部落解放同盟東京都連合会

狭山事件異議申立書-INDEXに戻る 

第一六、万年筆についての原決定の誤り

    

本項目次

一、本件万年筆発見の経緯

二、本件万年筆と被害者の万年筆との同一性

三、万年筆は偽造であり、秘密の暴露に該たるものではない

          

一、本件万年筆発見の経緯

1、決定は内田報告書と内田鑑定書につき、いずれも、どの位置から、どのような条件の下で、鴨居の上に置かれた万年筆を認識できるかを調べたものであって、その結果、調査時より暗い状況下でも万年筆を認知することが十分可能であり、鴨居前に置かれた「うま」に乗れば、万年筆を見落とすことはあり得ないことが判明した、との趣旨を認めながら、第一回、第二回の捜索と第三回の捜索は捜索の事情や条件を異にするので、このような前提の違いを抜きにして、鴨居の上に本件万年筆があったのなら、第一回ないし第二回の捜索時に発見できなかったはずはなく、見つからなかったのは、当時請求人宅に本件万年筆が存在しなかったからであると結論するのは当を得ないとする。
 しかしながら、これは明らかに曲解である。そもそも第三回目の捜索は第一回目、第二回目の捜索に比して「捜索」になど該らない。第三回目の捜索は、もともと自白を得たとして、当初から場所を特定して、それを取りに行ったにすぎず、何らかの捜索活動をした上で発見したわけではない。第一回目、第二回目の捜索と第三回目の捜索を比較して主張しているわけではない。第一回目の捜索差押調書の写真によれば、万年筆が発見された鴨居のすぐ前に「うま」(脚立)が置かれており、その場所、捜索状況からして、これが第一回目の捜索に使用されていたことが明らかである。万年筆が発見された鴨居は、背が低い人であっても、鴨居のすぐ前に置かれた「うま」に少しでも足をかけてその周囲を見回すだけで、その(鴨居の)奥側まではっきり見通すことができる。そして、第一回目の捜索には捜査員一二名、第二回目の捜索には捜査員一四名が従事し、それぞれ一部屋に二名宛ずつ配置された上でそれぞれ二時間一七分、二時間八分にもわたってなされたもので、第三回目の捜索と比べようもない。まして、各捜索に参加した捜査官は、捜索訓練を受けている埼玉県警下全域から選び抜かれた刑事であり、通常捜索すべき場所は当然に捜索する訓練を受けており、吉展ちゃん事件の直後でもあり、重大事件であることを自覚し、落ちがないように、捜索しているものである。内田報告書と内田鑑定書は右のような捜索であれば、第一回、第二回のいずれの捜索にあっても、仮に万年筆が存しているとすれば、問題の鴨居から発見されないはずはないことを証明しているのであり、決定はこの判断を誤っている。

2、決定は中山報告書、石川六造、高松ユキエ、石川清、市村美智子の弁譲人に対する各供述調書及び青木報告書足立分についても、単に供述までに期間が経過していること、肉親の供述であり、もともと信頼できないことを前提にしているかのごときである。
 しかしながら、特に兄六造の述べるところは、同人の確定判決審での証言(第一六回公判)とほぼ同旨であることは明らかであり、だからこそ一層の証拠価値を持つものである。即ち、細川ほか報告書のうち、捜索責任者小島朝政の新供述は、第二回目の捜索に当たり「松のふし穴」があって、その部屋の捜索を担当していた捜査官に、「松のふし穴」の捜索をしたかを、小島が問い質し、その「松のふし穴」にあるポロを取り出すなどして捜索したことを明らかにしており、そしてこのポロの存在からしても、「松のふし穴」は、後に万年筆が発見された鴨居がある場所であることが明らかである。小島は確定判決審で、上の方は捜索しなかったかのごとき証言をしていたが、細川ほか報告書の小島新供述では「松のふし穴」の捜索を認め、その小島がその部屋の捜索担当の捜査員を質している光景を、右兄六造が目撃していたことが明らかになったところに意義がある。即ち、確定判決審においては捜査主任小島が上の方は捜索していなかったなどと偽証していたことが明らかである。
 また、右小島新供述が存しなかった確定判決審での右兄六造の供述は、確定判決において裏付けのない身内の証言であって、一蹴されていたものが、第二次再審において小島供述が発見され、これが、兄六造の供述を裏付けたという点でも絶対的な意味を有したものである。第二次再審での小島新供述が確定判決審での兄六造の供述の信用性を裏付けているのに、決定はことさら、これを避けている。とうてい新旧証拠を総合評価したとは言えない。
 また、その余の請求人の母、姉、妹、弟の述べるところも、決定は、時間の経過や家族だからといって否定するが、家族だからといって否定されるべきいわれはない。捜索に立ち会った家族は多数の捜査員が作業をし、混然となった現場の状況であったとしても捜査員の一挙手一投足を、怒りを込めて、見つめていたのである。第三回目の捜索で万年筆が発見された直後から、家族のはぼ全員から、第一回、第二回目の捜索のときにすでに、問題の鴨居は捜査官が捜索していたことが語られ始めており、それぞれが一生に一度の大事件に巻き込まれた者の明確な記憶として持ち続けているのである。

