東京の被差別部落


【「東京の被差別部落の歴史と現状」資料】

         

江戸・東京の部落史年表(近世前編)

(1590(天正18)年〜1699(元禄12)年)

             

(2003年1月10日近世前編up 浦本誉至史・作成)

 この年表は、近世初頭から明治維新期にかけてに起きた出来事の中で、東京の部落史上重要と思われる事を抜き出して年代順に並べたものです。現在、近世前編〔1590(天正18)年〜1699(元禄12)年]を公開しています。この年表を作成するにあたっては、参考文献一覧に掲示されている文献、および各項目に()書きで紹介した文献を利用しました。


1590(天正18)年

 8月 《近世弾左衛門支配のスタート》 徳川氏が江戸に入府。このとき江戸在住の長吏の頭・弾左衛門が「鎌倉以来の由緒」を申し出て徳川氏から関東の被差別民衆支配権を認められた(正徳5年・享保4年・同10年『弾左衛門由緒書』、および『天正日記』の記述による)。しかし実際に弾左衛門の被差別民衆支配権が確立したのはもっと後のこと。また、このときの江戸の長吏頭は、まだ弾左衛門と名乗っていなかったとの説が有力(塩見鮮一郎さんらの説による)。
 この頃、江戸建設の開始にともなって日本橋本町4丁目にあった刑場が、鳥越と本材木町5丁目の二カ所に分かれて移転する(『事跡合考』『武江年表』『御府内備考』等の記述による)。
 「弾左衛門」とその配下も、当時の居住地であった日本橋尼店(あまだな。日本橋室町)から鳥越に移転(『落穂集』『事蹟合考』『江戸砂子』『御府内備考』等の記述による)。この移転交渉の中で江戸の長吏頭に鎌倉以来の由緒有る被差別民支配者の名である「弾左衛門」の名が与えられたのではないかとの説(塩見鮮一郎さんの説)がある。尼店は、それ以降も弾左衛門が灯心を販売するための商いの場所として、無地代で活用できた(『落穂集』、享保4年・同10年『弾左衛門由緒書』の記述による)。
 《小田原太郎左衛門と弾左衛門の係争》 これに前後して、戦国時代後期に関東最大の勢力を誇った小田原の長吏頭太郎左衛門が、北条氏直発行の証文を提出して「長吏以下の支配」継続を求めたが、徳川氏はこれを許さず同証文を取り上げて弾左衛門に与えた(正徳5年・享保4年・同10年『弾左衛門由緒書』の記述による)。
 《非人たちの動向》 後の浅草非人頭車善七の先祖とその配下の非人たちは、この頃大川端(隅田川吾妻橋下流西岸)にいた(天保10年『車千代松由緒書』の記述による)。

1596(慶長1)年

 3月 徳川氏、奈良八郎左衛門、岡田又兵衛の両名の名前で、領内の皮作に「秀吉の戦闘準備命令によって皮が必要になったから持ってくるように」という命令を直接出す。この時点で関東全域対象の皮革集約に弾左衛門の介在なし。(『下野国半右衛門文書』所在の正徳5年『弾左衛門由緒書』付属書類の記述による)

1598(慶長3)年

 8月 豊臣秀吉死去

1600(慶長5)年

 9月 関ヶ原合戦 「この時初代弾左衛門集房が参加し、首実検の介添役を務めた。その時記録をするために家康から印を授けられたが、その印が弾左衛門家に伝えられた。印には集房(あるいは集方)と刻まれている」という伝説が弾左衛門家に伝えられる(正徳5年・享保4年・同10年『弾左衛門由緒書』等の記述による)。

1601(慶長6)年

 12月 青山常陸介忠成と内藤修理亮清成(『天正日記』の著者とされてきた人物)が江戸町奉行兼関東総奉行となる。両名の下で弾左衛門が勢力拡大を始める(中尾健次さんの説)。

1603(慶長8)年

 2月 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府が成立。弾左衛門、引き続き幕府の後ろ楯を得て勢力を拡大。

