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狭山事件-最新情報

              

論文紹介

石川さんに脅迫状は書けたか?!

        

 以下に紹介する文章は、このホームページの常連閲覧者の一人でいらっしゃる藤沢汎子さんが、東日本部落解放研究所の機関誌『明日を拓く』に書かれたものです。藤沢さんは、事件当時の石川一雄さんの筆跡について、ずっと考察を続けてこられました。
 2002年の高橋決定で東京高等裁判所は、たとえ系統的な書字教育を受けられなくても、一般的な社会生活の中で大人になれば自然に文字を習得するものだ、として、石川さんに「脅迫状は書けた」と断定しました。弁護側が筆跡鑑定の資料とした石川さんが書いた文書が「たどたどしい文字」なのは、緊張していたり、書けないように見せるためにわざとそうしたのであって、当時の石川さんの書字能力を正確に表していない、としたのです。
 これは本当でしょうか。藤沢さんは、この断定に強い疑念を抱いています。
 石川さんが逮捕直後に書いた手紙を探し出し、この疑問に対する答えを探します。皆さんぜひ読んでみてください。


                     

逮捕二日後の石川さんの「手紙」

―事件当時の石川さんの書字能力についての考察―

藤沢汎子

 『明日を拓く』41号(東日本部落解放研究所紀要)に「石川無実を示す逮捕直後の図面文字―書字力の変化の考察から高木決定を批判する」と題する文章を掲載していただいた。その後、本年一月二十三日、東京高裁高橋裁判長は石川さんの異議申し立てを棄却し、裁判は最高裁への特別抗告審に入っている。
 筆跡問題の一つの論点として、高木裁判長、あるいは高橋裁判長は、“石川さんが義務教育を十分受けられなかったとしても仕事など社会生活を送る中で自然に読み書きの力を付けていった”と主張するのだが、現実はそんな簡単なものではなく、読み書きの力を奪われることがどんなことなのかを裁判所にわからせるために、識字作品などの中から多くの実例を集める作業を進めている。そして、石川さんの事件当時の国語力・書字力を示す新たな証拠・証人をみつけることができないだろうか、というのが私のもう一つの問題意識である。
 後者にかかわる点として、41号前掲稿で石川さんが逮捕の翌々日に書いたという家族への手紙(「あんちゃんのととりかいてください をかちんげんきです 石川一夫」)について触れたが、その手紙についてこのたび新しい情報を得ることができたので、前稿を補強する意味で、また同時にこの手紙のことを多くの人に知ってもらいたいと思い、この原稿を書くことにした。

 昨年の春、狭山事件の公判調書を読むまでは、私自身はこの手紙の存在を全く知らなかった。しかし、足立支部のある仲間は「をかちんげんきです」という文面に聞き覚えがあると話していたから、かなり前には狭山を闘う人々の間で知られていた事実だったのであろう。
 狭山第一審、第二審の公判の中で、この手紙のことは(私が読み落としたのでなければ)ただ一度だけしか登場していない。41号の拙文でも紹介したが、和島岩吉弁護人が第二審の最終弁論(一九七四年九月一〇日・第七八回公判)で次のように述べている。