3、決定は細川ほか報告書について「右各捜査当時の具体的な状況についてはよく覚えていないが、不十分な捜索であった。」などとするもので、総じて各人の記憶が相当あいまいであるとする。
 しかしながら、右報告書は第一回目、第二回目の請求人宅の捜索に従事した元警察官等から事情聴取したものであり、直接争点となっていた部分について明言していない部分があるものの、後に大問題となった万年筆が発見された、お勝手鴨居を含む捜索について、捜索に従事した捜査官で、第一回目の捜索に従事した捜査官としては、後に決定的ともいえる供述をすることになるEについては、捜索した場所こそ明言することを避けたものの、「なげし」(鴨居)を捜索し「何も押収したものはなかった」こと自体は、すでにこの弁護人の事情聴取時にも認めていたのであり、更にFは、自分の捜索担当であった玄関を入ってすぐのテレビのある和室の捜索を終えて、お勝手の捜索に加わり、その際自分(一六八センチ)よりも「背の大きい人」が、後に万年筆が発見される鴨居に手を入れて、捜索しているのを目撃していた。(この捜査官は、捜索の仕事が徽底していなかったかのごとくを弁解するかのような意図もあったようであるが、)万年筆が発見された鴨居は少し背が高い人にとっては「うま」を使用しないでも十分に捜索可能であるし、その鴨居を正面から見るだけでも、もしそのとき万年筆が鴨居上にあれば当然に発見される位置にある.この「背の大きい人」はTであり、Tも、お勝手の問題の鴨居を捜索していることを認めている。Tは背の高さが一七三センチメートルであり、右Fは一六八センチメートルであり、仮に「背の低い人には見えにくく」という確定判決の立場に立っても、TやFなどには見えるのであり、その弁解も通らない。
 そして第二回目の捜索に当たった元警察官についても元警察官の供述及び当時の請求人宅の間取り等からすれば、お勝手の捜索担当者は一人はY、もう一人はUまたはHである。Yは、お勝手の担当であり、台に乗って(お勝手を)捜したことを.明言し、Hにあっては当時吉展ちゃん事件の失態に次ぐ大事件であり、警察学校等でも教えられたように捜索についての基本を忠実に守り、一生懸命に捜索した旨を供述している。そして、第二回目の捜索にも参加していた小島は「ポロがつまっている『ふし穴』」の捜索をし、自身もそのポロを取って捜索し担当者にも捜索させているのである。小島は第二回目の捜索について、「いやねーもう、死ぬ前と思うと全部話すけど、もう力が、体力が続かないですよ。バチあたつちやった。バチあたっちやったよね。全く……。」「何にもねえけどなー。ふし穴があったんですよね。かなりでっかいね。なんちゆうかこんなでっかい松のふし穴あってね、おわりしに『終わったか』っていつたら『終わりました』って言って、こうやって見たらね、ふし穴に、軍手だの、陸足袋のね、親指がぬけちやったのにね、親指ぬけちやったんで寒いもんだからふし穴をふさいであったんですよ、寒いからね?そうすると、捜索が終わったっていったって、『おめえ、こういうとこ捜索したかよ』ってね、私がいったら、『あっ、やってねえ』っていって、それでね、そのふし穴からね、陸足袋のね、足袋の親指ののびちやつたポロだとか、軍手の古だとか、ひっぱってね、こんなして、こんな松の穴っこがあったやつをのぞきこんでみて『捜索が終わったって、こういうところやんなきやだめじやねえか』って、それで『天井なんかやったか』って、私がおこつたの記憶があるんです。」と供述している。そして、おそらく、このとき小島におこられたのは、このお勝手担当であったYとUまたはHの二人であり、右三名はいずれも小島より背が低く、この小島の光景を兄六造が目撃していたのである。兄六造は、お勝手鴨居のところで小島が小島より背の低い捜査官に対して、やりとりしていることを確定判決審ですでに供述していたものである.右捜査員の背の高さは、細川ほか報告書で明らかにされているものである。決定のように、細川ほか報告書の一体どこが「右各捜査当時の具体的な状況についてはよく覚えていないが、不十分な捜索である。」などとするものと理解されるのか全く不当という他はない。