1604(慶長9)年

 1月29日 幕府、木村九郎右衛門高綱名で、相模中郡皮作(頭)厚木太郎右衛門に対して、これまで通り伴綱の納入をするよう命ずる。弾左衛門の介在なし(『下野国半右衛門文書』所在の正徳5年『弾左衛門由緒書』付属書類『木村高綱手形』記述による)
 2月6日《弾左衛門、幕府の関東全域対象皮革集約過程に輸送担当として登場》 弾左衛門、江戸から小田原まで鹿の原皮を輸送するため、幕府から伝馬1頭を許される(享保10年『弾左衛門由緒書』付属書類、及び『東照宮御実記』の記述による)。
 同日 幕府、矢部掃部定清名で、小田原太郎左衛門と相模中郡皮作(頭)厚木太郎右衛門に対して、白皮の納入を求める。弾左衛門の介在なし(塚田孝『近世日本身分制の研究』兵庫部落問題研究所刊、64P所在文書記述による)。
 ※1月29日の厚木太郎右衛門への命令、2月6日の小田原太郎左衛門・厚木太郎右衛門への命令を合わせて考えると、少なくともこの時点では、まだ弾左衛門の支配が相模の国に十分浸透していなかったことが分かる。

1608(慶長13)年

 《浅草非人頭の成立》 後の浅草非人頭車善七の先祖、町奉行から非人頭に任命され、鳥越に500坪の居住地を与えられる(天保10年『車千代松由緒書』の記述による)。

1615(慶長20)年

 4月 大阪夏陣、豊臣氏滅亡。

1617(元和3)年

 7月17日 2代(実は初代)弾左衛門集開(集開は法名。実名は集房)死去。※実は集開こそ最初の実在の弾左衛門。それ以前の弾左衛門(初代集房)は後から創作された架空の存在(松岡満雄さん等の説による)。江戸の長吏頭が弾左衛門と名乗るようになったのも集開以降のこと(塩見鮮一郎さんらの説による)。3代(実は2代)弾左衛門集季(幼名小次郎)が相続。集開(実名は集房)没時に弾左衛門家の菩提寺が創建される(松岡満雄さん等の説による)。

1618(元和4)年

 《元吉原の成立》 11月 庄司甚右衛門(『御府内備考』では庄司甚内)、幕府の許可を得て(1616年〈元和2年〉3月)江戸の遊女屋を一カ所に集めて日本橋葺屋町(現中央区人形町周辺)に遊里を開設。吉原と号す(『武江年表』の記述による。『嬉遊笑覧』にも記述在り)。

〔1621・22〈元和7・8〉年〜1635〈寛永12〉年頃〕

 《弾左衛門、幕府へ灯心上納を開始》

1621もしくは22(元和7もしくは8)年
 弾左衛門、幕府から命ぜられて、配下に江戸城台所において灯心細工をおこなわせる(享保4年『弾左衛門由緒書』の記述による)。
1635(寛永12)年
 この頃から弾左衛門が江戸城に灯心を上納し扶持を与えられるようになる(享保10年『弾左衛門由緒書』の記述による)。

1624(寛永1)年

 《江戸歌舞伎興行の開始》 2月15日 猿若(中村)勘三郎、中橋において歌舞伎を興行。猿若座(後の中村座)の始まり(『武江年表』の記述による)。

1632(寛永9)年

 猿若(中村)勘三郎の歌舞伎一座が、中橋から禰宜町(人形町)に移転(『武江年表』の記述による)。

1634(寛永11)年

 7月 村山又三郎一座、葺屋町で歌舞伎興行。村山座(後の市村座)の始まり(『武江年表』の記述による)。

1635(寛永12)年

 11月 幕府の官制(三奉行制とその職掌等)がほぼ定まる。
 12月 この頃品川非人頭松右衛門の先祖三河長九郎が品川に居住するようになり、流浪の民を集めてその頭領となる(文政11年『品川非人頭藤左衛門書上』の記述による)。