(略) 捜査過程で公判でも筆跡鑑定が度々現われていますが、文字の形態とか筆圧の点にいろいろの意見が出ていますが、それ以前の問題として被告人の識字程度、作文能力の程度が考えられねばなりません。被告人が家へ書き送った手紙とか鑑定資料を比較して、こうした観点から考察されると簡単に答が出てくると考えますが、いかがでしょう。
 今私は、手許にある「土方鉄著、差別裁判」を見ています。その扉に「脅迫状」と被告人が事件当時、家へ書き送った手紙を一頁に上下欄に写真版で対照して居ります
 著者は「どこが筆跡一致なのか」といとも簡単に判決しています
 脅迫状の暢達の文章は前述しましたが筆跡も脅迫文の達者な横書の文字、これだけの筆跡の人がこれだけの文章を書ける人がどうして「刑札」とか「車出」とかの宛字を書くのだろうかと不思議に堪えません。わざと稚拙をよそおっているという人達に私は無条件賛成しますし、この著者同様筆跡も一見似ても似つかぬものと判断します。
 家への手紙は何回読んでも私には意味が通じません。良寛の墨跡と同様全文平仮名で石川一夫だけが漢字です
 鑑定については相弁護人中の担当者から詳論される筈でありますから私はここで端折りますが、筆跡鑑定の専門家中に似ていると言う人があるのに驚く外ありません。それよりも驚がくに堪えないことは、原審裁判所がこれを被告人の筆跡と認めていることです。おそらく専門家の鑑定や被告人の自白からそうした認定となったと考えますが、虚心にこれを対比して裁判官各位が観察されたのでしょうか。また、鑑定の説明を結論だけでなく説明書を充分読まれたのでしょうか。
 私は、法律専門家でない差別裁判の著者の直裁簡明な方法\写真で対照\とその判決に冷水三斗の思いがしました。自分をも含めてともすれば知らず知らずの間に物の見方を第二次的な形式的な面に走り、専門家がこう言うからとか、言った点に支配され自らの眼をくもらせ、自らの判断力を失っているのではないかと反省させられるのであります。
 この対照からだけでも原審は被告の無罪の判断ができなかったか。(以下略)

 この弁論の中で和島弁護士が言及されている「被告人が事件当時、家へ書き送った手紙」をぜひとも私も見てみたいと思った。まずは土方鉄著『差別裁判』(新報新書・一九七〇年発行)をインターネットで探してある古本屋から求めた。早速開いてみると、扉ページの裏に脅迫状と対比させて掲載されており、「どこが“筆跡一致”なのか」という著者のコメントが付されていた。

 手紙というよりメモ書きのような短い文だが、名前以外はかなで書かれ、「あんちやんのととりかいてくた」「をかちんげんきです」と読める。「あんちやんの」の次を「ととり」と読んでしまうとわけが分からなくなるが、「と、とりかえてくだ(さい)」だろうと見当がついた(「さい」は紙が足りなくなって切れたのだろうか、と思ったが後述の資料アカハタによると、原文には「さい」が付されていた)。
 それにしても、明らかに普段ほとんど文章を書きつけない人が書いたものであることは明らかだ。説明文には「被告人が事件当時、家へ書き送った手紙」とだけ書かれていて、いつ、どこで書かれたものかは記されていなかった。
 そこで、筆者の土方さんに電話でたずねたところ、当時手紙の現物を撮影したのではなく、他の出版物から写したということであった。それでは、そのもとの出版物はなにかと、いろんな人に電話をかけまくり、国会図書館にも行ってあれこれさがしていたところ、本部の安田聡さんからそれらしいアカハタのコピーを送っていただいた。一九六三年五月二九日付けの新聞「アカハタ」である。
 この記事は、一つの面の三分の一ぐらいを占める大きな扱いで、「犯人捜査に名を借る人権侵害」、「物証ないまま自白強要」「捜査当局に部落差別の予断、偏見」との大見出しも付している。脅迫状の一部と手紙が上下に対比させて掲載してある。この手紙は石川さんが逮捕二日後後の二五日に書いたものとして紹介されており、「脅迫状の書き慣れた筆跡と、石川青年のたどたどしい筆はこびはあきらかにちがっている」と、以下のような説明が付されている(下右写真)。

写真説明 上は中田さん宅に投げ込まれた脅迫状。下は拘留中の石川青年が二十五日、家族にあてた手紙。原文は「あんちゃんのととりかいてください をかちんげんきです」=兄さんの(衣服)ととりかえてください、おかあさん(わたしは)元気です=石川青年の本名は一雄だが、雄が書けなくていつも夫ですませていた。脅迫状の書きなれた筆跡と、石川青年のたどたどしい筆はこびはあきらかにちがっている。なお石川青年は義務教育も満足にうけてなく、小学校五、六年ころには、ほとんど学校にも顔を出していない。中学校には学籍簿さえない。