4、決定はE弁面についてその供述自体については大要、「勝手場の捜索を担当し、その場にあった『うま』を利用して鴨居の上を捜した。そのとき鴨居のところにポロがちよっと見えたのを記憶している。ポロを取り出して中をいろいろ見たが、暗くてよくわからなかった。手の届く鴨居の範囲のところをずっとなでるように捜したが、何も発見できなかった。目でもよく見たが何もなかったことは間違いない。」などと供述していることを認めた上で、右供述は捜索から約二八年も経って行われたものであるばかりでなく、前掲細川ほか報告書で右Eは「昭和五四年に退職して間もなく、脳血栓を患って以来、長患いをしており、昭和三八年五月の請求人宅捜索の模様については、古いことで忘れてしまった。」などと述べて、具体的な捜索の状況を供述しなかったのであるというのであるから、E弁面が確かな記憶に基づくものか心許ないとする。
 しかしながら、E弁面は三通にわたるものであり、一通目は平成三年七月一三日付弁護人一名他一名に対するものであり、二通目は平成三年一二月七日付弁護人一名他二名に対するものであり、三通目は平成四年五月一六日付弁面は主任弁護人山上益朗、弁護人中山武敏、弁護人青木孝の三人の弁護人他二名計五名に対するものである。右三通の弁面は約一〇ケ月間の間になされたものにもかかわらず、供述は安定しており、矛盾するものはない。約一〇ケ月にわたり、弁護人が慎重に調査し、確信をもったものである。まず、平成三年七月一三日付弁面においてEは「当時、狭山事件は新聞等で騒がれた大きな事件でしたので、まだ印象は残っています。」とし、「当日は、朝早く警察の本部に集まり、上司からその場で順次番号をふって捜査場所を割り当てられ」「すぐに石川さんのお宅に捜索に行」き「私が割り当てられた捜索の場所は、いわゆるお勝手といわれるところで、あとでそのお勝手口の上の鴨居の所から万年筆が発見されて、大騒ぎになった場所である」ことをはっきりと供述するとともに、「お勝手入口の上の鴨居の所にポロがつめてあったのを覚えている」「私はその場所を捜すのに踏み台のようなものを置いてその上に登り捜索しました。」「ポロを取って中も捜しました」「穴の中には何もなく何も発見できませんでした。」「そして、そのポロがあった鴨居のところも手を入れたり見たりして、ていねいに捜しましたが何もありませんでした。」「私は背の高さが一五八センチメートルで」「踏み台のようなものに乗って捜したので鴨居の中の奥の方まで見えますが、そのとき中を見ても何もありませんでしたし、手袋をした手でも、鴨居の部分をよく捜しましたが、何もありませんでした。」「私の記憶に今も残っており、まちがいありません。」「私達が捜したずっと後になって、私が今日お話ししたお勝手出入口上の鴨居のところから万年筆が発見されたと言われ、全くびっくりしました。発見されたところは私が間違いなく捜して、何もなかったところなのに本当に不思議に思いました。」としている。
 平成三年一二月七日付E弁面も具体的であり、「お勝手の出入口の鴨居のところにポロがちよつと見えたのを発見しました。三センチ位ポロが見えたのを記憶しています。」 「三センチくらい出ていたポロを、私が取り出して、中をいろいろ見ました。中は暗くてよくわかりませんでした。そしてそのあたりから手の届く範囲の鴨居のところをずっとなでるように捜しましたが、何もありませんでした。目でもよく見ましたが何もありませんでした。」「私がポロを取り出した様子や、手で鴨居をなでた様子は、私の自宅のところで、実際に今、やってみたところです。」 と供述するとともに、Eは弁護人らの面前で自宅の和室を請求人宅お勝手に見立てて、台に乗って捜索状況を実演している。そして、Eは自らポロの大きさまで親指と人差し指で指し示し、三センチ位などと具体的である。そして右Eは「捜索した時、私は頼まれごとではないので人より遅れをとらないよう一生懸命にやったつもりです。これは大きな事件ですので、責任と自覚を持って間違いなくやりました。」 として、刑事としてのプライドをもって、真剣に捜索した態度が伝わってきている。