1640(寛永17)年

 10月3日 3代(実は2代)弾左衛門集季が死去。彼の代に北町奉行堀式部少輔直之(在職1631〈寛永8〉年〜1638〈寛永15〉年)から「内記」の内証名(「ないしょうみょう」を与えられる(享保4・10年『弾左衛門由緒書』の記述による)。内証名とは私信など内々の文書への署名等に使用された個人の通称名。以降「内記」の名前も歴代弾左衛門個人の自称の一つとなる(特に町奉行との「主従関係」を象徴する名前となる)。4代(実は3代)弾左衛門集信(のち集春、助右衛門)が相続。

1642(寛永19)年

 7月 山村小兵衛一座興行開始。山村長太夫座(山村座)の始まり(『山村座元禄十七年申二月六日書上』『武江年表』の記述による)。

1645(正保2)年

 《弾左衛門囲内・浅草新町の成立》 4代(実は3代)弾左衛門集信(集春・助右衛門)とその配下の長吏・猿飼たちが、鳥越から浅草北部に移住(鳥越が新たに武家地となったため)。これ以降、新居住地は「弾左衛門囲内(かこいうち)」通称「新町(しんちょう)」と呼ばれるようになる。鳥越以前の江戸初期には、弾左衛門とその一党は日本橋尼店に居住(『落穂集』『事蹟合考』『江戸砂子』『御府内備考』等の記述による)。「新町」の呼び名は、鳥越を「元町」とする考え方から起こったと考えられる。
 《小塚原刑場の成立》 このとき、江戸に二つあった刑場のうち鳥越の刑場が、弾左衛門一党とともに北浅草に移転、その後さらに小塚原に移転する。一時的に存在した浅草刑場の位置については、『御府内備考』に「浅草今戸橋手前東側」「新鳥越町一丁目西方寺向かい、日本堤上り口、八間斗の明地」「此西方寺の門前すこしき所明地にて、十間ばかりの長さ、幅は弐間斗もあらん所」等の説が紹介されている。『武江年表』はこれらの説をもとに「山谷堀今戸橋の南木戸の際、西方寺の前、すこしく土高くなりし明地、十間ばかりの長さ、幅二間ばかりの所」と紹介している。

1651(慶安4)年

 秋 猿若(中村)勘三郎一座、禰宜町(人形町)から堺町に移転(『武江年表』の記述による)。
 8月10日 《鈴ヶ森刑場の成立》 丸橋忠弥が鈴が森刑場で刑死(由井正雪事件)。4代(実は3代)弾左衛門集信、この時仕置役を出した褒美として町奉行石谷将監貞清から下賜金を受ける(享保4・10年『弾左衛門由緒書』の記述による)。この事件の直前に本材木町の刑場が鈴ヶ森に移転したと考えられる。

1652(慶安5・承応1)年

 6月 若衆歌舞伎禁令出る(『武江年表』の記述によるが、慶安5年に既にこの禁令が出ていたとの異説も紹介している)。

〔1648〜1652年(慶安年間)〕

 《乞胸が浅草非人頭の支配下に》 浅草非人頭車善七と乞胸長嶋礒右衛門らとの間で稼業を巡る争い、「長島磯右衛門(後の乞胸頭の先祖)たちが非人と同じ家業(非人が行っていた門付に類似した大道芸)をしているので、非人の稼ぎが薄くなって困る。稼業については非人頭の支配とする」旨示談が成立し、町奉行所に届け出る。この時長嶋礒右衛門(後の仁太夫)が乞胸頭となる。「乞胸(ごうむね)」は大道芸を生業とする近世的被差別民。(寛政5・11年『乞胸身分書』の記述による)

1657(明暦3)年

 1月18・19日 《明暦の大火》 本郷5丁目の日蓮宗寺院本妙寺から出火、大火となる。1万体の焼死体かたづけと埋葬、被災者への炊き出しを命ぜられた弾左衛門が、浅草非人頭車善七に依頼。車善七は配下の非人たち3,285人を出す(享保10年『車善七書上』『元延実録』『泰平年表』『明暦記』『玉露叢』『大江戸春秋』の記述による)。なお『明暦記』『玉露叢』『大江戸春秋』の記述によれば、この時松右衛門も人足を出している。
 6月15・16日 《吉原遊廓の成立》 吉原遊廓が元吉原(日本橋葺屋町、現中央区人形町付近)から浅草北部に移転、8月から営業を開始する(新吉原の成立)※移転命令自体は多額の補償金とともに前年1656年(明暦2年)10月9日に出されていたが、大火で元吉原が消失したことから一挙に移転が実現する運びとなった(『武江年表』の記述による)。
 9月 「革屋」を含む江戸市中の諸商人仲間、新規の商売参入の妨げとならないよう今後「申合」や「寄合」を停止する旨取り決める(『徳川禁令考』所在「諸商人仲ケ間一同之申合寄合等停止之事」)。

