回公判でも、検察官から確かめられて、「取調べの原検事から言われて、セルロイドのケースに入った、今思うと本件脅迫状を、内容もよくわからないまま書かされた。」と述べ(この点につき、当時、本件の捜査を担当した原正検察官は、確定判決審第一七回公判で証言して、「被告人(請求人)が脅迫状を出した事実を認めた後で、脅迫状の内容を思い出して書いてみなさいといって、書かせたことはあるが、被告人が事実を認める以前に、自分が、セルロイドのケースに入った脅迫状を見せて、同じようなものを書けと言って書かせたことはない。そのころ、脅迫状はセルロイドのケースに入れて持ち歩かなかったので、被告人には直接脅迫状を見せてはいないと思う。文章は読んで聞かせたかもしれない。そのとき被告人が書いたものは、多少内容は違っていたが、大体の筋は同じことを書いたと思う。昭和三八年七月二日付検察官原正に対する供述調書添付の脅迫状写(前掲eのこと)がそれである。」と述べ、請求人の質問に対して、「脅迫状を見せたことはあると思うが、そのときか、あるいは別の機会かははつきりしない。見せてこのとおりに書けと言ったことはない。」と述べる。)さらに、「事件前の自分の字はほとんど存在しないはずである。T製菓の早退届も人から書いてもらったのを写したものである。」とも述べ、第七五回公判では、識字、書字に関する弁護人の質問に、「字を習うようになつたのは、控訴審(確定判決審)になってからで、(昭和)四二年頃から猛勉強した。外部の人に無罪を訴えるためには自分の手に頼るよりないから勉強した。外部から来た手紙は、ほとんど担当(職員)に読んでもらった。鬼沢部長、荒木部長がとても親切であつた。少年手紙宝典というのを母から差し入れてもらった。今ではほとんどなんでも書けるが、逮捕直後は、ほとんど書けなかった。平仮名しか書けなかった。字を覚える方は、拘置所に、仮名を振ってあって、ものすごく書きやすい本があったが、それを自分専用に貸してくれた。」などと述べている。要するに、請求人の言い分は、逮捕後、本件脅迫状らしいものを書写させられたほかには、控訴審段階になつてから、昭和四二年ころ猛勉強するようになるまで、特に書字の練習をしたことはないというのである(因みに、所論援用の大類鑑定書は、関宛手紙類を句読点の用法の見地から調査した結果として、「昭和四〇年七月以降、四五年四月までの間に句読点の使用が習得されたと考えられる。」と述べる。同鑑定書四三頁)。
ところが、昭和三八年五月二一日付警察署長宛上申書、同年六月二七日付のN宛手紙、及び同年七月九日の起訴と同時に川越警察署から浦和刑務所拘置区へ移監された後、当時心安くしていた関源三巡査部長に宛てた、同年九月六日付の近況報告のあいさつと頼みごとの手紙(前記関宛手紙類のうちで一番早い時期の手紙)とを取り上げて比較対照してみると、これら文書は、確定判決が依拠する関根・吉田鑑定書、高村鑑定書も指摘するとおり、いずれも個々の書字の癖ないし形状(例えば、禾偏、木偏、三水偏、「な」「ま」「わ」「ツ」等)の点で、本件脅迫状と共通する多くの類似点が認められる反面、関宛の手紙は、右警察署長宛上申書及びN宛手紙に比して、個々の配字、筆勢、運筆などの点で暢達であり、また全体的印象でも、明らかに書字として優っていると認められる。請求人が前二者を書いてから右関宛の手紙を書くまで、僅か二、三か月程の時日を経たに過ぎないのであるから、逮捕後に本件脅迫状らしいものを書写させられたという請求人の確定判決審での前記供述を踏まえ、また、未知の漢字、手紙や裁判所へ提出する書面の書き方などにつき、浦和刑務所拘置区の書物で学び、担当職員から教示を受けたこと(確定判決審第一四回公判における証人森脇聰明、同安藤義祐の各供述。確定判決審記録一四〇三丁、一四四三丁)を考慮に入れても、この間の練習により書字・表記能力が飛躍的に向上して関宛手紙の域に到達し得たものとは考え難い。警察署長宛上申書、N宛手紙と関宛の手紙との書字の差異は、身柄拘束中の練習の影響も幾らかはあるとしても、主として、書き手である請求人の置かれた四囲の状況、精神状態、心理的緊張の度合い、当該文書を書こうとする意欲の度合い、文書の内容・性格など、書字の条件の違いに由来するとみて誤りないものと認められる。このような次第で、警察署長宛上申書、N宛手紙、脅迫状写、捜査官に対する供述調書作成の際に描いた図面の説明文など、捜査官の目を強く意識しながら、心理的緊張のもとで、嫌疑事実に関して記した文書に見られる、書字形態の稚拙さ、交えた漢字の少なさ、配字のおぼつかなさ、筆勢と運筆の力み、渋滞などを以て、当時の請求人の書手・表記能力の常態をそのまま如実に反映したものとみるのは早計に過ぎ、相当でないことは明らかである。