 そして、平成四年五月一六日付E弁面でも同様に、万年筆が発見されたお勝手鴨居を捜索した旨を供述した上「裁判所がきていただければ、いつでもお話しする」と言明している。右E弁面はEが、当時大きな事件であるとの認識のもとに落ちのないように刑事のプライドをかけて、責任と自覚をもって捜索し、確かにお勝手鴨居の部分のポロがあった穴や、その鴨居を手を入れて捜したのに何も発見されなかったのに、同じところから後に、第三回の捜索で万年筆が発見されたことから大騒ぎになり、強く印象されたものである。責任と自覚を持った刑事としてのプライドをかけて大事件の捜索に従事した元警察官が、供述調書の重みを警察官として十分に理解した上で、供述に応じ、指印捺印までしている事実はあまりにも重い。決定のように心許ないというのであれば、右Eはいつでも裁判所が来れば話すと言明し、弁護側も証人尋問の申請を何度となく繰り返していたのに、それを一方的に拒否しておきながら、「E弁面が、確かな記憶に基づくものか、甚だ心許ない」などと決めつける原決定はとうてい受け入れられない。特に本件のような大事件にあって、現場の捜索に責任と自覚を持って実際に従事した捜査官が、自分の記憶にないにもかかわらず、意に反する供述調書の作成に応ずるなどとは、とうてい考えられない。
 右Eはその後も現場の捜査官として、その職務を全うし、警察関係の功労者として勲章まで受けている。
 前掲細川ほか報告書における、昭和六一年一〇月の供述の一部の中に 「長患いしており、古いことで忘れてしまった。」 などと述べていても、右同日の供述全体も、忘れたというよりも、なるべく触れたくない、話したくないとの程度の受け答えに過ぎない。決定が指摘する、昭和六一年一〇月二日付E供述は、弁護人青木孝らがはじめてEの所在を確認し、初対面のときのものである。
 そして、右供述日において、弁護人が弁護士である旨、狭山事件を調査しており、その件で事情聴取に伺つた旨を述べたときのEの驚きの対応から、はじまっている。即ち、弁護人が 「夜分申し訳ありません。あの私ですね弁護士の青木といいますが。」 というと、驚いたようにEが 「えっ。」 と答え、更に弁護人が「あの実は、狭山事件を調査しておりまして、ちよっとお話をうかがわせていただきたいんですが。」といい、これに対しEが、「もう忘れちゃったよ、脳血栓でここ休んでんだからね。脳血栓。右半身きかなくなって、あんまり。それでももう七年になんだ。」と反応したことからはじまっている。 Eはこの日の事情聴取では、何度も何度も「忘れちゃった。」を連発する一方、弁護人らが請求人宅の家宅捜査時の写真を見せると、その中に被写されている「関口邦造」「諏訪部」「福島」「石川金五」「飯野」を確認し、Sについても、記憶がある旨の供述をしている。また、Eにとっては、鴨居を「なげし」とも呼んでおり、担当した捜索場所については、このときは明言をさけたものの、「なんか台一つおいたっけな」「台したような気がするけどね」「なげし、なげしもやったよ」とし、年齢については「六七」で「大正八年生まれ」、背の高さは「一メーター五入センチ」とし、弁護人の「なげしなんかこうね、捜されたときに、何か押収されたものなんてありますかね」との質問に、Eは「ない、なかったね」と答え、「わしは背が低いから、台がなければ、こんなとこ届かないね。一メーター五八センチしかないもんだから」とし、Eの捜索の班は「三、四人だと思つたね。記憶はね」と供述し、具体的に記憶していることを自ら認めている。そして、「押入とかそういう所を捜索されたか」という質問に「なんちゅんだかなー。この。」 と答え、弁護人が「鴨居」(?)と質問すると、Eは「鴨居ちゅんか、なげしみたいなとこ、そこだ。」 と答え、Eが右の答えを供述しながら、自ら自宅玄関引き戸の上の桟の上部を指さした。本件万年筆が発見された請求人宅の鴨居の構造と似ているところを指したものである。そして、弁護人が病気の程度を聞いても「入院はしねえ」と答え、入院する程度ではなかったことを答えている。
 右調査日のE供述の全体を見れば、突然、二八年以上も経って、狭山事件の弁護人らが訪問したことに驚き、なるべく話したくないとの思いから、単に「忘れちゃった」を連発したに過ぎない。それでも、このときでさえ、場所こそ特定することをさけたものの、なげし、鴨居を捜索して、何も押収したものはなかったことを、述べていたことこそ、注目に値するものである。その後の弁面で、一〇ケ月にわたる弁護人への供述は、事実を話すことを決意した、元警察官のプライドが、ひしひしと伝わってくるのである。
 E弁面についての決定の曲解は、はなはだしい。右昭和六一年一〇月二日の全体の供述も、これをもって記憶が不鮮明であるなどということはとうていできないし、後のE弁面を否定するものは何も存しない。むしろEは現場の捜査官として自身の供述が狭山事件において、いかなる意味を持つかは十分すぎるほど理解し、それでも、一〇ケ月間にわたって供述内容も変遷することなく三人の弁護人に対して三回供述しており、弁護人らに対する供述、E弁面こそ信用し得ると言うべきである。