1659(万治2)年

 この年より前に武蔵鴻巣村で3人の磔がおこなわれたとき、幕府が検使を弾左衛門に任せたので、弾左衛門は伝馬を使い、槍を持った供を連れて鴻巣に行って役目を果たした(享保4・10年『弾左衛門由緒書』の記述による)

1660(万治3)年

 1月 森田太郎兵衛(勘弥)一座木挽町5丁目で興行開始。森田勘弥一座(後の守田座)の始まり(『武江年表』の記述による)。

1661(寛文1)年

 12月 大川(隅田川の吾妻橋より下流部分の名称)に両国橋が架橋され、隅田川左岸(本所・深川など江東地区、後に深川非人頭善三郎の支配領域となる)の開発が始まる(『武江年表』の記述による)。

〔1661〜1673年(寛文年間)〕

 《品川非人頭の成立》 三河長九郎が「芝非人頭」となり、松右衛門と改名する(江戸の非人頭複数に)(文政11年『品川非人頭藤左衛門書上』の記述による)。

1662(寛文2)年

 芝・三田(品川非人頭松右衛門の支配領域)が江戸府内(南北町奉行管轄)となる。

1666(寛文6)年

 11月18日 《車善七と配下の非人への移転命令》 町奉行非人頭車善七を呼びだし、その配下の非人たちとともに新吉原近郊の浅草寺寺領へ移住するよう命ずる。車善七引っ越し費用として町年寄から35両を与えられる(天保10年『車千代松由緒書』)。※非人頭車善七と配下の非人たちは、これ以前の1645年(正保2年)の長吏や猿飼たちと共に、既に北浅草に移転していたとの有力な説あり(塩見鮮一郎さんらの説)。塩見さんによれば、1666年(寛文6年)の移転命令は、北浅草のどこか別の場所から新吉原と隣接する土地への移転を命じたということになる。

1667(寛文7)年

 2月8日 《浅草非人小屋の成立》 非人頭車善七と配下の非人たちが新吉原近郊へ移住。
 2月28日早朝 《「金剛太夫事件」》 能の金剛太夫(金剛流宗家氏正)が幕府の許可を得て大規模な勧進能の興業を行ったが、その際弾左衛門に事前の断りを入れなかった。これを不当として弾左衛門が、手代(家老職)に指揮させて配下50人を興業の場に乱入させ上演を妨害した。この事件で老中は弾左衛門側を支持し、金剛太夫側の非が注意された。このことから当時、芸能興業時に弾左衛門に事前の断りを入れる必要があり、かつその時許可料として「櫓銭」(上納金)を支払う慣行があったことが分かる。(『享保世話』等の記述による)
 閏2月 《「岩船検校事件」》「弾左衛門と座頭たちとの間に争論があり弾左衛門が由緒書を提出した」との記述が残される(『天享吾妻鑑』、『坂上池院日記』、『玉露叢』、『三重県部落史料集』所在の『弾左衛門尉頼兼御朱印手下拝領之事』等の記述による)。※ただしこの事件の発生時期については複数の異説がある(1689年〈元禄2年〉閏2月条記載を参照、および1707年〈宝永4年〉9月条を参照)。また塩見鮮一郎さんは、この事件が「勝扇子事件」(1708年〈宝永5年〉)の勝訴に触発された座頭たち(当道座)がでっちあげた架空の事件である可能性を指摘している。
 この年 小塚原刑場の刑死者の死体埋葬場所として、回向院の持地が弾左衛門に与えられる。(後の千住回向院・首切り地蔵の成立)