 この記事では、部落に狙いを付けた見込み捜査を批判し、物的証拠は何もないこと、商業紙が石川青年を極悪犯人として報じていることを批判している。そして、脅迫状と手紙との対比が大きなインパクトを読者に与えている。おそらくこの記事を書いたアカハタの記者は、石川無実を確信して書いたことであろう。
 ところで、アカハタが狭山事件をとりあげた記事としてはこれが一番大きく、六月十三日付けの「違法捜査は誤った結果招く―埼玉・狭山女高生殺害事件―」の記事では別件捜査を批判しているものの「現在の段階で石川青年は白、黒いずれとも断定はできないが、」とトーンダウン。六月十五日付けでは「石川青年を別件で起訴」六月十八日には「石川青年を強引に再逮捕」とさらに小さく報じている。六月十七日には「読者からの手紙」欄に「デッチあげをさせない監視を」と題した投書が掲載され、その内容は「状況証拠だけで物的証拠が一つもなく、自白を強要してきめ手としようとしているやり方、また別件で起訴したというやり方」と批判し「石川青年は部落民ということでねらわれたのではないでしょうか。」と京都五番町事件にも触れて書いている。ところが、七月九日の本件の起訴を報じる記事はいくら探しても見当たらなかったのである。複雑な思いにいたったが、この原稿はそのことが主題ではないので先に進むことにする。

 そうか、五月二十九日付けの記事がいうように五月二十五日に書いたとすれば、「よりしや」とか「エきどんり」「じどんし」などの逮捕直後の供述調書添付図面の説明文字と同じ時期のもので、この手紙も当時の石川さんの書字力(すなわちあの脅迫状を書くことはありえない)を示す大切な証拠のひとつではないか。しかし、逮捕直後、家へ手紙を書くというのもきわめて異例のことだ。筆跡を見ようとの狙いがあって取調官が書かせたのだろうか、あるいは関巡査が親切心から(?)こっそり書かせて家に届けたのか、そこのところもよくわからない。ただ五月二十五日に書いたという以上の説明は付されていない。さらに、この手紙は新聞に大きく掲載されながら、どうして証拠として裁判に出されなかったのだろうか?
 
 裁判所は、脅迫状と、上申書や図面文字など石川さんが逮捕前後に書いたものとは、大きな差があることを認め、殺人の容疑をかけられたり、あるいは逮捕されたことによる精神的緊張によって上申書、図面文字などがたどたどしいものになったとする。しかし、もちろん、緊張によって拗促音表記ができなくなったり、「ぐ」の濁点を左にうったり、「う」と書くところを「ん」と書くなどはありえないことだ。
 また、同裁判長は脅迫状は「自由な意思表示(!)」であり、他方、上申書などは「いやいや」または「わざと下手に」書かれたものといいたげである。しかし、通常は脅迫状こそ筆跡を隠そう、偽ろうとするものではないか。明らかな書字力の差を、書いたときの精神状態に帰してしまおうとする高木裁判長の論理は容認することはできない。
 その上で、裁判所に問いたいのだが、この家への手紙の筆致のたどたどしさも、精神状態によるというのだろうか。差入れをたのみ、母親に自分は元気だと伝えている家への手紙は、少なくとも「いやいや」書かされたのでもなく、またそれほど緊張して書かれたのでもないといえるだろう。││というのが、41号の拙稿にこの手紙のことを書いた趣旨であった。

 それから数ヶ月が経過したある日、図書館で石川一郎著『狭山現地報告』(一九七八年発行・三一書房)という本をみつけた。著者の石川一郎氏は、今は故人となっておられるが、狭山事件当時の入間川菅原四丁目の町内会長であり、その後狭山市会議員、狭山市民の会会長として活躍された方である。
 この本の19頁に次の一節がある。