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二、本件万年筆と被害者の万年筆との同一性

 決定は要するに、被害者がライトブルーのインクを常用しており、当日午前のペン 習字の授業でも同種のインクを用いているが、本件万年筆に入っていたインクはブルーブラックであって、被害者の常用していたインクと異なることを前提にしつつも、「被害者の兄N・K、姉N・T、学友Y・Tの第一審における各証言、N方に保管されていた万年筆の保証書(浦和地裁前同押号の六二)により、本件万年筆は被害者の持ち物で、当時被害者が携帯して使用していた万年筆であると認められる。
 就中、K(被害者の兄)の右証言によれば、本件万年筆は、昭和三七年二月に、同人が西武デパートで買って被害者に与えたパイロット製の金色のキャップ、ピンク系の色物のペン軸、金ペンの万年筆で、その後も、自宅で書きもの仕事をするとき、被害者から借りて使っていたことがあり、外観、インク充填の様式、捜査官から被害者の持ち物か確認を求められて試用した際のペン先の硬さ具合などから、被害者の万年筆に間違いないというのであって、本件万年筆に被害者が平常使用しないブルーブラックのインクが入っていた事実を踏まえて慎重に検討しても、Kの右証言の信用性は左右されない」とする。
 しかしながら、右指摘の保証書は、もともと同じ種類の万年筆であることを示すにとどまっているものに過ぎず、本件万年筆と被害者の万年筆が、具体的に一致する直接的な証拠とはならないばかりか、被害者兄N・Kの、試用の際のペン先の硬さ具合などで、同一性をはかられるものでは全くないし、右Kの信用性の担保も全く存しない。本件捜査当時、いち早く捜査側は保証書を確認し、販売元、製造元まで捜査しており、保証書と同一種類の万年筆を捜査等において入手していたであろうことは容易に想起される。発見された万年筆が偽造のものであるとすれば、それは捜査側の関与なしには不可能であって、そうとすれば先に保証書を入手して同種類の万年筆を入手しているであろう捜査側が、真実らしく偽造するには同種類の万年筆を使わざるを得ないことは明らかである。右のように、いくら保証書と発見された万年筆が同一種類のものであることを強調しても同一性の証明にならないことは明らかである。むしろ、被害者が、事件当日午前中のペン習字の授業で、一貫して常用していたライトブルーのインクの万年筆を使用していたことこそが重要であり、そして右ペン習字は最後までライトブルーのインクで記載されていることが明らかである。確定判決によれば、被害者は五月一日午後に死亡したとされているのであるから、ペン習字を終えた後、死亡までの間に、ブルーブラックのインクを入れていなければならない。しかし、本件記録をいくら精査しても、その形跡は全くないのである。まず、第一に、被害者が学校を出る前に、クラスの友人達からブルーブラックのインクを補充したのであれば、その後、その万年筆を何らかに使用する予定がなければインクを補充する意味はないのに、それを窺わせる証拠は何ひとつない。更に、ペン習字の文字につき、その末尾を見ても、インクが足りなくなってきてかすれたような痕跡も全くないのである。また、郵便局でインクを入れたとするには、あまりにも不自然であり、横田報告書、S員面等によっても、被害者が、異なるインクをことさら入れることはあり得ない。また、確定判決は、被害者は学校を出た後、特段の予定はなかったというのであるから、そうであればなおのこと、郵便局で、インクを補充して帰宅しなければならない理由は全くない。被害者の自宅には、当時、ライトブルーのインク瓶があり、当日までつけていた当用日記も、全てライトブルーで記載されていることからしても、郵便局へ寄った後、何らかの事情で、万年筆を使用する可能性があるところに寄る予定があるなどの特段の事情があれば格別、本件記録の他の証拠を総合しても、ことさら補充するような事情は全く存しない。翌日以降、学校などで使用するのであれば、自宅に帰ったあと、自宅のライトブルーのインクを補充すれば足りる。また、被害者は日記をつけるなど、かなり几帳面な一面もあることを考えると、もし仮に本件事件当日、どこかでブルーブラックのインクを補充してしまえば、当日まで、すべてライトブルーのインクで記載されていた日記のインクが、ブルーブラックにもなりかねず、自宅に帰ればライトブルーのインクが常置されていたことをもあわせて考えると、あまりにも不自然である。まして、本件万年筆が、被害者の万年筆であるとすれば、インクを入れ替えるときに、キャップをはずし、中のスポイトを操作することになるが、右万年筆のスポイトは、インクが入っている部分を、手指でつまむと、指紋の痕跡が肉眼でも見えるような、金属製様の簡状で、その末端に上下に動くポッチ様がついている構造であって、具体的にインクを入れる通常の形態通り操作すれば、右金属製様の筒状部分を左右いずれかの手指でつまんだりして支持して、もう一方の親指と人差し指で、ボッチを持って、それを上下に動かして、インクを補充する構造となっている。右のように操作すると、実際に、右万年筆を手にして検証してみると、一目瞭然あてるようにしてみるだけで、肉眼でさえ指紋の存在が確認できるはどである。本件万年筆には、もしこれが被害者の万年筆であり、事件当日午前中のペン習字の授業の後に、被害者がインクを補充したとされるのであれば、右の箇所に、被害者の指紋が検出されるのが、ごく自然であるのに、それがないのである。また、もし右万年筆が被害者のものであれば、前日または当日補充していなくても、補充する人は記録上、被害者しかあり得ず、事件当日より数日前に補充しても、被害者の指紋がスポイト部分に遺留されているが自然であるのに、これさえも存しないのはあまりにも不自然という他はない。
 本件万年筆は被害者の万年筆とは、とうてい言えず、偽造の疑いが極めて濃い。
 原決定が、「当日午前のペン習字の後に、本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がないわけではない」などとして、本件万年筆が被害者の持ち物であることに存する合理的疑いを回避したことは、刑事裁判の鉄則にも反する誤りである。

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三、万年筆は偽造であり、秘密の暴露に該たるものではない。