1669(寛文9)年

 4月26日 4代(実は3代)弾左衛門集春(前名集信)が死去。5代(実は4代)弾左衛門集久(幼名介次郎)が相続。

1672(寛文12)年

 2月5日 幕府、「放火犯と見誤るから」として、非人が「紙くず拾いや清掃などで市中の裏店に出入りすること」を原則として禁止する(『正宝事録』第1巻の記述による)。※こうした禁令はこれ以降も度々出るが徹底しなかった。またこの記述や『御府内備考』『町方書上』等の記述から、江戸の抱非人たちの役として町方の清掃があり、その「役得」として「紙くず拾い」(再生紙作り)がかなり早くから始まっていたことが分かる。

1674(延宝2)年

 11月25日 江戸の町年寄が、米の高騰によって非人が増加しているとして、各町の名主・月行事に、町内・河岸端・広小路にいる非人を調べ、町奉行所に報告するよう命ずる(『徳川禁令考』前集・第五所在『非人取計方之儀達』、『正宝事録』第一巻、『御触書寛保集成』等の記述による)。

1675(延宝3)年

 2月14日(享保10年『車善七書上』によれば2月28日) 幕府は、前年の水害によって物価が高騰し困窮人が増えたため、江戸柳原に「非人仮小屋」を建設する(『嬉遊笑覧』、『慶延略記』、享保10年『車善七書上』等の記述による)。享保10年『車善七書上』によれば、このときできた小屋は2間 20間の広さで、693人(内女性33人)の新非人(野非人)がこれに入った。
 6月2日 柳原の非人小屋60間全て(総敷地面積か、もしくは前記仮小屋が拡張されたものと推測される)が車善七に与えられる。(享保10年『車善七書上』の記述による)

1676(延宝4)年

 1月23日 浅草非人頭車善七、南町奉行宮崎若狭守重成(在職1673〈寛文13〉年〜1680〈延宝8〉年)から江戸市中の堀や川の清掃役を命ぜられる。(享保10年『車善七書上』の記述による)
 12月7日 新吉原から出火。浅草非人小屋も被害を受ける(『玉露叢』の記述による)。

〔1681(延宝9・天和1)〜1693〈元禄6〉年〕

 この間、5代(実は4代)弾左衛門集久(幼名介次郎)、町奉行甲斐庄飛騨守正親〔南〕(在職1680〈延宝8〉年〜1690〈元禄3〉年)・北条安房守氏平〔北〕(在職1681〈延宝9〉年〜1693〈元禄6〉年)両人に「お救い」を要請する。(正徳5年『弾左衛門由緒書』の記述による)

1682(天和2)年

 2月7日 浅草非人頭車善七、堀川清掃用の御用船が破損したとして修復を願い出る。北町奉行北条安房守氏平、修復費用として金2両を下賜する。(享保10年『車善七書上』の記述による)

1683(天和3)年

 5月23日 5代(実は4代)弾左衛門集久(幼名介次郎)、幕府に対して役料として本所の田地500石高の土地を拝領したいと願い出るが「武家屋敷地はさしさわりがある」として却下される。(明治31年『故弾直樹ノ履歴追伸書二』の記述による)※「お救い」要請と関連か。
 9月27日 幕府、江戸市中の非人について、借屋・店借り・地借り・出居衆・辻番・髪結などとともに町方五人組で「取り締まる」よう命ずる。(『正宝事録』第一巻所在の「覚」記述による)

1684(貞享1)年

 1月 《非人頭への弾左衛門支配強まる》 この頃から浅草非人頭車善七が毎年正月17日に弾左衛門邸を訪れ、証文を提出する慣行が起こる(「年始礼」慣行)(1720年〈享保5年〉『指上申手形之事』、『鈴木家文書』所在の『享保五年子年十一月十八日 非人出入 御済口証文写』の記述による)。

1685(貞享2)年

 5代(実は4代)弾左衛門集久(幼名介次郎)、幕府に対して役料として葛西領の嘉兵衛新田の土地を見立てて申し出たが却下される(明治31年『故弾直樹ノ履歴追伸書二』の記述による)。