 (五月)二十六日頃の夜、石川一雄君の留守宅を見舞うべく訪れた際、父親の富造さんから「さっき刑事さんが、一雄からの手紙を届けてくれた」といって渡された短冊型の藁半紙を見せられた。
 その紙には鉛筆でたどたどしく縦書きで書いてあり、平仮名ばかりで漢字は一字もなかったが、一字一字は読めるが文意が判らない。何回か繰り返して見たが判読できないので、家人に聞いて見ると「兄さんのズボンをはいてきたので、自分のを届けて欲しい」ということが書かれているのだという。読点が一つも使われていなかったため、句の切れ目がわからず判読できなかったらしい。
 後に脅迫状は彼の書いたものとされたが、新聞で見た脅迫状の文字は、人を小馬鹿にしたような誤字を使用し、当時では筆者も書いたことのない横書きで走り書き。文意も明瞭に自分の意思を他人に伝えている。にくいことには「気んじょの人にも」と拗音を小字にしている。お恥しいことであるが、当時筆者の書いた埼玉新聞社への抗議で「事実は誠にその通りでしようか」と拗音を大字で書いているのを見ても、脅迫状を書いた者は文章記述について、新しい知識をもっていてしかも横書きの文章を書く仕事を持つ人なのだろうか。
 これに引き換え石川君が家族に送った手紙は、彼の書いたものを見なれた兄弟にだけはわかるが、他人が見ては意味がわからない。したがって脅迫状のような立派な文章は彼には書けないということになる。

 思いがけずこの文章をみつけたときは感動した。ここで書かれている「手紙」は、私がもっと詳しいことを知りたいと思っていた例の手紙とまさに同じものである。平仮名ばかりという点も然り、差入れの件で兄さんの衣服(ズボン)のことを書いてあるという内容も然り、また「二十六日頃」もアカハタの「二十五日に書いたもの」という説明とも合致する。そして、「刑事さんが届けてくれた」「短冊型の藁半紙に鉛筆で書かれていた」という新たな事実もわかったし、なによりも現物を目にした石川一郎さんがこの文章を書かれたということが、大きな意味を持っているのではないだろうか。これだけでも証拠にならないものなんだろうかとさえ思う。
 さらに、これまで私は「あんちやんのととりかいてください」は、なんとなく「兄さんの衣服を差入れしてほしい」という意味だと解釈していたが、「家人」によると全く逆で、「兄さんのズボンを今はいており、自分のを届けて欲しい」、という意味だとのこと。さらに後段は「おかあさん、(私は)元気です」との意味だと思い、41号拙文にもそう書いたのだが、もしかしたらそれは私の勝手な思いこみで、実は「お母さん、元気ですか」と母親の安否を気づかう文章だった可能性も否定できない。
 このように、なんとか文を解読はできても、他者には正しく意図が伝わりにくい文章を石川さんは書いていたのだ。石川一郎氏が書かれているように、そんな石川さんにそもそも脅迫状が書けるわけがない。しかもあの狡猾な、よく練られた脅迫状を絶対に書けるものではないのだ。石川さんが後に関巡査あてに書いた手紙は、警察の中でたくさんの字を書かされ、また拘置所の中では刑務官の助けのもと一生懸命に文字の勉強をした結果なのである。
 「精神的緊張」の一語をもって飛び越えるには、脅迫状と逮捕当時の石川さんの書字力の差は、大きすぎるのである。裁判所には、目をよく開いてこの家への手紙と脅迫状を見比べてほしいものである。
 それにしても裁判関係者にも忘れ去られた感があるこの手紙の実物は、どういう運命をたどって今どこに存在するのであろうか。

(足立識字学級・Mさんのことば)

裁判官はひどいねえ
石川さんはろうやのなかで一生懸命に練習して
やっと字が書けるようになったのに

上手に書けるようになった手紙を見て
こんなに書けるんだから
脅迫状も書けたはずだというんでしょ

そんなんだったら
書けるようにならない方がよかった
ということになってしまうよねえ

せっかく一生懸命に勉強したのに

            

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