  本件万年筆は偽造であり、自白の信用性を裏付けるような秘密の暴露に該たるものではないし、むしろ石川無実を指し示す無実の重大な積極証拠の一つである。

 1、本件万年筆は前述のように、そもそも発見の経過自体が不自然である。
 確定判決は、「万年筆のあったのは鴨居の奥行約八・五センチの位置であるから、背の低い人には見えにくく、人目に付き易いところであるとは認められない」とし請求人の自白に基づいて万年筆が発見されたものとした。しかしながら、本件万年筆は、偽造のものである。
 検証を実施した原一審裁判所は、「前掲当裁判所の検証調書及び小島朝政作成の同年六月二六日付捜索差押調書によれば、右隠匿場所は、勝手場出入口上方の鴨居で、人目に触れるところであり、その長さ、上方の空間及び奥行いずれも僅かしかなく、もし手を伸ばして捜せば簡単に発見し得るところではある」とし、請求人方を三回にわたり捜索した小島朝政は、原二審において、万年筆の発見場所について「あまりにも簡単な所に、あったということだと思います」と供述している。
 確定判決は、検証結果に基づく「人目に触れるところ」という原一審の認定や捜査責任者の原二審証言に反し、結論としては、前記の通り「人目に付き易いところではあるとは認められない」とし、「背の低い人には見えにく」いとした。しかし、第二次再審請求で請求人方家宅捜索に従事した元警察官に対する事情聴取の結果、明らかになったことは元警察官は、Eのように背の低い人(一五八センチメートル)もいたが、低い人は台等を使用するなど工夫して捜索しているし、T(一七三センチメートル)のように当時としては比較的背の高い人もいたのである。そして、Eのように背の低い人は、台に乗つて捜索するなどの工夫をし、完全を期していたのである。
 内田鑑定書は、本件万年筆認知の可能性について、本件捜索時刻の照明度などを与件として、実験を実施した結果に基づいて作成されたものである。それはまさに小島証人をはじめ、該勝手場鴨居の前に立った人々の「こんなに発見されやすいところ!」という実感を科学的に裏付けるものである。
 本件万年筆隠匿場所が、発見され易いところであることを否定した確定判決及び第一次再審請求各決定の事実認定は、第二次再審請求における新証拠である内田報告書、内田鑑定書によって、いずれも現実から遊離した憶測に過ぎないことが、科学的に明らかにされた。
 内田報告書、内田鑑定書は、本件万年筆がその発見に先立つ二回の捜索の折に発見されない筈はないこと、従って本件万年筆捜索に捜査当局の作為が介在していることを推認させるに足る前提事実を確定した。そして、本件押収万年筆は、真に被害者の所持品であるかという問題が提起されたのである。

