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二、なおさらに、死後経過時間推定のもう一つの柱である、被害者の胃の内容物、その消化の度合いからの推定について、請求人は五十嵐鑑定の記述にもとづき |
一、「死体の死後経過時間についての請求人の主張は、
「本件肢体の死後経過時間日数は、五十嵐鑑定書記載の角膜の混濁の度合い、死斑の出現の具合、死後硬直等々の早期死体現象の所見より推定すると、昭和三八年五月四日午後七時から九時にかけて行われた五十嵐鑑定人の剖検の時点から遡ること二日以内であることが明らかであるから、被害者が殺害され農道に埋められたのは同月二日以降であって、同月一日に殺害されてその日のうちに埋められたことは有り得ない。」というのであり、五十嵐鑑定書の死体解剖時の死体の各部位の所見と、新証拠として提出した多数の法医学の早期死体現象からの死後経過時刻の推定に関する記述を根拠に論述したものであった。
これに対する再審棄却決定は、
「死体現象の変化は様々な条件によって左右され、死後経過時間を日単位で何日と確定するのは困難であり、その推定には相当の幅をもたせることにならざるを得ないことは、所論援用の文献も認めるところであって(前掲塩野三〇頁、勾坂一八頁、若杉第四版二○頁、何川三五頁、富田・上田一九六貢、船尾三〇頁等)、所論に鑑み検討しても、五十嵐鑑定の死後の推定経過日数の判定が疑わしいとするいわれはない。」と述べて請求の主張を却けた。
しかし、もとより請求人の主張は、死亡時刻の確定は、「死体の置かれた環境その他様々の条件の変化で左右される」ものであることを否定して述べているものではない。
新証拠として提出した多くの法医学書に記載された死後硬直、死斑をはじめとする各死体現象の発現やその後の変化についての記述は、いずれも右のさまざまな条件を考慮に入れての幅、最低値・最高値・最も多い記録、が分類されて心るものであり(例えば塩野三〇貢)、「死後経過時間の推定には相当の幅を持たせることにならざるを得ない」の「相当の幅」は、すでに提出の新証拠の各記述の数値のうちに折り込まれているのである。
請求人の死後経過時間についての主張は、証拠に記述された条件の変化による最短・最長の数値のうち、いずれも最長のものを基礎として述べられているのである。判示のようにこれらの幅を前提として掲げられている数値の意味を無視して、ただ「相当の幅」という定性的な言葉だけを振りまわして論じても無意味であり、請求人の主張を否定する何らの理由にもならないことは明らかである。この点についての判示の誤りは明白である。
とりわけ例えば、死体が閉眼状態で経過した場合の角膜の混濁からの死後経過時間による変化は、外界の条件の変化を受けることが少ないので重要視されているが、いずれの証拠における記載も、「閉眼している場合は、死後一〇〜一二時間から微濁し(開眼の場合は死後一〜二時間からはじまる)、二四〜二八時間で最高に達する」というのである。
他方、五十嵐鑑定の記述による死体の角膜は、「微溷濁を呈するも…容易に瞳孔を透見せしむる」というのであり、条件の変化による幅を前提とした前記の法医学書の「二八時間で最高に達する」という記載から程遠い「微混濁」であるので、この点から死後経過時間は最長二日以内と推論した請求人の主張は極めて控え目で合理的なものであることは明らかである。二、なおさらに、死後経過時間推定のもう一つの柱である、被害者の胃の内容物、その消化の度合いからの推定について、請求人は五十嵐鑑定の記述にもとづき、
「被害者の死体の胃内容物、その消化の度合いなどから推定される、生前最後の食事摂取時から死亡時までの経過時間は、約二時間以内と認められるところ、被害者が同年五月一日午前中に調理の実習で作ったカレーライスの昼食が生前最後の摂食とすると、被害者はそれから二時間以内、すなわち、下校前に死亡したことになり、被害者が実際に下校した時間と矛盾を来すから、殺害されたのは、昼食後に更に摂食して後であったと認められる」
と主張したが、これに対して、
「胃の中に馬鈴薯、茄子、トマト、玉葱、人参、等が残存していたので、これらは昼食のときに食べたカレーライスの具である」と証拠もなく断定したうえで、「被害者の朝・昼食の内容に照らし五十嵐鑑定に格別の不自然さは見当たらない」と判示して、請求人の「カレーライス以後の被害者のもう一度食事説」を却けている。
しかしこの問題の核心は、胃内に残存する「軟粥様半流動性内容物二五〇ミリリットル」が何を物語るかという点にある。
判示は、
「(請求人の)所論は、本件の場合、胃腸の内容物、その消化具合などに照らし、最後の食事から死亡まで、約二時間以内しか経過していないはずであると主張し、五十嵐鑑定を誤りと断定するのであるが、食べ物の胃腸内での滞留時間や消化の進行は、食物の量や質、咀嚼の程度などによって一様ではなく、個人差もあり、さらには精神的緊張状態の影響もあり得るのであって、胃腸内に残存する食物の種類や量、その消化状態から摂食後の経過時間を推定するには、明確な判断基準が定立されているわけでもなく、種々の条件を考慮しなければならないのであるから、幅を持たせたおそよのことしか判定できないことは、所論援用の文献も認めているのである(前掲勾坂一八頁、高取五一頁等)。死体剖検の際に、胃腸の内容物を直接視認して検査した五十嵐鑑定人が、『摂食後三時間以上経過』と判定したものを、五十嵐鑑定書記載の所見を基に、一般論を適用して、『摂食後二時間以下の経過』と断定し、五十嵐鑑定の誤判定を言うことが当を得ないことは明らかである。」