1686(貞享3)年

 5月3日 幕府、江戸上野において法事を営み、その後千駄木林において非人に施米をおこなう旨橋々に札を出す。(『近世法制史料叢書』第二所在の「御当家令条」巻二十六記述による)

1687(貞享4)年

《浅草・品川両溜の始まり》
 3月26日 浅草非人頭車善七、北町奉行北条安房守氏平から重病の囚人「目玉権兵衛」と「はだかり安兵衛」の2人を預かるよう命ぜられ、5月20日には、南町奉行甲斐庄飛騨守正親から病囚「いせ五郎兵衛」を追加で預かる。
 9月26日 品川非人頭松右衛門にも病囚が預けられる。
 これ以降、浅草・品川の両非人頭とその配下の非人たちが病囚や少年囚の世話をすることになる。(以上、享保10年『車善七書上』享保10年『松右衛門書上』の記述による)
 この年、江戸市中の魚屋や鳥屋が、「生類憐みの令のために難渋し妻子とも非人にならざるを得ない」と窮状を訴える。(『御当代記』の記述による)

〔1684〜1687年(貞享年間)〕

《江戸雪駄の勃興》
 「この頃、地雪駄といえば『穢多雪駄』のことであった。雪駄は上方から下るものが上品、江戸製は下品であった。しかし貞享の末に江戸に雪駄の上手が出て、以降みなこれを履いた」といった記録が『我衣』や『久夢日記』に記される。『守貞漫稿』『嬉遊笑覧』にも、江戸雪駄が上方製に変わってもてはやされるようになったことが記されている。(この条『我衣』『久夢日記』『守貞漫稿』『嬉遊笑覧』等の記述による)

1689(元禄2)年

 浅草非人頭車善七、女性の病囚や少年囚を収容するために、自費で女溜を作る。(享保10年『車善七書上』の記述による)
 2月(〜9月) 《「岩船検校事件」》 座頭たち(当道座)が弾左衛門の支配から独立を求めて町奉行所に訴え出る。5代(実は4代)弾左衛門集久は「頼朝公御証文」を提出してこれに対抗するが、結果は弾左衛門の敗訴。弾左衛門が自らの支配下にあると主張してきた17座から当道座(座頭)・山守・関守が除かれる。※ただしこの事件の発生時期については複数の異説がある(1667年〈寛文7年〉閏2月条記載、1707年〈宝永4年〉9月条を参照)。また塩見鮮一郎さんは、この事件が「勝扇子事件」(1708年〈宝永5年〉)の勝訴に触発された座頭たち(当道座)がでっちあげた架空の事件である可能性を指摘している。

1690(元禄3)年

 この年、深川吉永町に深川非人頭善三郎の手下の非人八之助が住むようになる。(『御府内備考』の記述による)※ただし、1701年(元禄14年)に善三郎が深川非人頭に任ぜられたという説と矛盾する

1691(元禄4)年

 5月28日、弾左衛門、九州佐賀藩の長吏頭助左衛門に宛てて、「岩船検校事件」「金剛太夫事件」の顛末を知らせた書面を送る(ただし、「岩船検校事件」も弾左衛門が勝訴したように書いている)。(『兵庫県同和教育関係史料集』第一巻所在の『廻状』記述による)※ただし、同『廻状』発送は、1715年(正徳5年)2月であるとの異説あり(1715〈正徳5〉年2月条を見よ)。

