8月30日、練馬区立開進第二中学校、同南町小学校、同向山小学校合同で約60人の教員全員参加の地域フィールドワークが開催された。これは、二年間、三校が小中一貫教育合同研究活動に指定され、南町小学校と開進第二中学が、永年にわたり都教育委員会の人権教育尊重教育指定校の活動をしていることから、その研究テーマを人権教育にしようと決定した。その研究活動の一環として実施したもの。
フィールドワークの前に、練馬地域史研究会の菊地照夫さんから地域の歴史を語っていただいた。菊地さんは「練馬は、地域のお寺にある板碑に見られるように中世から存在していた。江戸時代は、浅草の長吏頭・弾左衛門の有力小頭・杉本惣兵衛の居住地であり、当時の武蔵野国西部と浅草を繋ぐ要地だった。」と中世からの近代初期までの地域の歴史を話された。続いて「練馬駅北口区有地は1921年に被差別部落の人たちが所有していた畑等を大日本紡織が買収して紡織工場を造ったのを始まりとする。土地買収時、「地元から雇う」などの甘言と札束の力で反対の声を押さえ込んだ。しかし、工場完成後は地元から雇用しない、排水を部落側に流すなど、練馬部落にとって工場が「迷惑施設」になった。その後、工場の経営はカネボウへと変わっていき、1970年に、カネボウ練馬工場の歴史を終えた。その間、工場では関東大震災時に9人死亡。第2次大戦中は弾丸の薬莢を造る兵器工場だったので、工場を狙って米軍の爆撃もあった。」とカネボウ練馬工場の歴史も話された。
工場閉鎖後、練馬支部がカネボウ工場跡地を地域の環境改善事業の用地にしろと要求したりした結果が、都のカネボウ工場跡地取得へとつながり、現在の練馬駅北口区有地につながる。」と菊地さんは語った。
最後に、フィールドワークの後厚生文化会館にもどり、練馬支部の内田副支部長が、「戦時中に、(埼玉の親戚の被差別部落に疎開していたので)一般地区の子どもたちから石をぶつけられた等のご自身の被差別体験や運動への思いを語り、今回の研修を終了した。
今回のフィールドワークは参加人数が多いため参加者を数グループに分け事前に菊地さんから研修を受けた教員が案内するという形をとる等、工夫のいる研修だったが、地元の教員全員に地域の歴史と現状の一端に触れていただいて意義は小さくなかった。(練馬支部)