なお、これらの文書の書字と脅迫状の書字の間に認められる類似点に関して、前記戸谷富之鑑定人は、その鑑定書(同記録二二五二丁)において、「書くことに慣れていない被告(人)が、(脅迫状を書写させられたという)このような練習をさせられると、脅迫状の筆跡が容易に身につくものであることは充分考えられる。N・E(被害者の父)氏宛て手紙(N宛手紙)及び内田裁判長宛て所信(内田裁判長宛書簡)は脅迫状や上申書(警察署長宛上申書)と似てくることは当然であつて、鑑定結果を左右させるものであり、鑑定に際してこの点を注意することなしには正しい判断を下せない恐れがある。」と指摘する。しかしながら、原検事の取調べの都度、脅迫状らしいものを書写させられたという請求人の言い分が、仮にそのとおり真実であったとしても(前記のとおり、確定判決審で証言した原検事は、自白以前から何度も書写の練習をさせられたという請求人の右言い分を否定する趣旨のの供述をしている。)、その期間は短かく、しかも、脅迫状との書字・書き癖の類似は、昭和三三年から三四年にかけて書かれた早退届氈A、昭和三五年に書かれた通勤証明願などにも存在するのであつて、原検事に脅迫状を見せられ、練習させられたがために筆跡が脅迫文に似てきたなどということは、本件の場合に考え難い。
先に見たとおり、請求人は、第七五回公判において、「自分は昭和三八年五月に逮捕された当時には、字はほとんど書けなかった、平仮名しか書けなかった」旨述べている。しかし、当時の請求人の識字や書字・表記の能力が、義務教育を受けただけの成人一般の水準から見ると相当に低く、偏ったものであつたことは、関係証拠に明らかであるけれども、昭和三三年から三四年にかけての早退届氈A同、昭和三五年の通勤証明願、昭和三八年八月二〇日付接見等禁止解除請求書、前掲九月六日付を含む関宛昭和三八年手紙五通及び同年一一月五日付内田裁判長宛書簡などをそれぞれ書いた事実があることから判断すると、浦和刑務所拘置区に移監された後の学習の影響を考慮に入れても、これら文書の書字・表記、運筆の筆勢などの実状に照らして、本件当時の請求人が平仮名以外ほとんど字が書けなかつたというのはいささか過ぎた表現であつて、その書字・表記の能力は、請求人が捜査官の求めにより強度の緊張下で書いたと認められる前掲警察署長宛上申書、N宛手紙、脅迫状写、捜査官に対する供述調書添付図面の説明文句などに見られる程度の低いレベルにあつたとは、到底認め難いと言わなければならない。
そして、神戸鑑定書が、本件脅迫状と警察署長宛上申書とについて、個々の書字の形態、筆法などの違いを指摘して、異筆であることの根拠にする事柄についても、首肯し難い点がある。同鑑定書は、本件脅迫状の運筆上の特徴点として、「な」の字の第一筆と第二筆の連続を挙げ、請求人自書の警察署長宛上申書との際立った相違として指摘するが、このような連綿の現象は、筆勢伸びやかな関宛昭和三八年手紙の「な」の運筆にも時にみられることは、木下第一意見書の検討の際に述べるとおりであり、また、脅迫状の「す」が連続して一筆で書かれていることを相違点として指摘するが、請求人の手になる接見等禁止解除請求書にも、「す」の一筆書きは認められる(「あますところ」「請求します」等)のである。このように、運筆の連綿は、その時々の書き手の気分や、筆圧、筆勢などによっても変化し得るもので、書き癖として固定しているとも限らないのであるから、本件脅迫状に神戸鑑定書指摘の筆の連綿が存在することが、直ちに本件脅迫状と警察署長宛上申書との特徴点であるとは言い難い。その他、同鑑定書が本件脅迫状と警察署長宛上申書との筆跡の相違点として挙げるところを、先に述べた両文書それぞれの性格、文書作成時の環境、書き手の置かれた心理的立場、状況の違いなどの影響を考慮しながら逐一検討したが、異筆を裏付けるものとはいえない。
このような次第で、右鑑定書は、確定判決が依拠する三鑑定の結論に影響を及ぼすものではない。
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