1692(元禄5)年

 《上州下仁田長吏頭と弾左衛門の係争》 上州下仁田長吏頭馬左衛門が戦国期武田氏発行の証文を幕府に提出し、「長吏と穢多は別だ。弾左衛門が支配を任されたのは穢多であって長吏ではない。長吏である自分たちは本来弾左衛門の支配を受ける立場にない」として独立を訴える。しかし幕府はこれを却下(享保10年『弾左衛門由緒書』の記述による)。※弾左衛門による被差別民支配はいまだ関東全域に行き渡っていなかった。また、座頭や歌舞伎の独立が可能であったことから、被差別民支配の仕組み自体も確固としたものになっていなかったことが分かる。
 5月7日 《江戸市中の非人5000人超》 幕府、谷中感応寺裏門前において、弾左衛門・車善七・松右衛門配下の非人と野非人に対する施米を行う。このとき弾左衛門・車善七・松右衛門配下の非人4329人分として、弾左衛門に58俵、車善七に22 俵、松右衛門に16俵(他に弾左衛門小頭九郎兵衛に8俵、施行場の掃除非人に1俵)が、また寄非人1,037人分として389俵が施米される(『近世法制史料叢書』第二所在の「御当家令条」卷二十六所在記述による)。※寄非人(よりひにん)とは、非人頭などが行う施行などの時に集まってきた野非人を指す。野非人全体の数を表すものではないが、その実態推測の手段として幕府や弾左衛門役所によって用いられた。

1693(元禄6)年

 大川(隅田川の吾妻橋より下流部分の名称)に新大橋が架橋され、本所・深川など江東地区の開発進む。

1695(元禄8)年

 品川非人頭松右衛門、北品川法禅寺火葬場の地面300坪を譲り受ける。また同時に、大井村の長吏小頭弥左衛門から36坪を買い受ける。(文政11 年『品川非人頭藤左衛門書上』の記述による)

1697(元禄10)年

 《願人(がんにん)の存在記録される》 閏2月23日、願人が非番に日雇い仕事に出ていたといううわさ話が記録される(『元禄世間咄風聞集二36』の記述による)。※願人は、京都の鞍馬寺の僧侶たちのたく鉢の行いが始まりとされる大道芸を行う僧体の芸人。鞍馬大蔵院末と鞍馬円光寺末の2系統があって江戸市中に有りながら寺社奉行管轄とされた。乞胸とは別で、弾左衛門支配外の「被差別民」。また、『江戸真砂六十帖』(元禄年中のことを記す)に、「願人坊主元は馬喰町に住す。今は橋本へ引き移る」との記述がある。

〔1697(元禄10)〜1703(元禄16)年〕

 この間、5代(実は4代)弾左衛門集久(幼名介次郎)、南町奉行松前伊豆守嘉広(在職1697〈元禄10〉年〜1703〈元禄16〉年)に再び「お救い」を要請。松前嘉広は老中阿部豊後守正武〔武蔵忍藩主〕(在職1681〈延宝9・天和1〉年〜1704〈宝永1〉年)に伺いを立てるが、結論は出ず。(正徳5年『弾左衛門由緒書』等の記述による)

1698(元禄11)年

 8月11日 大川に永代橋が架橋される。(『武江年表』の記述による)
 この年、深川佐賀町にあった非人小屋が深川黒江町に移る。小屋頭は深川非人頭善三郎配下の町内番非人金左衛門(『御府内備考』の記述による)※ただし、1701年(元禄14年)に善三郎が深川非人頭に任ぜられたという説と矛盾する。
 9月6日 浅草三十三間堂が類焼、その後深川に移転再建される。この移転にともなって、三十三間堂敷地内にあった非人小屋も深川に移転。(『町方書上』「深川三拾三間堂々守書上」の記述による)※深川非人頭善三郎の由緒と関係。1702(元禄15)年7月条を参照。

1699(元禄12)年

 7月11日 浅草溜拡張。900坪の規模に拡大。建物は、一之溜・二之溜・女溜の3棟からなり建坪60坪。このとき浅草溜には288人(内女性7人)の預かり病囚・無宿がいた。(享保10年『車善七書上』の記述による)
 7月17日 浅草非人頭車善七、7月1日以来の預かり病囚・無宿の賄い料として、北町奉行保田越前守宗易(在職1698〈元禄11〉年〜1704〈宝永1〉年)から米111俵1斗4合5夕を受け取る。(享保10年『車善七書上』の記述による)
 12月18日 車善七、7月1日から閏9月29日までの預かり病囚用雑用銭として、町年寄奈良屋市右衛門から金36両と銀11匁7分2 厘の内借金を受け取る。(享保10年『車善七書上』の記述による)

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