2、押収万年筆は被害者のものではない。
 押収万年筆在中のインクの色はブルーブラックであるのに、被害者が事件当日午前中使用していた万年筆のインクの色はライトブルーと認められることから、押収万年筆と被害者が所持していた万年筆とは別物であることが、第二次再審においても再審理由となっている。
 右につき、第一次再審請求審は、被害者の級友N・Tの原二審証言によると、同人が事件の当日かその前日ころ被害者にインクを貸したことがあり、また被害者は当日の午後狭山郵便局に立ち寄っていることから、それらの機会にライトブルーとは異質のインクを補充し、「そのインクが本件万年筆に残留していたという事態の考えられる可能性は十分に存在する」としていた。
 第二次再審請求における本決定は、被害者の当用日記(本事件発生日当日までライトブルーのインクで書かれていた)及びペン習字浄書(事件当日の午前中にライトブルーのインクで書かれていた)が、いずれもライトブルーのインクを被害者が常用していたことを認めた上で、保証書や被害者の実兄N・Kのペン先の「硬さ具合」から被害者の万年筆であるとする証言により被害者の所持していた万年筆であるとする。
 ところで、第一次再審における各審の認定は、いずれも事件当日か前日被害者にインクを貸したことがある旨のN・Tの原二審証言に依拠していた。しかし、右証言(昭和四七年九月一九日六八回公判)は、もともと(インクをNさんに貸したのは)「事件のあった日か前の日だと思います。けれどもよくわからないんです。」という程度の曖昧なものでしかなかった。新証拠であるN・Tの検察官に対する昭和三八年五月二九日付供述調書には「五月一日、午前中の休み時間に私が友達から借りていた女学生の友四月号をNさんに貸しました」旨記載があり、同人は同年一一月一八日の原一審六回公判においても、検察官から事件当日被害者に何か貸したものはないかと尋ねられ、友達から借りた『女学生の友』を貸しましたと証言している。
 同じくN・Tの司法警察員に対する昭和三八年七月二七日付供述調書には、事件当日の一週間前の同年四月二四日被害者に対しインクを貸した旨の供述記載がある。
 すなわち、事件後間もなくで記憶の鮮明な時期には右Nは、事件当日に被害者に貸したものは『女学生の友』であり、インクを貸したのは四月二四日である旨を明確に述べていたのである。更に、被害者が所持万年筆にインクを補充しているところは目撃していないこともあり、被害者が真に補充したか否かについては、曖昧さを残していた。右調書には、「Nさんが私にインクをかしてくれといったとき、色が違っちゃうかなといいました」旨の記載があるが、被害者の当用日記の四月二四日以降分は、それ以前の部分と同じライトブルーのインクで書かれており、四月二四日被害者は、右Nのブルーブラックのインクをいったんは借りたものの、これを補充しなかったことは、客観的に確定されている。一週間後の事件当日の一時間目のペン習字の授業中、被害者が書いたペン習字浄書も、ライトブルーのインクで書かれており、被害者が前日や当日のペン習字授業に先立って、右Nのブルーブラックのインクを補充したということは、あり得ないことも客観的に確定されている。事件当日までの当用日記及び当日のペン習字が、いずれもライトブルーであることが明らかになった現在、右N供述にかかるインクの補充の可能性は存しない。仮に、右Nより、インクを借りて、被害者が補充したとすれば、前述のごとく、万年筆のスポイト部分に、被害者の指紋等が付着してごく当然であるのに、全く存しないのであり、この点でも補充の可能性はない。残る可能性は、下校の途中、狭山郵便局における同局備付のブルーブラックインクの補充だけである。