と認定したが、ここに書かれている食物の量や質、咀嚼の程度などによって消化の進行が一様でないことは何ら請求人は否定していない。新証拠が示す多年の経験や統計の積み重ねによって、しかも右に述べられている消化の進行が一様でないことも考慮に入れたうえでの幅の最長時間をもとに、「最後の食事後遅くとも二時間」と請求人は主張しているのである。
判示はさらに、個人差や精神状態までもを挙げて請求人の主張を否定しようとしているが、被害者は強壮な高校一年生のスポーツ・ウーマンであり、その個人的特性を考えると、消化時間は促進的に考えられてもその逆でないことは明白である。
また被害者の「精神的緊張状態」も挙げられているが、請求人の自白や確定判決が認定したカレーライスを食べてから殺害にあうまでの過程のどこを見ても、殺害直前数分間は別として、「精神的緊張状態」が存在したようなことはどこにも窺われない。裁判所は出まかせを書かずに、記録に基づいた丁寧な判断を示すべきである。
なお念のために付け加えると、判示は「死体現象からみた死後経過時間の推定」の問題について、すでに述べたように、
「様々な条件によって左右され、死後経過で何日間と確定することは困難であり、その推定には相当の幅を持たせることにならざるを得ない」
と述べている。しかし、死後数ヵ月や数年を経過した死体の晩期死体現象からの推定の場合ならいざ知らず、本件は五月一日の午後四時過ぎの殺害とされている死体を五月四日の七時から解剖を開始したという僅か三日間の死亡時刻の推定の問題であり、このような短期間の出来事について(時間単位ではなく)、日単位の推定すらも法医学ができないと判示は主張していることになるが、これは法医学がこれまで蓄積されたデータや多様な経験に基づく成果を無視していることを公言していることにほかならず、驚くべきことと言わなければならない。法医学を馬鹿にするにもほどがある。
また判示は、五十嵐医師の現場を踏まえた判断を絶対視しようとしているが、同医師としてもこれまでの法医学の成果を考慮に入れずして死後経過時間の判定ができる筈はなく、もしこれらの成果が示す経過時間をあえて否定して別の結論を出そうとするならば、当該死体現象において通常導かれる判断を否定する根拠を示すのでなければ、単なる恣意・独断による根拠のない記載と見傲さざるを得ない。判示の五十嵐医師の示した判断の押しつけは、法医学の成果を無視したものであることは疑問の余地はない。
なお更に付け加えると、五十嵐鑑定書における死後経過時間の推定結果は、「死後二日乃至三日間」というものであり、二日を否定していない。
二日間というのであれば、五月一日犯行説は完全に否定される。判示はこの点について何らの判断を示さず、沈黙のままであるが赦されることではない。五十嵐鑑定書は他の多くの疑問があるが、この点に着目するだけでも、鑑定書が請求人の五月一日犯行説を裏付ける証拠とはなっていないことは明白であるが、裁判所はこれを無視しているのである。三、死体埋没時刻について
判示は証人S・YやA・Sの証言を援用して、五月二日の朝には「農道上に大きく土を掘つて戻し平にならした跡があった」ことを認定し、それまでに被害者の死体が発見された農道に埋められていたことを認定した。
同証人の最初の農道上の土の変異について気づいたとする発見時刻が果たしていつであり、また正確な記憶に基づいて述べられたものであるか否かについての疑問は請求人が具体的に詳しく述べてきたところである。五月二日朝の何時頃に右の異常に気づいたのかは明確ではないが同人の言うところに従えば、「農協で開かれた総会が九時四〇分ころ終了したあと現場に行つた」とのことである。そもそも繁忙期における農協総会が朝の九時四〇分に終了するものとして開かれることは常識上あり得ず、同人の証言がまずこの点において措信しがたいものと言わなければならない。
しかし判示はこの点について、「農協総会を朝のうちに行うことはあり得ないことではない」と判示して請求人の主張を却けた。
通常、農協職員の出勤は朝の九時頃からであり、繁忙時にこの時間帯から多数の組合員が参加して総会を開くことなど、余程の緊急事態の発生以外にはあり得ないことは世の常識である。判示が言うように通常行われる筈のない総会を「あり得ないこととは言えない」という一言だけで開催を認めるという論法が認められれば裁判所の認定は「何でもあり」ということになり、問答無用の世界になってしまう。到底健全な裁判官が判示する論法とは言えないと断ぜざるを得ない。
また降雨後の牛蒡の種蒔きについてのS証言の信憑性についても、「ごぼうを雨降りの翌日に播種することをあり得ないこととは言えない」という判示にしても、これまた常識に反する「雨の翌日の種蒔きもないことではない」という論法で切り捨てようとするもので、赦すことができない。
裁判所は雨のあとの関東ローム層地帯の畑に、一度でも足を踏み入れた経験があるのであろうか、この付近に住む農民は、ぬるぬると粘り、土さばきが困難になった畑に、種播きの実行はおろか、そうしようという考えすら起こさないのである。裁判所のお公家さん的な物知らずが、世の物笑いになるだけの判示と言わなければならない。
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