 被害者が、当日の午後に、領収書を受領するため狭山郵便局に立ち寄ったこと自体は、争いがない。しかし、被害者が、右備付インクを補充したことを示す証拠は全くなく、次の理由からも補充の事実は否定される。すなわち、前記N・Tの七・二七員調書の記載によれば、四月二四日一旦インクを借りながら、被害者はインクの色が変わることを気にして補充をためらっていることが窺われるが、当用日記の同月二四日以降の色が変わっていないことは、結局インクを補充しなかったことを示すのである。必要性の高かった教室内でさえ補充しなかった被害者が、必要性の低い下校途中に、補充するということ自体が、そもそもきわめて考えにくいことである。S・Sの昭和三八年五月七日付員面調書によると、被害者が来客した際局内には数人の客がいたという。同じく横田報告書記載のとおり当日被害者と応待したS・S(当時主事)は、局員が見ていれば、自分の所持する万年筆に局備付のインクを補充する者はいないので、そのような客を見たことがない旨を述べている。同人によれば、当時の局の公衆室は間口三間、奥行一間半の狭い場所であった。数人の客や局員らの目があるなかで、クラスの長としての任務をもって来局していた高校新入生の被害者が、盗みに類するような行為をするとはまず考えられないところである。
 しかも被害者の所持していた万年筆は、もともとは筆箱の中にあり、筆箱は鞄の中にあり、鞄は自転車の荷台にゴムひもでくくりつけられていたと考えられ、これをことさら色の違うインクを入れるために、自転車の荷台のゴムひもをほどき、鞄を取り出し、その中の筆箱をわざわざ取り出して、更に、万年筆を取り出して、領収書の受領のみのために立ち寄った郵便局で、ことさら、インクを入れるとは考えられない。以上の事情を越えて、なおかつ被害者が、狭山郵便局で、インクを補充した可能性があるとするには、それを首肯させるに足るだけの特段の事情が、示されねばならない。確定判決によれば、被害者は学校から帰宅途中どこかに立ち寄るような予定は全くなく、万年筆を使用するような場面も全く想定できない。
 右のように、被害者が、事件当日か前日ころN・Tのインクを補充した可能性も、当日午後狭山郵便局で補充した事実も全く認められない。更に請求人方捜索に従事した元警察官の供述によっても、被害者の万年筆が、一回日の捜索に先立って請求人宅にあったとはとうてい認められない。
 本件押収万年筆は、その発見経過に、何らかのかたちで、捜査官の作為が介在している疑いが強いといわざるを得ないだけでなく、その在中インクは、被害者が生前所持していた万年筆在中のインクとも異質であることから、被害者の所持品とは認められず、本件万年筆発見がいわゆる秘密の暴露に該らないことはいうまでもない。万年筆に関する原決定の誤りであり、ただちに破棄され、再審が開始されるべきである。

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